第418話 この技やってみて
第418話 この技やってみて
『神林SC』。
番組はいよいよエンディングを迎えようとしていた。
J2第33節の振り返りを終え、小林庄雅と宍道務の試合後インタビューも紹介した。あとは次回予告をして締めるだけ――神林康孝はそう思い、手元の台本を閉じかけた。
ところが、隣に座る局アナが笑顔でそれを止める。
「神林さん、まだ終わりませんよ」
「……え?」
神林の手が止まった。
向かいでは、元日本代表MFの原口敦がすでに笑いを堪えている。
その顔を見ただけで、神林は嫌な予感を覚えた。
「何。その顔」
「いや、別に」
「絶対なんかあるじゃん」
「台本を見れば分かります」
促されるまま、神林は閉じかけた台本をもう一度開く。そして最後の項目を見つけた瞬間、顔から笑みが消えた。
「……今日これあるの?」
「あります」
「聞いてない!」
「ちゃんと台本に書いてあります」
「さっき俺、台本閉じたじゃん!」
「だから閉じないでくださいって言ったんです」
スタジオに笑いが起こる。
直後、軽快なジングルとともに大型モニターへタイトルが表示された。
**『この技やってみて!』**
神林は両手で顔を覆った。
「出たよ……俺が『神林SC』で一番嫌いなコーナー」
原口が笑う。
「視聴者には人気ですよ」
「やる側の気持ち考えてくださいよ!」
この『この技やってみて!』は、『神林SC』で不定期に行われる恒例企画だった。
プロサッカー選手にリフティング技を披露してもらい、その技を神林が練習する。そして年末の特別番組で、本人がスタジオで再現する。
言葉にすれば単純な企画だ。
だが、神林にとっては毎回が地獄だった。
プロ選手が披露する技は、映像で見ると驚くほど簡単そうに見える。
ところが実際に真似をすると、まるでできない。
神林自身もサッカー経験者ではある。それでも何日、時には何週間と練習しなければ形にならない技ばかりだった。
「本当にプロの人ってずるいんですよ」
神林がカメラへ訴える。
「簡単そうな顔してやるから」
原口が笑いながら頷いた。
「まあ、長年やってますからね」
「こっちはそれを年末までに覚えろって言われるんですよ!」
「練習期間はあります」
「毎年そう言われる!」
局アナが楽しそうに台本を確認した。
「では今回、技を出してくださった選手をご紹介します」
「誰ですか」
神林はすでに警戒している。
「先ほどインタビューでも登場しました。エストレヤ千葉、背番号25――小林庄雅選手です」
その名前が出た瞬間、神林は椅子から立ち上がりかけた。
「小林選手!?」
原口が吹き出す。
「反応早いですね」
「いやいやいや、待って!」
神林は両手を振った。
「小林選手はダメだって!」
「なぜですか?」
局アナがとぼける。
「なぜって、このコーナーで過去に二回やってるじゃん!」
そう。
小林庄雅にとって、この企画は今回が初めてではなかった。
現在、29歳。
最初に『この技やってみて!』へ登場したのは、まだ19歳だった頃。
プロ入りして間もない若手として注目されていた時期だった。
その後、もう一度出題している。
そして今回。
**三回目。**
神林にとっては、忘れられるはずもない相手だった。
「十九の時からですよ!」
神林が指を三本立てる。
「今回で三回目! 小林選手、三回目!」
「よく覚えてますね」
「覚えてるよ! 俺が練習するんだから!」
スタジオが笑いに包まれる。
「一回目も簡単じゃなかったからね!」
「はい」
「二回目も絶妙に難しかった!」
「はい」
「毎回『できそう』って思わせてくるのが一番腹立つんだよ!」
原口が頷いた。
「そこそこ難しいんですよね」
「そう! 絶対無理って技なら諦めがつくの! でも小林選手のやつ、練習したら届きそうなところに置いてくるんですよ!」
「だから練習するんじゃないですか」
「その練習が嫌なの!」
また大きな笑いが起こった。
◇
大型モニターに、過去の映像が短く流れる。
十九歳の小林庄雅。
今よりもずっと幼い顔立ちで、照れたようにカメラの前へ立っている。
足元にはボール。
テロップには。
**『10年前 19歳・小林庄雅』**
神林が指を差した。
「これ! これが最初!」
若い小林が、得意の左足を中心に軽々とリフティング技を披露する。
派手すぎる大技ではない。
だが、ボールタッチの位置や足を回すタイミングが微妙に難しく、当時の神林は年末まで相当な練習をさせられた。
続いて二回目の映像。
少し大人びた小林が、また別の技を披露している。
こちらも一見すると真似できそうなのに、複数のタッチを正確に繋げなければならない。
映像の端には、当時の神林が頭を抱えている小さなワイプまで残っていた。
現在の神林がそれを見る。
「俺、昔から同じ顔してるじゃん」
原口が笑った。
「成長してないですね」
「技は成長してるわ!」
「じゃあ今回も大丈夫ですね」
「そういう意味じゃない!」
◇
そして。
現在の小林。
仙台戦を終えた直後に収録された映像へ切り替わった。
まだユニフォーム姿で、試合直後らしい疲労も残っている。
それでも足元へボールを置くと、表情は自然だった。
画面外のスタッフが尋ねる。
『小林選手、このコーナー三回目になります』
「そうですね」
『最初が19歳の時でした』
小林は少し驚いたように笑った。
「もう十年前ですか」
スタジオの神林がすぐに反応する。
「俺も十年付き合わされてるんですよ!」
原口が笑い出す。
VTRのスタッフが続けた。
『神林さん、過去二回ともかなり苦労されていました』
小林は首を傾げる。
「でも、できてましたよね?」
神林がモニターへ向かって叫んだ。
「できるまで練習したんだよ!」
スタジオが爆笑する。
映像の小林は当然そんな声を知らず、少し考えたあと足元のボールを見る。
『今回はどんな技を?』
「じゃあ……これで」
その言葉を聞いた瞬間。
神林は身構えた。
「その軽い『これで』が怖いんだよ」
◇
小林が利き足の左足でボールを軽く浮かせる。
まずは普通のリフティング。
左。
右。
左。
一定のリズムでボールを扱っていく。
「ここはできる」
神林が言う。
「まだ何も始まってません」
局アナが冷静に返す。
次の瞬間。
小林は左足でボールを持ち上げ、その足を外側から一周させた。
アラウンド・ザ・ワールド。
そのまま着地し、今度は右足へ繋いで逆方向から一周。
神林の表情が早くも曇った。
「左右やるの?」
原口が笑う。
「まだ続きそうですね」
「やめてよ」
小林は止まらない。
再び左足へ戻すと、少し高めに浮かせたボールの周囲を素早く二周。
左足でのダブル・アラウンド・ザ・ワールド。
スタジオから「おおっ」と声が上がった。
神林だけは声が出ない。
「……」
「神林さん?」
「もう無理」
「まだ終わってません」
「終われよ!」
そこから小林はクロスオーバーへ繋ぎ、再び左足を中心に数回リフティングする。
そして落ちてきたボールを踵で背後へ跳ね上げた。
ボールが背中側から頭上へ抜ける。
小林は落下地点へ一歩入り、身体を屈めた。
その首の後ろへ。
ボールが。
ぴたりと止まる。
数秒静止。
そして身体を起こし、首の後ろから前へ落としたボールを左足で受ける。
最後にもう一度だけ左足で浮かせ、そのまま足元へ収めた。
VTR内の小林がカメラを見る。
「こんな感じで」
スタジオ。
一瞬の静寂。
そして。
大爆笑。
「こんな感じじゃねえよ!!」
神林の悲鳴が響いた。
原口は机へ手をついて笑い始め、局アナも口元を押さえている。
「ちょっと待って! 今回どうしたの!?」
神林が大型モニターを指差す。
「過去二回はまだ『頑張ればいけるかも』だったじゃん!」
「今回も頑張れば」
「無理だよ!」
「まだ練習してません」
「見れば分かる!」
◇
すぐにスロー映像が流れる。
利き足の左で一周。
右で逆回転。
もう一度左へ戻してダブル。
クロスオーバー。
踵で背後へ浮かせ、最後にネックキャッチ。
その一連の流れを一度も落とさず繋いでいる。
神林は技が一つ進むたびに、だんだん椅子へ沈んでいった。
「一個ずつなら?」
原口が尋ねる。
「一個ずつなら練習すれば何とかなるのもあるよ」
「じゃあ大丈夫じゃないですか」
「繋げるんだろ!?」
「もちろんです」
「そこが問題なんだよ!」
原口も映像を見ながら頷いた。
「確かにこれは難しいですね」
神林が勢いよく振り返る。
「原口さんでも?」
「僕でもノーミスで全部繋げろと言われたら練習しますよ」
数秒。
神林は固まった。
「……元日本代表が?」
「はい」
「俺が年末にやるんですよ?」
「はい」
「番組終わろう」
「終われません」
局アナが即答する。
再びスタジオに笑いが広がった。
◇
ところが。
VTRにはまだ続きがあった。
スタッフが小林へ尋ねる。
『神林さんは年末まで練習されます』
「そうなんですか?」
『はい。過去二回もかなり練習されたそうです』
「ああ……」
小林が申し訳なさそうな表情を浮かべた。
神林の顔が少し明るくなる。
「ほら。さすがに小林選手も気づいた」
「何にですか?」
「難しすぎたって!」
モニターの中で、小林が少し考える。
そして。
「じゃあ、もう少し簡単にした方がいいですか?」
神林が立ち上がった。
「そう! そうしよう!」
もちろん。
映像は収録済み。
スタッフの声が続く。
『ちなみに、どこを簡単にします?』
小林はもう一度考えた。
「左のダブルを一回転にするくらいですかね」
神林の笑顔が消えた。
「そこだけ!?」
スタジオ爆笑。
「いやいやいや! 左右回して、クロスオーバーして、後ろから上げて首で止めるの残ってるじゃん!」
原口は腹を抱えて笑っている。
「一応、簡単にはなってます」
「誤差だよ!」
結局。
スタッフが当初の技でお願いすると伝えると、小林は素直に頷いた。
最後にカメラへ向かって。
「神林さん、三回目も頑張ってください」
軽く手を振る。
VTR終了。
◇
スタジオへ戻る。
神林は両手で頭を抱えたまま、しばらく動かなかった。
局アナが笑顔で尋ねる。
「三回目の小林選手からの出題、いかがでしたか?」
「過去一難しい」
即答だった。
原口が笑う。
「十年前から段階的に難しくなってるんじゃないですか?」
「育成ゲームじゃないんですよ!」
「神林さんも十年練習してきたわけですから」
「毎日このコーナーの練習してるわけじゃないから!」
大型モニターには、十九歳だった小林の一回目。
二回目。
そして今回。
三つの映像が並べて表示された。
神林はそれを見る。
「小林選手、成長したなあ……」
「サッカー選手として?」
「リフティング技の嫌がらせが」
「言い方」
また笑いが起きる。
◇
局アナが年末までの練習内容を確認する。
「まずは小林選手の利き足でもある左足でアラウンド・ザ・ワールド」
神林が頭を抱えたまま頷く。
「はい……」
「続いて右足で逆回転」
「はい……」
「もう一度左足へ戻してダブル」
「はい……」
「そこからクロスオーバーへ繋ぎ」
「はい……」
「踵で背後へ上げ」
「はい……」
「最後はネックキャッチです」
神林が顔を上げた。
「一個の文章にまとめないでくれる?」
「一つの技ですので」
「六個くらいあるよ!」
原口が笑いながら言う。
「まずは一つずつ安定させましょう」
「原口さん、年末まで一緒に練習してくれません?」
「嫌です」
「即答!?」
「これは神林さんのコーナーですから」
「こういう時だけ俺のコーナーにするな!」
◇
エンディングテーマが流れ始める。
局アナが正面のカメラへ向き直った。
「それでは、今夜の『神林SC』はここまでです。J2はいよいよ最終節。北海道フェニックスFCとエストレヤ千葉の優勝争いにも注目です」
原口もカメラへ一礼する。
その横で。
神林だけは、まだモニターを見ていた。
十九歳の頃から変わらない左利き。
その左足で、29歳になった小林が平然と難しい技を繋げている。
今回で三回目。
過去二回も決して簡単ではなかった。
しかし今回は、明らかに一段上だった。
神林は最後まで納得できない顔で、モニターの小林を指差した。
「小林選手!」
局アナが笑う。
「はい?」
「本当に応援してる! 仙台戦もめちゃくちゃ良かった!」
「はい」
「DMFも頑張ってほしい!」
「はい」
「でも――」
神林は大きく息を吸った。
「**これ難しすぎるって!!**」
最後の悲鳴と同時に、スタジオが大きな笑いに包まれた。
原口は拍手しながら笑い続け、局アナも肩を震わせる。
そして画面の端には。
**『神林康孝 年末披露に向けて練習開始』**
という無情なテロップ。
「勝手に開始するな!」
その叫び声を最後に、この日の『神林SC』は終了した。