第420話 今年どうなってるんだよ
第420話 今年どうなってるんだよ
番組終了後のスタジオ。
本来なら出演者もスタッフも順次撤収に入っている時間だったが、神林康孝はまだ帰ろうとしていなかった。
いや、正確には帰る余裕がなかった。
足元には一つのサッカーボール。シャツは汗で背中に張りつき、収録中に締めていたネクタイはとうの昔に外され、近くの椅子へ放り投げられている。
「くっ……!」
左足でボールを浮かせ、そのまま足を一周させる。
アラウンド・ザ・ワールド。
続けて右足。
ここまでは通った。
もう一度左。
そして、そのまま二周させるダブルへ。
「あっ!」
ボールが足の外側へ逃げた。
数回バウンドしたあと、ころころとスタジオの端まで転がっていく。
「うわあああああ!」
神林の絶叫が、放送の終わったスタジオに響き渡った。
今日、何度目かはもう分からない。
先ほど番組内で小林庄雅から出題された『この技やってみて!』。神林は収録終了直後から、その課題へ挑戦し続けていた。
左右のアラウンド・ザ・ワールドを繋ぎ、さらに左足でダブル。その後にクロスオーバーを入れ、踵でボールを背面へ持ち上げ、最後は首の後ろで受け止めるネックキャッチ。
一度だけ。
本当に一度だけ。
左足のダブルまでは成功した。
だが、その先まで全部繋がったことは一度もない。
クロスオーバー。
背面への持ち上げ。
ネックキャッチ。
そこまでノーミスで辿り着く自分の姿が、今のところまったく想像できなかった。
「……無理だろ、これ」
転がったボールを拾い上げながら、神林は心の底から呟いた。
少し離れた場所では、原口敦と局アナがまだ残っていた。撤収作業中のスタッフたちも、半分は仕事をしながら、半分は神林の奮闘を眺めている。
原口が苦笑しながら声をかけた。
「でも、さっきよりは良くなってますよ」
「さっきよりは、でしょ?」
「はい」
「年末は全部繋げるんだぞ?」
「そうですね」
即答されてしまった。
神林はボールを抱えたまま天井を見上げる。
「今年おかしいんだよ……」
「何がですか?」
局アナに聞き返された瞬間、神林は勢いよく振り向いた。
「『この技やってみて』だよ! 今年の出題、全部難しくない!?」
急に大声を出された局アナは少しだけ目を丸くしたが、やがて記憶を辿るように考え込んだ。
「言われてみれば、今年は難易度が高めですね」
「高めじゃない!」
神林はボールを抱えたまま詰め寄る。
「小林選手だけじゃないんだよ! 今年、もう五個出されてるんだから!」
今回の小林で六個目。
しかも。
神林の記憶にある限り、今年は一つとして「これは楽だったな」と思える出題がなかった。
しばらく考えた末、神林は突然スタッフ席へ顔を向けた。
「ちょっと待って。今年の映像ある?」
「今年のですか?」
「全部!」
「ありますよ」
「出して!」
「今からですか?」
「今だからだよ!」
完全に私的な反省会だった。
◇
数分後。
すでに番組は終了しているにもかかわらず、大型モニターが再び点灯した。
そこには、今年これまでに『この技やってみて!』で出題された五つの課題が一覧で表示されている。
神林は画面を見た瞬間、大きく顔をしかめた。
「ほら!」
原口も改めて一覧を見る。
「こうして並べると、確かに……」
「でしょ!?」
まず一つ目。
左右のインステップで細かくリフティングを続けたあと、右足でアラウンド・ザ・ワールド。その着地とほぼ同時に左足でクロスオーバーを入れ、最後は浮かせたボールを肩へ乗せて静止する。
画面の中では、出題したプロ選手が何事もないように成功させていた。
「これ一発目だからね!」
神林が画面を指差す。
「今年最初の出題がこれだから!」
「でも神林さん、最終的にはできましたよね?」
「二週間練習した!」
食い気味だった。
「肩に乗らないんだよ! 途中まで全部上手くいってんのに、最後だけ毎回首の横から落ちるの!」
原口が思い出したように笑う。
「あれ、最後だけ妙に難しいんですよね」
「そう! 途中までできるから余計に腹立つんだよ! 『今日はいける!』って思って最後にコロンって落ちるんだから!」
神林は肩の横からボールが落ちる動きを、わざわざ身体まで使って再現した。
スタッフから笑いが漏れる。
「笑い事じゃないからね!?」
◇
続いて二つ目。
映像だけなら、先ほどよりずっと地味に見える。
左右交互に数回リフティングしたあと、右足の踵でボールを自分の背後へ送る。そのボールを反対側へ回した左足で前へ返し、落ちてきたところを再び踵で持ち上げる。
「これ!」
神林の声がまた大きくなった。
「テレビで見ると今年一番簡単そうだったやつ!」
「確かに派手さはないですね」
「全っ然、簡単じゃなかったから!」
最初の背面タッチで右へ飛ぶ。
次は左へ飛ぶ。
たまに奇跡的に真後ろへ飛んでも、今度は反対側へ回した足が間に合わない。
映像のプロ選手は軽々とやっているが、自分がやればボールの行方すら安定しない。
「俺、あれ練習してる時にボール何回壁に当てたと思う?」
「知りません」
「俺も数えてない!」
原口はすぐに突っ込んだ。
「じゃあ聞かないでください」
スタジオに残っていたスタッフたちから、一斉に笑いが起きた。
神林は納得できない顔のままモニターを睨む。
「いや、途中から数えたくなくなるくらい当てたってことだから!」
◇
三つ目の映像へ切り替わる。
神林はプレーが始まる前から嫌そうな顔をした。
「ああ……これ嫌い」
「まだ映像始まってないですよ」
「覚えてるから!」
ボールを少し高く上げ、一度太腿で受ける。
そこからボールが落ちてくる瞬間に両足を交差させ、身体の外側から足を回してもう一度拾う。
さらに。
そのまま逆足でも同じ動き。
左右連続。
原口が画面を見ながら頷いた。
「これ、リズムが難しいんですよね」
「経験者だから何となくできそうに見えるのが罠なんですよ!」
神林は力説した。
「一個目が成功すると『あ、いけるじゃん』って思うの! で、そのまま逆足やった瞬間、全部崩壊するから!」
映像の中のプロ選手は、そんな神林の苦労など知る由もなく、ほとんど身体の軸を乱さずに左右を連続成功させていた。
しかも。
笑顔だった。
神林が画面を指差す。
「この顔!」
「どの顔ですか?」
「『簡単ですよ』みたいな顔!」
「実際には何も言ってませんよ」
「顔が言ってる!」
「神林さんの被害妄想じゃないですか?」
「違う!」
局アナまで笑い始めた。
◇
四つ目。
映像が切り替わった途端、神林は露骨に目を逸らした。
「これもう見たくない」
「これはかなり苦戦してましたね」
原口も覚えているらしい。
リフティングを続けながら、足首と踵だけを使って三連続でタッチ。その直後にボールを頭上へ高く上げ、自分の背中側へ落とし、最後は背中と後頭部の間で挟むように止める。
「三週間!」
神林が指を三本立てた。
「これ三週間だからね!」
局アナが首を傾げる。
「最後に止めるところで苦戦したんでしたっけ?」
「全部!」
「全部?」
「最初の三連続タッチから難しいんだよ!」
リズムが少しでも狂えば、ボールが予定とは違う方向へ飛んでいく。
何とかそこを安定させたと思えば、次は背中側へ落とす高さが合わない。
高すぎれば、そのまま頭を越える。
低すぎれば、肩にも届かず背中へ落ちる。
奇跡的にちょうどいい場所へ来ても。
最後。
止まらない。
その時の練習を思い出しただけなのか、神林は首の辺りを押さえた。
「一回、首つったからね」
「無理しすぎですよ」
「年末があるんだよ!」
「身体の方が大事ですよ」
「俺だって分かってるよ!」
そう言いながら三週間続けたのだから、説得力はあまりなかった。
◇
そして五つ目。
小林が今回出題する直前まで、神林が今年一番嫌っていた課題だった。
映像が始まった瞬間。
神林の表情が無になった。
左足。
右足。
数回の普通のリフティング。
そこから足の甲にボールを乗せて、一度完全に静止させる。
足を振り上げてボールを浮かせ、落ちてきたところを膝裏で挟む。
その状態から再び前へ放り出し。
最後。
足元で回収。
「これ、本番で成功した時は綺麗でしたよね」
原口が感心したように言う。
神林は勢いよく振り向いた。
「本番で一回ミスしたやつだから!」
「二回目で成功しましたよ」
「全国放送で一回目失敗した時の俺の気持ち分かる!?」
「かなり焦ってましたね」
「見れば分かるよ!」
あの瞬間のスタジオの空気まで思い出したのか、神林は両手で顔を覆った。
年末の披露とは違い、この時は途中経過として番組内で一度挑戦した。
そして。
一発目。
失敗。
ボールが膝裏から抜け落ちた瞬間、頭の中が真っ白になった。
「二回目成功したからいいじゃないですか」
「結果論だよ! 一回目落とした瞬間、『終わった』と思ったんだから!」
◇
大型モニターには、今年これまで出された五つの課題が並んでいた。
プロ選手たちは。
どれも。
軽々とやる。
映像だけ見れば。
簡単そうに見える。
神林自身、元サッカー経験者だからこそ、見た瞬間には「何となくできそう」と錯覚するものもある。
だが。
実際にボールを足元へ置いて挑戦すると。
全部。
話が変わる。
神林はしばらく五つの映像を眺めていたが、やがて本気で理解できないという顔になった。
「……今年どうなってんの?」
心からの疑問だった。
◇
そして。
今日。
六つ目。
小林庄雅。
モニターに再び、先ほど放送されたばかりの映像が流れ始める。
左足でアラウンド・ザ・ワールド。
続いて右足。
そこから再び左足へ戻り。
ダブル。
クロスオーバー。
踵でボールを背面へ持ち上げる。
最後は首の後ろ。
ネックキャッチ。
小林は何事もなかったかのように、最初から最後まで一度もボールを落とさなかった。
『こんな感じで』
映像の中の小林が、平然と言う。
その瞬間。
神林は両手で頭を抱えた。
「うわあああああああ!」
番組はとっくに終わっている。
それでも絶叫だけは、本番中と変わらない音量でスタジオへ響いた。
「何で今年六個全部難しいんだよ!」
原口は完全に面白がっていた。
「レベル上がってきてるんじゃないですか?」
「何のレベル!?」
「選手側の」
「上げなくていいよ!」
「神林さん側も」
「俺は望んでない!」
◇
そんな会話をしていた時だった。
撤収作業を続けていた番組スタッフの一人が、何気ない調子で口を挟んだ。
「あ、でも選手の人たち、このコーナー結構見てますよ」
「え?」
神林が振り返った。
「このコーナーが?」
「はい。取材に行った時、普通に話題になることありますよ」
別のスタッフも頷く。
「ありますね。『神林さん、今年もやってますね』とか言われます」
神林の表情が。
少し変わった。
「……人気じゃん」
「選手間では結構知られてますよ」
「へえ……」
先ほどまでの絶望が嘘のように、わずかに口元が緩む。
どうやら。
そこは普通に嬉しいらしい。
ところが。
スタッフは何気なく続きを口にした。
「だから、いつ自分に出演の話が来てもいいように、出す技を考えてる選手もいるみたいですよ」
神林の笑みが。
消えた。
「……え?」
原口が吹き出した。
局アナも驚いた顔でスタッフを見る。
「本当なんですか?」
「らしいですよ」
スタッフは何の悪気もなく続ける。
「普段の練習後とかに、『これ神林さんにやらせようかな』って技を考えたり、実際に作ったりする選手もいるって聞きました」
神林は微動だにしない。
さらに。
「あと、他の選手がこのコーナーで出した技を見て、『これくらいじゃ弱いかな』って話す人も――」
「待って待って待って」
ようやく再起動した神林が、両手を前へ出した。
「今、何て?」
「出演依頼が来た時にすぐ出せるように、技を――」
「作ってる?」
「はい」
「わざわざ?」
「はい」
「このコーナー用に?」
「そう聞きました」
数秒。
完全な静寂が訪れた。
原口はすでに口元を押さえている。
笑いを我慢しているのが丸分かりだった。
神林は何も言わずに天井を見る。
そして。
そのままゆっくり後ろへ倒れた。
「神林さん!?」
局アナが声を上げた。
もちろん、気を失ったわけではない。
神林はただ。
床の上へ大の字になっただけだった。
「もう終わりだ……」
「何がですか」
「この企画……」
天井を見たまま。
神林は絶望しきった声を出した。
「俺が知らないところで、プロが俺を倒す技作ってる……」
スタジオ。
大爆笑。
原口は腹を抱えながら神林のそばまで歩いてきた。
「いやいや。神林さんに楽しんでもらおうとしてるんですよ」
「どこがだよ!」
寝転がったまま叫ぶ。
「『これくらいじゃ弱いかな』って何だよ!」
「難易度を考えてくれてるんでしょう」
「俺目線じゃないじゃん!」
「選手目線ですね」
「だから怖いんだよ!」
◇
神林は何とか上体だけを起こした。
「じゃあ何?」
まだ受け入れられていない。
「今この瞬間も、どっかのクラブで」
「はい」
「プロ選手が練習終わったあと」
「可能性はありますね」
「ボール触りながら」
「はい」
「『これ神林にやらせよう』って考えてるかもしれないの?」
スタッフは笑顔で頷いた。
「いるかもしれません」
「うわあああああああああ!!」
本日何度目か分からない絶叫。
神林は再び床へ倒れた。
原口はもう腹を抱えて笑っている。局アナも顔を背けているが、肩が震えていた。
「年末まで六個練習あるんだぞ!」
床から神林が訴える。
「しかも今後まだ増えるかもしれないってこと!?」
局アナはさらりと答えた。
「不定期コーナーなので」
「増える可能性否定してよ!」
「できません」
「うわあああ!」
また。
絶叫。
◇
床に転がっている神林の横を、一つのサッカーボールがころころと通り過ぎた。
さっきまで。
小林の課題を練習するために使っていたボールだった。
神林は寝転がったまま手を伸ばし、それを止める。
「……もう今日は帰っていい?」
局アナが笑いながら聞き返した。
「練習は?」
「……」
神林は答えなかった。
代わりに。
数秒。
本気で悩んだ。
小林。
三回目の出題。
しかも過去に出された二つも、決して簡単ではなかった。
そして今回。
どう考えても。
これまで以上。
今年だけでも小林以外から五つ。
全部難しい。
さらに。
全国のどこかでは。
まだ番組側から出演依頼すらされていないプロ選手が。
いつか自分の番が来るかもしれないと。
神林へやらせるための技を考えている可能性まである。
神林はもう一度、両手で顔を覆った。
「このコーナー、俺が知らない間に育ちすぎだろ……」
原口が肩を震わせる。
「人気コーナーですから」
「人気になる方向間違ってるよ!」
そう叫んだものの。
神林は。
しばらくすると。
ゆっくり起き上がった。
手に持っていたボールを床へ置く。
原口が目を丸くする。
「まだやるんですか?」
神林は大型モニターを見る。
画面の中では。
小林庄雅が。
何の苦労も感じさせない顔でネックキャッチまで成功させていた。
神林はその映像をしばらく睨んだあと。
「やる!」
「おお」
「年末に失敗したら、一番笑うのあいつらだろ!」
「選手の皆さん?」
「絶対そうだよ!」
「それは分かりませんけど」
「笑う! 絶対笑う!」
もはや勝手に敵を作っていた。
神林は左足でボールを浮かせる。
一周。
アラウンド・ザ・ワールド。
次。
右足。
逆方向へ一周。
そして再び左。
「ダブル行くぞぉぉぉぉぉ!!」
勢いよく足を回す。
最初の一周。
そして。
二周目。
「あっ」
足先へボールが当たった。
ぽーん。
無情にも。
ボールは前方へ飛んでいく。
数秒後。
「うわああああああああ!!」
また。
スタジオに。
神林の絶叫が響いた。
原口。
局アナ。
そして撤収作業を続けていた番組スタッフたちは。
そんな神林を見ながら。
この日一番と言っていいほど楽しそうに笑っていた。