第422話 それは無理だぞ
第422話 それは無理だぞ
大型モニターの中で、比企谷八幡は革靴の間にサッカーボールを置いていた。
スーツ姿のまま。ネクタイも締めたまま。その少し前では撮影スタッフがカメラを構え、隣には小林庄雅が立っている。
一方、番組終了後の『神林SC』スタジオでは、神林康孝が両手で頭を抱えながら、その未公開映像を見つめていた。
「絶対やばいやつじゃん……」
隣にいる原口敦は、もう完全に楽しむ側へ回っていた。
「まだ始まってませんよ」
「始まる前から分かるんですよ! あの人、さっき革靴で小林選手の技を一発で成功させたんですよ!?」
局アナも笑いながら大型モニターへ視線を戻した。
画面の中では、八幡が一度だけ軽く息を吐いている。
『では、お願いします』
撮影スタッフから声がかかる。
「はい」
八幡は右足をボールの横へ置いた。
そして。
動いた。
◇
最初から、神林には何をしているのかよく分からなかった。
八幡は右足でボールを引っかけると、そのまま左脚へ沿わせるように上へ転がしていった。
足首から脛。
さらに膝の横。
革靴で扱っているとは思えないほど滑らかに、ボールが左脚を駆け上がっていく。
「え?」
神林の目が見開かれた。
左脚を登り切ったボールが宙へ離れる。
その瞬間、八幡は身体をわずかに捻った。
右足を上げる。
踵。
落ちかけてきたボールを、上から叩きつけた。
バンッ!
革靴の踵に打ちつけられたボールが床へ勢いよく落ち、その反動で高く跳ね返る。
「ちょっ――」
八幡は背中を向けるように半回転した。
跳ね上がってきたボールへ、今度は左足の踵を入れる。
コンッ。
後ろから掬い上げられたボールが、そのまま八幡自身の頭上を越えた。
「はあ!?」
神林の声が裏返る。
原口も、それまでの笑顔を消して画面を見つめていた。
「……ここまででも、かなり難しいですよ」
神林が勢いよく原口を振り返る。
「ここまで!?」
「はい」
「今『ここまで』って言いました!?」
「まだ八幡さん、止まってませんから」
「止まれよ!」
当然、その叫びが二日前の映像へ届くはずもない。
そして。
本当に。
八幡は止まらなかった。
◇
頭上を越えたボールへ振り返る。
落ちてくるボールを右足の甲で一度だけ受けた。
だが、普通のリフティングには移らない。
右足を外側から内側へ回しながらボールを浮かせ、そのまま一周。
さらに足を着くより前に、もう一周。
ダブル。
「え……」
今度は、映像を撮影していたスタッフからも声が漏れた。
八幡はそのボールを左足へ逃がす。
左で一度触れた次の瞬間、両足を交差させた。
ボールを跨ぐように右へ送り、そのまま右足の外側で跳ね上げる。
身体の後ろへ流れたボール。
だが八幡は見ない。
前を向いたまま、右足だけを背後へ上げた。
踵。
コツッ。
ボールが再び頭上へ戻ってくる。
「いやいやいやいや……」
神林が思わず一歩後ずさった。
原口も大型モニターから目を離さない。
「まだ続くのか……」
局アナが思わず呟く。
神林は即座に食いついた。
「原口さんが引いてる!」
「これはちょっと……」
「元日本代表が引いてるじゃん!」
◇
頭上へ上がったボールを、八幡は見上げる。
普通なら、そこで一度落ち着かせると思う。
だが。
落下してきたボールを右肩で一度。
そのまま反対の肩へ送り、左肩でもう一度。
肩だけで二度触る。
そこから前へ落ちようとしたボールへ頭を潜り込ませるように入り、後頭部で軽く押し上げた。
ボールが真上へ浮く。
八幡は身体を半回転させ、背中を丸めた。
そこへ落ちてきたボールを。
首の後ろへ。
ぴたり。
静止。
「……」
『神林SC』のスタジオが静まり返った。
映像の中でも同じだった。
撮影スタッフも。
小林も。
誰も喋らない。
だが。
まだ終わりではなかった。
八幡は首の後ろへボールを乗せたまま、ゆっくり上体を起こした。
ボールが前へ転がる。
その瞬間。
右肩。
そこから胸。
胸で落としたボールを膝へ繋ぐ。
そして、地面へ着く寸前。
八幡は両足を交差させた。
片足をボールの前へ。
もう片方を後ろへ。
挟み込むようにして。
跳ね上げる。
「何それ!?」
とうとう神林が叫んだ。
浮いたボールに合わせて、八幡も跳ぶ。
空中。
右足がボールの周囲を一周。
そのまま着地すると、続けて左足。
今度は逆方向へ一周。
最後。
落ちてきたボールを。
右足の甲へ乗せた。
静止。
革靴の上で。
ボールが完全に止まっていた。
数秒。
八幡はその姿勢を維持する。
そして。
何事もなかったように右足を下ろした。
ボールも一緒に床へ落ちる。
ころり。
そこで。
ようやく終わった。
◇
誰も喋らなかった。
『神林SC』のスタジオも。
バーバリスタジアムで撮影していたスタッフも。
映像の中にいる小林庄雅さえ。
数秒。
完全に固まっていた。
最初に声を出したのは、撮影スタッフだった。
『…………え?』
たった一言。
別のスタッフも、信じられないという声を上げる。
『今の……全部ですか?』
「はい」
八幡は普通に答えた。
スタジオの神林も、小さく呟く。
「はい、じゃねえよ……」
原口から乾いた笑いが漏れる。
「これは……」
神林がすぐに振り返った。
「何ですか?」
「かなり厳しいですね」
「かなり!?」
神林の声が再び裏返る。
「今ので『かなり』なんですか!? 俺には不可能にしか見えないんですけど!」
「僕も通しでやれと言われたら、相当練習します」
「また元日本代表が練習必要なやつじゃん!」
神林は頭を抱えた。
「何でこのコーナー、俺よりサッカー上手い人が『練習必要』って言う技ばっかり来るんだよ!」
◇
映像の中では。
ようやく小林が動いた。
呆れたような顔で八幡を見る。
「いや」
「何だよ」
「それは無理だぞ」
八幡が眉を寄せた。
「何が?」
「何がって、神林さんがやるんだろ?」
「ああ」
「できないだろ、今の」
八幡は少し不思議そうな顔をした。
「そうか?」
小林が思わず笑う。
「そうか、じゃない」
そして。
改めて八幡の姿を上から下まで見る。
スーツ。
ネクタイ。
革靴。
その格好で。
今の一連の技。
小林自身、リフティングやボールコントロールにはかなり自信がある。
それでも。
今の技を見て。
神林へそのまま出題しようとは思わなかった。
「お前さ」
小林が呆れ混じりに口を開く。
「いくら高校の時に年代別日本代表入ってたとか、大学で大学選抜のエースだったからって――」
スタジオの神林の顔が変わった。
「え?」
原口も反応する。
「そうなんですか?」
局アナも資料では知らなかったらしく、驚いたように大型モニターを見る。
そんなスタジオ側の反応など知る由もなく、小林は続けた。
「自分基準で考えるなよ。あえてそんな難しくしなくてもいいだろ」
八幡は小林を見る。
「いや」
少し間を置く。
「別に難しくしたつもりないけど」
「嘘つけ」
「本当に」
「最初から意味分かんなかったぞ」
小林は足元にあるボールを右足で軽く転がしながら、八幡が最初に行った動きを再現しようとする。
「右足で左脚に沿わせて上げて、右の踵で床に叩きつけて、跳ねたところを左の踵で頭越して……」
そこで。
小林は再現をやめた。
「ここだけでも普通に難しいからな?」
「そうか?」
「その後なんだよ、問題は」
八幡は。
本当に分からないという表情をしていた。
「でも、何回か練習すればできるだろ」
小林。
無言。
撮影スタッフ。
無言。
スタジオ。
無言。
神林のこめかみが。
ぴくりと動いた。
そして。
八幡は心底不思議そうに。
首を傾げた。
「え、そんなに難しいか?」
その瞬間だった。
「うわあああああああああああああああああああああああっ!!」
神林の絶叫が、番組終了後のスタジオそのものを震わせた。
原口が吹き出す。
局アナも机へ顔を伏せた。
周囲で作業していたスタッフたちまで、一斉に笑い出す。
「難しいよ!!」
神林は大型モニターへ詰め寄った。
「めちゃくちゃ難しいよ!!」
画面の中の八幡を指差す。
「自分ができるからって、基準おかしくなってるんだよ!」
原口が笑いながら口を挟む。
「高校で年代別代表、大学選抜のエースだったなら……」
「だからって革靴でやるな!」
「そこですか?」
「全部だよ!」
神林は再び両手で頭を抱えた。
「小林選手の技でさえ、まだできてないんだぞ!? 何で追加でこんなの出てくるんだよ!」
◇
未公開映像の中では。
小林がまだ、呆れたような視線を八幡へ向けていた。
「神林さんに出すなら、もっと簡単にしろ」
「じゃあ、どこ削ればいい?」
「そういう問題じゃねえよ」
「最初のところ?」
「そこも難しい」
「じゃあ最後?」
「全部見直せ」
八幡は少し考え込む。
だが。
まだ納得できていない。
「そんなにか……?」
「そんなにだよ」
小林が即答した。
そしてスタジオ側でも、神林がほぼ同時に叫ぶ。
「そんなにだよ!!」
再び笑いが広がった。
神林は床に転がっている自分のボールを見る。
次に大型モニターを見る。
小林が出題した技。
さらに今、八幡が披露した技。
そしてもう一度、自分のボール。
「……今年、俺をどうしたいんだよ」
原口が笑顔で答えた。
「年末までに上手くなってもらう」
「限度があるだろ!!」
また。
絶叫。
その夜。
すでに放送が終わったあとの『神林SC』スタジオでは、本番中よりも神林康孝の声の方が、はるかに大きく響き続けていた。