第423話 これなら練習すれば
第423話 これなら練習すれば
「全部見直せ」
小林庄雅にそこまで言われ、比企谷八幡はようやく足元のボールへ視線を落とした。
つい先ほどまで八幡が披露していたのは、右足でボールを左脚に沿わせて持ち上げ、踵で床へ叩きつけ、跳ね返ってきたボールを反対の踵で頭上へ抜くところから始まる技だった。
しかも、それだけでは終わらない。
そこからアラウンド・ザ・ワールド、クロスオーバー、肩、後頭部、ネックキャッチ、空中での足回しまで何種類もの動きを繋げ、最後まで一度もボールを落とさない。
それをスーツ姿、革靴のまま成功させた本人は、特に難しいことをしたという顔すらしていなかった。
だが、小林に言わせれば。
神林康孝へ出題する技としては、完全にやりすぎだった。
「そんなに難しかったか?」
「難しい」
「即答だな」
「当たり前だろ」
小林は呆れたように八幡を見る。
「最初の三つくらいだけでも、普通のサッカー経験者ならかなり練習いるからな。その後まで全部繋げるのは無理だ」
そこで、撮影スタッフの一人が思わず尋ねた。
『原口さんでもですか?』
小林は少しだけ考える。
「原口さんなら、練習すればできるんじゃないですか」
その瞬間。
番組終了後の『神林SC』スタジオでは、神林が勢いよく両手を広げた。
「ほらああああ!!」
原口敦が笑う。
「僕基準なんですね」
「元日本代表が練習してできるレベルを俺に出すなって話なんですよ!」
局アナも笑いながら頷いた。
「確かに、先ほどの技はこのコーナーとしてはかなり厳しそうですね」
「かなりじゃない! 無理!」
神林にとっては、そこだけは譲れなかった。
◇
未公開映像の中で、八幡はまだ完全には納得していない様子だった。
「じゃあ……」
革靴のつま先でボールを何度か転がしながら、少し考える。
「かなり落とすか」
小林がすぐに返した。
「かなり落とせ」
「分かった」
「本当に分かったか?」
「信用ないな」
「今の見せられた後だからな」
周囲の撮影スタッフから小さな笑いが起こる。
八幡は一度ボールを拾い上げると、手の中で軽く回した。
どうやら単純に一つ二つ削るのではなく、技の構成そのものを頭の中で組み直しているらしい。
スタジオの神林も。
さっきまでの絶望しきった表情から、少しだけ期待を含んだ顔へ変わっていた。
「頼むよ、比企谷さん」
原口が横を見る。
「聞こえませんよ」
「分かってますよ。でも今度こそ人間にできるやつにして」
「さっきのも人間がやってましたけどね」
「そういう話じゃない!」
◇
画面の中で。
八幡がボールを床へ置いた。
「じゃあ、これくらい」
小林は少し警戒したように眉を寄せる。
「先に内容言えよ」
「やった方が早いだろ」
「それが怖いんだよ」
スタジオの神林も大きく頷いた。
「小林選手、完全に俺の気持ち分かってる!」
八幡は軽く息を吐くと、右足でボールを浮かせた。
トン。
トン。
トン。
まずは普通のリフティング。
右。
左。
右。
数回続けたところで、左足から少し高めにボールを上げる。
そのまま左足をボールの周囲へ一周。
アラウンド・ザ・ワールド。
「……一個目」
神林が小さく呟いた。
これは理解できる。
というより。
今まさに小林の技を練習しているため、自分でも何度か成功している。
八幡は落ちてきたボールを右足で一度受けた。
続けて、左右の足を軽く交差させる。
右足をボールの上から回し。
クロスオーバー。
そのまま左足で拾った。
「二個目……」
神林の眉間に少し皺が寄る。
原口は画面を見ながら頷いた。
「ここまでは、ちゃんと練習すればいけそうですね」
「その『ちゃんと』が怖いんだけど」
それでも。
先ほどとは明らかに違う。
見た瞬間に「無理」と諦めたくなるような動きではなかった。
◇
八幡はそこから二度、普通にリフティングを続けた。
そして。
左足でボールを少し後方へ流す。
身体を半回転させ。
背中側へ落ちかけたボールへ右足を上げる。
踵。
コツッ。
ボールを後ろから前へ戻した。
跳ね上げられたボールは、八幡の頭より少し高い位置まで浮かぶ。
そこへ身体を入れ。
胸で一度。
柔らかく受けた。
ボールが真下へ落ちる。
右の太腿で一度。
そして最後。
左足の甲。
ぴたり。
ボールが止まった。
八幡はその状態で二秒ほど静止する。
それから足を下ろした。
終了。
「……」
小林はすぐには何も言わなかった。
撮影スタッフも、先ほどの超絶技巧を見た時ほどではないにせよ、少しだけ静かになっている。
スタジオでも。
神林は真剣な顔で大型モニターを見つめていた。
数秒後。
小林がようやく口を開く。
「……まあ」
「何だよ」
「これなら」
一度考えてから。
「練習すればいけるんじゃないか?」
神林の目が見開かれた。
「きた!」
原口が笑う。
「小林選手から合格が出ましたね」
「最初からこれにしてくれよ!」
◇
もちろん。
簡単ではない。
左足のアラウンド・ザ・ワールド。
続けて右足を使ったクロスオーバー。
数回のリフティングを挟み。
背後へ流したボールを右足の踵で前へ戻す。
そこから胸。
太腿。
最後は左足の甲で止める。
一つ一つの技だけを見れば、サッカー経験者が練習を重ねれば届く範囲にある。
だが。
それらを一度もボールを落とさず。
最初から最後まで一連の流れとして繋げるとなれば。
決して簡単ではない。
原口も、その辺りは冷静に見ていた。
「これは難しいですよ」
神林の動きが止まった。
「え」
「でも」
「でも?」
「年末まで練習すれば、神林さんでも十分狙えると思います」
その言葉を。
神林はしばらく黙って聞いていた。
そして。
「……本当に?」
「はい」
「原口さんが『無理』じゃなくて?」
「無理とは思いません」
「一か月練習しても無理とかじゃなく?」
「そこまでは」
神林は。
ゆっくり両拳を握った。
「よっしゃあああああ!」
突然の歓喜。
スタジオに笑いが起きる。
局アナが少し呆れたように言った。
「難しいことには変わりありませんよ」
「いいんです!」
神林は完全に喜んでいた。
「『練習すればできる』ならいいの! このコーナーはそれでいいの!」
原口が笑う。
「ハードル下がりましたね」
「さっきが高すぎたんですよ!」
◇
未公開映像でも。
撮影スタッフが八幡へ同じような確認をしていた。
『かなり簡単になりましたね』
「でしょう?」
八幡が普通に答える。
だが、小林はすぐに訂正した。
「いや、簡単ではないぞ」
「さっきより簡単だろ」
「比較対象がおかしいんだよ」
「でも練習すればできるだろ?」
「それはできると思う」
「じゃあいいじゃん」
小林は少し考え。
「……まあ、神林さん経験者だしな」
その一言で。
スタジオの神林が固まった。
「またその情報使うの?」
原口が笑う。
「信頼されてますね」
「重いんですよ、その信頼が!」
◇
映像の中で。
八幡はもう一度ボールを浮かせた。
今度は撮影スタッフにも動きが分かるように、先ほどより少しゆっくりと行う。
左足で一周。
アラウンド・ザ・ワールド。
続けてクロスオーバー。
二度ほどリフティング。
少し後ろへ流し。
右足の踵で前へ戻す。
胸。
太腿。
左足の甲。
静止。
二回目も。
失敗なし。
撮影スタッフから自然と拍手が起こった。
『これなら神林さん、いけますかね?』
「できるんじゃないですか」
八幡が答える。
小林も頷いた。
「これは練習量次第だろうな」
『難易度としては?』
小林は少し考えた。
「そこそこ高い。でも、ちゃんと段階踏めばいける」
すると。
その横で八幡が不思議そうに口を挟む。
「これでもそこそこ高いのか」
小林がゆっくり振り返った。
「お前はもう黙ってろ」
撮影スタッフ。
笑い。
スタジオ。
爆笑。
神林も大型モニターを指差した。
「そう! 小林選手もっと言って!」
原口は笑いながらも、技そのものはしっかり見ている。
「でも、かなり現実的になりましたね」
「でしょう?」
「今の神林さんなら、アラウンド・ザ・ワールドはもう何回か成功してますし」
「はい」
「クロスオーバーも過去の企画で経験してる」
「はい!」
「踵で前へ戻すところも、一つずつ練習すれば」
「はい!」
「最後の足の甲で止めるところは、結構練習必要ですね」
「……はい」
急に声が小さくなった。
原口が笑う。
「でも、十分可能です」
神林は心底安心したように胸を撫で下ろした。
「よかった……」
その横で。
局アナが首を傾げる。
「小林選手の技もまだありますけど」
「今それ言わないで!」
◇
未公開映像の中で。
八幡はボールを小林へ返した。
「こんなもんでいいだろ」
「最初からこれにしろよ」
「せっかく制限なしって言われたから」
「だからって全力出すな」
「全力じゃないけど」
小林。
停止。
撮影スタッフ。
停止。
スタジオ。
神林。
停止。
八幡だけが。
なぜ全員が止まったのか分からない顔をしていた。
「……何?」
小林がゆっくり尋ねる。
「今の最初のやつ」
「ああ」
「全力じゃないの?」
「別に」
スタジオの神林の顔が引きつった。
「聞きたくなかった」
原口が再び笑い始める。
画面の中では。
八幡が何でもないことのように続けていた。
「本当に難しいのは、革靴じゃ危ないだろ」
その瞬間。
「うわああああああああああ!!」
神林の絶叫がスタジオ中へ響き渡った。
全員が爆笑する。
「その先があるって言うな!!」
局アナも笑いながら口元を押さえている。
神林は大型モニターを指差した。
「比企谷さん! 今の簡単にしたやつでいい! もうそれ以上考えなくていいから!」
原口も頷く。
「僕も今の二つ目くらいが、企画としてはちょうどいいと思います」
「ですよね!?」
「ちゃんと難しい。でも練習すれば届く」
神林は何度も頷いた。
「それ! それがこのコーナーなんですよ!」
◇
そして。
神林は足元へ転がっていたボールを拾った。
先ほどまで小林の技に散々苦戦していたはずなのに。
今は少しだけ。
やる気が戻っていた。
「……よし」
原口が尋ねる。
「練習します?」
「やりますよ」
神林は大型モニターに映る八幡を一度見た。
そして。
左足でボールを浮かせる。
「まずは一個目」
アラウンド・ザ・ワールド。
一周。
成功。
神林の顔が一気に明るくなる。
「ほら!」
「次、クロスオーバーですね」
「行くぞ!」
右足を回した。
だが。
ボールが足先へぶつかる。
ぽんっ。
そのまま横へ飛んでいった。
数秒。
神林は動かなかった。
原口たちも。
何となく。
次に何が来るのか分かっていた。
そして。
「うわあああああああ!!」
やはり絶叫。
原口。
局アナ。
スタッフたち。
笑い声が、番組終了後のスタジオいっぱいに広がった。
難しい。
確かに難しい。
それでも先ほどのように、見た瞬間から絶望しかなかった技とは違う。
今度の技なら練習すれば手が届く。
少なくともそう思える。
それだけでも神林康孝にとっては十分すぎるほどの救いだった。