第433話 会うつもりはない
第433話 会うつもりはない
北海道フェニックスFCのロッカールームを出た神宮寺小町は、背後で扉が閉まる音を聞きながら、小さく息を吐いた。
「……まったく」
1対2。
北海道が負けている。
それが気に入らない。
あと一点取ればいいことくらい、小町にも分かっている。追いつけば得失点差で北海道が首位のまま。勝つ必要さえない。
だが、小町にしてみれば。
「最初から勝ってれば、こんな面倒じゃないのに」
そんな単純な話だった。
そして、その考え方こそが。
昔から変わらない小町らしさでもあった。
◇
**神宮寺小町。**
22歳。
3月3日生まれ。
現在は北海道フェニックスFCのクラブ代表を務める男の妻。
旧姓は。
**比企谷小町。**
そして。
今日、エストレヤ千葉のスタッフとしてこのスタジアムにいる比企谷八幡の。
実の妹だった。
◇
兄。
比企谷八幡。
今日、このスタジアムにいることは最初から知っていた。
北海道フェニックスFCとエストレヤ千葉。
勝ち点71同士。
J2優勝を決める最終節。
そして千葉のスタッフ欄を確認すれば、嫌でも兄の名前が目に入る。
比企谷八幡。
国際スカウト兼分析官。
もう何年もまともに会っていない兄。
それでも、その名前を忘れるはずはなかった。
小町は廊下の途中で一度だけ足を止めた。
ホーム側の関係者区域。
そちらへ行けば。
もしかすると。
兄と顔を合わせるかもしれない。
しかし。
「……会わないけど」
すぐに歩き出した。
会うつもりはなかった。
◇
小さい頃から。
小町は両親に甘やかされて育った。
欲しいものがあれば買ってもらえた。
嫌なことがあれば逃げても許された。
多少の我儘なら。
「小町だから」
それだけで済まされた。
小町自身も。
それが普通だと思っていた。
兄とは違う。
八幡が家の中でどんな扱いを受けていたのか。
自分との間にどれだけ差があったのか。
子供だった小町は深く考えなかった。
いや。
考えようともしなかった。
自分が大切にされている。
自分が困っていない。
それでよかった。
だが。
大人になるにつれ。
知らなかったでは済まないことも。
少しずつ理解するようになった。
◇
比企谷八幡が高校生だった頃。
兄には。
サッカー選手としての未来があった。
年代別の日本代表にも選ばれていた。
プロ入りの話もあった。
ところが。
八幡について事実とは異なる情報が流された。
嘘まで混ざった。
それが周囲へ広まり。
最終的に。
プロ入りの話はなくなった。
小町は。
そのことを知っている。
兄にとって。
どれだけ大きな出来事だったのかも。
今なら。
少しは理解できる。
だが。
当時の小町は何もしなかった。
兄を庇ったわけでもない。
助けたわけでもない。
だから。
今さら。
兄の前へ出て。
何を話せばいいのか分からない。
「久しぶり」
そんな一言で済ませられるような関係では。
もうなかった。
◇
そして。
八幡は高校を卒業したあと。
比企谷家と絶縁した。
それ以来。
家族の状況を知ろうともしていない。
だから。
八幡は知らない。
父と母が。
現在。
刑務所にいることを。
詐欺行為をはじめとした複数の問題を起こし。
最後には逮捕され。
裁かれたことを。
かつて。
小町を好きなだけ甘やかしていた両親は。
今。
刑務所の中にいる。
そして。
八幡が知らないことは。
それだけではなかった。
◇
小町が高校を卒業した。
その直後だった。
まだ。
これから何をするのか。
どんな人生を送るのか。
まともに決める時間すら与えられていなかった頃。
両親が突然。
小町へ見合い話を持ってきた。
「……最初から私のためじゃなかったんだよね」
廊下を歩きながら。
小町の顔から。
少しだけ表情が消える。
理由は。
単純だった。
**金。**
両親は。
金が欲しかった。
そのために。
娘を利用した。
相手は。
神宮寺家。
北海道フェニックスFCのクラブ代表を務める男。
当時から。
小町とは大きく年齢が離れていた。
現在47歳。
小町より25歳上。
体格もかなり太っている。
小町が惹かれるような相手でもなければ。
そもそも。
恋愛感情など一切なかった。
見合いそのものから。
嫌だった。
「結婚なんてしたくない」
そう言った。
一度ではない。
何度も。
年齢が離れすぎている。
好きでもない。
会ったばかりの男と結婚する理由などない。
高校を卒業したばかりなのに。
どうして今すぐ結婚しなければならないのか。
小町は。
嫌だと訴えた。
だが。
両親は聞かなかった。
娘の人生より。
金だった。
見合いは進められ。
話は勝手にまとめられ。
そして。
高校卒業とほぼ同時に。
小町は。
神宮寺家へ嫁がされた。
◇
小さい頃。
あれほど甘やかしてくれた両親だった。
小町が嫌だと言えば。
大抵のことは許してくれた。
それなのに。
最後には。
自分たちの金のために。
娘の意思など。
簡単に無視した。
「……笑える」
小町は。
小さく呟いた。
欲しいものを買ってくれた。
嫌なことから守ってくれた。
自分は愛されていると思っていた。
だが。
その両親にとって。
本当に金が必要になった時。
娘は。
金に変えられるものだった。
旧姓。
比企谷小町。
現在。
神宮寺小町。
クラブ代表夫人。
外から見れば。
裕福な家へ嫁ぎ。
何不自由なく暮らしているように見えるかもしれない。
だが。
小町自身が望んで手に入れた立場ではなかった。
◇
それでも。
小町の性格まで。
急に変わることはなかった。
小さい頃から甘やかされてきた。
自分の思ったことを口にする。
気に入らなければ文句を言う。
相手が監督だろうと。
選手だろうと。
クラブスタッフだろうと。
関係ない。
だから。
先ほども。
北海道のロッカールームへ勝手に入った。
本来なら。
クラブ代表の妻というだけで、ハーフタイムの戦術ミーティングへ口を挟むようなことではない。
そんなことは。
小町も分かっている。
だが。
「負けてるんだから仕方ないじゃん」
本人の中では。
それで終わる。
しかも。
さらに厄介なことに。
小町が言っていることは。
全部が全部。
的外れではない。
◇
前半を見ながら。
小町が最も気になっていた選手。
マティアス・ベニテス。
千葉の背番号9。
速い。
強い。
裏へ走る。
足元でも受ける。
前半18分には。
実際にゴールまで決めた。
「あの9番、やっぱり邪魔」
小町にとって。
それが一番分かりやすい結論だった。
もちろん。
怪我をさせろという意味ではない。
そんなことをして退場者を出せば。
北海道が不利になるだけ。
小町が言った「潰す」は。
試合から消すという意味。
カストロ一人へすべて任せるのではなく。
ベニテスが下がったならカサーツノ。
背後へ走ったならカストロ。
好きな場所で。
好きなタイミングで。
プレーさせない。
「それくらいやりなさいよ」
誰もいない通路で。
また文句が漏れる。
優勝したい。
それ以上に。
負けるのが嫌だった。
そして。
千葉へ優勝を渡すのも。
気に入らない。
◇
それが。
兄のいるクラブだからなのか。
小町自身にも。
よく分からない。
八幡に会いたいわけではない。
むしろ。
会いたくない。
兄の高校時代に起きたことを。
知っているから。
プロ入りの話がなくなったことも。
嘘の情報を流されたことも。
知っている。
その時。
自分は何もしなかった。
そして。
兄が家族と縁を切ったあと。
自分の人生も。
大きく変わった。
高校卒業と同時に。
金欲しさの両親によって見合いを組まれ。
望んでもいない結婚をさせられた。
その後両親は自分たちの詐欺行為などによって逮捕された。
だがその全部を八幡は知らない。
絶縁しているのだから知るはずもない。
「……別に知らなくていいけど」
小町は呟いた。
今さら助けてほしいわけでもない。
可哀想だと思ってほしいわけでもない。
それにもし兄と顔を合わせれば昔のことまで嫌でも思い出す。
だから会わない。
少なくとも今日は。
◇
スタジアムの中では後半開始を知らせる空気が少しずつ戻り始めていた。
小町は関係者席へ戻るため歩いていく。
途中ガラス越しにホーム側の通路が遠く見えた。
そこをスーツ姿の男が一人歩いている。
距離がある為、顔までははっきりしない。
それでも小町は一瞬だけ足を止めた。
「……」
見覚えがあるようなそんな気がした。
だが確認しない。
もしあれが八幡だったとしても自分から近づくつもりはなかった。
兄は両親が刑務所にいることを知らない。
妹が高校卒業と同時に、両親の金のために見合いをさせられ、そのまま結婚させられたことも知らない。
神宮寺小町としてどんな生活をしてきたのかも。
何も知らない。
そして小町もそれを教えるつもりはない。
「会わない」
もう一度小さく言う。
今日決めるのは比企谷家のことではない。
J2の優勝クラブ。
それだけだった。
◇
2対1。
現在エストレヤ千葉がリード。
だが北海道が一点取れば。
2対2。
得失点差で再び北海道が首位。
まだ優勝は取れる。
小町は関係者席へ向かいながら少しだけ口元を上げた。
「悪いけど、お兄ちゃん」
何年ぶりかも分からないほど久しぶりに、本人のいない場所で昔と同じ呼び方を使った。
会うつもりはない。
話すつもりもない。
過去を蒸し返す気もない。
それでも勝負だけは別だった。
「優勝は頂くから」
後半残り四十五分。
兄と妹は同じスタジアムにいながら互いに顔を合わせることもなく、それぞれ別のクラブがJ2王者になることを望んでいた。