第435話 珍しい怒り
第435話 珍しい怒り
後半10分を過ぎても、スコアは2対2のままだった。
北海道フェニックスFCがハーフタイムで加えた修正によって、エストレヤ千葉の攻撃は明らかに詰まり始めている。
マティアス・ベニテスが足元へ下がればカサーツノが対応し、背後へ走ればカストロが見る。前半のように一人のセンターバックがベニテスの動きへ引っ張られることがなくなったため、北海道の最終ラインは簡単には崩れない。
その影響はベニテス一人に留まらなかった。
中央のダニエル・ロドリゲスが前を向けるスペースも狭くなり、森川佑が左から中へ入ればカサーツノがすぐに戻ってくる。右の川崎大志にも北海道は人数を揃えて対応していた。
千葉はボールこそ持っている。
だが、その保持が相手ゴールへ近づくことには繋がっていなかった。
◇
後半12分。
戸塚彩加が中央でボールを受けると、神谷直人が前から距離を詰めてきた。
戸塚は無理をせず身体を開き、エミリオ・アルバレスへ預ける。そこから左の森川へ展開すると、外側を葉山隼人が勢いよく追い越していった。
森川は一度その動きを使う。
葉山が縦へ運び、クロスを狙おうとした。
しかし、そこには林達也が戻ってきている。
コースを切られた葉山は無理に上げず、森川へ戻した。森川も中央のダニエルを見たが、パスが入るより先にカサーツノが距離を詰める。
ダニエルは前を向けない。
結局、ボールは再び戸塚のところまで戻ってきた。
「また戻されたな」
ベンチで佐藤智成が呟く。
八幡は返事をせず、しばらく北海道の配置を追っていた。
千葉が後ろへ戻すことを、北海道はまったく嫌がっていない。
むしろ、そこへ戻させている。
「ボールを持たされる時間になってきましたね」
八幡がようやく口を開いた。
「持ってるけど、相手にとって怖くない」
中村敏三郎も頷く。
「そういうことだな」
北海道にとっては、千葉が最終ラインと中盤の間でボールを回している時間が増えるほど都合がいい。
2対2のままなら優勝できるのは北海道なのだから。
◇
その一分後。
今度は北海道がボールを持った。
カストロからカサーツノへ入り、そこから中央の神谷へ繋がる。
後半の神谷は、前半のように最終ライン近くまで深く下がる場面が減っていた。戸塚とエミリオの前後を行き来しながら、できるだけ高い位置で前を向こうとしている。
戸塚が距離を詰めると、神谷は左の林卓也へ展開した。
毛利良一が対応する。
卓也は縦へ一度運び、毛利を後ろ向きにしてから中央へ戻した。
受けた神谷は、そのままダイレクトで右へ振る。
林達也。
葉山が構えた。
達也は先ほど同点ゴールを決めた時と同じように、一度後ろへ戻す。受けたカサーツノが前を向いた瞬間、達也は再び葉山の背後へ走った。
「また来る!」
今度は葉山も先に動いた。
先ほど一度やられている。
同じ形を二度許すつもりはなかった。
カサーツノからパスが出るより前に一歩下がり、走り出した達也と並ぶ。最後は身体を入れてボールを外へ逃がした。
北海道のスローイン。
「ナイス!」
宇津木健太が大きな声を飛ばす。
葉山は片手を上げて応えた。
同じ形では、もうやられない。
◇
北海道はそのスローインから再び中央へボールを戻した。
神谷が受ける。
その目の前には、また戸塚がいた。
前半から何度も繰り返されてきた対峙だった。
北海道の攻撃を動かす背番号10と、千葉の中央を守る背番号18。
神谷が動けば戸塚が見る。神谷が深く下がれば、戸塚とエミリオが受け渡す。
この試合の中央では、二人の駆け引きが絶えず続いていた。
神谷がボールを右足側へ置く。
戸塚は飛び込まない。
神谷は左利きだ。
最も危険なのは、得意の左足で前を向かれ、そこから縦パスやサイドチェンジを出されること。
戸塚はそれをさせないよう身体の向きを調整しながら、一定の距離を保つ。
神谷はしばらく様子を見たあと、無理をせずカサーツノへ戻した。
戸塚もすぐに本来の位置へ戻る。
北海道に焦りはない。
2対2。
このままでいいのは自分たちだ。
わざわざ千葉へカウンターの隙を与える必要などなかった。
◇
後半15分。
千葉が中盤でボールを奪うと、エミリオからすぐにダニエルへ入った。
ダニエルは中央で受けると、今度は素早く身体を反転させる。
前にはベニテス。
ベニテスも足元へ下がってきた。
すぐにカサーツノが寄せる。
ベニテスは身体を当てながらボールを収めたが、その先にはカストロが待っていた。
前を向いてもスペースがない。
仕方なく右の川崎へ逃がし、川崎から外を走る毛利へ。
毛利はそのままクロスを上げた。
中央で待っていたカストロが頭で弾き返す。
こぼれ球へ入ったのは戸塚だった。
だが、その瞬間。
北海道の選手たちが一斉に前へ出た。
戸塚はエミリオへ預けようとする。
そこへ神谷がコースを切るように入ってきた。
戸塚はパスをやめ、足元へボールを引く。
神谷も止まらない。
一気に距離が縮まった。
◇
後半16分。
時計は61分を回った。
神谷が戸塚の右側を抜けようとする。
戸塚もすぐに足を伸ばした。
しかし、届かない。
神谷はボールを少し前へ運ぶ。
その直後だった。
突然、神谷の身体が崩れた。
「ピーッ!」
主審の笛が鳴る。
戸塚の動きが止まった。
「……は?」
主審が千葉ゴール方向を指す。
北海道のフリーキック。
ゴールまでは、およそ二十一メートル。
やや左。
左利きの神谷なら、そのまま直接狙える危険な位置だった。
スタジアムが一気にざわめく。
だが。
戸塚はフリーキックの位置など見ていなかった。
「触ってない!」
珍しく大きな声を上げ、そのまま主審へ向かっていく。
「今、当たってないですよ!」
主審は判定を変える様子を見せない。
「離れて」
「いや、触ってないって!」
戸塚はさらに一歩近づいた。
普段の戸塚からは、ほとんど見られない姿だった。
◇
実際。
戸塚が伸ばした足は神谷へ触れていなかった。
神谷は戸塚の足が出た瞬間、それに引っかけられたように身体を崩している。
見る角度によっては、戸塚の足が完全に神谷を引っかけたようにも見える。
だが。
接触はなかった。
戸塚自身は、それを誰よりも分かっている。
だからこそ。
頭へ来た。
「彩加!」
最初に止めに入ったのはエミリオだった。
戸塚の腕を掴む。
「やめろ」
「でも当たってない!」
「分かってる。離れろ」
後方から長谷川も走ってきた。
「戸塚、もういい!」
宇津木も二人の間へ入る。
「戻れ!」
それでも戸塚の怒りは収まらない。
「ちゃんと見てくださいよ!」
主審との距離を詰めたまま、なおも抗議を続ける。
その瞬間。
主審が胸ポケットへ手を伸ばした。
「……あ」
長谷川が顔をしかめる。
取り出されたのは黄色いカードだった。
背番号18。
戸塚彩加。
抗議によるイエローカード。
◇
「珍しいな……」
ベンチで佐藤が思わず呟いた。
八幡も、わずかに目を見開いている。
「彩加があそこまで審判に行くの、ほとんど見ないですね」
戸塚は激しい守備をする選手だ。
危険な場所へ身体を入れることも多い。
それでも、判定に対して審判へ食ってかかるタイプではない。
カードの枚数も極端に多い選手ではなかった。
そんな戸塚が。
今は完全に頭へ来ている。
「自分が触ってないの分かってるからな」
中村が言った。
「それでも行きすぎです」
八幡はピッチを見た。
エミリオが戸塚の肩を押すようにして主審から離し、長谷川も横で何かを言い聞かせている。
戸塚はまだ納得していない。
その視線の先では、神谷が何事もなかったようにゆっくり立ち上がっていた。
表情はほとんど変わっていない。
◇
「彩加」
エミリオが低い声で呼ぶ。
「もう忘れろ」
「……当たってない」
「分かってる」
「絶対当たってない」
「それも分かってる」
そこへ長谷川も加わった。
「だから、もういい」
「でも……」
「次もう一回やったら、お前いなくなるぞ」
戸塚が長谷川を見る。
「それが一番困る」
その言葉で。
ようやく戸塚が黙った。
すでにイエローカードを一枚受けている。
これ以上同じような抗議はできない。
それだけではなかった。
この先、神谷を止める守備でも今まで以上に慎重さを求められる。
強く行きすぎれば、二枚目のカードを受ける危険がある。
だが緩く行けば。
神谷に前を向かれる。
その状況を作られたこと自体が、千葉にとって厄介だった。
◇
後半17分。
北海道の直接フリーキック。
ゴールまで約二十一メートル。
やや左。
ボールの前には神谷直人が立っていた。
千葉も急いで壁を作る。
戸塚、宇津木、長谷川、ベニテス。
玉縄幸三がゴール前から位置を細かく指示した。
「もう一歩右!」
壁が動く。
北海道も、こぼれ球に備えて林卓也、林達也、佐々木、カサーツノがそれぞれ位置を取る。
神谷はボールを見下ろしたまま、一度だけ小さく息を吐いた。
主審の笛。
助走。
左足。
神谷が振り抜く。
ボールは壁の上を越え、鋭く曲がりながらゴール右上へ向かった。
玉縄も反応する。
だが。
その手が届くよりも先に、ボールはわずかにクロスバーの上を越えていった。
「……っ!」
玉縄が着地する。
神谷は少しだけ天を仰いだ。
北海道の逆転ゴールとはならない。
スコアは2対2のままだった。
◇
戸塚は自陣から、そのボールがクロスバーを越えていくのを見ていた。
そして。
神谷へ視線を向ける。
神谷も、一瞬だけ戸塚を見た。
二人の視線が交わる。
神谷は何も言わない。
戸塚も。
今度は何も言わなかった。
それでも。
さっきまでとは明らかに違う。
普段ならほとんど感情を表へ出さない戸塚の中に。
まだ。
熱が残っていた。
◇
後半18分。
玉縄から試合が再開される。
長谷川が受けると、一度戸塚を見た。
だが、すぐには渡さない。
代わりにエミリオへ預ける。
戸塚を少し落ち着かせる意味もあった。
エミリオは右の毛利へ出し、そこから川崎。
川崎が中央のダニエルを使おうとするが、北海道はまた中央を締めていた。
ベニテスが足元へ下がれば、カサーツノが寄せる。
ダニエルは縦を諦めて左の森川へ。
森川も少し運んだものの、最後のところへ入れない。
葉山へ戻す。
また後方からやり直し。
千葉の攻撃は依然として停滞したままだった。
◇
その一分後。
北海道がボールを奪うと、カサーツノから神谷へ入った。
神谷が、また戸塚の近くへ寄ってくる。
戸塚は今度こそ飛び込まない。
一定の距離を取り、身体の向きだけで前へのコースを制限する。
神谷もその変化を見ていた。
無理に仕掛けず左の卓也へ。
毛利が対応する。
卓也から中央のカサーツノへ戻り、そこから右の達也へ。
北海道はゆっくりとボールを動かしながら、千葉の守備陣を左右へ揺さぶっていく。
「カードも使われるなよ!」
後方から長谷川の声が飛んだ。
「分かってる!」
戸塚の返事は、いつもより少しだけ強かった。
まだ怒りは完全には消えていない。
それでも。
守備位置だけは崩さなかった。
◇
後半20分。
時計は65分を示していた。
スコアは2対2。
このままなら、J2王者は北海道フェニックスFC。
優勝するためには、千葉があと一点を奪わなければならない。
しかし後半に入ってから、千葉はまだ決定機らしい決定機まで届いていない。
そのうえ。
中盤の守備を支えている戸塚彩加に、珍しい形でイエローカードが入った。
それも。
神谷直人との駆け引きの中で。
ベンチ前で、八幡は二人の位置関係をじっと見つめていた。
「嫌ですね」
佐藤が横を見る。
「何が?」
「戸塚にカードが入ったことです」
「やっぱりそこか」
「神谷、絶対そこ使ってきますよ」
神谷を自由にはさせられない。
だが、戸塚が強く行きすぎれば二枚目の警告がある。
退場になれば、残り時間を十人で戦わなければならない。
だからといって警戒しすぎれば。
神谷が前を向く。
佐藤もピッチを見ながら表情を曇らせた。
「こっちの攻撃は止められてる。そのうえ戸塚にはカード」
「はい」
「向こうは、このまま同点でもいい」
「はい」
八幡は静かに頷いた。
「かなり嫌な流れですね」
残り二十五分。
北海道は後半開始早々に追いつき、千葉の攻撃を封じ込めた。
そして今度は。
千葉の中盤で最も重要な一人に。
守備で踏み込める限界まで。
意識させる状況を作っていた。