第436話 九人の選択肢
第436話 九人の選択肢
後半20分。
スコアは2対2。
ベンチ前に立つ比企谷八幡は、腕を組んだままピッチを見つめていた。
表情こそ普段と変わらない。
だが、頭の中ではいくつもの問題が同時に並んでいた。
状況はかなり悪い。
残り二十五分。
このまま引き分ければ、得失点差で北海道フェニックスFCが首位を守り、そのままJ2王者となる。千葉が優勝するためには、どうしてもあと一点が必要だった。
ところが、その一点を奪わなければならない攻撃が、後半に入ってから明らかに停滞している。
マティアス・ベニテスが足元へ下がればカサーツノが捕まえ、背後へ走ればカストロが対応する。
前半までカストロ一人を動かすことで生まれていたスペースが、後半は消えていた。北海道がベニテスへの対応を二人の守備範囲に分けたことで、最終ラインそのものが崩れなくなっている。
そしてベニテスが消されれば、当然ダニエル・ロドリゲスも苦しくなる。
中央へ縦パスが入らない。
ダニエルが前を向けない。
森川佑や川崎大志へボールを逃がしても、その先では整った北海道の守備が待っている。
さらに厄介なのが守備側だった。
戸塚彩加には、すでにイエローカードが出ている。
しかも単純なファウルで受けたカードではない。
神谷直人との駆け引きの中で、抗議によってもらった一枚だった。
神谷がそこを使わないはずがない。
戸塚が強く出れば二枚目の危険があり、警戒して距離を取れば神谷が前を向く。
北海道は同点でいい。
千葉は勝たなければならない。
時間が減れば減るほど、その違いは大きくなる。
「……嫌だな」
八幡が小さく呟いた。
隣にいた佐藤智成が振り向く。
「何が?」
「全部です」
「全部かよ」
「全部ですよ」
冗談のような返事だったが、八幡の目は笑っていなかった。
◇
ピッチでは北海道がボールを持っていた。
神谷からカサーツノへ。
そこから林卓也。
無理なら戻す。
再び神谷。
北海道は焦らない。
無理に前へ出る必要がないからだ。
逆に、千葉の選手たちだけが少しずつ残り時間を意識させられている。
その様子を見ながら、八幡は一度ベンチへ視線を移した。
今日、控えているのは九人。
GKの郷田京。
DFの黒崎隼吾、鬼塚純一郎。
MFの笹森正義、戸部翔、中田正和、塩川康文。
FWの材木座義輝。
そして、小林庄雅。
八幡の頭の中では、単純に「誰を入れるか」という考え方では整理されていなかった。
重要なのは。
誰を入れれば。
今、この試合の何を変えられるのか。
それだった。
最初に郷田京へ目を向けたが、そこはすぐに候補から外した。
玉縄幸三に何かアクシデントがあれば話は別だが、現時点でGKを代える理由はない。
二失点しているとはいえ、玉縄自身に大きなミスがあったわけではない。前半には佐々木俊郎の至近距離からのシュートも一度止めている。
ここは触らない。
次に視線を移したのは黒崎隼吾だった。
十九歳。
左右のサイドバックだけではなく、センターバックまでこなせる。両利きで身体能力も高い。
林兄弟のスピードへ対応するだけなら、十分に使う意味はある。
特に後半4分。
葉山は林達也に一度やられている。
速さに対して速さをぶつけるという発想なら、黒崎という選択は成立する。
しかし。
今、千葉が必要としているのは守備の枚数を増やすことではない。
葉山を黒崎へ代えたところで、停滞している攻撃が直接変わるわけではなかった。
「……違うな」
八幡は小さく呟き、その選択を一度頭の端へ追いやった。
鬼塚純一郎も同じだった。
三十六歳。
左右のサイドバックとセンターバックをこなし、元日本代表としての経験もある。
終盤を締める展開なら頼れる。
もし千葉が3対2で勝っていて、残り十分を守り切れば優勝という状況なら、鬼塚は有力な一枚になる。
だが。
今は2対2。
守り切っても二位のままだ。
必要なのは試合を終わらせるための経験ではなく、試合そのものを動かす変化だった。
鬼塚も、今ではない。
◇
そこで八幡の視線が少し長く止まった。
背番号3。
笹森正義。
二十歳。
本職はDMFだが、右SH、左SH、右SB、左SBまで高いレベルでこなせる。
戦術理解が高く、守備も安定しており、ボールを持っても無理をしない。
何より。
今は戸塚にカードが入っている。
その問題だけを考えるなら、笹森はかなり自然な選択だった。
戸塚を下げ。
笹森をエミリオと並べる。
そうすれば神谷へ強く出られる選手をもう一度作ることができ、戸塚の二枚目を心配する必要もなくなる。
さらに笹森なら、試合途中でポジションを変えることもできる。
右へ回すことも。
左へ回すことも。
サイドバックへ落とすこともできる。
交代後に布陣を動かしやすいという意味では、非常に使いやすい。
八幡は笹森を見ながら、少し考えた。
十分あり得る。
だが。
それだけでは、今の攻撃停滞を直接解決しない。
戸塚が笹森に変わっても、ベニテスは同じようにカサーツノとカストロへ受け渡される。
北海道の守備構造そのものは変わらない。
ならば。
攻撃へ直接変化を加えるカード。
八幡の視線が背番号20へ移る。
戸部翔。
OMF。
正確なキックとパス。
そしてフリーキック。
今のように中央が詰まり、細かな崩しだけでは前へ進めない試合では、一つのキックで状況を変えられる選手だった。
ダニエルとは違う。
ダニエルは自分でボールを運び、相手を引きつけ、ドリブルによって局面を動かす。
一方の戸部は、長くボールを持たなくてもいい。
一つのパスで。
ボールそのものを別の場所へ運べる。
北海道がベニテスへの対応を整理し、中央と最終ラインの関係を崩さないようにしているのなら、その外側や背後へ戸部のキックを直接送り込む方法もある。
ただ。
一つ問題があった。
「ダニエルをどうするか……」
八幡が小さく呟く。
現在トップ下にいるのはダニエルだ。
戸部を入れるからといって、ダニエルをそのまま下げるという選択は考えづらい。
この試合。
ダニエルにはまだ何かを起こせる力がある。
ならば共存させる。
どちらかの位置を動かす。
あるいは形そのものを変える。
戸部を使うなら、そこまで含めて考えなければならない。
◇
中田正和も選択肢には入る。
三十五歳。
左利きのDMF。
エストレヤ千葉一筋。
ポジショニング、キック精度、ゲームコントロール。
長くこのクラブを支えてきた経験がある。
戸塚にカードが入った今、笹森と同じように中盤の交代候補になるのは当然だった。
エミリオと並べれば、北海道のプレスを一度落ち着いて外し、試合のテンポを整えることもできる。
だが。
今、千葉が欲しいのは落ち着きだけではない。
ゴールだ。
時間が減れば減るほど、中田を使う意味は状況によって変わってくる。
「今すぐじゃない」
八幡はそう整理した。
その隣。
背番号8。
塩川康文。
八幡の視線がまた止まった。
現在左サイドに入っているのは森川。
しかも前半終了間際に勝ち越しゴールを決めている。
単純に森川を下げて塩川を入れるというのは、簡単な判断ではない。
だが。
塩川には森川とは違うものがある。
派手なドリブルで一人を何度も抜くタイプではない。
それでもクロス、パス、シュートの質が安定していて、運動量もある。
守備も怠らない。
さらに。
塩川はボールを持っていない時に周囲を見続ける。
何度も首を振り。
相手の配置を確認し。
これから空く場所へ先に入っていく。
今の北海道は、ベニテスを消すためにカサーツノとカストロが役割を明確に分けている。
ならば。
その二人の守備範囲の境目。
受け渡しが必要になる場所。
そこを塩川が突くことはできるかもしれない。
ただし。
森川も外したくない。
「……左だけの話じゃないな」
八幡は小さく呟いた。
単純な同ポジション交換では足りない。
塩川を使うなら。
誰かを別の場所へ動かすことまで考える必要がある。
◇
そして前線。
背番号11。
材木座義輝。
ベニテスとはまったく違うタイプのCFだった。
ベニテスが背後への抜け出しや加速、ゴール前での決定力を武器にするのに対し、材木座の強みは前線で身体を張り、ボールを収めることにある。
今、北海道はベニテスの動きを足元と背後へ分けて処理している。
なら。
違う問題を出す。
材木座を入れ。
カストロを背負わせる。
そこでまずボールを収め、後ろからダニエル、森川、川崎を入れていく。
それだけでも、北海道が今作っている守備の基準は変わる。
さらに。
ベニテスを残して材木座と二人並べる方法もある。
カストロ一人で二人を見られるのか。
カサーツノがどちらを捕まえるのか。
そこまで形を変えれば、北海道がハーフタイムで整理した守備を強制的に組み直させることができる。
「二枚……」
八幡の頭の中に、別の布陣が浮かんだ。
当然リスクもある。
前線を二枚にすれば、その分どこかが減る。
中盤を削れば、神谷とカサーツノにボールを持たれる可能性が高くなる。
賭けになる。
だが。
時間がなくなれば。
いずれ、そういう選択をしなければならない。
◇
そして最後。
八幡は背番号25へ目を向けた。
小林庄雅。
本来はFW。
だが、この二か月以上はDMFとしても準備を続けてきた。
前節の仙台戦では、公式戦で初めてアンカーとして先発。
身体をぶつけて奪うのではなく。
強いタックルへ行くのでもない。
パスコースを読み。
相手が実際に蹴る瞬間を待ち。
人ではなく、ボールの行き先を捕まえる。
それが機能した。
今。
戸塚にはイエローカード。
そして神谷は明らかに、その戸塚との駆け引きを利用しようとしている。
ならば。
小林を中盤へ入れる。
その考え方は十分に成立する。
神谷本人へ身体をぶつける必要はない。
むしろ小林の守備は、人へ強く行くことを前提にしていない。
神谷へ入るパス。
神谷から出ていくパス。
その経路を読む。
それなら戸塚が抱えているカードの危険もなく、必要以上の接触も避けられる。
八幡は小林を見ながら、しばらく考え込んだ。
ただ。
仙台と北海道は違う。
前の試合で通用したから、今日も同じように通用する。
そんな簡単な話ではない。
北海道には神谷だけがいるわけではない。
林兄弟。
佐々木。
カサーツノ。
動く場所も多ければ、パスの種類も多い。
小林の予測がどこまで通じるかは未知数だった。
それに。
今の千葉には得点が必要だ。
小林を入れただけでは、攻撃の停滞を直接解決できるわけではない。
◇
八幡は改めてベンチ全体を見渡した。
九人。
郷田。
黒崎。
鬼塚。
笹森。
戸部。
中田。
塩川。
材木座。
小林。
選択肢はある。
むしろ多い。
しかし。
万能な答えは一つもなかった。
戸塚のカード問題を解消するなら、笹森、中田、小林。
攻撃そのものを変えたいなら、戸部、塩川、材木座。
サイドの守備へ手を加えるなら、黒崎や鬼塚。
だが、誰かを入れるということは。
当然。
誰かを出すということでもある。
今ピッチにいる選手にも、簡単には外せない理由があった。
森川は今日すでに得点している。
ベニテスも得点している。
ダニエルは千葉の攻撃の中心。
川崎は右で幅を取りながら内側にも入れる。
戸塚は守備の中心。
エミリオは組み立ての中心。
調子が悪いから一人を代えれば済む。
そんな状況ではない。
だからこそ。
難しい。
◇
後半21分。
ピッチでは神谷がまた戸塚の前でボールを受けた。
戸塚は先ほどまでより少し距離を取っている。
頭の中にイエローカードがある。
神谷もそれを分かっていた。
前を向く。
「彩加!」
エミリオがすぐに寄せる。
その瞬間、神谷は左の卓也へ逃がした。
毛利が対応する。
卓也から中央のカサーツノへ戻り、北海道はまたゆっくりとボールを動かし始める。
八幡はその光景を見て、わずかに眉間へ皺を寄せた。
このまま待つ。
それが一番危ない。
北海道は2対2のままでいい。
千葉は違う。
時間が一分減るたび。
追い込まれるのは。
千葉だけだった。
「マルコ」
八幡が監督へ声をかける。
マルコ・ベッルーニもすでにベンチへ視線を向けていた。
二人が考えていることは、ほぼ同じだった。
この試合。
そろそろ。
こちらから動かさなければならない。
問題は。
誰を入れるかだけではない。
一枚で変えるのか。
二枚を同時に入れるのか。
あるいは三枚を使って、布陣そのものを変えるのか。
優勝まで。
あと一点。
その一点を奪うために。
ベンチにいる九人の特徴を。
どこへ。
どうぶつけるのか。
八幡はピッチとベンチを交互に見ながら。
もう一度。
その九人を頭の中で並べ直していた。