第437話 前へ出るための交代
第437話 前へ出るための交代
後半23分。
スコアは2対2のまま動いていなかった。
北海道フェニックスFCは、追いついてから明らかに余裕を取り戻している。無理に縦へ急ぐ必要はない。神谷直人とカサーツノを中心にボールを動かし、林兄弟を使いながら千葉を左右へ揺さぶる。
このまま引き分けでも優勝できるのは北海道だ。
時間を気にしなければならないのは、エストレヤ千葉の方だった。
比企谷八幡はベンチ前で腕を組みながら、ピッチと時計を交互に見ていた。
北海道が後半から行ったベニテス対策によって、千葉の攻撃は止まりかけている。それに加えて、戸塚彩加にはすでにイエローカードが出ていた。
神谷もそれを分かっている。
戸塚が強く寄せれば、もう一度ファールを狙える。逆に戸塚が慎重になれば、神谷は前を向きやすくなる。
このままではいけない。
八幡がマルコ・ベッルーニへ顔を向けた。
「戸塚、替えますか」
マルコは少しも迷わなかった。
「ああ」
二人の考えは一致していた。
単純にカードをもらった選手を守るためだけの交代ではない。後半に入って停滞している攻撃にも、同時に手を入れる必要があった。
八幡はベンチを振り返った。
「笹森」
「はい」
名前を呼ばれた笹森正義が、すぐに立ち上がる。
「準備して」
「分かりました」
笹森は着ていたビブスを脱ぎ、素早くユニフォームを整えた。そのまま第四審判のいるタッチライン際へ向かおうとしたところで、八幡が呼び止める。
「正義」
笹森が足を止めて振り返った。
「そのまま戸塚のところに入って」
「ダブルボランチですか?」
「形はそう。ただ、お前は少し後ろを意識してくれ」
八幡はピッチへ視線を向けた。
中央には神谷。その前後を佐々木やカサーツノが動いている。
「神谷を追い回さなくていい。下がったところまで全部ついていく必要もない。前を向かせたくない場所だけ締めて、まず佐々木との間を切る」
「分かりました」
「強く行けるところは行っていい。でも、奪い切ろうとしすぎるな。神谷にこっちの形を崩される方が面倒だから」
「はい」
戸塚に入ったカードによって生まれた問題を、笹森にそのまま引き継がせるつもりはなかった。
笹森ならカードを気にする必要はない。
それに、戦術理解も高い。必要以上に相手へ食いつかず、周囲との距離を保ちながら守ることができる。
八幡はそこで一度言葉を切った。
「あと、エミリオに伝えて」
「何をですか?」
「もう少し前でプレーしていいって」
笹森が少し意外そうな顔をした。
今まで戸塚とエミリオは、ほぼ同じ高さで千葉の中盤を支えていた。しかし後半に入ってから、その位置が低すぎる。
ベニテスが北海道に封じられ、ダニエルまで孤立しかけているのに、その後ろを支える二人まで低い位置に残っている。
それでは前へ出る人数が足りない。
「俺が後ろを見るから、エミリオを前へ出すってことですか?」
「そういうこと」
八幡が頷く。
「神谷への最初の対応はお前がやる。エミリオは全部戻ってこなくていい。ダニエルの近くまで出てもらう」
笹森は改めてピッチを見た。
カサーツノ。
神谷。
その前には佐々木。
反対側にはダニエルとベニテス。
意図を理解したらしい。
「前に一人増やすんですね」
「今のままじゃ、マティアスを消された時点で前が足りなくなるからな」
北海道はベニテスを抑えるために、カサーツノとカストロで役割を分けている。
ならば。
その分だけ別の場所に選手を増やす。
北海道が作った守備の整理を、別の形から崩す。
「ボールを持った時は難しいことしなくていい。いつも通り簡単に捌いて」
「いつも通りですね」
「それができるから、お前を入れるんだよ」
「褒めてます?」
「かなり」
笹森が小さく笑った。
その直後。
ボールがタッチラインを割った。
主審が交代を認める。
第四審判がボードを掲げた。
背番号18。
戸塚彩加。
アウト。
背番号3。
笹森正義。
イン。
エストレヤスタジアムから大きな拍手が起こった。
戸塚はゆっくりとタッチラインへ向かう。
表情にはまだ悔しさが残っていた。神谷との一件さえなければ、まだ自分がピッチに立っていたかったのだろう。
それでも、自分が今どんな状態なのかは理解している。
すれ違う直前。
戸塚は笹森の肩を軽く叩いた。
「神谷、前向かせるなよ」
「はい」
「佐々木の二球目も忘れるな」
「分かってます」
「頼んだ」
「任せてください」
短いやり取りを終え、笹森がピッチへ入る。
戸塚はそのままベンチへ戻ってきた。
マルコが最初に迎える。
「よくやった」
「カードなければ、まだ行けました」
「知ってる」
「……」
「だから替えた」
戸塚は何も言い返さなかった。
そのままベンチへ腰を下ろす。
八幡が横から声を掛けた。
「神谷にもう一回やられたら危なかったですからね」
「分かってる」
「まだ怒ってます?」
「ちょっと」
「珍しいですね」
「うるさい」
戸塚の返事に、八幡は少しだけ口元を緩めた。
だが、すぐに視線をピッチへ戻す。
今は試合の途中だ。
◇
ピッチに入った笹森は、プレーが再開される前にエミリオ・アルバレスのところへ走った。
「エミリオ!」
「ん?」
「八幡さんからです」
エミリオが耳を傾ける。
「俺が少し後ろを見ます。神谷への最初の対応も俺がやるので、エミリオはもう少し前でプレーしていいって」
「前?」
「ダニエルの近くまで行っていいそうです」
エミリオは一度、ピッチ全体を見渡した。
自分の後ろに笹森。
その前方にダニエル。
最前線にはベニテス。
北海道ではカサーツノがベニテスの足元を警戒し、さらに後ろにはカストロがいる。
数秒もかからず、意図を理解した。
「なるほど」
「神谷は俺が見ます」
「了解」
エミリオは右手を上げ、少し前へ出ることをダニエルにも伝えた。
ダニエルもすぐに頷く。
配置が。
ほんの少しだけ変わった。
◇
試合が再開される。
後半24分。
最初にボールを持ったのは北海道だった。
神谷が中央へ入る。
これまでなら戸塚が前へ出ていた場所。
今度は笹森が待っていた。
ただし。
笹森は勢いよく奪いに行かない。
神谷との距離を保ったまま、佐々木への縦パスも同時に見る。
神谷が前を向こうとする。
そこだけ。
笹森が半歩、距離を詰めた。
神谷は無理をせず左へ逃がす。
林卓也。
毛利良一が対応する。
笹森はそこまで追わなかった。
すぐに中央へ戻り、もう一度神谷と佐々木の間へ立つ。
八幡がベンチからその動きを見る。
「そう。それでいい」
守備の形は。
まず崩していない。
そして。
千葉がボールを奪った。
長谷川から笹森。
笹森は余計なことをしない。
ワンタッチでエミリオへ預ける。
だが。
そのエミリオがいる場所が。
さっきまでとは違っていた。
戸塚と横並びになっていた位置よりも一列前。
カサーツノの横。
ダニエルの少し後方。
そこへボールが入った瞬間。
北海道の中盤に。
僅かな迷いが生まれた。
カサーツノはベニテスを見ている。
しかし。
目の前にエミリオが前向きで入ってきた。
放置するわけにもいかない。
カサーツノが一歩。
エミリオへ出る。
その瞬間。
ベニテスへの警戒が。
ほんの僅かに。
薄くなった。
「来た」
八幡が小さく呟く。
エミリオは前を向く。
正面。
ダニエル。
右。
川崎。
左。
森川。
その先。
ベニテス。
今までの千葉には。
その四人へ繋ぐための。
もう一人が足りなかった。
そこへ。
エミリオが加わる。
カサーツノが寄せる。
エミリオは持ち続けない。
縦。
ダニエル。
ダニエルもワンタッチ。
右。
川崎へ。
川崎が前向きで受ける。
北海道の守備が一斉に横へ動いた。
川崎が毛利を使うと見せて内側へ運び、そこからペナルティーエリアへ低いボールを入れる。
ただ。
最後は北海道のDFが先に触った。
クリア。
得点には繋がらない。
決定機と呼べるほどでもない。
それでも。
後半に入ってから止まっていた千葉の攻撃が。
久しぶりに。
前へ向かって繋がった。
「今のはいいな」
佐藤智成が言った。
八幡も頷く。
「エミリオが一列上がっただけで、カサーツノに選ばせられるようになりました」
「ベニテスを見るか、エミリオへ出るか」
「はい」
これまでは。
北海道が千葉に選択を迫っていた。
ベニテスへ出すのか。
サイドへ逃がすのか。
戻すのか。
だが。
今度は。
北海道側に。
判断を迫る。
戸塚から笹森。
ただの守備的な交代ではない。
笹森に後ろを任せ。
その分。
エミリオを前へ出す。
ベニテスを封じられたのなら。
別の場所に。
新しい起点を作る。
まだ。
これが正解かどうかは分からない。
ゴールも生まれていない。
それでも止まりかけていた千葉の攻撃は、確かにもう一度動き始めていた。