第438話 二点が必要になった
第438話 二点が必要になった
後半24分。
戸塚彩加に代わって笹森正義が入ったことで、エストレヤ千葉の中盤にはわずかな変化が生まれていた。
笹森が後方のバランスを引き受け、その分だけエミリオ・アルバレスが一列前へ出る。これまでカサーツノは、足元へ下りてくるマティアス・ベニテスへの対応に集中できていたが、前向きで入ってくるエミリオまで無視することはできない。
ベニテスを見るのか。
それともエミリオへ出るのか。
北海道フェニックスFCの中盤に、ようやく判断を迫れるようになった。
完全に止まっていた千葉の攻撃が、少しずつ前へ進み始める。
ただし。
試合そのものが千葉へ傾いたわけではなかった。
スコアは2対2。
このまま終わっても北海道が優勝できる。
だからこそ北海道には焦りがなく、それでいて、取れる三点目を捨てる必要もなかった。
◇
後半26分。
北海道が右サイドへボールを運んだ。
神谷直人からカサーツノへ入り、カサーツノが顔を上げる。その先で林達也がタッチライン際へ開いていた。
ボールが渡ると、葉山隼人がすぐに距離を詰める。
後半4分。
一度、達也にはゴールを奪われている。
それでも葉山は、その後まで崩れたわけではなかった。
むしろ失点後は達也との間合いを慎重に測り、持ち前の加速をまともに受けないように守っていた。近づきすぎない。縦へ出られても慌てず追う。途中でボールを戻されたなら、二度目の飛び出しまで警戒する。
苦しい対峙ではあったが、同じ形を何度も許してはいない。
「葉山、その距離でいい!」
宇津木健太が中央から声を飛ばした。
達也が縦へ仕掛ける。
葉山も下がりながら並んだ。
そのまま内側へ切り込もうとする達也に対し、葉山は身体を半身にしてコースを消す。
正面には玉縄幸三。
ここから無理にシュートを打ったところで、葉山自身か玉縄に阻まれる可能性が高い。
達也も、それを分かっていた。
だから打たなかった。
◇
後半28分。
達也はペナルティーエリア右手前で、一度完全に足を止めた。
葉山も止まる。
縦は切った。
中央へ入る道も塞いだ。
シュートコースもない。
ここまで何度も達也の仕掛けに耐えてきた葉山の中に、その瞬間だけ、ほんの僅かな安堵が生まれた。
この局面は終わった。
そう思ってしまった。
視線が目の前の達也へ寄る。
次の瞬間だった。
達也の右足が、ボールの下へ入った。
「――逆!」
長谷川智樹の声が飛ぶ。
シュートではない。
クロスでもない。
達也が選んだのは、反対サイドへの大きな展開だった。
ボールが高く上がり、千葉の守備陣の頭上を越えていく。
達也との一対一へ意識を寄せられていた千葉の最終ラインが、一斉に逆を見る。
その先にいたのは。
林卓也。
左サイドで、完全に準備を終えていた。
「戻れ!」
毛利良一が急いで距離を詰める。
川崎大志も中央から戻った。
だが卓也は慌てない。
飛んできたボールを胸で柔らかく前へ落とすと、そのまま一歩、内側へ入った。
毛利も必死についていく。
外へ追い出したい。
しかし、卓也は左足へボールを置いた。
その動きだけで、シュートの形ができる。
「毛利!」
川崎の声。
毛利が身体を入れようとする。
だが。
その前に。
卓也の左足が振り抜かれた。
鋭いシュートが、ゴール右側へ飛んでいく。
玉縄もすぐに反応した。
横へ跳ぶ。
右手を伸ばす。
それでも。
届かなかった。
ボールは玉縄の指先の先を抜け、そのままゴール右隅へ突き刺さった。
一瞬。
エストレヤスタジアムの音が消えた。
次の瞬間、アウェー側から爆発するような歓声が上がる。
後半28分。
北海道フェニックスFC。
逆転。
背番号21。
林卓也。
スコアは。
2対3。
◇
卓也はゴールを確認すると、両拳を強く握った。
「よしっ!」
最初に駆け寄ってきたのは、弟の達也だった。
「兄貴!」
「ナイスボール!」
「決めたのそっちだろ!」
二人が勢いよく抱き合う。
その周囲へ神谷、佐々木、カサーツノも次々と集まっていった。
最後尾では石原一成が両手を叩きながら、前方へ大声を飛ばしている。
「まだ終わってないぞ! 戻れ!」
同点で十分だった北海道が。
ついに。
リードまで奪った。
◇
葉山は、少しの間その場に立ち尽くしていた。
直接抜かれたわけではない。
達也のシュートコースも消した。
自分がやるべき守備は、そこまでできていた。
だからこそ。
悔しい。
ほんの一瞬だけ。
終わったと思った。
その瞬間に達也は逆サイドを見ていた。
そして卓也は、千葉の意識が右へ寄った場所とは正反対のスペースに立っていた。
「葉山!」
長谷川の声が飛ぶ。
葉山が顔を上げた。
「下向くな! まだあるぞ!」
宇津木もすぐに続ける。
「切り替えろ!」
「……はい!」
葉山は強く答えた。
ただ。
スコアボードに映る数字は。
2対3。
重かった。
◇
ベンチ前。
比企谷八幡もスコアボードを見上げていた。
「……これで、二点必要ですね」
佐藤智成が隣で腕を組む。
「ああ」
千葉は勝たなければ優勝できない。
つまり3対3へ追いつくだけでは足りない。
残された時間の中で。
もう二度。
北海道のゴールを破らなければならなくなった。
「一気に苦しくなったな」
「ですね」
八幡は短く答えた。
残り時間は十七分ほど。
だが。
八幡が次に見たのは、時計ではなかった。
センターサークル付近。
マティアス・ベニテス。
両手を腰に当て、大きく呼吸している。
八幡の目が細くなった。
「……足に来てるな」
隣のマルコ・ベッルーニも同じ場所を見ていた。
「ああ」
後半に入ってから、ベニテスには前半以上の負荷が掛かっていた。
北海道はベニテスを消すために、対応を明確に分けている。
足元へ下がればカサーツノ。
背後へ走ればカストロ。
その守備を崩そうと、ベニテスは何度も上下動を繰り返していた。
足元へ下りてカサーツノを背負う。
ボールを落とした直後には反転し、今度はカストロの背後へ走る。
届かなければ戻る。
もう一度足元へ。
また背後へ。
しかも相手は、運動量のあるカサーツノと、若さと身体能力に優れるカストロ。
後半だけでも、ベニテスは二人を相手に何度も全力の動き直しを強いられていた。
失点後。
試合が再開される。
ダニエルが中央で前を向いた。
ベニテスもすぐに裏へ動く。
しかし。
八幡は、その一歩を見ただけで判断した。
遅い。
本来のベニテスなら、最初の数歩でもっと鋭く出る。
だが今は、その加速がない。
カストロが難なく並んだ。
ダニエルもそれを見て、縦パスを取りやめる。
エミリオへ戻した。
「マルコ」
「ああ」
もう詳しく説明する必要はなかった。
マルコがベンチを振り返る。
「材木座!」
「はい!」
背番号11。
材木座義輝が勢いよく立ち上がった。
「準備しろ!」
「分かりました!」
◇
八幡はタッチライン際へ来た材木座を呼び寄せた。
「マティアスと代わる」
「承知した」
材木座の表情から、いつものふざけた雰囲気が消える。
「やることは難しくない。いつも通りでいい」
「ポストプレーか」
「そう。カストロを背負ってくれ」
材木座が頷いた。
「マティアスみたいに何度も裏へ走らなくていい。まず足元で収める。入ったら簡単に落とせ。ダニエルでもエミリオでもいい。森川と川崎も後ろから入ってくる」
北海道は、ベニテスの上下動に合わせて守備の役割を分けている。
ならば。
同じ問題を出し続ける必要はない。
材木座はベニテスほど速くない。
背後への爆発的な飛び出しもない。
代わりに。
相手を背負った状態でボールを収め、味方を前へ押し上げることができる。
「北海道はマティアスに合わせて守り方を整理してる」
八幡が言う。
「ならば、拙者が別の問題を出すわけか」
「そういうこと」
材木座が少しだけ笑った。
「最初からそう言えばよいではないか」
「今言っただろ」
「説明が長いのでござる」
「うるさい」
そこまで話してから。
八幡の声が少し低くなった。
「あと二点いる」
材木座の笑みが消えた。
スコアボードを見る。
2対3。
「一点じゃ足りない」
「分かっている」
「頼む」
材木座は、強く頷いた。
「ああ。任せろ」
◇
ボールが外へ出たところで、交代が認められた。
第四審判がボードを掲げる。
背番号9。
マティアス・ベニテス。
アウト。
背番号11。
材木座義輝。
イン。
スタンドから大きな拍手が起きた。
ベニテスがゆっくりとタッチラインへ向かう。
前半18分。
この優勝決定戦で先制点を奪った男。
それでも今は、明らかに足が重かった。
本人も分かっているのだろう。
悔しそうな表情のまま、それでも交代を拒むことはなかった。
タッチライン際で待っていた材木座と手を合わせる。
「頼む」
ベニテスが日本語で短く言った。
材木座も、いつもの大仰な調子では返さなかった。
「任せろ」
そのまま材木座がピッチへ入り、ベニテスはベンチへ戻る。
八幡が迎えた。
「お疲れ」
「まだできた」
「知ってる」
「まだ走れた」
「走ることはできる」
八幡はピッチから目を離さないまま答えた。
「でも、今の足じゃカストロからもう一回背後を取るのは厳しい」
ベニテスが黙る。
少しして。
悔しそうに笑った。
「……よく見てるな」
「仕事だから」
「嫌な仕事」
「よく言われる」
ベニテスは何も返さず、そのままベンチへ腰を下ろした。
前半に一点。
後半は北海道の守備を動かすため、何度も身体を張った。
十分に仕事はした。
ただ。
今の千葉には。
もう違う形が必要だった。
◇
最前線。
材木座義輝がカストロの前へ立つ。
すぐには背後へ走らない。
むしろ身体を寄せ。
どっしりと構えた。
カストロも、それまでとは違うタイプのCFを前にして、僅かに視線を変える。
ベニテスを止めるために用意した。
足元ならカサーツノ。
背後ならカストロ。
その役割分担。
だがそのベニテスはもうピッチにいない。
今度は前線で収める材木座をどう処理するのか。
北海道には新しい答えが必要になる。
千葉、2。
北海道、3。
残された時間の中でエストレヤ千葉には、あと二点が必要だった。