第441話 最後のフリーキック
第441話 最後のフリーキック
後半40分を過ぎても、スコアは3対3のままだった。
北海道フェニックスFCは両サイドバックを同時に入れ替えたことで、崩れかけていた守備のバランスを取り戻している。
それまで森川佑と葉山隼人が作っていた左サイドにも、川崎大志と毛利良一が使っていた右サイドにも、新しい脚をぶつけてきた。
千葉は再び、簡単には深い位置まで入れなくなっていた。
時間だけが減っていく。
このままなら北海道が優勝する。
千葉には、どうしてもあと一点が必要だった。
後半41分。
高い位置へ出ていたエミリオ・アルバレスがボールを受け、中央のダニエル・ロドリゲスへ縦パスを入れる。
ダニエルは前を向いたが、カサーツノがすぐに距離を詰めてきた。
無理には仕掛けない。
左の森川へ預ける。
森川が内側へ運ぼうとすると、交代で入った北海道のサイドバックがぴったりついてくる。その外を葉山が追い越した。
森川は一度そちらを見る。
だが、出せない。
北海道も葉山のオーバーラップを警戒していた。
仕方なく後ろへ戻し、笹森正義を経由して再びエミリオへ。
千葉はもう一度組み立て直した。
しかし。
残された時間を考えれば、何度もやり直している余裕はなかった。
◇
ベンチ前で八幡は時計を確認した。
後半42分。
残り三分。
アディショナルタイムがあるとはいえ、それが何分になるかはまだ分からない。
北海道が両サイドバックを替えたことで、それまで千葉が使えていた外側の優位も薄れている。
材木座義輝を入れたことで中央には起点ができた。
笹森を入れたことで、エミリオも一列高い位置へ出せるようになった。
それでも。
最後のところで北海道は崩れない。
八幡はベンチへ視線を向けた。
その先にいた一人を、マルコ・ベッルーニも見ていた。
「戸部」
監督に名前を呼ばれ、戸部翔がすぐに立ち上がる。
「はい」
「準備」
戸部は短く返事をすると、すぐにビブスを脱いだ。
八幡もタッチライン際へ向かう戸部の横へ立つ。
「大志と代わる」
戸部がピッチを見る。
「俺が右ですか?」
「いや。トップ下」
戸部の視線が一瞬、ダニエルへ向いた。
「じゃあダニエルを?」
「右へ出す」
現在トップ下にいるダニエルを右SHへ回し、戸部を本職のOMFへ入れる。
川崎を下げることで、右サイドの突破力は少し落ちる。
その代わり。
中央へ戸部のパスとキックを加える。
残された時間で、一つのプレーから状況を変えられる選手を置く。
「材木座が収めた後を狙ってくれ。自分で持ちすぎなくていい」
「分かりました」
「ダニエルは右から中にも入ってくる。位置が被ったら、お前が少し下がってもいい」
「はい」
戸部は頷いた。
八幡はそこで一度言葉を切り、最後に付け加える。
「あと」
「はい?」
「セットプレー来たら、お前が蹴れ」
戸部の表情がわずかに変わった。
「了解です」
◇
後半43分。
ボールが外へ出たところで、第四審判が交代ボードを掲げた。
背番号19、川崎大志。
アウト。
背番号20、戸部翔。
イン。
川崎はピッチを出る直前、ダニエルへ声を掛けた。
「ダニエル、右!」
「分かった!」
ダニエルがそのまま右サイドへ移る。
戸部は中央へ。
トップ下。
その前には材木座。
左には森川。
右にはダニエル。
さらに後方からエミリオが押し上げる。
千葉は最後の一点を奪うために、もう一度攻撃の配置を変えた。
ベンチへ戻ってきた川崎は、荒い呼吸を整えながらそのままピッチを見る。
「頼みますよ……」
自分と入れ替わった戸部へ向け、小さく呟いた。
◇
後半44分。
戸部は投入直後からボールへ触った。
笹森から縦パスが入る。
背後から北海道の選手が寄せてくる。
戸部は無理に振り向かず、ワンタッチでエミリオへ返した。そのまま少し位置を変え、再び受け直す。
今度は前を向いた。
中央では材木座がカストロを背負っている。
左には森川。
右ではダニエルが内側へ入り始めていた。
戸部は一度だけ前を確認すると、右足を振った。
浮き球。
北海道の最終ラインとGK石原一成の間。
そこへダニエルが走り込む。
狙いは合っていた。
しかし石原の反応も早い。
ペナルティーエリアを出る寸前まで前へ出ると、ダニエルより先にボールを確保した。
「惜しい!」
戸部がすぐに手を上げる。
ダニエルも親指を立てて返した。
狙う場所は間違っていない。
それでも。
もう時間がない。
◇
後半45分。
第四審判がタッチライン際へ出てきた。
掲げられたボードに表示された数字は。
**3。**
アディショナルタイム。
三分。
エストレヤスタジアムが大きくざわめいた。
残された時間は、あと三分。
「三分!」
後方から長谷川智樹が叫ぶ。
「まだあるぞ!」
その声に呼応するように、千葉サポーターの声量がさらに上がった。
北海道側からも、それに負けないほどの声が返ってくる。
3対3。
あと三分。
北海道は耐えれば優勝。
千葉は一点を取れば優勝。
条件は、これ以上ないほど単純だった。
◇
後半46分。
北海道が一度前へ蹴り出したボールを、宇津木健太が頭で跳ね返した。
こぼれ球を笹森が拾い、すぐにエミリオへ繋ぐ。
エミリオは前を向くと、中央の戸部へ預けた。
戸部の前では材木座が足元へ下がる。
その動きに北海道の守備が中央へ寄った。
戸部は材木座へ入れなかった。
代わりに左へ振る。
森川。
前には交代で入った北海道のサイドバック。
森川は一度、外へ身体を向けた。
その瞬間、葉山が外側を駆け上がる。
当然、相手もそちらを警戒した。
そこで。
森川は内側へ切り込んだ。
一人目の横を抜ける。
ゴールが見えた。
さらに中央へ入ろうとしたところで、北海道の選手が止めに入る。
森川はボールを少しだけ前へ出した。
直後。
身体が崩れる。
「ピーッ!」
主審の笛が鳴った。
エストレヤスタジアムの空気が、一瞬で変わった。
千葉。
フリーキック。
森川は倒れたまま顔を上げた。
北海道の選手たちもすぐ主審へ確認へ向かったが、判定は変わらない。
場所はゴールまで約二十一メートル。
やや左。
直接狙うには十分すぎる位置だった。
◇
「……来た」
ベンチで八幡が立ち上がった。
佐藤も思わず息を呑む。
この位置。
そして。
つい三分前にピッチへ送り込んだ男がいる。
背番号20。
戸部翔。
戸部は主審が示した場所へゆっくり歩いていった。
森川も立ち上がる。
ボールを受け取った戸部は、自分の手で芝の上へ置いた。
ゴール前では石原がすぐに大声を出す。
「壁!」
北海道の選手たちが集まってくる。
ゴール正面より、やや左。
戸部から見れば、壁の外を巻くこともできる。
上を越すこともできる。
GKの逆を狙うこともできる。
石原は何度も立ち位置を確認しながら、壁を細かく動かした。
戸部は何も言わず、ボールを見ている。
そして千葉側も動いた。
特別なトリックプレーを使うわけではない。
誰かがボールを跨ぐわけでもなく、横へずらすわけでもない。
蹴るのは最初から戸部。
ただ。
その前で二人の千葉の選手が壁の中へ入った。
狙っているのは石原の視界だった。
ブラインド。
「見えねえな……」
ベンチの戸塚が思わず呟く。
北海道の選手たちも位置を調整する。
石原も身体を左右へ動かしながら、何とかボールを確認しようとしていた。
戸部はその様子を黙って見ている。
後半46分。
アディショナルタイム。
3対3。
このままなら北海道が優勝する。
だが、この一本が決まればエストレヤ千葉が初めて北海道を順位で上回る。
そして、そのままJ2王者へ手を掛ける。
スタジアム中の視線が、一つのボールへ集まった。
戸部はゆっくりとボールから離れる。
助走の距離を取る。
数歩、そこで止まった。
歓声も。
叫び声も。
すべてが遠くなるような静けさの中で戸部はただゴールだけを見ていた。