第442話 歓喜の笛
第442話 歓喜の笛
後半46分。
アディショナルタイムに入り、すでに一分が経過していた。
スコアは3対3。
このまま試合が終われば、得失点差で上回る北海道フェニックスFCがJ2王者となる。
エストレヤ千葉が優勝するためには、もう一点。
その最後の一歩を懸けたフリーキックが、ゴールまでおよそ二十一メートル、やや左の位置で与えられていた。
ボールの前に立つのは、後半43分からピッチへ入った戸部翔。
北海道はすぐに壁を作った。
その壁の中には、千葉の選手も二人入り込んでいる。
特別なトリックプレーではない。横へずらすわけでもなければ、誰かが跨ぐわけでもない。
狙いはただ一つ。
GK石原一成からボールが見える時間を、ほんの少しでも短くすることだった。
この距離では、そのわずかな差が大きい。
石原は壁の横から何度も身体を動かし、ボールの位置を確認している。
「もう半歩右!」
その声に合わせて壁が動いた。
石原自身も立ち位置を細かく修正する。
戸部は右足。
この位置なら壁の上を越してゴール右側へ落とすこともできるし、逆を狙うこともできる。
当然、石原も両方を頭へ入れていた。
戸部はほとんど動かない。
足元のボールを見て、一度だけゴールへ視線を上げる。
そして、またボールへ目を戻した。
エストレヤスタジアムが、異様なほど静かになっていた。
つい先ほどまで響いていた歓声も応援歌も、この一瞬だけは遠くへ消えたように感じられる。
ベンチ前に立つ比企谷八幡も何も言わない。
佐藤智成も、マルコ・ベッルーニも同じだった。
ここから先に、外から指示できることはもうない。
蹴るのは戸部。
止めるのは石原。
最後は、その二人の勝負だった。
ベンチでは、すでに交代していた戸塚彩加、川崎大志、マティアス・ベニテスも立ち上がっている。
川崎は、ボールの前に立つ戸部から目を離さなかった。
「……戸部さん」
自分より二つ年上の先輩。
ほんの数分前、自分と交代してピッチへ入った選手だった。
今。
その戸部の右足に、エストレヤ千葉のシーズンが懸かっている。
主審が壁との距離を最後に確認した。
壁へ入っている千葉の二人にも、相手を押したり掴んだりしないよう注意を与える。
そして戸部を見る。
笛が鳴った。
短い音が、静まり返ったスタジアムへ鋭く響く。
戸部が助走へ入った。
一歩。
二歩。
三歩。
左足を踏み込む。
そして、右足を振り抜いた。
乾いた音とともに、ボールが芝を離れた。
最初の軌道は、北海道の壁へ向かっているように見えた。
壁が一斉に跳ぶ。
その中へ入っていた千葉の二人は、身体を縮めるようにしてその場へ残った。
ボールは北海道の選手たちの頭上、本当にわずかなところを越えていった。
そこから。
軌道が変わった。
美しい放物線。
力任せに叩き込むキックではない。
高すぎず、低すぎず。
まるで最初からゴールの中へ落ちる場所が決められていたかのように、ボールがゆっくりと曲がりながらゴールへ向かっていく。
「っ!」
石原の視界へ、ようやくボールが入った。
反応する。
一歩踏み込み、横へ飛ぶ。
右腕を目いっぱい伸ばした。
三十八歳。
長い現役生活。
日本代表。
ワールドカップ。
これまで数え切れないほどのシュートを止めてきた腕が、ボールへ向かう。
それでも。
届かなかった。
ほんのわずか。
数センチ。
石原の指先の先を、ボールがすり抜ける。
そのままゴール右上。
ネットへ吸い込まれた。
一瞬。
誰も動かなかった。
戸部自身も蹴り終えた姿勢のまま、ゴールを見つめている。
石原も着地したあと、振り返った。
ネットの中。
そこにボールがある。
その事実を全員が理解した次の瞬間だった。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
エストレヤスタジアムが揺れた。
後半46分。
エストレヤ千葉、勝ち越し。
背番号20。
戸部翔。
スコアは4対3。
「入ったあああああああああっ!!」
戸部が叫ぶ。
その背中へ真っ先に森川が飛びついた。
「戸部!」
「うおっ!」
ダニエルも、材木座も、エミリオも、笹森も一斉に駆け寄ってくる。
後ろからは毛利や葉山まで走ってきた。
あっという間に、戸部の姿が仲間たちの中へ消える。
「決めやがった!」
「ナイス!」
「翔!」
「ちょっ、苦しいって!」
戸部が笑いながら叫んでも、誰も離れようとはしなかった。
この瞬間だけは。
それでよかった。
◇
千葉ベンチも、一瞬で収拾がつかなくなった。
「よっしゃああああああ!!」
普段は感情を大きく表へ出さない戸塚まで、珍しく声を張り上げた。
ベニテスも両腕を突き上げる。
中田正和、塩川康文、小林庄雅、黒崎隼吾、鬼塚純一郎、郷田京。
全員が立ち上がっていた。
川崎も拳を強く握り、ピッチへ向かって叫ぶ。
「翔さん、ナイスです!!」
自分と代わって入った先輩が、この試合で最も重要な一球を決めた。
スタッフも平静ではいられない。
中村敏三郎。
田島雍也。
ルイス・マルティネス。
佐藤。
誰もが声を上げ、喜びを爆発させる。
その中で。
八幡だけは、一瞬動けなかった。
「……」
ゴールを見る。
次に大型ビジョン。
4対3。
もう一度ピッチを見る。
まるで、今起きたことが本当に現実なのか確認するように。
「……入った」
ようやく出たのは、それだけだった。
次の瞬間。
佐藤が八幡の肩を思い切り叩く。
「入ったぞ!」
「痛っ!」
「戸部が決めたぞ!」
「分かってますって!」
そう返しながら。
八幡も笑っていた。
だが。
誰よりも早く現実へ戻ったのは、マルコ・ベッルーニだった。
「戻れ!!」
大声が飛ぶ。
「まだ終わってない!」
その一言で、ピッチ上の選手たちも我に返った。
そう。
まだ後半46分。
アディショナルタイムは三分。
残りはおよそ二分ある。
そして今度は、立場が完全に逆転した。
千葉はこの一点を守れば優勝。
北海道は追いつけば、得失点差によって再び優勝条件を取り戻す。
「戻れ! 早く!」
長谷川智樹が仲間たちを自陣へ押し戻す。
戸部も急いで走った。
その横へ森川が並ぶ。
「すげえの決めたな」
「森川さんがFK取ってくれたからですよ」
「そういうのいいから」
「じゃあ俺のゴールってことで」
「急に図々しいな」
二人は一瞬だけ笑った。
だが、すぐに表情を切り替える。
まだ。
試合は終わっていない。
◇
センターサークルでは、神谷直人がボールの前に立っていた。
その顔から、それまで見えていた余裕は完全に消えている。
佐々木俊郎。
林達也。
林卓也。
カサーツノ。
北海道の選手たちが一斉に前へ出る。
もう同点でいい状況ではない。
追う側は北海道になった。
「まだある!」
ゴール前から石原が叫ぶ。
「二分あるぞ!」
その声を受け、北海道の選手たちも顔を上げた。
キックオフ。
神谷はすぐに前へ出した。
後半47分。
北海道に時間を使うという選択肢は、もうなかった。
中央でボールを受けた神谷は、そのまま左足で右へ大きく展開する。
林達也。
葉山が対応した。
達也が縦へ仕掛ける。
葉山もついていく。
先ほどまでとは違う。
今は目の前の達也だけを見ていない。
中央。
逆サイド。
周囲の動きを確認しながら対応する。
達也が右からクロスを入れた。
ゴール前へ佐々木が飛び込む。
長谷川と宇津木も競る。
先に触ったのは長谷川だった。
ヘディングで弾き返す。
だが、北海道の攻撃はまだ終わらない。
こぼれ球を神谷が拾った。
そこへ笹森が寄せる。
神谷は左へ振る。
林卓也。
毛利が対応する。
卓也は内側へ持ち込み、得意の左足を振った。
「玉縄!」
低く速いシュート。
しかし。
玉縄幸三の正面だった。
両手でしっかりと抱え込む。
そして、そのまま地面へ倒れた。
「ゆっくりでいい!」
長谷川が声を飛ばす。
今度は。
千葉が急ぐ必要はない。
時間そのものが。
味方になっている。
◇
北海道の選手たちは、玉縄に早く再開させようと前から寄ってきた。
当然、いつまでも倒れているわけにはいかない。
玉縄も主審を確認してから立ち上がり、大きく左へ蹴り出した。
森川が競る。
北海道の選手と身体をぶつける。
ボールはタッチラインを割った。
北海道のスローイン。
時計は後半48分へ入っている。
残された時間は、ほとんどない。
北海道はすぐに投げた。
神谷。
中央。
エミリオが寄せる。
神谷はカサーツノへ戻し、そのカサーツノが佐々木へ縦パスを入れた。
佐々木が背負う。
宇津木が身体を寄せる。
反転できないと判断した佐々木は、神谷へ落とした。
神谷はすぐ左へ。
卓也。
毛利が寄せる。
だが卓也は構わずクロスを上げた。
ゴール前へ。
佐々木。
達也。
北海道の選手たちが何人も飛び込んでくる。
「俺!」
玉縄が前へ出た。
両腕を伸ばす。
高いボールを掴む。
その直後。
佐々木と接触した。
玉縄が地面へ倒れる。
それでも。
ボールだけは離さなかった。
北海道の選手たちが主審を見る。
千葉の選手たちも時計を見る。
ベンチの八幡も、同じように時計へ目を向けた。
48分。
玉縄がボールを抱えたまま、ゆっくり身体を起こそうとした。
その時だった。
「ピーッ!」
一度。
そして。
「ピーッ! ピーッ!」
主審が両腕を大きく広げた。
◇
試合終了。
ほんの一瞬だけ。
誰も動かなかった。
選手たちは笛の意味を確かめるように、主審を見ていた。
次に大型ビジョンへ視線が集まる。
**エストレヤ千葉 4**
**北海道フェニックスFC 3**
その数字は。
もう変わらない。
次の瞬間だった。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
エストレヤスタジアムが、この日最大の歓声に包まれた。
玉縄はボールを抱えたまま仰向けに倒れた。
長谷川は両腕を天へ突き上げる。
「っしゃあああああああああっ!!」
そこへ宇津木が抱きついた。
葉山も。
毛利も。
笹森も。
エミリオも。
森川も。
ダニエルも。
戸部も。
材木座も。
全員が走り出した。
ベンチからも選手とスタッフが一斉に飛び出してくる。
もう。
止める者はいなかった。
◇
開幕五試合。
二分三敗。
勝ち点は、わずか二。
一度も勝てなかった。
シーズン序盤。
順位表の最下部にいたあの頃。
このチームが最終節でJ2優勝を争っている姿を、どれだけの人間が想像できただろう。
夏。
チームは変わった。
新しい選手が加わった。
だが、それだけではない。
それまでいた選手たちも変わった。
戦い方が増え。
役割が変わり。
若手が出てきた。
ベテランも支え続けた。
そしてシーズン終盤。
千葉は七連勝を積み重ね、ついに勝ち点で北海道へ並んだ。
最終節。
最後に待っていたのは。
その北海道との直接対決。
先制した。
追いつかれた。
もう一度勝ち越した。
また追いつかれた。
そして。
逆転された。
それでも終わらなかった。
後半34分。
途中出場の材木座義輝が、今季二点目となるゴールで3対3へ戻した。
そして。
後半46分。
戸部翔。
フリーキック。
美しい放物線を描いたボールが、石原一成の指先を越えた。
あの一球が。
長いシーズンの最後の最後で。
順位表をひっくり返した。
◇
一方。
北海道の選手たちは動けずにいた。
佐々木俊郎は両手を膝につき、地面を見つめている。
林達也は唇を強く噛み、卓也もその隣で立ち尽くしていた。
カサーツノは両手を腰へ置き、空を見上げる。
カストロも言葉を失っていた。
神谷直人はセンターサークル付近から動かない。
長い怪我から戻り。
この最終節に間に合わせた。
そして北海道は、後半開始時点では明らかに有利な位置にいた。
2対2へ追いついた。
さらに3対2へ逆転した。
その時点では。
優勝へ大きく近づいていた。
それでも。
最後の十数分。
千葉に二点を奪われた。
石原一成もゴール前に立ったまま、しばらく動かなかった。
戸部のフリーキック。
ボールが見えた時には。
ほんの少しだけ。
遅かった。
そのわずかな差が。
シーズンの最後に。
すべてを分けた。
◇
千葉ベンチの近く。
喜びの輪から少しだけ離れた場所で、八幡は大型ビジョンを見上げていた。
4対3。
その下には。
試合終了。
もう変わらない。
佐藤が隣へやってくる。
「終わったな」
「……はい」
「優勝だぞ」
八幡はすぐには答えなかった。
もう一度。
大型ビジョンを見る。
そして。
大きく息を吐いた。
「本当に、優勝したんですね」
「ああ」
開幕五戦勝ちなし。
最下位。
そこから。
ここまで来た。
八幡は騒ぎ続けるピッチへ視線を戻した。
戸部が仲間たちに囲まれている。
森川。
材木座。
ダニエル。
エミリオ。
笹森。
さらに、ベンチから飛び出した川崎も戸部のところへ真っ先に向かい、その肩を何度も叩いていた。
「翔さん! 最高です!」
「痛い痛い!」
「でもマジで最高ですよ!」
戸部が笑う。
川崎も笑っていた。
その光景を八幡は少し離れたところから見ていた。
シーズン最後。
九十分を超えた先、エストレヤ千葉は北海道フェニックスFCを4対3で破った。
同じ勝ち点71で迎えた、首位と二位の直接対決。
勝利だけが必要だった千葉が最後の最後でその勝利を掴んだ。
そしてJ2の頂点へ立った。
エストレヤ千葉。
J2優勝。
歓喜の笛が鳴り終わってからようやくその事実が現実として八幡の中へ染み込んでいった。