第446話 一年間、お疲れ様でした
第446話 一年間、お疲れ様でした
エストレヤ千葉がJ2優勝を決めた夜。
エストレヤスタジアムでは、選手たちによる優勝セレモニーが終わった後も歓喜が続いていた。
その一方。
クラブの裏側でも。
一年間を締めくくる、小さな集まりが始まろうとしていた。
◇
エストレヤ千葉トレーニングセンター。
普段はクラブ内の会議やスタッフミーティングなどに使われている広い多目的ルームには、この日だけは机いっぱいに料理が並んでいた。
肉料理。
魚料理。
サラダ。
パスタ。
サンドイッチ。
スープ。
果物。
デザート。
選手向けの食堂ほど厳密に栄養量を管理した内容ではないが、それでも極端に脂っこい物ばかりが並んでいるわけではない。
料理の準備を中心になって進めていたのは。
戸塚沙希。
二十五歳。
エストレヤ千葉専属の管理栄養士として、日頃から選手たちの食事を預かっている女性だった。
「沙希さん、もういいですよ」
近藤めぐみがそう声を掛けた時も、沙希は料理の並びを確認していた。
「いや、これだけ最後に出したら終わりだから」
「さっきもそれ言ってましたよ」
「そうだっけ?」
「言いました」
近藤が笑う。
その横から本庄麻衣もやってくる。
「今日は沙希ちゃんもお疲れ様会に参加する側。働くのはそこまで」
「でも――」
「でも、じゃない」
本庄にまで言われ。
沙希はようやく手に持っていたトレーを置いた。
「……分かりました」
「一年間、選手の食事を見てきたんだから。今日くらい自分も食べなさい」
「はい」
沙希が苦笑する。
試合へ出る選手だけがシーズンを戦っていたわけではない。
練習前。
練習後。
試合前日。
試合当日。
遠征。
故障から復帰する選手。
減量が必要な選手。
逆に身体を大きくしたい若手。
選手ごとに違う身体を。
食事の面から一年間支え続けてきた。
夫である戸塚彩加も。
クラブにいる時は。
他の選手と同じ。
特別扱いはしない。
そんな沙希も。
今日だけは。
一人のスタッフとして。
一年を終えた側だった。
◇
やがて。
人が集まり始める。
社長。
鈴木一朗太。
GM。
竹内正樹。
強化部長。
佐藤智成。
監督。
マルコ・ベッルーニ。
ヘッドコーチの中村敏三郎。
GKコーチの田島雍也。
フィジカルコーチのルイス・マルティネス。
セットプレーコーチの山本恭三郎。
そして。
強化部の国際スカウト兼分析官。
比企谷八幡。
メディカルスタッフも揃っていた。
チームドクターの鳥山右京。
アスレティックトレーナーの本庄麻衣と近藤めぐみ。
理学療法士の光山左京と安西なつめ。
広報部からは。
部長の天童くれは。
もちろん。
ここにいるのは。
名前の知られたスタッフだけではない。
強化部。
広報部。
運営。
総務。
経理。
用具を管理するスタッフ。
施設を管理するスタッフ。
ホームゲーム運営に携わってきた職員。
チームの移動や遠征を手配してきたスタッフ。
普段は表へ名前が出ることの少ない人間たちも。
この日は集まっていた。
選手が試合をする。
監督が指揮を執る。
スカウトが選手を連れてくる。
それだけで。
プロサッカークラブが一年間動くわけではない。
ホームゲームを開催する人間がいる。
練習場を使える状態へ保つ人間がいる。
遠征先を確保する人間がいる。
契約書を作る人間がいる。
取材を調整する人間がいる。
ユニフォームや練習着を準備する人間がいる。
選手へ食事を用意する人間がいる。
怪我を治す人間がいる。
そして。
そのすべてを。
表からは見えないところで支える人間がいる。
今日は。
そんなクラブ全体の。
お疲れ様会だった。
◇
「皆さん、飲み物は行き渡りましたか?」
鈴木一朗太が部屋の前方から声を掛ける。
それぞれがグラスやカップを手にする。
酒を選んだ者。
ジュース。
お茶。
コーヒー。
明日も仕事があるスタッフが多いため。
完全な宴会というわけでもない。
それでも。
普段の会議室とは。
明らかに雰囲気が違っていた。
「では」
鈴木がグラスを持つ。
一度。
室内を見回した。
「まずは皆さん。一年間、本当にお疲れ様でした」
「お疲れ様でした」
いくつもの声が返る。
鈴木は。
壁際のモニターを見る。
そこには。
つい先ほど確定したJ2最終順位。
一番上。
**1位 エストレヤ千葉。**
勝ち点74。
二十三勝六分五敗。
八連勝。
優勝。
昇格。
鈴木は。
少しだけ笑った。
「そして――J2優勝、おめでとうございます」
大きな拍手が起こった。
「乾杯!」
「乾杯!」
グラスが。
あちらこちらで。
軽くぶつかった。
◇
「いやあ……」
乾杯が終わってすぐ。
竹内正樹は料理を取るより先に、モニターを見ていた。
「本当に一位なんですね」
その言葉を聞いた天童くれはが笑う。
「竹内GM、それ今日何回目ですか?」
「仕方ないでしょう」
「最終順位が出てからずっと言ってますよ」
「だって一位ですよ?」
「知ってます」
「開幕五試合勝てなかったクラブがですよ?」
その一言で。
近くにいたスタッフたちから笑いが漏れた。
今だから。
笑える。
「二分三敗だったな」
中村敏三郎が料理を皿へ取りながら言う。
「勝ち点2です」
田島雍也が続ける。
「最下位」
山本恭三郎まで口を挟む。
佐藤智成が嫌そうな顔をした。
「お前ら、なんで今わざわざ全部確認するんだよ」
「優勝したから言えるんですよ」
八幡がコーヒーを飲みながら答えた。
佐藤がすぐに振り返る。
「お前までそっち側か」
「俺、あの頃ほとんど分析室から出てませんでしたからね。忘れようにも忘れられませんよ」
そこで。
少し離れた場所にいた光山左京が反応した。
「比企谷」
「はい?」
「今の発言聞いたぞ」
「何か問題ありました?」
「『ほとんど分析室から出てなかった』」
「過去形ですよ」
本庄が横から言う。
「今も夜遅くまでいるでしょう」
「いやいや」
八幡が手を振る。
「最近はかなり改善されました」
安西なつめが冷静に聞く。
「何時までですか?」
「……」
八幡が黙る。
近藤が笑った。
「はい、アウト」
「待ってください。何時までならセーフなんですか」
「日付変わる前に帰ってください」
「無理ですね」
「即答しないでください」
今度は。
医療スタッフ以外の場所からも。
笑い声が上がった。
鳥山右京は料理を食べながら。
淡々と言う。
「若いから大丈夫という考え方が一番危ないぞ」
「鳥山先生に言われると反論できないんですよね」
「なら帰れ」
「努力します」
「帰るとは言わないんだな」
鳥山が呆れ。
また。
周囲に笑いが広がった。
◇
「まあでも」
ルイス・マルティネスが笑いながら言う。
「今年はスタッフ全員、働きすぎたよ」
「それはあるな」
中村も頷く。
勝てない序盤。
戦術の修正。
夏の大幅な補強。
新加入選手の適応。
コンディション管理。
終盤の連勝。
そして。
優勝争い。
勝てば次も勝ちたくなる。
一試合ごとにクラブ全体の緊張感が増していった。
特に終盤。
北海道フェニックスFCとの差が縮まり始めてからは。
スタッフ側も普段通りでいることが難しかった。
「メディカルには本当に助けてもらった」
マルコが鳥山たちを見る。
「最後の連戦でも、選手を送り出し続けてくれた」
鳥山は首を横に振った。
「試合をしたのは選手です。我々がしたのは、出られる状態へ戻すことですよ」
「その『戻す』が簡単じゃないでしょう」
竹内が言う。
本庄も頷いた。
「最後の方は疲労もかなり溜まっていましたからね」
「八連勝してましたけど」
近藤が苦笑する。
「身体は八連勝だから元気になるわけじゃないですから」
「むしろ危ない」
安西も続けた。
「勝ってる時って、選手本人が『行けます』って言い続けますから」
「そうそう」
本庄が笑う。
「こっちから見たら全然行けないのに」
それを聞いていた沙希も。
料理を取りながら頷いた。
「食事量も分かりやすく変わりますよ。疲労が強くなると、食べないといけないのに食欲が落ちる選手もいますし」
「沙希さんは大変だったでしょう」
くれはが聞く。
「選手全員ですもんね」
「まあ……」
沙希は少し考える。
「大変は大変でしたけど、仕事なので」
その言い方に八幡が思わず口を挟んだ。
「戸塚夫婦、そういうところ似てますよね」
「どこが?」
「『仕事なので』で全部終わらせるところ」
沙希が少し笑った。
「彩加もそんな感じ?」
「めちゃくちゃそんな感じです」
「家でも変わらないけどね」
「でしょうね」
沙希はクラブでは。
戸塚彩加の妻ではなく。
管理栄養士。
夫だからと。
特別なメニューを出すこともない。
むしろ食事が乱れれば誰より遠慮なく注意する。
それを知っているスタッフたちも多かった。
「戸塚、家でも怒られてそうだな」
山本が笑う。
「別に怒ってないですよ」
沙希が即座に否定する。
「必要なこと言ってるだけです」
「それが一番怖いやつだ」
「何か言いました?」
「いえ」
山本がすぐ料理へ視線を落とし。
周囲が笑った。
◇
しばらく。
料理を食べながら。
一年の話が続いた。
やがて。
佐藤智成が。
八幡を見る。
「しかし」
「なんです?」
「補強は大きかったな」
八幡が。
少し嫌そうな顔をする。
「お疲れ様会で仕事の話します?」
「反省会じゃない。褒めてる」
「佐藤さんに褒められると逆に怖いんですよ」
「じゃあやめるか」
「それはそれで気になります」
「面倒くさい奴だな」
佐藤が笑う。
そして。
少しだけ。
真面目な表情になる。
「ベニテス」
「はい」
「古賀。坂本。塩川。笹森」
一人ずつ。
夏に加入した選手たちの名前。
「ちゃんと全員、戦力になった」
八幡は。
コーヒーを置いた。
「候補を探して推薦したのは俺ですけど、獲得を決めたのはクラブです」
「でも最後の推薦はお前だろ」
「そうですけど」
「だったら今日は素直に褒められとけ」
竹内も。
横から笑う。
「佐藤部長、比企谷君の推薦書が来ると決断早かったですもんね」
「余計なこと言うな」
「実際そうじゃないですか」
「まあ、そうだけど」
佐藤は八幡を見た。
「お前が『取る価値があります』って言った選手なら、俺はかなり信用してる」
「責任重いんですよ、それ」
「強化部なんだから当たり前だろ」
「もう少し気楽に仕事したいんですけど」
「海外からオファー来るような人間が何言ってんだ」
「それとこれとは別です」
八幡は肩をすくめた。
◇
「私は」
今度は。
マルコ・ベッルーニが口を開いた。
「補強だけではないと思っている」
八幡が。
嫌な予感がしたようにマルコを見る。
「監督まで始めます?」
「聞け」
「はい」
「相手分析。自チーム分析。試合中の情報。戦術提案。外国人選手の通訳と生活サポート」
「仕事ですから」
「その言葉は禁止にしよう」
「横暴ですね」
マルコが笑う。
「今日くらい、自分がやった仕事を認めてもいい」
八幡は。
少し黙った。
「最終節もそうだった」
マルコが続ける。
「戸塚を笹森へ替えた後、エミリオを前へ出した。ベニテスの疲労を見て材木座。最後は戸部」
「決めたのは監督でしょう」
「意見を出したのはお前だ」
「だからって俺一人の手柄ではないですよ」
「誰もそう言っていない」
マルコは穏やかに答えた。
「優勝は誰か一人の手柄ではない」
その言葉で。
周囲の会話も。
少しずつ静かになっていった。
マルコは。
部屋を見渡した。
「監督だけでは取れない。選手だけでも取れない。強化部だけでもない。コーチも、医療も、広報も、栄養も、運営も、事務も」
普段。
直接サッカーの戦術へ関わることのないスタッフたちにも。
視線を向ける。
「誰かがいなければ、クラブは一年間動かない」
それは。
シンプルな言葉だった。
だが。
今日。
この部屋に集まっている人間たちだからこそ。
よく分かる言葉でもあった。
◇
「広報としては」
静かになったところで。
くれはが口を開いた。
「今年は昔より平和で助かりました」
中村が笑う。
「そこなんだ」
「大事ですよ」
「優勝より?」
「それは別です」
くれはも笑った。
「昔は本当に大変だったんですから」
取材。
SNS。
選手の対外トラブル。
事実確認。
記者への説明。
予定していた仕事が。
突然の問題一つで。
全部飛ぶ。
そんな時期も。
何度も経験してきた。
「今年は万条選手の記事が出た時に研修をしましたけど、あれもうちの選手が問題を起こしたわけではありませんでしたし」
「研修は怖かったですけどね」
八幡が言う。
「普通のことしか話してません」
「『酔ってSNSを触らない』のところ、妙に迫力ありましたよ」
「記者時代から何人も見てますから」
「実体験が重い」
「だから言ってるんです。来年はもっと注目されますよ」
その一言で。
また。
J1。
という言葉が。
全員の頭へ浮かんだ。
「取材量は確実に増えます」
くれはは続ける。
「選手の知名度も上がるでしょうし、外から近づいてくる人間も増える。今まで以上に広報も気をつけます」
「また研修?」
竹内が聞く。
「もちろん」
即答。
八幡が。
小さく呟く。
「選手たち可哀想に」
「比企谷さんも参加です」
「スタッフですよ、俺」
「だからです」
「逃げ道なかった」
◇
それから。
話題は。
今日の試合へ戻っていった。
「俺はやっぱり最後のFKだな」
セットプレーコーチの山本が言う。
「戸部がボール置いた瞬間、何となく入る気がした」
田島が即座に返した。
「それ、入った後だから言えるだろ」
「本当だって」
「じゃあなんで蹴る前に言わなかった」
「言ったら外しそうだったから」
「卑怯だな」
「セットプレーコーチの勘だ」
山本が胸を張る。
八幡は笑いながら。
「壁の中に二人入れたのは効いてましたよ」
「ああ」
山本も。
そこは真面目に頷いた。
「トリックは要らなかった。あの位置なら戸部に蹴らせるのが一番いい」
「石原の視界だけ切る」
「そう。あとは戸部の技術」
マルコも頷いた。
「美しいキックだった」
「あと百回は見返す奴いるでしょうね」
八幡が言うと。
くれはが笑う。
「川崎選手が戸部選手に同じこと言ってましたよ」
「あいつなら言いそう」
◇
部屋のあちこちで。
別々の会話も続いている。
運営スタッフたちは。
ホーム最終戦が無事に終わった安堵を語っていた。
用具担当は。
今季途中から加入する選手が増えたことで準備が大変だったと笑っていた。
事務スタッフは。
夏の移籍期間に書類が一気に増えた話をしている。
広報部では。
今日だけで取材依頼がどれほど来ているのか。
すでに笑うしかない状態らしい。
そして。
食事が並ぶテーブルの近くでは。
沙希が。
ようやく。
自分の皿に料理を取っていた。
「沙希ちゃん」
本庄が呼ぶ。
「はい?」
「自分で作った料理を自分で評価してる顔してる」
「職業病です」
「今日はやめなさい」
「無理です」
二人が笑う。
そこへ。
くれはがやってくる。
「戸塚選手、帰ったら相当テンション高そうですね」
沙希が。
少し考える。
「彩加ですか?」
「はい」
「多分、息子を抱っこしたらずっと離さないと思います」
「ああ……」
「優勝したとか関係なく、普段からですけど」
「そっちですか」
戸塚彩加。
ピッチでは。
神谷へ強く寄せ。
珍しく審判へ食ってかかり。
イエローカードまで受けた。
だが。
家へ帰れば。
二歳の息子を溺愛する父親。
その姿を想像して。
くれはは笑った。
「ギャップありますね」
「クラブではちゃんとしてるだけですよ」
「家では?」
「かなり甘いです」
「なるほど」
◇
時間が経つにつれて。
会場の雰囲気は。
ますます。
ただのお疲れ様会らしくなっていった。
肩書き。
部署。
年齢。
そういったものを。
普段より少しだけ忘れて。
誰もが。
一年を振り返る。
苦しかった話。
笑える失敗。
今だから言える話。
そして。
何より。
優勝したという事実。
何度話しても。
最後は。
そこへ戻る。
◇
しばらくして。
鈴木一朗太が。
もう一度。
前へ出た。
「皆さん」
少しずつ。
会話が止まる。
全員が。
社長を見る。
「長々と話すつもりはありません」
鈴木は。
一度。
壁の最終順位表を見た。
「今年、我々はJ2優勝という結果を出しました。そしてJ1昇格も決めた」
誰かが。
小さく。
拍手する。
それが。
少しずつ。
部屋へ広がった。
「ただ」
鈴木が続ける。
「これは選手だけの優勝ではありません」
今日。
マルコも。
同じことを言った。
「現場のコーチングスタッフ。強化部。医療。栄養。広報。運営。事務。用具。施設管理。そして、ここにいる人間だけではありません。今日仕事の都合で来られなかったスタッフも含めて、このクラブに関わった全員で取った優勝だと思っています」
誰も。
口を挟まなかった。
「一年前、この結果を約束できた人間はいなかったと思います」
鈴木は苦笑する。
「まして開幕五試合を終えた時に、『優勝します』と言っても、信じてもらえなかったでしょう」
佐藤が小さく笑った。
竹内も。
八幡も。
「それでも」
鈴木は。
全員を見る。
「途中で諦めなかった」
勝てない時も。
選手は練習した。
スタッフは仕事を続けた。
補強を考えた。
分析を続けた。
身体を整えた。
食事を作った。
試合を運営した。
情報を発信した。
クラブを止めなかった。
その結果が。
今日。
一番上にある。
「本当に」
鈴木が。
深く。
頭を下げた。
「一年間、お疲れ様でした。そして、ありがとうございました」
一瞬。
静かになる。
その後。
大きな拍手。
誰か一人へ向けたものではない。
その場にいる。
全員へ。
互いに送るような。
拍手だった。
◇
拍手が落ち着いたあと。
八幡は。
少し離れた場所から。
部屋全体を見ていた。
社長。
GM。
強化部長。
監督。
コーチ。
メディカル。
管理栄養士。
広報。
そして。
普段。
自分が直接話す機会すら多くない各部署のスタッフたち。
全員。
同じエンブレムの下で。
一年間。
働いてきた。
八幡は。
自分の分析室を思い出す。
世界各国の試合映像。
大量の選手データ。
ホワイトボード。
専門書。
コーヒーメーカー。
夜中になっても。
明かりの消えない部屋。
自分は。
そこで。
ずっと。
選手とサッカーばかり見ていた。
だが。
クラブは。
あの部屋だけで動いていたわけではない。
「比企谷」
横から佐藤が声を掛けた。
「何ぼーっとしてる」
「別に」
「珍しく感傷に浸ってたか?」
「違います」
「即答するなよ」
「ただ」
八幡は。
もう一度。
室内を見る。
「結構いるんだなって」
「何が?」
「クラブって」
佐藤が。
少しだけ。
目を細める。
八幡は続けた。
「試合中って、どうしてもピッチにいる十一人とベンチしか見えないじゃないですか」
「ああ」
「でも実際は、こんだけ人いるんだなって」
佐藤は。
しばらく。
何も言わなかった。
それから。
笑う。
「今さらかよ」
「今さらです」
「遅いな」
「俺、基本分析室に引きこもってるんで」
「だからもっと外出ろって言ってんだよ」
「それとこれとは別です」
「別じゃない」
八幡が。
面倒そうに息を吐く。
それでも。
その表情は。
どこか。
穏やかだった。
◇
J2優勝。
J1昇格。
明日になれば。
すぐ。
次が始まる。
来季の編成。
契約。
補強。
戦術。
キャンプ。
新しい対戦相手。
J1で戦うための準備。
八幡の分析室も。
また。
すぐに忙しくなる。
きっと。
夜遅くまで。
明かりが点く。
それでも。
今日だけは。
仕事を少しだけ横へ置いて。
一年間。
戦った人間たちが。
同じ場所で。
食べ。
飲み。
笑っていた。
2026年。
エストレヤ千葉。
J2優勝。
その夜。
クラブを支えた全スタッフへ。
誰かが何度目かの言葉を口にした。
「一年間、お疲れ様でした」
今度は部屋のあちこちから。
自然と同じ言葉が返ってきた。
「お疲れ様でした」
長かった一年がようやく終わろうとしていた。