第447話 家族と過ごす夜
第447話 家族と過ごす夜
エストレヤ千葉がJ2優勝を決めた、その日の夜。
クラブのお疲れ様会が終わると、比企谷八幡は珍しく寄り道をせず、そのまま帰宅するつもりでトレーニングセンターの廊下を歩いていた。
ただ、自分の分析室の前まで来たところで、一度だけ足が止まった。
閉ざされた扉の向こうには、いつもの仕事場がある。
世界各国の試合映像や選手データの入ったパソコン。書き込みの残ったホワイトボード。まだ整理を終えていない今季のデータも大量に残されていた。
そして何より、来季はJ1だ。
昇格したからといって、強化部の仕事が一区切りつくわけではない。むしろ、ここからの方が忙しくなる。
現在の戦力でJ1をどこまで戦えるのかを見極め、残す選手と補強すべきポジションを整理しなければならない。国内だけではなく海外の候補も洗い直し、映像を確認して、契約や予算についてフロントと話し合う必要もある。キャンプの準備に加え、来季対戦するJ1クラブの分析も始めなければならない。
考え始めれば、やるべきことなどいくらでも浮かんできた。
いつもの八幡なら、おそらく扉を開けていただろう。
一時間だけ。
少し確認するだけ。
そんな理由を自分につけてパソコンを起動し、気づけば日付が変わっている。それが珍しくもない日常だった。
八幡はポケットへ手を入れ、分析室の鍵を取り出しかけた。
しかし、そこで指を止める。
数秒ほど扉を眺めたあと、鍵から手を離した。
「……今日はいいか」
自分で口にしておきながら、妙な違和感があった。
まさか自分が、仕事を目の前にして「今日はいい」などと言う日が来るとは思っていなかった。
八幡は分析室の扉を開けることなく、そのまま通り過ぎた。
◇
駐車場へ向かっている途中、後ろから声を掛けられた。
「比企谷」
振り返ると、佐藤智成が歩いてくるところだった。
「はい?」
「もう帰るのか?」
「帰りますけど」
八幡が当然のように答えると、佐藤は少し意外そうな顔をした。
「分析室は?」
「今日は行きません」
「……お前が?」
「なんですか、その反応」
「いや、今日くらいは優勝した余韻に浸りながら、夜中までデータでも見てるのかと思ってた」
「俺を何だと思ってるんですか」
「仕事中毒」
「否定しづらい言い方やめてください」
佐藤が声を出して笑う。
八幡は呆れながら車の鍵を取り出した。
「来季のことは明日からでいいでしょう。今日くらいは早く帰りますよ」
「珍しいこと言うな」
「俺だって家に帰る時くらいあります」
「いつも帰ってるだろ」
「そういう意味じゃなくて、今日は早く帰るってことです」
「ああ、家族か」
「まあ、そうですね」
佐藤は納得したように頷くと、それ以上引き止めなかった。
「だったら早く帰れ。明日からまた忙しくなるぞ」
「分かってますよ」
J1。
その二文字だけで仕事はいくらでも増えることを、二人とも嫌というほど理解している。
だからこそ、今日くらいはここで終わってもいい。
「じゃあ、お疲れ」
「お疲れ様です」
八幡は軽く頭を下げ、そのまま車へ向かった。
◇
自宅へ着いた頃には、すでに夜もかなり深くなっていた。
車を止めて玄関まで歩き、鍵を取り出そうとしたところで、家の中から慌ただしい足音が近づいてくる。
八幡が鍵を差し込むより先に、玄関の扉が勢いよく開いた。
「ハチマン!」
「うおっ」
目の前に現れたのは、満面の笑みを浮かべたソフィアだった。
比企谷ソフィア。
二十五歳。
アルゼンチン出身の、八幡の妻である。
「おかえり!」
「ただいま」
家へ帰れば真っ先に出迎えてくる。
結婚して何年経っても、そのあたりは大学時代からほとんど変わっていなかった。
「優勝おめでとう!」
「ありがとう」
「すごかった! 本当にすごかったよ!」
「試合?」
「もちろん! 最後のフリーキック、翔が決めて!」
「戸部な」
「そう、戸部!」
「今、名前忘れてただろ」
「忘れてない!」
即答だったが、かなり怪しい。
八幡が靴を脱いでいると、今度は家の奥から複数の足音が聞こえてきた。
「パパ!」
最初に飛び出してきたのは、五歳の長男レオンだった。
その後ろから四歳のユウも走ってくる。
「パパ帰ってきた!」
さらに二人より少し遅れて、小さな足音が近づいてきた。
「ぱぱー」
二歳のルナだった。
八幡は三人の子どもを見たあと、思わず時計を確認した。
「……お前ら、まだ起きてたのか」
普段なら、とっくに寝ている時間だった。
ソフィアが苦笑する。
「今日は寝ないって聞かなかったの」
「なんで?」
「パパが帰ってくるまで待つって」
「明日の朝でよかっただろ」
「無理だったみたい」
その会話をしている間にも、レオンは八幡のところまで走ってきた。
「パパ!」
「はいはい」
「優勝したの!?」
「したな」
「一番!?」
「一番」
「すごい!」
レオンは自分のことのように両腕を上げて喜んだ。
その横から、今度はユウが尋ねてくる。
「パパ、ゴールした?」
「してない」
「なんで?」
「俺、選手じゃないから」
「でもサッカーのお仕事でしょ?」
「そうだけど、俺はボールを蹴らない方なんだよ」
ユウはしばらく考えていたが、やはり理解できなかったらしい。
「じゃあ何したの?」
「……それ説明すると長いな」
どう説明したものかと八幡が困っていると、ソフィアが横から助け舟を出した。
「パパはね、みんなが試合に勝てるように、いっぱい考えるお仕事をしてるの」
「考える?」
「そう」
「それだけ?」
「ユウ」
八幡が真顔で息子を見る。
「それだけって言うな。結構大変なんだぞ」
「ふーん」
まるで分かっていない返事だった。
ソフィアが横で笑いを堪えている。
◇
父親と兄たちが話している間、ルナはそんな会話にはまったく興味を示さず、八幡の足元まで歩いてくると両腕を伸ばした。
「ぱぱ、だっこ」
「はいはい」
八幡が屈んで抱き上げると、ルナはすぐ胸元へ顔を寄せた。
「眠いなら寝ればいいだろ」
「いや」
「どう見ても眠そうなんだけど」
「ぱぱ」
「いるよ」
八幡がそう答えると、それだけ確認できれば十分だったのか、ルナは安心したように肩へ頭を乗せた。
すでに目が半分閉じている。
その様子を見ていたソフィアが嬉しそうに笑った。
「ずっと待ってたの」
「二歳児まで?」
「ルナが一番頑固だったよ」
「誰に似たんだか」
「ハチマンじゃない?」
「お前だろ」
「私?」
「俺はそこまで人を待たない」
「でも私のことは待ってくれるでしょ?」
ソフィアが顔を覗き込んでくる。
「ね?」
「……うるさい」
八幡が視線を逸らすと、ソフィアは楽しそうに笑った。
◇
リビングへ入ると、テーブルの中央に小さなケーキが置かれていた。
豪華なものではない。
家族五人で食べるのにちょうどいいくらいの大きさだった。
その上に乗ったチョコレートプレートには、少し不格好な文字でこう書かれている。
**パパ ゆうしょうおめでとう**
「……何これ」
「レオンが書きたいって言ったの」
ソフィアが答える。
「字は私も手伝ったけどね」
するとレオンが得意そうに胸を張った。
「ぼくが書いた!」
「ほとんどママじゃないのか?」
「ぼくも書いた!」
「はいはい。ありがとう」
八幡が頭を撫でると、レオンは嬉しそうに笑った。
「早く食べよう!」
「お前、俺を待ってたんじゃなくてケーキを待ってただろ」
「ちがうよ!」
「本当か?」
「本当!」
すると横からユウが素直に口を挟んだ。
「ぼくはケーキも待ってた」
「お前は正直だな」
八幡が思わず笑う。
◇
スーツの上着を脱ぎ、ネクタイを外す。
一つずつ仕事の格好を解いていくうちに、八幡もようやくクラブの人間から家の中の父親へ戻っていくような感覚がした。
ルナを抱いたままソファへ座ると、レオンとユウも当然のように左右へ入り込んでくる。
「狭い」
「いいじゃん」
「パパ、今日ずっといなかったもん」
「仕事だったからな」
「明日は?」
「……仕事」
「えー!」
二人から同時に不満の声が上がった。
「仕方ないだろ。J1に上がったから、今度はその準備があるんだよ」
「じぇーわん?」
ユウが首を傾げる。
「今日までいたところより上のリーグ」
「強いの?」
「強い」
「パパ勝てる?」
「だから俺は試合しないって」
何度目か分からない説明だった。
するとレオンが別のことを思い出したように尋ねる。
「じゃあ、おじちゃんは?」
「エミリオか?」
「うん」
ソフィアの兄。
エミリオ・アルバレス。
今日もエストレヤ千葉の中盤で北海道を相手に戦い続けていた。
ソフィアにとってエストレヤ千葉は、夫が働くクラブであると同時に、実の兄が選手として所属するクラブでもある。
「お兄ちゃんも来年はJ1なんだよね」
ソフィアが嬉しそうに言う。
「そうなるな」
「本当に嬉しい」
夫が働いているクラブ。
兄がプレーしているクラブ。
そのクラブが今日、J2の頂点へ立った。
ソフィアにとっても、特別な一日なのは間違いなかった。
「お兄ちゃんから、さっき連絡来たよ」
「なんて?」
「まだ興奮してるって。それと、ハチマンが帰ってきたら今日はちゃんと休ませろって」
「……あいつ」
八幡は呆れたように眉を寄せる。
「自分の妹に何頼んでんだよ」
「私も同じ意見だけど?」
「二対一になった」
「最初から私の勝ちだよ?」
「なんでだよ」
ソフィアは当然のような顔をしていた。
◇
家族でケーキを食べ始めると、レオンは今日の試合について次々と質問してきた。
「北海道、強かった?」
「強かったぞ」
「一番強い?」
「J2ではトップクラスだな」
「でも千葉が勝ったんでしょ?」
「勝った」
「じゃあ千葉が一番強い?」
「少なくとも今年の順位はそうなったな」
「じゃあパパすごい!」
「どうして最後だけ急に俺になるんだよ」
八幡が苦笑すると、レオンは理由が分からないという顔をする。
一方のユウは、サッカーを自分でやりたいというほどではないものの、試合を見ること自体は好きだった。
「最後のシュート、すごかった」
「戸部のフリーキック?」
「曲がったやつ!」
「ああ」
「どうやって曲げるの?」
「蹴り方だな」
「パパできる?」
「昔なら多少は」
その言葉に、今度はレオンが食いついた。
「パパ、サッカーできるの!?」
「できたよ」
「今は?」
「今でも普通にはできる」
「じゃあ今度やろう!」
「……休みの日にな」
「約束!」
「分かった」
子どもとの約束は、仕事の予定よりある意味恐ろしい。
八幡が忘れていても、子どもはまず忘れない。
◇
楽しい時間ではあったが、さすがに子どもたちの眠気にも限界が来た。
最初にユウがソファの上で舟を漕ぎ始め、それを笑っていたレオンもすぐに何度も目を擦るようになった。
ルナに至っては、とっくに八幡の胸元で眠っている。
「だから寝ろって言ったのに」
八幡が声を落として言うと、ソフィアが優しく笑った。
「待ちたかったんだよ」
「明日の朝でも会えるだろ」
「今日がよかったの」
八幡は腕の中で眠るルナの顔を見る。
安心しきった寝顔。
分析。
補強。
契約。
勝ち点。
順位。
普段、自分の頭の大部分を占めているものとはまるで違う世界が、ここにはあった。
三人を寝かせるため、八幡とソフィアは子ども部屋へ向かった。
レオンを抱き上げようとした時、半分眠っている息子が小さな声を出した。
「パパ」
「ん?」
「ゆうしょう、おめでとう」
八幡の動きが、ほんの少しだけ止まる。
「……おう。ありがとう」
レオンは返事を聞いたのかどうかも分からないまま、再び目を閉じてしまった。
八幡はそのまま息子をベッドへ寝かせる。
隣にはユウ。
そして、一番小さなルナ。
三人へ布団を掛け終えると、ソフィアが静かに照明を落とした。
◇
リビングへ戻ると、つい先ほどまで子どもたちの声でいっぱいだった家が、嘘のように静かになっていた。
八幡はソファへ深く腰を下ろす。
「……疲れた」
そこで初めて、本音が漏れた。
優勝決定戦。
北海道との激闘。
表彰式。
取材。
クラブのお疲れ様会。
一日の中に詰め込むには、あまりにも色々なことがありすぎた。
その横へソフィアが座る。
「お疲れさま」
「ありがとう」
「本当にすごかったよ」
「俺はゴール決めたわけじゃないけどな」
「またそれ言ってる」
「事実だろ」
「でも、ハチマンが見つけた選手もたくさんいるでしょ?」
「まあな」
「試合の分析もしてた」
「ああ」
「今日だって、ずっとベンチで考えてたでしょ?」
「仕事だからな」
ソフィアがじっと八幡を見る。
その視線に気づいて、八幡も横を見る。
「何?」
「今日くらい素直に喜びなさい」
「クラブでも似たようなこと言われた」
「じゃあ、みんな同じこと思ってるんじゃない?」
「……そうかもしれないな」
八幡は少しだけ笑った。
◇
「明日から忙しい?」
ソフィアに聞かれ、八幡はすぐ頷いた。
「かなり」
「J1だから?」
「それもある」
八幡はソファへ身体を預けながら、頭の中にすでに浮かび始めている仕事を整理する。
「今の戦力で通用する部分もあるけど、当然足りないところもある。補強候補も絞らないといけないし、今いる選手の契約も考えないといけない。外国人選手の構成もあるし、J1の相手も改めて分析する必要がある」
「いっぱいあるね」
「いっぱいある」
「また夜遅くなる?」
そこで八幡の返事が止まった。
「……」
「ハチマン?」
「なるべく早く帰ります」
「本当に?」
「努力します」
ソフィアが少しだけ頬を膨らませる。
「その言い方、全然信用できない」
「今日だって帰ってきただろ」
「今日はね」
「じゃあ実績一回」
「少なすぎるよ」
「厳しいな」
「妻だから」
そう言いながら、ソフィアは八幡の肩へ頭を預けた。
来季はJ1。
考え始めれば、いくらでも仕事が浮かんでくる。
今いる選手がどこまで通用するのか。
どのポジションに補強が必要なのか。
国内から獲るのか。
海外へ行くのか。
どれだけの予算を使えるのか。
来季はどんな戦い方をするのか。
八幡なら、今からでもパソコンを開いて仕事を始められた。
だが、今日はしなかった。
テーブルの上に置いていたスマートフォンも、画面を下へ向ける。
ソフィアがそれを見て、少し驚いた。
「仕事しないの?」
「しない」
「本当に?」
「今日はな」
八幡は肩にもたれている妻へ視線を向ける。
「せっかく優勝したんだから、今日くらいは家にいる」
ソフィアの顔に、ゆっくりと笑みが広がった。
「じゃあ今日は私のハチマン?」
「普段からお前の所有物ではない」
「私の夫」
「それなら合ってる」
「大好きな夫」
「一言増えたな」
「愛してる夫」
「さらに増えた」
八幡が呆れたように言うと、ソフィアは楽しそうに笑った。
大学一年の春。
一目惚れしたと言って近づいてきた。
何度断っても諦めなかった。
大学二年で学生結婚をし、それから三人の子どもが生まれた。
それだけ時間が経っても、ソフィアの距離感は昔とほとんど変わっていない。
「ハチマン」
「ん?」
肩に頭を預けたまま、ソフィアがもう一度言った。
「優勝、おめでとう」
八幡は少しだけ黙った。
これまでなら、また自分は何もしていないだとか、決めたのは選手だとか、余計な言葉を返していたかもしれない。
だが。
今度は何も言い訳しなかった。
「ありがとう」
その答えを聞いたソフィアは、満足そうに笑った。
◇
明日になれば、また仕事が始まる。
J1へ昇格したからこそ、やらなければならないことは今年以上に増えていく。
八幡の分析室も、すぐに夜遅くまで明かりが消えない日々へ戻るのだろう。
それでも、この日だけはあの扉を開けなかった。
J2優勝を決めた夜。
比企谷八幡は国際スカウトでも分析官でもなく、三人の子どもの父親として、そしてソフィアの夫として家にいた。
歓声も、紙吹雪も、優勝トロフィーもない。
聞こえるのは、静かな家の中で眠る子どもたちの気配だけだった。
八幡にとってその時間は、エストレヤスタジアムで味わった歓喜とはまた違う。
長いシーズンを終えたその日にしか味わえない、穏やかな夜だった。