第448話 それぞれの家
第448話 それぞれの家
エストレヤ千葉がJ2王者となった、その日の夜。
比企谷八幡がソフィアと三人の子どもが待つ家へ帰ったのと同じ頃、総武高校時代からの知り合いであり、今では同じクラブで一年間を戦ってきた二人の選手も、それぞれの家へ戻っていた。
ただし、同じ優勝を経験した夜であっても、二つの家庭に流れていた空気はまるで違っていた。
◇
## 葉山家
玄関の扉が静かに開いた。
「……ただいま」
葉山隼人が自宅へ戻った頃には、すでにかなり遅い時間になっていた。
北海道フェニックスFCとの優勝決定戦を終えたあと、表彰式があり、優勝セレモニーがあり、取材やチームメイトとの時間もあった。スタジアムにいる間は興奮が勝っていたためか、不思議と疲労を意識することはなかった。
しかし、玄関で靴を脱いだ瞬間、それまで身体の奥へ押し込められていた疲れが一気に表へ出てきた。
「……おかえりなさい」
リビングの方から聞こえた声に、葉山は顔を上げた。
そこにいたのは葉山雪乃。
二十四歳。
旧姓、雪ノ下雪乃。
葉山の妻だった。
「起きてたんだ」
「ええ」
「明日も仕事だろ?」
「あなたもでしょう」
「まあね」
そこで会話が途切れた。
別に珍しいことではない。
二人は夫婦だった。
外から見れば、何の問題もないように見える夫婦でもある。
葉山はプロサッカー選手。
雪乃は雪ノ下建設で営業部長補佐を務めている。
二人で外へ出れば自然に隣を歩くし、共通の知人に会えば穏やかな夫婦として振る舞える。
だが、家へ帰ると必要以上には互いの領域へ踏み込まない。
相手を嫌っているからではない。
むしろ、その逆だった。
互いに大切に思っている。
それなのに、本当に伝えたいことだけは長い間うまく口にできない。
そんな不器用で歪な関係を、二人は今も続けていた。
葉山がリビングへ入ると、テレビではスポーツニュースが流れていた。
ちょうど今日のJ2最終節が取り上げられている。
『エストレヤ千葉、劇的な逆転勝利! 最終節の直接対決を4対3で制し、J2優勝を決めました!』
画面には、後半46分。
戸部翔が蹴ったフリーキックが壁を越え、北海道のGK石原一成の指先を抜けてゴール右上へ吸い込まれていく映像が映し出されていた。
「……またやってるな」
葉山が苦笑する。
「今日は何度も見ることになるでしょうね」
「戸部はしばらくこれでいじられるだろうな」
「本人は嬉しいでしょう」
「百回くらい見返すんじゃないかな」
そこまで言ったところで、二人はほとんど同時に小さく笑った。
ほんの一瞬だけ。
家の中に、ごく普通の夫婦のような空気が流れた。
しかし、それも長くは続かない。
葉山がソファへ座ると、雪乃も少し距離を空けた場所へ腰を下ろした。
テレビでは今日の得点場面が順番に流れていく。
マティアス・ベニテス。
森川佑。
材木座義輝。
そして戸部翔。
もちろん、北海道の三得点も映される。
その中に、後半28分の林卓也のゴールがあった。
林達也が右から大きく逆サイドへ展開し、卓也が仕留めた場面。
映像を見た瞬間、葉山の表情がほんのわずかに変わった。
雪乃は、それを見逃さなかった。
「まだ気にしているの?」
「え?」
「三点目」
葉山は少し驚いたように雪乃を見たあと、テレビへ視線を戻した。
「……分かる?」
「分かるわ。あなた、昔からそういう顔をするもの」
高校時代から雪乃は葉山を知っている。
表面上は笑っていても、内側で何かを引きずっている時の顔も知っていた。
「俺が一瞬止まったんだ」
葉山はテレビを見たまま、静かに話し始めた。
「達也のところは抑えたと思った。でも、その瞬間に逆を見られた」
「ええ」
「あの時、一瞬だけ……終わったと思った」
林達也に縦を切り、ひとまず危険を抑えた。
そう思ったわずかな隙に、北海道は逆サイドを使った。
林卓也が決め、スコアは3対2。
あの瞬間、優勝は大きく北海道へ傾いた。
「結果的には勝ったけど」
「結果的には、ではないでしょう」
雪乃の言葉に、葉山が顔を向ける。
「その後、あなたは崩れなかったわ」
「……」
「林達也にも最後まで対応していたし、一度失点に関わったからといって、同じ形を繰り返してはいなかった」
「それはプロだから」
「そうね」
雪乃はあっさり頷いた。
「だから、プロとして十分だったんじゃない?」
葉山が少しだけ目を見開いた。
雪乃からそう言われるとは思っていなかった。
だが、雪乃は何でもないことのようにテレビへ視線を戻している。
「少なくとも、私はそう見えたわ」
「……試合、全部見てたんだ」
「見ていたけれど」
「仕事忙しかったんじゃない?」
「今日は休みよ」
「ああ、そうだった」
葉山は小さく笑った。
「ありがとう」
雪乃が横を見る。
「何が?」
「見ててくれて」
その一言に、雪乃はほんの一瞬だけ返事に詰まった。
もっと別の言い方もあったはずだった。
それでも結局、口から出たのは少し堅い言葉だった。
「……妻なのだから」
「そっか」
「ええ」
また静かになる。
もし二人がもう少しだけ素直だったなら、違う言葉を選べたかもしれない。
葉山は今日だけでも、抱きしめてほしいと言えたかもしれない。
雪乃も、無事に帰ってきてくれて安心したことや、本当は優勝が嬉しくてたまらなかったことを、もっと直接伝えられたかもしれない。
だが、まだ二人には難しかった。
テレビには、郷田京が優勝トロフィーを頭上高く掲げる映像が流れている。
その周囲で選手たちが跳びはね、笑い、叫んでいた。
画面の中には葉山自身の姿もある。
「来年はJ1ね」
雪乃が言った。
「ああ」
「七年目で、ようやく戻れるのね」
「ようやくって言っても、簡単じゃなかったけどな」
高校卒業後。
エストレヤ千葉へ入団してから七年。
スタメンを掴んだ時期もあれば、ベンチへ回った時期もあった。
好調も不調も経験した。
ポジション争いも続いた。
それらを全部積み重ねた先で、ようやくJ1へ辿り着いた。
「来年はもっと厳しくなるよ」
葉山が言う。
「でしょうね」
「俺だって、スタメンで出られる保証はない」
「今までだってそうだったでしょう?」
「まあね」
「なら、同じよ」
雪乃は静かに葉山を見る。
「あなたは今まで通り、自分にできることを続ければいいでしょう」
「簡単に言うね」
「簡単だとは言っていないわ」
雪乃は少し間を置いてから続けた。
「でも、あなたなら続けるでしょう?」
その言葉に、葉山はしばらく返事をしなかった。
やがて小さく笑う。
「……うん」
「なら、それでいいと思う」
また短い沈黙が訪れる。
今度は葉山の方から口を開いた。
「雪乃」
「何?」
「俺、今日優勝したんだけど」
「知っているわ」
「もう少し喜んでもいいんじゃない?」
「十分喜んでいるけれど」
「全然そう見えない」
「あなたもでしょう」
「俺はスタジアムで散々喜んだよ」
「なら私は、心の中で十分喜んだわ」
「ずるいな、それ」
葉山が笑う。
雪乃もわずかに口元を緩めた。
その後、二人は同じテレビを見ながら、特別な話をするわけでもなく時間を過ごした。
同じ家にいる。
同じリビングにいる。
同じ番組を見ている。
それでも、二人の間にはまだ見えない距離が残っている。
しばらくして葉山が立ち上がり、寝室へ向かおうとした時だった。
「隼人」
背後から呼び止められた。
「ん?」
振り返る。
雪乃は少しだけ視線を逸らしていた。
それでも、今度は逃げずに言った。
「……優勝、おめでとう」
葉山は一瞬、その場に立ち尽くした。
やがて柔らかく笑う。
「ありがとう、雪乃」
それだけだった。
抱きしめたわけでもない。
特別な言葉を重ねたわけでもない。
だが、今の二人にはそれで十分だった。
ほんの少しだけ。
二人の間にあった距離が縮まったような気がした。
◇
## 材木座家
一方、その頃。
「ただいまあああああああ!」
「うるさい!」
玄関を開けた瞬間、材木座義輝は妻に怒鳴られていた。
「夜中だよ! 声大きい!」
「す、すまぬ!」
「もう子ども寝てるんだから!」
材木座優美子。
二十四歳。
旧姓、三浦優美子。
今では材木座義輝の妻であり、二歳になる息子の母親でもある。
怒られた材木座は反射的に口元を押さえた。
「我としたことが……」
「試合終わってから、ずっとテンションおかしいでしょ」
「仕方あるまい! 優勝したのだぞ!」
「分かってるって」
「しかも我は同点弾を――」
「はいはい。それ今日何回言った?」
「まだ優美子には直接一度も言っておらぬ!」
「連絡で三回聞いた」
「直接言うのとは違う!」
「めんどくさ」
言葉こそ雑だったが、優美子は笑っていた。
「おかえり」
その一言で、材木座の勢いが少しだけ落ち着く。
「……うむ。ただいま」
「優勝おめでと」
途端に材木座が胸を張った。
「ふはははは!」
「だから声!」
「すまぬ!」
慌てて再び口を押さえる。
その様子を見て、優美子は呆れながらも笑っていた。
リビングへ入ると、照明は少し落とされていた。
ソファには、二歳の息子が小さな毛布を掛けられたまま眠っている。
どうやら父親が帰ってくるまで起きていようとして、途中で力尽きたらしい。
その姿を見た瞬間、材木座は急に静かになった。
「……待ってたのか?」
「うん」
優美子が答える。
「パパ帰るまで寝ないって感じでさ。玄関で音するたびに『パパ』って言ってた」
「二歳でそこまで分かるのか?」
「完全に文章では言えてないけどね。でも待ってたよ」
「……そうか」
材木座はゆっくり息子のそばへしゃがみ込んだ。
試合前にいつも見る家族写真。
そこに写っている優美子と息子。
自分がピッチで身体を張れる理由の一つが、その二人だった。
「起こすなよ」
「分かっておる」
「絶対だからね」
「我を信用せよ」
「さっき玄関で叫んだ人を?」
「……」
「ほら」
何も言い返せなかった。
材木座はソファの前へ座り込み、息子の頭をそっと撫でる。
「父はな」
今度は小声だった。
「今日、点を取ったのだぞ」
「寝てるから」
「聞いておらぬか?」
「寝てるって言ってるでしょ」
「値千金の同点弾である」
「はいはい」
「しかも今季二点目」
「それ、自慢になる?」
「なる!」
「声」
「……すまぬ」
また声を落とした材木座を見て、優美子が吹き出した。
優美子はソファの反対側へ座る。
「でもさ」
「む?」
「本当にすごかったじゃん。あのゴール」
材木座が妻を見る。
「見ていたのか?」
「当たり前でしょ」
「息子殿も?」
「途中まではね」
「我のゴールは見たのか?」
「見てたよ」
「おお!」
「点入った瞬間、びっくりしてた」
「父の勇姿に感動を――」
「多分、あたしが叫んだから」
「そっちか!」
「だから声!」
「す、すまぬ……」
材木座がまた小さくなる。
優美子は楽しそうだった。
後半34分。
スコアは2対3。
北海道に逆転され、あと二点必要になった状況で材木座はベニテスに代わってピッチへ入った。
カストロを背負い、前線で何度も身体を張った。
そして森川からの低いパスへ反応し、カストロよりほんの少しだけ先に右足を伸ばした。
3対3。
今季二点目。
それがなければ、戸部の逆転フリーキックも存在しなかった。
「正直に言うとさ」
優美子が少し声を落とした。
「あんたが決めた時、ちょっと泣いた」
「……本当か?」
「ちょっとだけね」
「なぜそれを隠す!」
「別に隠してないし」
「我のゴールに感動し、涙を――」
「だから、そうやってすぐ調子乗るから言いたくないの」
「なんと!」
「でも」
優美子の表情が少しだけ柔らかくなる。
「本当に嬉しかったよ」
材木座の声が止まった。
「最近、点取れてなかったじゃん」
「……うむ」
「でもさ、点取ってない試合でも、ずっと身体張ってたのは知ってるから」
「……」
「だから今日みたいな試合で決められて、本当によかったじゃん」
材木座はしばらく下を向いていた。
クラブでは明るい。
いつも騒がしい。
ロッカールームでもムードメーカーのような立ち位置だった。
だが、家では妻にしか見せない顔もある。
「我はな」
「うん」
「前のクラブでは、ずっと言われていた」
その話なら、優美子も知っていた。
「数字が残らない。FWなのに得点が少ない。結果を出せない選手だと」
「うん」
前のクラブにいた頃、材木座のプレースタイルは十分に評価されなかった。
相手CBを背負う。
身体を張る。
前線で収める。
味方へ落とす。
自分がシュートを打てなくても、後ろから上がってくる選手を生かす。
大切な仕事だった。
しかし、得点やアシストの数字だけを見れば、どうしても地味になる。
「正直、あの頃は自分がプロでいる意味があるのかと考えた時期もあった」
材木座は眠っている息子を見ながら話した。
優美子は何も挟まず、夫の言葉を聞いている。
「だが、八幡が声を掛けてくれた」
高校時代からの友人。
今ではエストレヤ千葉の国際スカウト兼分析官を務める比企谷八幡。
「『お前は数字じゃ測れない選手だ』ってな」
その言葉は、今でも覚えている。
「エストレヤへ来てからは、監督もチームメイトも我の仕事を見てくれた。だから、得点だけがすべてではないということは分かっている」
「でも?」
優美子に聞かれ、材木座はようやく顔を上げた。
そして、にやりと笑う。
「今日くらいは、点を取ったことを自慢してもよかろう?」
優美子は少しの間、黙って夫を見た。
それから笑う。
「今日だけね」
「ふはは――」
材木座は反射的に高笑いしかけ、自分で慌てて口を塞いだ。
「……危なかった」
「学習したじゃん」
二人で小さく笑った。
◇
「来年、J1なんだよね」
少しして、優美子が言った。
「うむ」
「大丈夫?」
「何がだ?」
「試合、出られる?」
あまりにも直球だった。
材木座は苦笑する。
「分からぬ」
そこだけは、見栄を張らなかった。
「J1だ。今まで以上に強いセンターバックが待っている」
「今日のカストロみたいなの?」
「おそらく、ああいう選手も増えるだろうな」
「そっか」
「クラブも補強するはずだ」
新しいFWが来る可能性は十分にある。
外国人選手かもしれない。
日本人かもしれない。
来季の競争がどうなるのか、今はまだ分からない。
「我が来年も試合へ出られる保証などない」
「じゃあ、頑張るしかないじゃん」
「……簡単に言うな」
「だって、それしかなくない?」
「その通りなのだが」
優美子は肩をすくめた。
「義輝って、器用に生きるタイプじゃないし」
「妻よ。もう少し夫を高く評価してもよいのでは?」
「評価してるよ」
即答だった。
材木座が言葉を止める。
「評価してるから言ってんの」
「……」
「別に、何点取ったかだけじゃないでしょ」
優美子は静かに続ける。
「今日のゴールは嬉しかったよ。でも、あたしは点取れなかった試合だって見てるから」
前線で身体を張る。
倒されても立ち上がる。
相手CBと何度もぶつかり、ボールを収める。
自分がシュートを打てなくても、味方へ繋ぐ。
そういう試合もずっと見てきた。
「だから来年も、いつも通りやればいいじゃん」
材木座はしばらく何も言わなかった。
やがて静かに頷く。
「……うむ」
その時だった。
「ん……」
二人の間から小さな声が聞こえた。
「あ」
優美子がソファを覗き込む。
息子が眠そうな目を開け、ゆっくり顔を上げた。
そして父親を見つける。
「……ぱぱ」
「おお!」
「声!」
「すまぬ」
材木座は今度こそ小声へ戻った。
息子が両手を伸ばす。
「ぱぱ」
「うむ」
材木座が抱き上げると、小さな身体が胸へぴたりとくっついた。
「父は今日――」
「今から説明しなくていいから」
「しかし!」
「二歳だよ?」
「我の偉大なるゴールを――」
「明日でいい」
「むう……」
不満そうにしながらも、材木座の顔は完全に緩んでいた。
優美子が呆れたように笑う。
「デレデレじゃん」
「当然であろう。我が息子だぞ」
「はいはい」
「優美子も来るか?」
「何で?」
「家族三人で優勝の喜びを分かち合おうではないか」
「暑苦しい」
「なぜ!?」
そう言いながらも、優美子は材木座の隣へ座った。
そして、夫に抱かれている息子の頭を優しく撫でる。
三人並んだところで、テレビから実況の声が聞こえてきた。
『途中出場の材木座! 値千金の同点ゴール!』
「見よ!」
「静かに!」
ちょうど画面では、今日の材木座のゴールがもう一度流れていた。
「これが父だぞ!」
「絶対まだ分かってないって」
息子はぼんやりとテレビを見る。
画面の中では、ゴールを決めた材木座義輝が両腕を広げながら何かを叫んでいる。
そして次に、目の前にいる父親を見た。
「……ぱぱ」
「そうだ!」
今度は小声ながら、全力で答えた。
優美子が笑う。
「分かったみたいじゃん」
「さすが我が息子!」
材木座は嬉しそうに息子を抱きしめた。
「ちょっと、苦しいって」
「家族を笑顔にするために勝つ。それこそ我が――」
「長い長い」
「最後まで言わせよ!」
「もう寝る時間だから」
「……はい」
ピッチでは屈強なセンターバックを背負い続ける男も、家へ帰れば妻には弱かった。
◇
同じ夜。
同じクラブ。
そして、同じJ2優勝。
それでも、家へ帰れば選手たちにはそれぞれ違う時間が流れていた。
互いに伝えたいことをうまく口にできず、長い間見えない距離を残しながら、それでもほんの少しだけ歩み寄った葉山隼人と雪乃。
その一方で、大声を出しては妻に注意され、息子を抱きしめながら笑い合う材木座義輝と優美子。
ピッチに立てば、二人とも同じエストレヤ千葉の選手だった。
だがユニフォームを脱ぎ、一歩家へ戻れば、一人の夫であり、一人の家族だった。
J2優勝を決めた特別な夜。
葉山家にも。
材木座家にも。
それぞれの家庭らしい形で、長かった一日の終わりが静かに訪れていた。