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第452話 帰る場所

やはり俺のスカウト人生は間違っている。 — www.pixiv.net · All chapters

第452話 帰る場所

エストレヤ千葉がJ2王者となった夜。

最終節を戦った選手も、ベンチから見届けた選手も、メンバーに入れなかった選手も、一年間を終えたという事実だけは同じだった。

ただし、胸の内まで同じではない。

優勝を素直に喜べる者がいる一方で、その先に待つJ1を考えれば、自分自身の立場と向き合わなければならない選手もいる。

栗林宰三とマティアス・ベニテス。

二人のアタッカーも、それぞれ違った思いを抱えながら家族の待つ家へ帰っていた。

◇

## 栗林家

「ただいま」

栗林宰三が玄関を開けると、家の奥からすぐに足音が聞こえてきた。

「おかえり!」

現れたのは妻の夏芽だった。

二十歳。

栗林より七歳年下の妻は、夫の姿を見るなりいつもの明るい笑顔を浮かべた。

「優勝おめでとう!」

「ありがとう」

「本当に一位になったね!」

「なったな」

「凄かった! 最後のフリーキック!」

「戸部な」

「うん! あれ入った瞬間、私も叫んじゃった」

夏芽は興奮がまだ冷めていないらしい。

対する栗林は穏やかに笑っていたが、どこか静かだった。

夏芽はそれを見逃さなかった。

「疲れた?」

「まあ、少し」

「そっか。とりあえず座って。飲み物持ってくる」

「ありがとう」

栗林はリビングへ入り、ソファへ腰を下ろした。

テレビには今日の優勝決定戦が流れている。

ベニテスの先制点。

森川の勝ち越し。

北海道の逆転。

材木座の同点弾。

そして戸部の決勝フリーキック。

何度見ても劇的な試合だった。

クラブは優勝した。

来季はJ1。

間違いなく喜ぶべき夜だった。

それでも栗林の頭には、別のことも浮かんでいた。

◇

「はい」

夏芽が温かい飲み物を差し出す。

「ありがと」

栗林が受け取ると、夏芽も隣へ座った。

少しの間、二人でテレビを見る。

「宰三」

「ん?」

「何か考えてるでしょ」

栗林が苦笑した。

「分かる?」

「分かるよ。何年一緒にいると思ってるの」

「まだそんな長くないだろ」

「十分長いです」

夏芽は少し頬を膨らませた。

十七歳の頃。

栗林に一目惚れした。

好意を隠すこともなく、何度も真っ直ぐに想いを伝えた。

やがて交際へ発展し、十八歳で結婚した。

年齢差はある。

それでも栗林が自分を大切にしてくれていることも、夏芽がどれほど栗林を信じているのかも、二人にはよく分かっていた。

「来年のこと?」

夏芽が尋ねる。

栗林はカップを見ながら、小さく頷いた。

「うん」

「J1?」

「ああ」

栗林は少し考えてから口を開いた。

「チームがJ1に上がるのは、本当に嬉しいんだよ。そこは嘘じゃない」

「うん」

「でも……俺自身は、今年ほとんど結果を残せなかった」

夏芽は黙って聞いている。

「CFでもトップ下でも、俺より上の選手がいる。ドリブルだって、昔はもっとやれると思ってたけど、J2でも最後の一人を抜き切れないことが多い」

「……うん」

「来年はJ1だろ」

「うん」

「相手はもっと強くなる」

栗林は自嘲するようには笑わなかった。

自分を必要以上に卑下することもしない。

ただ、現実として受け止めているだけだった。

「俺が来年もここでどれだけやれるのか。正直、分からない」

契約がどうなるのか。

新しい選手が入るのか。

自分に出場機会があるのか。

まだ何も決まっていない。

だからこそ、不安はあった。

◇

「辞めたい?」

夏芽が聞いた。

栗林はすぐに首を振る。

「いや」

「じゃあ、まだやりたい?」

「やりたいよ」

「なら、それでいいじゃん」

あまりにも簡単な答えだった。

栗林が思わず妻を見る。

「夏芽」

「何?」

「プロの世界、そんな簡単じゃないんだぞ」

「知ってるよ」

「いや、今の言い方絶対分かってないだろ」

「分かってる」

夏芽は栗林の腕へ少し身体を寄せた。

「宰三が上手くいってないことも知ってる。試合に出られない時に落ち込んでるのも知ってるし、帰ってきて何も話さない日があるのも知ってる」

「……」

「でも、それでも次の日は練習行くじゃん」

「仕事だからな」

「またそれ」

夏芽が笑う。

「宰三ってそういうところ真面目すぎるんだよ」

「悪いか?」

「悪くない。好き」

「急に言うな」

「本当だから」

栗林は少しだけ照れたように視線を逸らした。

◇

「私ね」

夏芽が続ける。

「宰三が試合でゴール決めたから好きになったわけじゃないよ」

「知ってる」

「テレビで有名だったからでもない」

「それも知ってる」

「じゃあ何で好きになったか覚えてる?」

「……一目惚れって言ってなかった?」

「そうだけど!」

夏芽が少し笑う。

「そこから知っていって、もっと好きになったの。人に優しいところとか、後輩が困ってたらすぐ声掛けるところとか、誰かがミスしても責めないところとか」

「サッカーの能力関係ないな」

「私は奥さんだから、それでいいの」

その言葉に、栗林は何も返せなかった。

「サッカー選手としてどうするかは、宰三が決めることでしょ?」

「うん」

「続けたいなら続ければいいし、もっと上手くなりたいなら頑張ればいい。もし違う道になっても、私は一緒にいるよ」

夏芽は特別なことを言っているつもりではないらしい。

ただ当然のようにそう言った。

栗林はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。

「強いな、夏芽」

「知ってる」

「そこは謙遜しないんだ」

「宰三に何回断られても諦めなかった女だからね」

「それ言われると何も言えない」

◇

テレビでは優勝トロフィーを掲げる郷田京が映っている。

栗林はその光景を見ながら、ゆっくり息を吐いた。

「来年」

「うん」

「どうなるか分からないけど、もう少し足掻いてみるよ」

「うん」

「俺、まだ終わりたくないから」

夏芽は笑顔で頷いた。

「じゃあ応援する」

「ありがとう」

「でも今日はもうサッカーのこと考えない」

「え?」

「優勝した日でしょ?」

「まあ」

「だから今日はお祝い」

夏芽が立ち上がる。

「ケーキあるから」

「買ったの?」

「もちろん」

「太るぞ」

「一日くらい大丈夫」

「管理栄養士に怒られそうだな」

「戸塚さんの奥さんには内緒」

「クラブ専属だから普通にバレそうだけどな」

二人が笑う。

結果を残せなかった一年。

自分の限界を感じることもあった。

それでも。

家へ帰れば。

変わらない笑顔で迎えてくれる人がいる。

栗林宰三にとって。

それは。

もう一度前を向くには十分な理由だった。

◇

## ベニテス家

同じ頃。

「ただいま」

マティアス・ベニテスが自宅の扉を開けた。

「パパ!」

すぐに小さな足音が響く。

三歳になる息子が、廊下を走ってきた。

「おおっ」

マティアスが屈む。

息子は勢いそのままに父親へ飛び込み、マティアスも笑いながら抱き上げた。

「まだ起きてたのか?」

「パパ、ゴール!」

「見たのか?」

「ゴール!」

詳しい意味をどこまで理解しているのかは分からない。

それでも。

父親が点を取ったことだけは。

しっかり覚えていたらしい。

「そうだ。パパ、ゴールしたぞ」

「やった!」

息子が両手を上げる。

そこへ。

「帰ってきたばかりで興奮させないの」

呆れたような声が聞こえた。

ルシア・ベニテス。

二十七歳。

マティアスの妻。

幼い頃から一緒に育ってきた幼なじみでもある。

「おかえり、マティアス」

「ただいま」

「優勝、おめでとう」

「ありがとう」

「それと、ゴールも」

ルシアが笑う。

「重要なゴールだったでしょう?」

「ああ」

前半十八分。

ダニエルのシュートがブロックされる。

こぼれ球。

右足。

ゴール。

1対0。

J2優勝を懸けた最終節。

最初のゴールを奪ったのは、背番号9だった。

◇

マティアスは着替えを済ませると、息子を抱いたままリビングへ戻ってきた。

「まだ抱いてるの?」

ルシアが聞く。

「本人が降りない」

「マティアスが降ろさないんでしょ」

「両方だ」

「絶対あなたの方が離したくないだけ」

幼なじみだからこそ。

ルシアは遠慮がない。

モデルとして人気を集めていた頃も。

マティアスがまだプロとして何者でもなかった頃も。

二人の距離感は変わっていない。

「日本に来てから、さらに親バカになってない?」

「家族三人で外国に来たんだから仕方ない」

「どういう理屈?」

ルシアは笑いながら飲み物を置いた。

◇

テレビには、ちょうどマティアスの先制点が映っていた。

息子がすぐに反応する。

「パパ!」

「そうだ」

「また始まった」

ルシアが苦笑する。

画面の中。

ダニエル。

川崎。

もう一度ダニエル。

マティアス。

一度は収めるが、反転できない。

ダニエルへ戻す。

シュート。

ブロック。

そして。

こぼれ球。

マティアスが右足を振り抜く。

ネットが揺れた。

「……いいゴール」

ルシアが言う。

「自分で言うのも何だが、俺もそう思う」

「昔からそういうところ変わらないね」

「ストライカーだからな」

「褒められたら素直に受け取る」

「ゴールについて謙遜しても仕方ないだろ?」

「はいはい」

ルシアが笑う。

◇

だが、映像が後半へ進むにつれて。

マティアスの表情は少しずつ変わった。

北海道の守備。

カサーツノ。

カストロ。

足元へ下がればカサーツノが寄せる。

背後へ走ればカストロがついてくる。

自由を与えてもらえない。

そして。

時間が進むにつれて。

脚も重くなった。

最終的に。

マティアスはベンチへ下がる。

代わって入った。

材木座義輝。

「ここ」

ルシアが言った。

「悔しかった?」

マティアスは少し黙る。

「もちろん」

隠さなかった。

「俺はストライカーだ。最後までピッチにいたかった」

「そうよね」

「3対2で負けていた。点が必要だった。それなのに俺が下がる」

マティアスはテレビを見る。

画面の中。

材木座が前線でボールを収める。

周囲が前へ出る。

千葉の攻撃が変わる。

「でも」

マティアスは続けた。

「材木座が必要だった」

ルシアが夫を見る。

「俺とは違う」

マティアスは自分が何を得意としているのか理解している。

背後へ出る。

ゴールを狙う。

一度のチャンスを決める。

一方。

材木座は。

背負う。

収める。

味方を押し上げる。

「今日のあの時間、チームに必要だったのは材木座だった」

その直後。

画面では。

森川からのボール。

材木座。

右足。

3対3。

同点。

息子がまた。

「ゴール!」

と叫んだ。

マティアスが笑う。

「これはパパじゃないぞ」

「パパ?」

「違う」

「ゴール!」

「まあ、ゴールではある」

ルシアが吹き出した。

◇

「怒ってないの?」

ルシアが聞く。

「誰に?」

「交代させられたこと」

「悔しいのと怒るのは違う」

マティアスは即答した。

「監督が決めることだ。俺は次に先発するためにまた練習する」

「そう」

「それに」

マティアスがテレビを見る。

最後。

戸部のフリーキック。

ネット。

4対3。

「優勝した」

「うん」

「俺も点を取った」

「うん」

「十分嬉しい夜だ」

ルシアはその横顔を見て。

少し笑った。

「日本に来てよかった?」

今度はルシアが聞く。

マティアスは妻を見る。

「それを今聞くのか?」

「今日だから聞くの」

アルゼンチン。

生まれ育った国。

前所属クラブではエースだった。

監督。

スタッフ。

サポーター。

残ってほしいと言われた。

そこから。

日本。

エストレヤ千葉。

背番号9。

新しい国。

新しい言葉。

新しいチーム。

家族にとっても。

大きな決断だった。

「よかった」

マティアスは迷わず答えた。

「まだ半年も経っていないけど」

「それでも?」

「ああ」

「アルゼンチン恋しくない?」

「恋しいよ」

「私も」

「でも」

マティアスが息子を見る。

「三人で来たからな」

ルシアの表情が柔らかくなる。

「一人だったら違った?」

「全然違う」

「私がいないと駄目?」

「ああ」

「そんな簡単に認めるんだ」

「幼い頃から一緒にいるだろ。今さら格好つけても意味ない」

「それもそうね」

◇

「来年はJ1ね」

ルシアが言う。

「ああ」

「比企谷さん、あなたを獲る時に言ってたんでしょう?」

「何を?」

「J1でも決定力は通用するって」

マティアスが少し笑った。

「あいつ、そんなことまでルシアに話したのか?」

「あなたから聞いた」

「ああ、そうだった」

「忘れてるじゃない」

「今日は疲れてる」

「都合いいわね」

ルシアが呆れる。

八幡は。

わざわざアルゼンチンまで来た。

公式戦だけではなく。

練習も。

人間性も。

スタッフからの評判も。

調べた。

そして。

日本へ誘った。

「来年」

マティアスが静かに言う。

「それを証明しないとな」

「J1でも点を取る?」

「ああ」

「何点?」

「それは言わない」

「なんで?」

「言った数字より少なかったら嫌だから」

「意外と慎重」

「ストライカーでも何でも言うわけじゃない」

二人が笑った。

◇

息子の頭が。

少しずつ。

マティアスの肩へ落ちていく。

「寝た?」

ルシアが覗き込む。

「もう限界だな」

「寝かせてきて」

「ああ」

マティアスは立ち上がった。

だが。

寝室へ向かう前。

一度。

テレビを見る。

そこには。

最終スコア。

**エストレヤ千葉 4―3 北海道フェニックスFC**

そして。

J2優勝。

「ルシア」

「何?」

「ありがとう」

突然言われ。

ルシアが少し目を丸くした。

「何が?」

「日本まで来てくれて」

「今さら?」

「ああ。今さら」

ルシアは少しだけ笑う。

「どういたしまして」

「それだけ?」

「他に何を言ってほしいの?」

「分からない」

「じゃあそれで十分でしょ」

マティアスも笑った。

◇

栗林家では。

結果を残せなかった一年と向き合う男に。

変わらず隣にいる妻がいた。

ベニテス家では。

アルゼンチンから家族とともに日本へ渡ったストライカーが。

息子を腕に抱き。

初めて手にした日本でのタイトルを噛みしめていた。

来季。

J1。

栗林にとっては。

自分がどこまで戦えるのかを問われる場所。

ベニテスにとっては。

自分の得点力が上のカテゴリーでも通用することを証明する場所。

二人の立場は違う。

抱えているものも違う。

それでも。

夜の最後に帰る場所には。

二人を選手としてではなく。

一人の夫。

一人の父親。

そして。

大切な家族として迎えてくれる人がいた。