第453話 最後の決断
第453話 最後の決断
エストレヤ千葉がJ2優勝を決めた、その日の夜。
選手たちがそれぞれの家族のもとへ帰っていく中、背番号32を背負う元原太陽も自宅へ戻っていた。
北海道フェニックスFCとの優勝決定戦に出場することはなかった。それでも表彰式ではチームメイトたちと同じように優勝メダルを受け取り、郷田京がトロフィーを掲げた瞬間には、仲間たちと一緒に金色の紙吹雪を浴びた。
開幕五試合勝ちなし。
最下位。
そこからチームは立て直し、シーズン終盤には八連勝。最終勝ち点74で北海道を逆転し、J2優勝とJ1昇格を勝ち取った。
三十九歳の元原にとっても、決して忘れることのできないシーズンになった。
だが、家へ帰った今。
優勝とは別に、どうしても自分の口から家族へ伝えなければならないことがあった。
◇
玄関を開ける。
「ただいま」
「おかえりなさい」
すぐに顔を見せたのは妻の春子だった。
元原春子、五十一歳。
太陽より十一歳年上の妻。
十八歳の頃に知り合い、翌年には結婚した。
まだ何者でもなかった若いサッカー選手だった頃から、日本代表のエースとして注目された時代も、ワールドカップへ出場した時も、度重なる故障で思うように身体を動かせなくなった時も、春子だけはずっと隣にいた。
「まだ起きてたのか」
「今日は起きてるわよ」
春子はそう言って笑った。
「優勝、おめでとう」
「ああ。ありがとう」
「いい顔してたわね」
「俺?」
「みんなも。あなたも」
元原は少しだけ照れたように笑った。
「まあ、優勝だからな」
「嬉しい?」
「そりゃ嬉しいよ」
それは偽りのない気持ちだった。
若い選手たちが成長し、苦しい時期を乗り越え、最後には首位だった北海道を直接対決で倒した。
郷田がトロフィーを掲げた瞬間、元原も心から笑っていた。
「親父、おかえり」
リビングから顔を出したのは、十七歳の次男だった。
「お前もまだ起きてたのか」
「優勝した日だよ?」
「明日学校じゃないのか?」
「日曜」
「……ああ、そうか」
次男が苦笑する。
「シーズン中、本当に曜日分かんなくなるよな」
「試合基準で生きてるからな」
兄と双子の姉たちはすでに家を離れているため、今も実家で暮らしている子どもは末っ子である次男だけだった。
「兄ちゃんたちからも連絡来てるよ。姉ちゃんたちも、あとで電話したいって」
「そうか」
元原は一度頷き、それから何気ない調子で言った。
「ちょうどいいな」
「何が?」
次男は不思議そうにした。
だが春子だけは、夫の声に混じったものに気づいたらしい。
「太陽」
「ん?」
「話があるのね?」
元原は妻を見る。
数秒ほど黙ったあと、小さく息を吐いた。
「……やっぱり分かるか」
「二十年以上一緒にいるのよ」
それだけで十分だった。
◇
しばらくして、リビングのテーブルへスマートフォンが置かれた。
画面には、二十一歳の長男と十九歳の長女、そして同じく十九歳の次女が映っている。
三人ともすでに親元を離れており、それぞれ別の場所から通話へ参加していた。
『父さん、優勝おめでとう』
「ああ。ありがとう」
『最後すごかったね』
『戸部さんのフリーキック、思わず叫んだ』
「俺もベンチの近くで見ながら叫びそうになったよ。さすがにあれはな」
最初は普通の会話だった。
今日の試合。
優勝。
来季のJ1。
表彰式。
金色の紙吹雪。
家族全員がテレビ越しに見ていた一日について話した。
ただ、その間も春子は夫の様子を静かに見ていた。
元原自身も、いつまでも先延ばしにするつもりはなかった。
一度深く息を吐く。
「みんな」
声の調子が変わったことで、画面の向こうにいる三人も自然と口を閉じた。
次男も父親を見る。
「ちょっと話がある」
家族全員の視線が集まる。
元原はほんの少しだけ間を置いた。
長い間、自分の中では何度も口にしてきた言葉。
それを今度は、家族へ向けてはっきり告げる。
「俺、今シーズンで現役を引退する」
部屋が静かになった。
テレビでは今日の優勝セレモニーが流れている。
音量は小さい。
画面の向こうにいる子どもたちも、すぐには何も言わなかった。
『……決めたの?』
最初に尋ねたのは長男だった。
「ああ」
『もう変わらない?』
「変わらない」
元原は迷わなかった。
「これで終わりにする」
◇
今季、元原太陽が公式戦のピッチへ立ったのは一度だけだった。
夏。
長いリハビリを終え、ようやく背番号32が公式戦へ戻ってきた。
復帰戦。
そこで元原はゴールを決めた。
三十九歳になっても、ゴール前での感覚は失われていなかった。
DFの視線。
味方がボールを持った瞬間。
どこへ入れば自分へボールが来るのか。
いつ動けば相手より一歩先へ出られるのか。
長い現役生活の中で染みついたストライカーとしての感覚が、あの瞬間だけは昔と同じように身体を動かした。
ネットが揺れる。
スタジアムが沸く。
チームメイトたちが一斉に駆け寄ってくる。
日本代表のエースとして何度も味わったはずの光景だった。
だが、長いリハビリを経て戻ってきたあの一得点は、若い頃に決めたどのゴールとも違う特別なものだった。
元原自身も、あの時は本気で思った。
まだやれる。
ここからもう一度、試合へ出続けられるかもしれない。
しかし、結果として。
あの復帰戦が、今季最初で最後の公式戦出場になった。
二度目の出場機会は、最後まで訪れなかった。
◇
「俺さ」
元原が静かに話し始める。
「夏に復帰した時、本気でここからだと思ったんだよ」
家族は誰も口を挟まなかった。
「点も取れたしな」
あの一得点は偶然ではなかった。
何十年と積み上げてきたストライカーとしての技術と経験、駆け引き、ゴール前での判断。
自分の中にまだそれが残っていると確認できたゴールだった。
「決めた瞬間は本当に嬉しかった。やっぱり俺、まだストライカーなんだなって思ったよ」
日本代表歴代得点ランキング十一位。
ワールドカップ三大会連続出場。
ワールドカップ通算三得点。
これまで数え切れないほどゴールを決めてきた。
それでも、夏の一得点には別の意味があった。
「もう一回やれると思ったんだ」
だから、その後も続けた。
練習した。
身体の状態を見ながら負荷を上げ、もう一度試合へ出るために準備した。
それでも、シーズンは進んでいった。
「でもな」
元原は自分の膝へ手を置いた。
「一試合できることと、一年間戦い続けることは違った」
春子は何も言わずに聞いている。
「身体の状態を見ながら練習して、試合に出られるところまで持っていく。それを何度も繰り返すのが、もう難しい」
単純に三十九歳だからというだけではない。
何度も繰り返してきた故障。
長いリハビリ。
プロとして酷使し続けてきた身体。
積み重なったものは、確実に残っている。
「頭では全部分かるんだよ。DFがどこを見るか、どこへ動けばいいか、どのタイミングで入ればゴールになるか」
ストライカーとしての感覚は今もある。
「でも身体を、そこまで持っていくのが難しくなった」
それを今季、嫌というほど感じた。
◇
「それでもさ」
次男が口を開いた。
「夏に点取ったじゃん」
「ああ」
「だったら、まだできるんじゃないの?」
元原はすぐには返さなかった。
次男が誰よりも父親の復帰を待っていたことを知っている。
時間があればスタジアムへ来た。
リハビリが進んだと聞けば喜んだ。
そして夏。
復帰戦。
ゴール。
あの瞬間を、もちろん息子も見ていた。
「俺、あれ見た時、来年もやれるって思ったよ」
次男の声が少し震える。
「また普通に試合出ると思った」
「俺も思った」
元原は誤魔化さなかった。
「俺も、あのゴール決めた時はそう思ったよ」
だからこそ諦めずに続けた。
もう一度ピッチへ戻るために。
だが、元原は息子を真っ直ぐ見た。
「でも、俺はあの一試合で終わったことを、悲しいだけだとは思ってない」
「え?」
「あの試合があったから、最後にちゃんとゴールを決められた」
元原は少し笑った。
「ストライカーとして終われた」
次男は何も言えなくなった。
◇
『父さん』
画面越しに長男が呼ぶ。
「ん?」
『そのゴールが最後になるって、その時は思ってなかったよね』
「全然」
『父さんらしいね』
「何が?」
『最後まで、まだ続けるつもりだったところ』
元原は声を出して笑った。
「そりゃそうだ。引退するために復帰したわけじゃないからな」
『だよね』
「本気で続けるつもりだったよ」
だからこそ、簡単に「悔いはない」と言うこともできない。
あと一試合。
あと一得点。
できるなら何度でも欲しかった。
まだピッチに立ちたかった。
「でも、このまま『まだやれるかもしれない』だけで続けるのは違うと思った」
来季、エストレヤ千葉はJ1へ上がる。
当然、試合の強度は上がる。
競争も激しくなる。
ベニテスがいる。
材木座がいる。
若い宍道もいる。
さらに新しい選手が加入する可能性もある。
「今のチームを見てたら分かるんだよ」
元原はテレビへ視線を向けた。
画面には、今日先制点を決めたマティアス・ベニテスが映っている。
その少し後には、途中出場から同点弾を決めた材木座義輝。
「もう俺が無理に席を取っておく必要はない」
そう言う声に、寂しさがなかったわけではない。
それでも、若い選手たちを見ていると、それ以上に頼もしさの方が強かった。
「それに」
元原は少し笑った。
「最後のシーズンがJ2優勝だからな」
テレビには、確定した最終順位が映し出される。
**1位 エストレヤ千葉。**
勝ち点74。
「夏に復帰できた。ゴールも決めた。そのうえ最後は、チームが優勝した」
元原はゆっくり頷いた。
「十分だよ」
◇
次男が俯いたまま、ぽつりと言った。
「……もっと見たかった」
元原が息子を見る。
「親父が試合出てるところ。あの夏の試合みたいに、もっと見たかったよ」
その気持ちを否定することなどできなかった。
「ありがとう」
「何が?」
「そう思ってくれて」
元原は少しだけ笑った。
「父親としては、結構嬉しいよ」
「……そっか」
「俺ももっと見せたかった」
それが本音だった。
もう一度、子どもたちの前でゴールを決めたかった。
ワールドカップのような大舞台でなくていい。
リーグ戦でもいい。
途中出場でもいい。
もう一度、自分がストライカーとしてネットを揺らす姿を見せたかった。
それでも。
最後の一得点は、夏に残すことができた。
◇
画面の向こうでは、双子の娘たちも目元を拭っていた。
『お父さん、ずっとサッカーしてたもんね』
「そうだな」
『私たちが生まれる前からでしょ?』
「その前どころか、母さんと結婚する前からやってる」
「当たり前でしょう」
春子が横から言う。
娘の一人が少し笑った。
『ワールドカップの時、お父さん全然家にいなかったよね』
「代表だったからな」
『小さい頃、友達に自慢してたよ。うちのお父さん日本代表って』
「初耳だぞ」
『言ってないから』
「今言ったけどな」
もう一人の娘も笑いながら続ける。
『私も言ってた』
「お前も?」
『俺も』
長男まで加わった。
「全員かよ」
『そりゃするよ』
長男が笑う。
『ワールドカップでゴール決めてる父親なんだから』
元原は気恥ずかしそうに頭を掻いた。
自分にとっては仕事だった。
必死に試合へ出て、ゴールを決め、代表に呼ばれ、世界と戦った。
だが、子どもたちにとっては。
そんな自分が自慢の父親だったのかもしれない。
◇
そのやり取りをずっと静かに聞いていた春子が、夫へ顔を向けた。
「太陽」
「うん」
「納得した?」
元原の表情が変わった。
おそらく、今夜聞かれるどんな質問よりも重要なものだった。
春子は一度も引退しろと言わなかった。
三十九歳になっても。
怪我を繰り返しても。
ほとんど試合へ出られなくても。
ずっと同じだった。
――あなたが納得するまでサッカーを続ければいい。
その言葉で、何度も現役を続けてきた。
だから今回も、決めるのは元原自身だった。
しばらく考える。
そして、ゆっくり頷いた。
「……ああ。納得した」
「本当に?」
「ああ」
「夏に復帰できたから?」
「それもある」
元原は自分の中にあるものを確かめるように話した。
「復帰してゴールを決められた。あれで、自分の中にまだストライカーとしてのものが残ってるって確認できたんだ」
だが、それだけでは続けられないことも分かった。
「その上で、今の身体で一年間戦い続けるのは難しいって分かった」
投げ出したわけではない。
諦めたわけでもない。
実際に復帰へ挑んだ。
試合へ戻った。
ゴールも決めた。
そのうえで出した結論だった。
「だから今なら終われる」
春子は数秒間、夫の顔を見つめた。
やがて静かに笑う。
「なら、いいんじゃない?」
「それだけ?」
「何て言ってほしいの?」
「いや……もう少し何かあるだろ」
「太陽が納得したなら、それで十分でしょう」
いかにも春子らしい答えだった。
元原も笑った。
◇
「春子」
「なに?」
「長かったな」
「何が?」
「現役生活」
「そうね」
「結婚してから、ほとんどずっとサッカー選手だったし」
「ほとんどじゃなくて、ずっとでしょう」
「そうだった」
「十九歳で結婚したのよ、あなた」
「若かったな」
「本当にね」
そこから二十年。
プロとして試合へ出た。
日本代表にも選ばれた。
三度のワールドカップを経験した。
遠征へ行った。
何度も怪我をした。
リハビリをした。
復帰した。
そして最後には、もう一度ゴールを決めた。
「ずっと付き合わせたな」
「私が好きで一緒にいたの」
「それでもさ」
元原は妻を見た。
「ありがとう」
春子は少しだけ目を細めた。
しかし、すぐにいつもの調子へ戻る。
「お疲れさまは、まだ言わないわよ」
「え?」
「まだ今シーズンが終わったばかりでしょう。クラブにも正式に話さないといけないし、引退の発表だってまだでしょう?」
「まあな」
「最後の仕事までちゃんと終わらせなさい」
「厳しいな」
「あなたの妻を何年やってると思ってるの」
「二十年」
「分かってるならいいわ」
元原は苦笑する。
「はい」
◇
『引退したら何するの?』
長男が尋ねた。
「まだ何も決めてない」
『コーチとか?』
「分からないな」
『解説者の仕事とか来そう』
「俺が?」
『元日本代表だし』
「喋る仕事は向いてないと思うぞ」
『父さん、サッカーの話になると結構喋るじゃん』
「そうか?」
『そうだよ』
元原は首を傾げた。
「まあ、それは引退してから考えるよ」
先のことを急いで決める必要はない。
まずは、今の現役生活を最後まできちんと終える。
春子に言われた通りだった。
その時、ずっと黙っていた次男がふと顔を上げた。
「親父」
「ん?」
「引退したら、時間できる?」
「今よりはな」
「じゃあさ」
少しだけ言いづらそうに間を置く。
「また一緒にサッカーやろうよ」
元原が目を瞬いた。
「俺と?」
「うん」
「高校生相手はきついな」
「元日本代表でしょ」
「引退した三十九歳だぞ」
「じゃあ俺が手加減する」
その一言で、元原の目が変わった。
「……言ったな?」
次男が笑う。
「まだお前には負けないぞ」
「じゃあ勝負」
「ああ」
隣で春子が呆れたように笑った。
「引退を決めた直後から何を張り合ってるの」
「男には大事なことなんだよ」
「はいはい」
◇
やがて通話を終え、次男も自分の部屋へ戻っていった。
リビングには元原と春子だけが残った。
テレビでは、今季のエストレヤ千葉を振り返る映像が流れている。
シーズン序盤。
苦しんだ時期。
夏の補強。
連勝。
そして、その中に一つ。
夏。
背番号32がピッチへ戻った試合もあった。
元原太陽。
復帰戦。
ゴール前へ入り込む。
シュート。
ネットが揺れる。
仲間が一斉に駆け寄る。
画面の中の元原は、子どものように笑っていた。
二人はしばらく何も言わず、その映像を見ていた。
「これが最後だったのね」
春子が言う。
「ああ」
「いいゴールだった」
「だろ?」
「そこは自分で言うのね」
「ストライカーだからな」
二人が笑った。
元原はもう一度、画面の中の自分を見る。
「最後の試合でゴールか」
自分で口にすると、不思議な感覚がした。
「悪くないな」
「ええ」
「できれば、この後も何試合か出たかったけど」
「それはそうでしょうね」
「でも、最後に何もできないまま終わるより俺らしい」
春子が静かに頷く。
「そうね」
「最後までFWだった」
「昔から、それしかしてこなかったものね」
「言い方」
また二人で笑った。
◇
三十九歳。
背番号32。
元原太陽。
日本代表歴代得点ランキング十一位。
ワールドカップ三大会連続出場。
世界最高峰の舞台で通算三得点。
そして現役最後となるシーズン。
長いリハビリを乗り越え、夏に公式戦へ復帰した。
その一試合でストライカーとして一得点を残した。
それが今季最初の出場であり、最後の出場になった。
最後にピッチへ立った試合で、最後のゴールを決めた。
さらにシーズンの終わりには、仲間たちとJ2優勝とJ1昇格を勝ち取った。
もう一度やりたかった。
もっと試合へ出たかった。
もっとゴールを決めたかった。
そんな思いが完全になくなることは、おそらくない。
それでもできることを試した。
復帰した。
ゴールを決めた。
そして、自分の身体とも向き合った。
その全てを終えた上で、元原は自分自身で決めた。
**今シーズン限りで、現役を引退する。**
日本サッカー界を長く走り続けてきた一人のストライカーが、誰かに終わりを決められたのではなく、自分自身でその時を選んだ。
J2王者となった夜。
家族に囲まれながら元原太陽はようやく、長かった現役生活へ終止符を打つ決意を口にした。