第454話 最後の試合
第454話 最後の試合
J2優勝から一夜明けた翌日。
エストレヤ千葉トレーニングセンターには、昨日までとは少し違う空気が流れていた。
シーズンは終わった。
J2優勝。
J1昇格。
長かった一年に一区切りがついたばかりだ。
それでも、クラブの仕事が止まるわけではない。
来季へ向けた編成。
契約。
補強。
選手たちの今後。
すでに新しいシーズンへ向けた動きは始まっていた。
そんな中。
午前。
元原太陽は一人、クラブハウスの廊下を歩いていた。
昨日。
家族には伝えた。
今シーズン限りで現役を引退する。
次は。
クラブへ伝える番だった。
◇
強化部の会議室。
「失礼します」
「どうぞ」
元原が入ると、すでに数人が揃っていた。
社長の鈴木一朗太。
GMの竹内正樹。
強化部長の佐藤智成。
監督のマルコ・ベッルーニ。
そして。
比企谷八幡。
元原から「話がある」と連絡を受けたことで、急遽集まった面々だった。
「朝からすみません」
元原が頭を下げる。
鈴木は首を横に振った。
「いえ。こちらこそ。座ってください」
「はい」
椅子へ腰を下ろす。
八幡は向かい側から、元原の表情を静かに見ていた。
何の話なのか。
聞いてはいない。
だが。
何となく。
察しているような顔だった。
「それで」
佐藤が口を開く。
「話っていうのは?」
元原は一度だけ息を吐いた。
昨日。
家族へ言った言葉。
それと同じ言葉を。
今度は。
クラブへ向ける。
「今シーズン限りで」
元原は全員を見た。
「現役を引退しようと思います」
◇
驚きの声は上がらなかった。
ただ。
部屋の空気が。
静かに変わった。
元原の契約は今季限り。
三十九歳。
長期間の故障。
夏にようやく公式戦へ復帰し。
そこで一得点。
しかし。
結果として。
それが今季唯一の出場となった。
誰も。
可能性を考えていなかったわけではない。
それでも。
本人の口から聞けば。
重みは違う。
「……決めたんですね」
竹内が静かに聞いた。
「はい」
「迷いは?」
「ありますよ」
元原は苦笑した。
「まだやりたいって気持ちが、完全になくなったわけじゃないですから」
マルコが黙って聞いている。
「でも」
元原は続けた。
「夏に一度、ピッチへ戻れました」
あの復帰戦。
そして。
一得点。
「最後にゴールも取れました」
元原の表情が少しだけ柔らかくなる。
「それで分かった部分もあります。まだストライカーとして持っているものはある。でも、一年間通してプロの強度で戦うのは、もう厳しい」
誰も否定しなかった。
「昨日、家族とも話しました」
元原が言う。
「自分の中では、これで納得しています」
佐藤がゆっくり頷いた。
「そうですか」
「はい」
「……分かりました」
それ以上。
引き止める言葉はなかった。
本人が。
考え抜いて。
決めたこと。
それが分かったからだった。
◇
「元原さん」
八幡が口を開いた。
「はい?」
「夏のゴール」
「うん」
「見てて思いましたけど」
一度。
言葉を選ぶ。
「最後まで、ちゃんと元原さんのゴールでした」
元原が少し笑う。
「俺のゴール?」
「はい。派手じゃない。でも、一番嫌なところにいる」
「褒めてる?」
「かなり」
「比企谷にしては珍しいな」
「引退する人にくらい優しくしますよ」
「今だけ?」
「今だけです」
元原が笑った。
その笑いで。
張っていた空気が。
少しだけ和らいだ。
「ありがとう」
「はい」
「俺も、最後があのゴールでよかったと思ってる」
元原は。
素直にそう言った。
◇
しばらくして。
鈴木が机の上で両手を組んだ。
「元原選手」
「はい」
「実は」
少し。
間を置く。
「もし、その決断をされるのであれば、クラブ側から提案しようと思っていたことがあります」
元原が首を傾げる。
「提案?」
「はい」
竹内が続けた。
「来週」
「来週?」
「元原選手の引退試合を行いたいと思っています」
元原が。
一瞬。
言葉を失った。
「……引退試合?」
「はい」
「でも、シーズン終わってますよ?」
「なので」
佐藤が苦笑する。
「公式戦は無理です」
「ですよね」
「相手クラブを呼んで、という形もこの時期では現実的じゃない」
「じゃあ……」
「紅白戦です」
元原が瞬きをする。
「紅白戦?」
「そうです」
◇
竹内が説明する。
「クラブ内で選手を二チームに分ける」
「はい」
「その紅白戦を、元原選手の引退試合として行います」
「……」
「もちろん、普段の練習試合みたいに非公開ではありません」
鈴木が続ける。
「サポーターにも見てもらいます」
そこで。
元原の表情が変わった。
「サポーターに?」
「はい」
「最後にもう一度」
鈴木が静かに言う。
「エストレヤ千葉のユニフォームを着て、ピッチに立ってください」
元原は何も言えなかった。
夏。
一度だけ。
公式戦へ復帰した。
そこで。
ゴールを決めた。
そして。
それが。
最後だと思っていた。
昨日。
自分でもそう受け入れた。
だが。
クラブは。
もう一度。
ピッチへ立つ場所を用意しようとしていた。
◇
「紅白戦ではありますけど」
竹内が言う。
「最後にサポーターの前でプレーしてもらいたいんです」
「……そこまでしてもらっていいんですか」
「逆ですよ」
鈴木が答える。
「これまで日本サッカー界で戦い続けてきた選手が、このクラブで現役を終えるんです」
日本代表。
ワールドカップ三大会。
通算三得点。
日本代表歴代得点ランキング十一位。
その実績だけなら。
エストレヤ千葉の中でも。
群を抜いている。
「何もせずに終わらせる方が、おかしいでしょう」
元原は。
少し。
視線を落とした。
◇
「試合後には」
佐藤が続ける。
「サポーターへの挨拶もしてもらいます」
「……挨拶?」
「はい」
「俺、喋るの得意じゃないですよ」
八幡が横から口を挟む。
「昨日ご家族にはちゃんと話せたんでしょう?」
「なんで知ってるんだよ」
「そういう顔してるからです」
「意味分からないぞ」
「じゃあサポーターにも大丈夫です」
「雑だな」
また。
少し笑いが起きた。
佐藤も笑いながら続ける。
「長い演説じゃなくていいです。自分の言葉で」
「……自分の言葉で」
「応援してくれた人たちに、最後の挨拶をしてください」
元原は。
静かに。
頷いた。
「分かりました」
◇
「ただし」
マルコが口を開いた。
元原が見る。
「はい?」
「引退試合だからといって」
イタリア人監督は。
真面目な顔をしていた。
「簡単にゴールを取らせてもらえると思うな」
元原が。
一瞬。
黙る。
そして。
笑った。
「もちろんです」
「DFにも本気で守らせる」
「その方がいいです」
「GKも本気だ」
「当たり前です」
「ならいい」
マルコが頷く。
「最後まで、サッカー選手でいろ」
元原の目が。
少しだけ。
細くなった。
「はい」
その答えだけは。
迷わなかった。
◇
話し合いが終わり。
元原が会議室を出ようとした時。
「元原さん」
八幡が後ろから声を掛けた。
「ん?」
「一つだけ」
「何?」
「来週」
八幡は。
普段と変わらない表情で言う。
「ちゃんと身体、作ってきてください」
「……紅白戦だぞ?」
「だから何です?」
「引退する三十九歳だぞ?」
「まだ引退してません」
昨日。
春子にも。
同じようなことを言われた。
元原は。
思わず笑う。
「そうだったな」
「試合終わるまでは現役です」
「ああ」
元原は。
少しだけ胸を張る。
「じゃあ、最後まで仕上げるよ」
「お願いします」
◇
会議室を出る。
廊下。
昨日までとは。
少し違って見えた。
現役引退。
もう。
決めた。
だが。
終わったわけではない。
来週。
もう一度。
試合がある。
公式戦ではない。
リーグ戦でもない。
記録にも。
残らない。
クラブ内の。
ただの紅白戦。
それでも。
元原太陽にとっては。
間違いなく。
現役最後の試合になる。
◇
「……最後の試合か」
誰もいない廊下で。
元原が小さく呟く。
不思議だった。
昨日。
最後の公式戦は。
夏の復帰戦だった。
最後のゴールも。
あの日だった。
そう。
受け入れたばかりだった。
なのに。
もう一度。
ユニフォームを着ける。
もう一度。
ピッチへ入る。
そして。
今度こそ。
終わる。
「……やるか」
元原の口元に。
小さな笑みが浮かんだ。
◇
来週。
エストレヤ千葉は。
元日本代表ストライカー。
背番号32。
元原太陽のために。
引退試合を行う。
対戦相手は。
同じエストレヤ千葉。
紅白戦。
最後まで本気で。
仲間たちとボールを追う。
そして。
試合が終わった後。
元原は。
長年サッカー人生を支えてくれたサポーターたちへ。
自分の言葉で。
最後の挨拶をすることになった。