第457話 十二月三日
第457話 十二月三日
十二月三日。
エストレヤスタジアム。
J2優勝を決めた最終節から、まだ一週間も経っていない。
つい先日までリーグ戦の熱狂に包まれていたスタジアムは、この日、いつもとは少し違う空気の中で朝を迎えていた。
リーグ戦ではない。
勝ち点も順位も関係ない。
対戦相手が遠征バスでやって来ることもない。
今日ピッチに立つのは、全員がエストレヤ千葉の選手たち。
それでも。
開門前からスタジアムの外には、すでに多くのサポーターが集まり始めていた。
目的は一つ。
背番号32。
元原太陽。
日本サッカー界を長年走り続けたストライカーの、最後の試合を見届けるためだった。
◇
スタジアム正面広場。
普段のホームゲームでもグッズ販売が行われる一角には、この日だけの特設売店が設けられていた。
大きな看板には、
**元原太陽 引退記念**
という文字。
その下には、背番号32を大きくあしらったデザインが並んでいる。
「こちら最後尾でーす!」
「記念ユニフォームをご購入の方も、この列からお願いしまーす!」
スタッフが声を張り上げていた。
まだ午前中だというのに、列はすでにかなり長い。
一番人気は。
この日のために作られた**元原太陽・引退記念ユニフォーム**だった。
エストレヤ千葉のユニフォームを基調としながら、背中には大きく。
**32 MOTOHARA**
そして記念試合の日付。
**12.3**
が刻まれている。
「これ絶対欲しい」
「普通のユニ持ってるけど、これは別だろ」
「サイズ残ってるかな」
そんな声が列のあちこちから聞こえていた。
記念ユニフォームだけではない。
背番号32を大きくデザインしたタオルマフラー。
元原の写真が使用された記念タオル。
アクリルスタンド。
キーホルダー。
歴代の写真をまとめたフォトブック。
そして、この日の試合を記念した限定ペナント。
複数の記念グッズが用意されていた。
「お父さん、これ!」
小学生くらいの少年が、背番号32のタオルを指差す。
「欲しいのか?」
「うん!」
「じゃあ買うか」
「やった!」
少年の父親も。
その隣で笑っていた。
その父親自身も。
手にはすでに元原の記念ユニフォームを持っている。
◇
少し離れた場所。
そこにも。
普段のホームゲームでは見られないコーナーが作られていた。
入口に立つ看板。
**元原太陽 サッカー人生の歩み**
その先には。
大きなパネルが年代順に並んでいた。
若き日の元原。
プロ入り直後。
まだ現在より細く。
少し幼さすら残っている顔。
そこから。
クラブで結果を残し始めた時代。
日本代表へ選出された頃。
代表ユニフォームを着て。
日の丸を胸に。
ゴールを決めて仲間と喜ぶ姿。
三大会連続で出場したワールドカップ。
世界の舞台で奪った三つのゴール。
そして。
年齢を重ね。
ベテランとなってからの姿。
エストレヤ千葉へ加入。
背番号32。
若い選手たちへ声を掛ける姿。
リハビリ。
復帰へ向けたトレーニング。
そして今年の夏。
久しぶりに公式戦のピッチへ戻った試合。
ゴールネットを揺らした瞬間。
仲間たちが一斉に元原へ駆け寄っていく写真。
最後には。
つい先日。
エストレヤ千葉がJ2優勝を決めた夜。
金色の紙吹雪の中。
仲間たちと笑っている元原の姿があった。
◇
「うわ……若い」
一人のサポーターが、プロ入り当初の写真を見て思わず声を漏らす。
「これ何年前だ?」
「二十年くらい前じゃない?」
「そりゃ若いわ」
少し先では。
年配の男性が。
日本代表時代の写真の前で長く足を止めていた。
「この試合、覚えてるなあ……」
隣にいた女性が頷く。
「私も見てた」
「この頃、本当に元原が日本のエースだったよな」
「代表戦あるたび、今日は決めてくれるかなって思ってた」
パネルの前では。
それぞれの年代のサポーターが。
それぞれの記憶を語っていた。
エストレヤ千葉で初めて元原を知った若いサポーター。
代表時代から見続けている人。
さらに。
元原がまだ若手だった時代から応援している者まで。
彼の二十年以上に及ぶ現役生活は。
一人の選手の歴史であると同時に。
サポーターたちの記憶の一部でもあった。
◇
パネルコーナーのさらに奥には。
透明な展示ケースが並んでいた。
こちらは。
クラブが今回の引退試合を開催するにあたり、元原がこれまで在籍したクラブや関係先へ協力を依頼し、特別に借り受けたものだった。
元原が若い頃に着用していたユニフォーム。
実際に使用したスパイク。
過去の大会で贈られた記念品。
当時のクラブで残されていた写真。
そして。
元原が現役生活の中で使用してきた、いくつもの背番号入りユニフォーム。
どれも。
今日のためだけに。
一時的にエストレヤスタジアムへ集められたものだった。
「すご……」
「これ本物?」
「『本人使用』って書いてある」
「写真撮っていいんだよね?」
「フラッシュは禁止だって」
展示ケースの前では。
スマートフォンを構える人が絶えない。
中でも。
日本代表時代の展示品の前には。
特に多くの人が集まっていた。
日の丸。
背番号。
長年。
日本のゴールを背負ってきた証。
そのすべてを。
サポーターたちは食い入るように見つめていた。
◇
広場の端では。
天童くれはがスタッフたちと動き回っていた。
「パネルコーナー、入場待ちが長くなってます。列をもう少し外側へ伸ばしてください」
「はい!」
「グッズ列と交差させないように。あと展示ケース周辺、一度に入れる人数を少し調整しましょう」
「分かりました」
この日の全体進行を担う広報部長。
しかも。
試合が始まれば。
今度は司会も担当する。
「天童さん」
スタッフの一人が近づいてくる。
「記念ユニ、想定より売れるペース早いです」
「残数は?」
「まだあります。ただ、このままだと一部サイズが午前中で厳しいかもしれません」
「分かりました。売店側と共有してください。在庫がなくなったサイズは、すぐ掲示を更新するように」
「はい」
くれはは手元の資料へ目を落とす。
試合。
展示。
グッズ。
場内進行。
引退セレモニー。
そして。
試合後の元原本人による挨拶。
一つでも滞れば。
最後の日に傷がつく。
「……まったく」
小さく息を吐いた。
「引退試合って、こんなに仕事多いんですね」
そう呟いた直後。
「天童さん!」
「はい!」
また別のスタッフに呼ばれ。
すぐに歩き出した。
◇
一方。
スタジアム内部。
選手用通路。
元原太陽は。
まだ誰もいないピッチを眺めていた。
観客席へサポーターが入り始めるまでには。
もう少し時間がある。
外からは。
僅かに。
人々の声が聞こえてくる。
「元原さん」
後ろから声がした。
振り返る。
比企谷八幡だった。
「早いな」
「元原さんこそ」
「主役だからな」
「自分で言います?」
「今日くらいいいだろ」
「まあ」
八幡が隣へ立つ。
二人で。
ピッチを見る。
「外、すごいですよ」
「何が?」
「グッズの列」
「そんなに?」
「あとパネルコーナー」
「……ああ」
「昔のユニフォームとかも展示してるみたいです」
元原は。
少し困ったように笑った。
「なんか恥ずかしいな」
「今さらですか?」
「自分の人生を展示されるって、変な感じなんだよ」
「日本代表歴代得点ランキング十一位で、ワールドカップ三大会出てる人が何言ってるんです」
「数字で言うなよ」
「事実です」
「比企谷ってこういう時、容赦ないよな」
◇
「でも」
元原は。
スタンドを見上げる。
「ありがたいな」
それだけは。
素直な気持ちだった。
長い現役生活。
活躍した時ばかりではない。
点を取れなかった試合もある。
怪我で。
何か月も。
何年も。
思うようにプレーできなかった時期もあった。
それでも。
見ていてくれた人たちがいた。
「今日、ちゃんと挨拶しないとな」
「考えました?」
「まだ」
「大丈夫ですか?」
「自分の言葉でいいって言ったの、お前らだろ」
「俺は言ってません。佐藤さんです」
「責任逃れするなよ」
「でも」
八幡が言う。
「何言うか決めすぎない方が、元原さんらしいんじゃないですか」
元原が。
隣を見る。
「そうか?」
「たぶん」
「たぶんかよ」
二人が小さく笑った。
◇
やがて。
スタジアムの外。
開門を知らせるアナウンスが流れた。
待っていたサポーターたちが。
少しずつ。
スタンドへ向かい始める。
記念ユニフォームを着た者。
背番号32のタオルを掲げる者。
昔の元原のユニフォームを着てきた者。
子どもの手を引く父親。
夫婦。
友人同士。
何年もサッカーを見続けてきた年配のサポーター。
それぞれが。
元原太陽の最後の試合を見届けるために。
席へ向かっていく。
◇
十二月三日。
エストレヤスタジアム。
記念グッズ。
歩みを振り返るパネル。
かつて所属していたクラブから借り受けた貴重な品々。
そのすべてが一人の選手が歩いてきた長い現役生活を物語っていた。
そして今日。
その歴史に最後の一ページが加わる。
背番号32 元原太陽、現役最後の試合まであと少しだった。