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第460話 ありがとう

やはり俺のスカウト人生は間違っている。 — www.pixiv.net · All chapters

第460話 ありがとう

試合終了を告げる笛が鳴ってからも、エストレヤスタジアムを包む拍手は途切れなかった。

スコアは3対3。

元原太陽は現役最後の試合で二得点を奪った。

前半36分。そして後半44分。

三十九歳になった今も、ゴール前で相手の視界から消え、ほんの一瞬の隙を得点へ変えるストライカーとしての感覚は残っていた。

最後までFWだった。

最後までゴールを狙い、その結果、本当に二度ネットを揺らした。

だが、もう次の試合はない。

次の節もなければ、次のシーズンもない。

これが本当に、元原太陽にとって最後の試合だった。

しばらくすると、場内に天童くれはの声が響いた。

『皆さま、改めまして、本日は元原太陽選手の引退記念試合へお越しいただき、誠にありがとうございます』

試合を終えた両チームの選手たちはピッチの端へ移動していた。

郷田京、鬼塚純一郎、戸塚彩加、エミリオ・アルバレス、戸部翔、森川佑、川崎大志、長谷川智樹、葉山隼人、小林庄雅、栗林宰三、材木座義輝、マティアス・ベニテス。

今日実際にピッチへ立った選手も、ベンチからその姿を見守った選手も、今は全員が一人の男へ視線を向けている。

『それでは、二十年以上にわたる現役生活を終える、エストレヤ千葉・背番号32――元原太陽選手より、皆さまへご挨拶を申し上げます』

再び大きな拍手が湧き上がった。

スタンドには背番号32のタオルが無数に掲げられている。

「元原ー!」

「太陽ー!」

「ありがとう!」

「お疲れさまー!」

いくつもの声を聞きながら、元原はピッチ中央に用意されたマイクへ向かった。

ほんの数十メートル。

普段なら何でもない距離だ。

それなのに、歩く速度は自然と遅くなった。

この芝の上を、こうして自分のためだけに歩くことも、もう二度とないのかもしれない。

マイクを受け取った元原は、小さく息を吐いた。

「……えー」

そこまで言ったところで、一度言葉が止まる。

元原はスタンドをゆっくりと見渡した。

今日のために集まったサポーターたち。

昔の日本代表ユニフォームを着ている者もいれば、かつて元原が所属していたクラブのユニフォームを身につけている者もいる。

そして何より多いのは、エストレヤ千葉のユニフォームだった。

背番号32。

何万人もの視線が、自分一人へ向けられている。

「こういうの、本当に苦手なんですけど」

元原が少し笑うと、スタンドからも柔らかな笑い声が返ってきた。

「今日、こんなにたくさんの方に来ていただいて……本当にありがとうございます」

深く頭を下げる。

大きな拍手が返ってきた。

しばらくして頭を上げると、元原はもう一度呼吸を整えた。

「昨日まで何を話そうか色々考えてたんですけど、結局まとまりませんでした」

また笑いが起きる。

「なので、そのまま話します」

そこで元原は少しだけ表情を変えた。

「俺は、長いことサッカー選手をやってきました。プロになった頃は、まさか三十九歳まで現役を続けるなんて思ってませんでした」

十八歳でプロの世界へ入り、それから人生の大半をサッカー選手として過ごしてきた。

「日本代表にも選んでもらって、ワールドカップにも三回出させてもらいました。そこでゴールも決められました」

スタンドの一角で日の丸が掲げられている。

元原はそれを見つけると、懐かしそうに目を細めた。

「若い頃は、自分はずっと点を取れると思ってました。本気で」

サポーターから笑いが起こる。

「試合に出ればゴールを狙って、外したら次は決めるって思って。また外しても、次は絶対って思ってました」

それが元原太陽というストライカーだった。

何本外しても、次の一本を疑わない。

「そうやってるうちに、気づけば二十年以上経ってました」

そこで元原は、一度言葉を切った。

「でも、ずっと上手くいってたわけじゃありません」

怪我もした。

不調もあった。

試合へ出られない時間もあった。

年齢とともに、思い通りに動かなくなっていく身体とも向き合った。

「怪我もたくさんしました。復帰して、また怪我して。思ったように身体が動かなくなって……正直、何度も辞めようと思いました」

それでも辞めなかった。

理由はいつも同じだった。

「もう一回ピッチに立ちたい。もう一回、ゴールを決めたい。それだけでした」

今年の夏。

長いリハビリを終え、元原はようやく公式戦のピッチへ戻った。

「今年、夏に復帰できて……そこで、ゴールを決めることができました」

スタンドから大きな拍手が送られた。

あの日を覚えている者は多い。

長い時間を待ち続けた背番号32が、復帰したその試合でネットを揺らした。

「あの時は、本気で思いました。まだやれるって」

元原自身も、あの瞬間は疑っていなかった。

ここからまた試合に出られる。

もう一度、ストライカーとして戦える。

しかし結果的には、その一試合が今季最初で最後の公式戦になった。

「結果的には、あの試合が最後の公式戦になりました」

元原はわずかに視線を落とす。

「悔しいです」

その言葉だけは飾らなかった。

「もっと試合に出たかったし、もっとゴールを取りたかった」

声がほんの少しだけ揺れる。

それでも元原は顔を上げた。

「でも、最後の公式戦でゴールを決められた。それで今日、クラブがこういう試合まで用意してくれて……最後の最後に、また二点取れました」

「さすがっす!」

突然飛んだ声に、元原が思わずそちらを見る。

川崎だった。

「大志、今俺が喋ってるから」

スタンドから大きな笑いが起こった。

「すみません!」

川崎が勢いよく頭を下げる。

元原も吹き出した。

「でも、ありがとう」

笑いが少し収まったところで、元原は再びスタンドへ向き直った。

「今日、長谷川も坂本も玉縄も、本気で止めに来ました」

名前を呼ばれた三人が笑う。

「引退する三十九歳なんだから、もうちょっと優しくてもよかったと思います」

再びスタンドが笑いに包まれ、長谷川が「何言ってるんですか」とでも言いたげに両手を広げる。

元原も笑った。

だが、その表情はすぐに穏やかなものへ変わった。

「でも、嬉しかったです」

本気で守られた。

本気で競られた。

本気で止められた。

今日の試合に情けはなかった。

それこそが、元原が望んだ最後だった。

マルコから言われた言葉を思い出す。

――最後までサッカー選手でいろ。

「最後まで、一人のサッカー選手として相手してくれた。本当に、ありがとう」

今度はチームメイトたちへ向かって深く頭を下げた。

選手たちから大きな拍手が返される。

「それから、エストレヤ千葉にも本当に感謝しています。自分のキャリアの最後に、このクラブでプレーできてよかったです」

決して楽な一年ではなかった。

ほとんど試合に出られず、復帰しても継続してピッチへ立つことはできなかった。

それでもチームは最後にJ2優勝を果たし、J1昇格を決めた。

「最後のシーズンで優勝できました」

大きな拍手が響く。

「俺は来年、J1のピッチにはいません」

そこまで言ったところで、元原の声が少し詰まった。

一度マイクから顔を離し、呼吸を整える。

「……でも、みんなには思い切りやってきてほしいです」

元原は後ろにいる選手たちへ振り返った。

「俺よりずっと若い選手ばっかりなんで」

「佐久間さんもですか?」

中田が小さく口を挟んだ。

「おい!」

すぐに佐久間の声が飛び、スタンドがまた笑いに包まれる。

「佐久間も俺より二歳若いから」

「そこ強調しなくていいです!」

「まだ若手だな」

「違います!」

引退セレモニーの最中なのに、いつものチームと何も変わらない。

元原は声を上げて笑った。

「……こういう連中ですけど」

そして改めてスタンドを見る。

「来年も、エストレヤ千葉をよろしくお願いします」

この日一番と言っていいほどの大きな拍手が、スタジアム全体を包んだ。

ここまで元原は、何とか笑いながら話していた。

しかし、次の言葉を口にしようとして、完全に止まった。

「あと……」

喉が詰まる。

何度か瞬きをした。

「……すみません」

目元を手で拭う。

スタンドからは急かすような声など上がらない。

ただ静かな拍手だけが続いていた。

「俺、本当に……」

声が震える。

「本当に、幸せなサッカー選手だったと思います」

ついに涙が頬を伝った。

もう隠そうとはしなかった。

「ゴールを決めた時に、一緒に喜んでくれた人がいて……怪我してる時も、待ってくれた人がいて」

声が少しずつ崩れていく。

夏。

久しぶりに公式戦へ戻った時、スタジアム中から送られたあの拍手を今でも覚えている。

「もう一回戻ってこいって……ずっと言ってくれて」

そこで言葉が切れた。

元原は何度も目元を拭った。

「ありがとうございました」

深く頭を下げる。

「二十年以上……本当に、ありがとうございました」

「ありがとう、元原!」

「太陽ー!」

「お疲れさま!」

「ずっと忘れないぞ!」

次々と声が飛んでくる。

元原は頭を下げたまま、肩を震わせていた。

しばらくして、ようやく顔を上げる。

目は真っ赤だった。

「……以上です」

それでも最後には少し笑った。

「上手く喋れなくて、すみません」

そんなことはないと言うように、スタジアム全体から大きな拍手が返ってきた。

元原はもう一度、深く頭を下げた。

これで終わり。

そう思っていた。

しかし。

『元原選手』

天童くれはの声が響いた。

「はい?」

『もう少しだけ、お待ちください』

「え?」

元原が振り返る。

くれはは、何かを知っているようにわずかに笑っていた。

『最後に、元原選手へ花束をお渡ししたい方々がいらっしゃいます』

「……?」

何も聞かされていない。

元原が戸惑っていると、選手用通路の奥から人影が現れた。

最初に見えたのは、春子だった。

「……え?」

元原の動きが完全に止まる。

春子の隣には、二十一歳の長男。

十九歳の長女。

同じく十九歳の次女。

そして十七歳の次男。

家族全員が、五人揃ってピッチへ出てきた。

「……おい」

元原の声は、もう最初から震えていた。

春子は大きな花束を抱えている。

四人の子どもたちも笑っていたが、長女と次女はすでに涙を流していた。

次男も唇を噛み、必死に堪えている。

「聞いてないぞ……」

元原がくれはへ顔を向ける。

しかし、くれはは何も答えず微笑んだだけだった。

完全なサプライズ。

元原には最後まで知らされていなかった。

家族がゆっくりと近づいてくる。

元原はその場から一歩も動けなかった。

二十年以上、一緒に生きてきた妻。

そして、自分がサッカー選手として走り続ける間に生まれ、成長していった四人の子どもたち。

遠征で家を空けた。

代表活動で長く離れることもあった。

怪我で余裕を失い、家にいても家族へ気を配れなかった時期もあった。

それでも。

ずっと家族だった。

「太陽」

春子が目の前まで来た。

「……うん」

返事はほとんど声になっていない。

春子は花束を差し出した。

「お疲れさまでした」

その一言を聞いた瞬間。

元原の顔が崩れた。

昨日。

春子は、まだ言わなかった。

現役を引退すると家族へ伝えた夫に対し、すべてが正式に終わるまでは「お疲れさま」と言わないと決めていた。

試合が終わった。

最後の二得点を決めた。

サポーターへの挨拶も終わった。

もう本当に。

すべてが終わった。

「……っ」

「太陽?」

「……春子」

花束を受け取る。

その瞬間、もう耐えられなかった。

「……ありがと……」

声が完全に詰まった。

先ほどまで流していた涙とは比べものにならない。

元原は大きな花束を胸に抱えたまま顔を伏せた。

「……っ、あぁ……」

嗚咽が漏れ、肩が大きく震える。

三十九歳。

かつて日本代表のエースとして戦った男。

三度ワールドカップの舞台へ立ち、世界を相手に三度ネットを揺らしたストライカー。

その男が今、家族の前で子どものように泣いていた。

「親父……」

長男の声に、元原がゆっくり顔を上げる。

長男も泣いていた。

「お疲れ」

「……おう」

「格好よかったよ」

「……そうか」

「ずっと」

その最後の一言で、また涙が溢れた。

長女が泣きながら笑う。

「お父さん、泣きすぎ」

「……お前も泣いてるだろ」

「お父さんの方がすごいもん」

次女も目元を拭いながら笑った。

「本当にお疲れさま」

「……ありがとう」

そして最後に、次男が父親を見る。

父の復帰を誰よりも待ち続け、夏のゴールを見て、もう一度試合へ出る姿を期待していた息子だった。

「親父」

「……うん」

「今日、二点取ったね」

元原は涙を流したまま、少しだけ笑った。

「ああ」

「やっぱ、すげえよ」

「……だろ?」

「うん」

次男の目からも涙が落ちた。

「サッカー、今度絶対やろうな」

引退を家族へ伝えた夜に交わした約束。

元原はしっかり頷いた。

「……ああ。絶対な」

その時、春子が夫の隣へ立った。

「太陽」

「……何?」

「二十一年間」

元原を見る。

「よく頑張りました」

もう駄目だった。

「……うぁ……っ」

元原は花束を抱えたまま、春子へ抱きついた。

妻の肩へ顔を埋める。

そして、人目も気にせず号泣した。

「……ありがとう……」

何度も、何度も同じ言葉を繰り返す。

「ありがとう……春子……」

春子も夫の背中へゆっくりと腕を回した。

「うん」

「ずっと……ありがとう……」

「うん」

「……本当に……」

「分かってる」

春子の目にも涙が浮かんでいた。

「こちらこそ」

その間、スタンドから茶化すような声は一つも飛ばなかった。

ただ、温かな拍手だけが続いている。

選手たちも静かにその光景を見守っていた。

川崎は何度も目元を擦っている。

「……これ、無理だろ」

隣の戸部も鼻をすすった。

「家族出てくるのは反則っすよ……」

材木座に至っては、隠すことすらせず完全に泣いていた。

「元原殿ぉぉ……」

「お前が一番泣いてないか?」

ベニテスが苦笑する。

だが、その目も少し赤い。

郷田も、長谷川も、鬼塚も、何も言わず拍手を送っている。

比企谷八幡も少し離れた場所から、元原一家を静かに見つめていた。

長い時間が経ってから、元原はようやく春子から身体を離した。

それでも涙はまだ止まっていない。

大きな花束を抱え、妻と四人の子どもたちと一緒にスタンドへ向き直る。

そして家族全員が並んだところで、元原はもう一度深く頭を下げた。

「ありがとうございました!」

今度はマイクを使わなかった。

それでも声は、確かにスタンドへ届いた。

「ありがとう!」

「元原ー!」

「太陽ー!」

「お疲れさま!」

拍手と歓声が降り注ぐ。

無数に掲げられた背番号32のタオルが揺れている。

元原は涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、それでも笑っていた。

三十九歳。

元原太陽。

プロサッカー選手。

日本代表歴代得点ランキング十一位。

ワールドカップ三大会連続出場。

ワールドカップ通算三得点。

数え切れないほどの試合に出た。

数え切れないほどゴールを狙った。

怪我をして。

何度もリハビリをして。

そのたびにピッチへ戻ってきた。

現役最後のシーズンには、夏に長い時間を経て公式戦へ復帰し、その試合で一得点を残した。

シーズンの最後にはエストレヤ千葉の一員としてJ2優勝を経験した。

そして引退記念試合では、三十九歳になった今もストライカーであることを証明するように二得点を奪った。

最後の挨拶では、長い間応援してくれたサポーターと、最後まで一人の選手として扱ってくれた仲間たちへ感謝を伝えた。

そして本当の最後には。

二十一年間、ずっと隣にいてくれた春子と、サッカー選手として生きてきた自分を父親として見続けてくれた四人の子どもたちから、花束を受け取った。

もう次の試合はない。

もう背番号32としてピッチへ立つ日は来ない。

それでも最後に残った言葉は、後悔でも寂しさでもなかった。

ただ一つ。

ありがとう。

大勢のサポーターと仲間たち。

そして何より、大切な家族に見守られながら元原太陽の二十年以上にわたる現役生活は、この日、本当に幕を閉じた。