第461話 次の舞台へ
第461話 次の舞台へ
元原太陽が家族から花束を受け取り、春子の肩に顔を埋めて泣いている。
その姿を見守りながら、エストレヤ千葉の選手たちも静かに拍手を続けていた。
二十年以上、日本サッカー界の第一線を走り続けてきたストライカーの現役生活が、今、本当に終わろうとしている。
スタンドからは何度も元原の名前が呼ばれていた。背番号32のタオルが揺れ、涙を拭っているサポーターも少なくない。
比企谷八幡も、少し離れた場所からその光景を見つめていた。
「……終わりましたね」
隣にいた佐藤智成が静かに言った。
「そうですね」
八幡は短く返した。
元原太陽。
三十九歳。
今季限りで現役引退。
これで来季のエストレヤ千葉に、背番号32はいない。
その事実を頭の中で改めて確認した瞬間、八幡の思考は自然と次へ向かっていた。
今季、エストレヤ千葉のトップチームには三十人の選手がいた。
その一人である元原が引退する。
単純に数えれば二十九人。
だが、もちろんプロサッカーの編成は、そんな簡単な引き算では終わらない。
八幡はピッチの端に並ぶ選手たちへ視線を向けた。
郷田京。
玉縄幸三。
古賀悠斗。
村上渉。
葉山隼人。
長谷川智樹。
宇津木健太。
毛利良一。
高山俊樹。
橋本翔。
鬼塚純一郎。
坂本湊。
安原翼。
黒崎隼吾。
戸塚彩加。
エミリオ・アルバレス。
森川佑。
川崎大志。
戸部翔。
ダニエル・ロドリゲス。
佐久間浩二。
中田正和。
笹森正義。
塩川康文。
材木座義輝。
小林庄雅。
栗林宰三。
宍道務。
マティアス・ベニテス。
今季は、このメンバーでJ2を優勝した。
だが、来年も全員が同じユニフォームを着ている保証はない。
プロサッカーとは、そういう世界だった。
シーズンが終われば契約が動く。
クラブが契約更新を望む選手もいれば、そうではない選手もいる。選手の側が新しい環境を求めることもある。
まして今季のエストレヤ千葉は、J2優勝とJ1昇格を成し遂げた。
成果を出したということは、それだけ選手たちの評価も上がったということでもある。
J1クラブから声が掛かる者もいるだろう。
海外からオファーを受ける者が出ても不思議ではない。
若手も、中堅も、ベテランも、外国籍選手も。
立場は違っていても、プロである以上、誰にでも移籍の可能性がある。
「……何人残るんだろうな」
八幡が小さく呟いた。
「何が?」
佐藤が聞き返す。
「来季ですよ」
「ああ」
それだけで、佐藤も意味を理解した。
「元原さんの引退は決まった。そこは動かない」
「はい」
「でも、それ以外はこれからだな」
「ですね」
八幡は腕を組む。
「全員残れば、それはそれで編成は楽なんですけどね」
「そんな都合よくいかんだろ」
「ですよね」
佐藤が苦笑した。
「J1に上がったんだ。こっちが他クラブから選手を獲るだけじゃない。今度は、うちの選手も狙われる側になる」
「そこなんですよ」
J2優勝。
J1昇格。
クラブにとっては大きな成果だった。
だが、成果を出せば市場価値も変わる。
今年までは「昇格を目指すクラブ」の選手だった者たちが、来年からは「J1クラブの選手」になる。
見られ方も、扱われ方も変わっていく。
八幡の視線は、一人ひとりの選手へ向けられていた。
誰が残るのか。
誰が出るのか。
誰を残したいのか。
どのポジションを補強すべきなのか。
J1で戦うために、何が足りないのか。
センターバック。
サイドバック。
中盤。
ウイング。
ストライカー。
GK。
すべてを、もう一度見直す必要がある。
今季J2で通用した選手が、そのままJ1でも同じように通用するとは限らない。
逆に、J2では出場機会の少なかった選手が、相手との噛み合わせや戦い方によって、J1で重要な役割を担う可能性だってある。
「……面倒だな」
八幡が呟いた。
佐藤が横目で見る。
「お前、顔笑ってるぞ」
「気のせいです」
「いや、笑ってる」
「目が悪くなったんじゃないですか」
「五十九歳を舐めるな」
「年齢は関係ないでしょう」
佐藤が鼻で笑った。
だが八幡自身も分かっていた。
少し楽しみにしている。
来季はJ1。
日本国内最高カテゴリー。
今まで以上に強い相手。
高い個人能力。
速い判断。
細かな戦術。
対戦相手の分析量も、今年までとは比べものにならない。
そして補強。
J1で戦える選手を、国内だけでなく海外からも探さなければならない。
ブラジル。
アルゼンチン。
スペイン。
イタリア。
フランス。
オランダ。
これまで築いてきたネットワークを使い、映像を見て、データを洗い、必要なら現地まで足を運ぶ。
能力だけではない。
人間性。
環境への適応力。
家族。
契約条件。
すべてを見極めなければならない。
マティアス・ベニテスを獲得した時のように、必要ならまた国外へ飛ぶことになるだろう。
「比企谷」
「はい?」
「もう仕事のこと考えてるだろ」
八幡は答えなかった。
それだけで十分だったらしい。
「図星か」
「来季まで時間ないですからね」
「今日くらい元原さんの引退を見送れ」
「見送ってますよ」
「頭の半分は編成だろ」
「七割くらいです」
「増えてるじゃねえか」
佐藤が呆れたように笑う。
その時、スタンドからまた大きな拍手が起こった。
元原が家族と並び、サポーターへ深く頭を下げていた。
八幡もそちらへ視線を戻す。
「……元原さん」
佐藤が言った。
「最後までゴール取ったな」
「二点ですからね」
「三十九歳で」
「ポジショニングは最後まで落ちなかったです」
八幡は反射的に分析を始めていた。
「一歩目自体は全盛期より遅いです。でも、DFの視線が外れるタイミングを読むのが上手い。だから結果的に先に触れる」
「引退した選手まで分析するな」
「癖です」
「知ってる」
二人とも少し笑った。
やがて元原一家が、ゆっくりとピッチを回り始める。
元原はスタンドへ何度も手を振り、そのたびに頭を下げていた。
選手たちは少し後ろから、その姿についていく。
郷田。
鬼塚。
長谷川。
佐久間。
中田。
元原と同じく、ベテランと呼ばれる選手たち。
そのさらに後ろには、十九歳、二十歳、二十一歳といった若い選手たちの姿もある。
プロサッカーの時間は止まらない。
一人が去れば、次の選手が出てくる。
若手が成長する。
新しい選手が加入する。
別の選手は違うクラブへ移る。
それを毎年繰り返しながら、クラブは少しずつ形を変えていく。
「来季」
佐藤が言った。
「どうなると思う?」
「何がです?」
「このチーム」
八幡はすぐには答えなかった。
今ここにいるメンバー。
来季も全員が残っているとは思えない。
何人かは別の道を選ぶだろう。
海外へ行く者がいるかもしれない。
J1の別クラブへ移る者。
出場機会を求めてJ2やJ3へ移籍する者。
新しい挑戦を選ぶ者。
そして、自分の意思とは関係なく、契約という現実によってチームを離れる選手もいる。
「分かりません」
八幡は正直に答えた。
「今の時点じゃ」
「珍しく素直だな」
「未来予知まで仕事に入ってませんから」
「でも考えてるんだろ」
「もちろん」
八幡はピッチへ視線を向けた。
「誰が残っても、誰が出ても」
一度だけ言葉を切る。
「J1で戦えるチームにはしますよ」
佐藤が隣で笑った。
「言うようになったな」
「仕事なので」
「それ、戸塚の奥さんみたいだぞ」
「便利な言葉ですからね」
大型ビジョンには、今日の試合結果が映し出されていた。
**元原太陽 引退記念試合**
**3―3**
元原太陽、二得点。
三十九歳になっても、最後までストライカーだった。
その下には、今季エストレヤ千葉が残したもう一つの結果も表示されている。
**2026 J2 LEAGUE CHAMPIONS**
エストレヤ千葉。
勝ち点74。
二十三勝六分五敗。
最後は八連勝。
そして、J1昇格。
八幡はその文字を見上げた。
思えば、酷い始まりだった。
開幕五試合で勝利なし。
二分三敗。
勝ち点2。
最下位。
あの頃、このチームが最終節で優勝を争うなど、誰が想像できただろう。
選手を分析した。
相手を分析した。
補強した。
失敗もした。
修正した。
勝った。
また負けた。
それでも、少しずつ前へ進んだ。
そしてシーズン終盤。
七連勝で北海道フェニックスFCへ追いついた。
勝ち点71で並んだ状態で迎えた最終節。
首位と二位の直接対決。
勝たなければ優勝できない試合だった。
先制した。
追いつかれた。
勝ち越した。
また追いつかれた。
逆転された。
それでも材木座が3対3へ戻した。
そして後半46分。
戸部翔のフリーキック。
4対3。
八連勝。
J2優勝。
J1昇格。
「……長かったな」
八幡が小さく呟いた。
「何が?」
佐藤が聞き返す。
「今シーズンです」
「そりゃな」
「開幕の頃、本当に最下位でしたからね」
「思い出させるな。あの時は胃が痛かった」
「俺は普通でしたけど」
「お前は仕事しすぎて感覚壊れてるんだよ」
「失礼な」
二人の会話の向こうで、元原の引退セレモニーも少しずつ終わりへ向かっていた。
だが、八幡の頭の中には、もう新しいホワイトボードが浮かび始めている。
来季所属選手。
契約更新。
移籍。
補強。
外国籍枠。
ポジション別戦力。
年齢構成。
出場時間。
怪我の履歴。
プレースタイル。
J1対策。
キャンプ。
新戦術。
対戦相手。
考え始めれば、いくらでも項目が増えていく。
「……これから忙しくなるな」
八幡は誰にも聞こえないほどの声で呟いた。
優勝した。
昇格した。
J2では一番になった。
だが、次に待っているのはさらに上の舞台だ。
このクラブがJ1でどこまで戦えるのか。
まだ誰にも分からない。
元原太陽が最後にもう一度、サポーターへ向かって大きく手を振った。
スタンドから大きな拍手が返り、エストレヤスタジアムの空へ背番号32を呼ぶ声が響いていく。
八幡はその光景を静かに見届けた。
終わる選手がいる。
残る選手がいる。
去る選手もいるだろう。
新しく来る選手もいる。
サッカークラブとは、そうやって毎年少しずつ姿を変えていくものだ。
そして、比企谷八幡の仕事も終わらない。
八幡は小さく息を吐いた。
「さて」
隣にいた佐藤が横を見る。
「次はJ1か」
クラブ史に残るJ2優勝。
開幕最下位から始まり、最後は八連勝で頂点まで駆け上がった2026年シーズン。
長かったエストレヤ千葉のJ2での戦いは、ここで一つの区切りを迎える。
だが、物語が終わるわけではない。
次に待つのは、日本最高峰の舞台。
J1。
これまで以上に強い相手と、これまで以上に厳しい競争が待っている。
比企谷八幡とエストレヤ千葉の新しい戦いは、もう始まろうとしていた。
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# J2編 完