第44話 歪んだ現実
第44話 歪んだ現実
同日夜。
部屋は暗い。
テレビの光だけが、断続的に明滅している。
その光が当たるたびに、部屋の中の影が歪んで見えた。
**横浜マンゲールFC 0-3 エストレヤ千葉**
同じ映像。
何度も繰り返される勝利のシーン。
歓声。
笑顔。
祝福。
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「……チッ。」
万条富隆が舌打ちをする。
リモコンを握ったまま、テレビを睨む。
「なんでだよ……。」
低く、濁った声。
「なんで俺がいねぇんだよ……。」
画面の中には、自分はいない。
それがすべてだった。
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その少し後ろ。
部屋の隅。
光が届かない場所に、**万条こころ**は立っていた。
動かない。
動かないようにしている。
視線は下。
呼吸は浅い。
音を立てないように、必死に抑えている。
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「おい。」
呼ばれる。
こころの肩が小さく震える。
「来い。」
それだけ。
命令。
拒否という選択肢は、最初から存在しない。
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足を動かす。
一歩。
また一歩。
床に落ちた水で、足元が少し滑る。
それでも止まらない。
止まったらどうなるか、もう知っているから。
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距離が縮まる。
空気が変わる。
重くなる。
息が詰まる。
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「……なんだよ、その顔。」
すぐ近く。
こころは顔を上げない。
上げたら、何かが悪化する気がするから。
「……すみません。」
小さく。
それだけ。
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万条は少し笑う。
乾いた笑い。
「すぐ謝るよな。」
こころは何も言わない。
「謝れば済むと思ってんのか?」
返事はしない。
できない。
正解がないから。
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沈黙。
その沈黙が、じわじわと空気を圧迫する。
時間が長く感じる。
逃げ場はない。
どこにも。
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「なあ。」
万条が近づく。
さらに一歩。
距離がなくなる。
こころの呼吸が浅くなる。
胸が苦しくなる。
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「俺さ、今日出てねぇんだよ。」
こころは知っている。
テレビを見なくても分かる。
万条が出ていない日は、こうなるから。
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「分かってるよな?」
問いじゃない。
確認でもない。
ただの圧力。
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こころは、小さく頷く。
「……はい。」
それが精一杯。
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「なのにさ。」
万条の声が少し低くなる。
「なんでお前、そんな顔してんの?」
こころは気づく。
自分が何か“間違えた”ことに。
何がかは分からない。
でも、間違えた。
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「……すみません。」
また同じ言葉。
それしか出てこない。
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万条はしばらく黙る。
その沈黙が、さらに重い。
何が来るか分からない時間。
こころは、ゆっくりと意識を落とし始める。
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考えない。
感じない。
ここにいないようにする。
それが唯一の防ぎ方。
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頭の奥に、昔の景色が浮かぶ。
ライト。
歓声。
名前を呼ばれる声。
笑顔。
(……。)
一瞬だけ、胸が締め付けられる。
すぐに消す。
(違う。)
(あれは、もうない。)
戻れないものを思い出すと、壊れるから。
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残るのは、ただ一つ。
(お願い……。)
(お願い……。)
(お願い……。)
心の中で繰り返す。
何度も。
何度も。
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(これ以上……。)
(壊れませんように……。)
最初はそうだった。
でも――
途中から、変わる。
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(これ以上……。)
(何も感じませんように……。)
自分でも気づかないうちに。
願いが変わっている。
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テレビの音が、遠くで鳴っている。
「エストレヤ千葉、完封勝利です!」
歓声。
拍手。
喜び。
それらは、まるで別の世界の音だった。
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しばらくして。
空気が少しだけ変わる。
終わった、と分かる。
何が、とは考えない。
考えないようにする。
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こころは、その場に立ったまま。
動かない。
動けない。
ただ、呼吸を整える。
ゆっくり。
崩れないように。
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(……大丈夫。)
(まだ……大丈夫。)
自分に言い聞かせる。
それが本当かどうかは分からない。
でも、そう思わないと次に進めない。
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万条はソファに倒れ込む。
「……クソが。」
低く吐き捨てる。
テレビの光が、その顔を照らす。
そこにあるのは怒りだけじゃない。
**居場所を失いかけている人間の顔**だった。
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こころは元の位置に戻る。
静かに。
最初からそこにいたみたいに。
気配を消して。
存在を薄くして。
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同じ夜。
外では、勝利の余韻が続いている。
だが、この部屋には届かない。
光も。
声も。
救いも。
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ただ、
逃げ場のない関係だけが、
静かに、続いていた。