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第201話〜第220話

やはり俺のスカウト人生は間違っている。 — www.pixiv.net · All chapters

第201話〜第220話

## 第201話 出発前夜

その日の夜。

八幡は久しぶりに自宅へ戻っていた。

玄関を開けると。

「おかえり!」

すぐに声が飛んできた。

比企谷ソフィア。

満面の笑みで駆け寄ってくる。

「……ただいま。」

八幡が靴を脱ぐ間もなく、ソフィアは抱きついた。

「聞いたよ!」

「アルゼンチン行くんでしょ!?」

目が輝いている。

まるで自分が行くかのようなテンションだった。

「……情報早いな。」

「当たり前でしょ!」

「八幡のことなんだから!」

ソフィアはそのまま顔を近づける。

「いいなぁ……アルゼンチン…私の地元…」

「私も行きたい……」

「仕事だ。」

「わかってるよー!」

そう言いながらも、頬を膨らませる。

---

リビング。

スーツケースを開く八幡。

その横でソフィアが座り込む。

「何日くらい?」

「まだ分からない。」

「でも。」

「すぐ帰るとは思う。」

「……そっか。」

少しだけ、表情が曇る。

八幡は手を止めた。

「……何だ。」

「いや。」

ソフィアは少しだけ笑った。

「寂しいだけ。」

その言葉に。

八幡は何も言わなかった。

ただ。

静かにソフィアの頭へ手を置く。

「……すぐ帰る。」

ソフィアはその手に顔を擦り寄せた。

「うん。」

---

夜。

部屋の明かりは落ちている。

静かな時間。

ソフィアが、そっと八幡の手を引いた。

「ね。」

「今日は一緒に寝よ?」

「……いつもだろ。」

「今日は、特別。」

少しだけ甘えた声。

八幡は小さく息を吐いた。

「……わかった。」

---

寝室。

互いに無言のまま。

服を脱ぐ。

言葉はない。

ただ。

離れる前の時間を、確かめるように。

自然に距離が近づいていく。

ベッドに入る。

隣にいる体温。

それだけで、十分だった。

ソフィアが小さく呟く。

「……あったかい。」

八幡は何も言わない。

ただ、そっと肩を引き寄せた。

静かな夜。

二人の呼吸だけが、ゆっくりと重なっていく。

そのまま。

時間は静かに流れていった。

---

翌朝。

カーテンの隙間から光が差し込む。

ベッドの上。

八幡が目を開ける。

視界の端に入ったのは――。

床に散らばった服。

シャツ。

ソフィアのワンピース。

互いの服が無造作に落ちている。

昨夜のまま。

その中心に。

ソフィアがいた。

隣で静かに眠っている。

「……おはよ。」

少し寝ぼけた声。

目を開けたソフィアが、こちらを見る。

「おはよう。」

短いやり取り。

ソフィアは周りを見て、少しだけ笑った。

「……すごいね。」

「まあな。」

八幡も苦笑する。

しばらくして。

ソフィアが顔を近づける。

軽く唇が重なる。

「行っちゃうんだね。」

「ああ。」

一瞬の沈黙。

「……いってらっしゃい。」

「行ってくる。」

二人は小さく笑い合った。

その空気は、どこか柔らかくて。

そして少しだけ名残惜しかった。

---

スーツケースを持つ八幡。

玄関で振り返る。

ソフィアが手を振る。

「ちゃんと帰ってきてね!」

「ああ。」

扉が閉まる。

エストレヤ千葉、最後の補強。

その答えを探すための旅が、再び始まった。

## 第202話 ようこそ、アルゼンチンへ

翌日。

アルゼンチン。

ブエノスアイレス国際空港。

十数時間に及ぶフライトを終えた八幡は、到着ロビーへ足を踏み入れた。

「……やっと着いた。」

小さく息を吐く。

スーツケースを押しながら出口へ向かう。

すると。

遠くから女性の大きな声が聞こえた。

「¡Hachiman!」

(八幡!)

八幡が振り向く。

「……。」

思わず立ち止まった。

そこには十人近い人たちが集まっていた。

年配の夫婦。

中年の夫婦。

若い男女。

子どもたちまでいる。

全員が笑顔だった。

その中心にいた女性が勢いよく駆け寄ってくる。

「久しぶり!」

「元気だった!?」

スペイン語だった。

八幡も自然と笑う。

「久しぶりです。」

「元気ですよ。」

すると。

「本当に八幡だ!」

「全然変わってない!」

「ソフィアから写真は送られてきてたけど、本物だ!」

一斉に囲まれる。

肩を叩かれ。

握手され。

抱き締められる。

「よく来た!」

「アルゼンチンへようこそ!」

「ソフィアの旦那!」

「会いたかったぞ!」

空港とは思えないほどの歓迎ぶりだった。

八幡は少し苦笑する。

「……歓迎がすごいですね。」

年配の男性が豪快に笑った。

「当たり前だ!」

「ソフィアが大好きになった男なんだからな!」

周囲も大笑いする。

「毎回電話で自慢してくるからな!」

「八幡がこんなことしてくれた!」

「八幡が料理作ってくれた!」

「八幡が子どもと遊んでくれた!」

「聞き飽きるくらい聞かされた!」

「ははは!」

八幡は思わず頭をかいた。

「……そんなにですか。」

「そんなにだ!」

「毎回だ!」

また笑いが起こる。

その時。

年配の女性が優しく八幡の手を握った。

「ありがとう。」

「ソフィアを幸せにしてくれて。」

その一言に。

八幡は少しだけ照れたように目を逸らす。

「……俺の方が支えられてます。」

女性は嬉しそうに微笑んだ。

「その言葉だけで十分よ。」

そこへ、小さな男の子が八幡の前までやって来る。

「ねぇ!」

「サッカー上手なんでしょ!」

「ソフィアお姉ちゃんが言ってた!」

八幡はしゃがみ込む。

「昔な。」

「今は仕事の方が専門だ。」

「でも!」

「テレビで選手見つける人なんでしょ!」

「そうだ。」

「すげー!」

子どもたちの目が輝く。

その様子を見た親戚たちは笑顔になる。

「仕事で来たんだろ?」

一人の男性が尋ねる。

「ああ。」

「選手を見に来ました。」

「またソフィアから聞いたぞ。」

「世界中飛び回ってるって。」

八幡は苦笑した。

「仕事ですから。」

「仕事でも。」

「アルゼンチンへ来たなら今日は仕事禁止!」

「え?」

「まず家だ!」

「みんな待ってる!」

「歓迎会を開くぞ!」

「肉も焼いてる!」

「ワインもある!」

「ソフィアから『絶対に八幡をもてなして!』って連絡来てるからな!」

八幡は思わず空を見上げた。

「……なるほど。」

「あいつらしい。」

親戚一同が笑う。

「さあ!」

「ソフィアの旦那!」

「アルゼンチンへようこそ!」

親戚たちに囲まれながら。

八幡は空港を後にする。

仕事で訪れた異国の地。

だが、その最初に待っていたのは、ソフィアの家族とも言える親戚たちの、温かく賑やかな歓迎だった。

## 第203話 アルゼンチン流の歓迎

その日の夕方。

ソフィアの親戚の家。

庭へ一歩足を踏み入れた八幡は、思わず足を止めた。

「……。」

広い庭。

炭火の香り。

大きなグリルでは分厚い肉が何枚も焼かれている。

ソーセージ。

野菜。

テーブルには色鮮やかな料理が並び、子どもたちは庭中を走り回っていた。

さらに。

「おーい!」

「八幡が来たぞー!」

誰かが叫ぶ。

その瞬間。

「「「おおーーー!!」」」

庭中から歓声が上がった。

八幡は思わず苦笑する。

「……本当に歓迎会なんですね。」

「もちろんだ!」

「今日は主役だからな!」

「遠慮するな!」

次々と親戚が集まってくる。

握手。

ハグ。

肩を叩かれる。

「また背が大きくなったか?」

「いや、変わってません。」

「日本は暑いのか?」

「今年はかなり暑いです。」

「子どもたちは元気か?」

「元気です。」

「ソフィアも?」

「毎日元気ですよ。」

その答えだけで、親戚たちは嬉しそうに笑う。

---

そこへ。

白髪交じりの男性が大皿を持ってきた。

「八幡。」

「今日はたくさん食べろ。」

「ありがとうございます。」

皿を見る。

分厚い牛肉。

香ばしい香りが立ち上る。

「アルゼンチンに来たら。」

「まずは肉だ!」

周囲が大笑いする。

八幡も笑みを浮かべた。

「いただきます。」

一口。

噛んだ瞬間。

肉汁があふれる。

「……美味い。」

その一言に。

親戚たちは拍手した。

「だろ!」

「もっと食え!」

「あっ、ワインも!」

「いや、仕事があるので控えます。」

「真面目だなぁ!」

また笑いが起きる。

---

食事が進むにつれ。

話題は自然とソフィアになった。

「ソフィア。」

「日本語はまだ勉強してるのか?」

「毎日勉強しています。」

「今ではかなり話せますよ。」

「本当か!」

「八幡が先生なんだろ?」

「俺も少し教えてます。」

「優しいな。」

年配の女性が目を細める。

「昔からあの子は。」

「好きになったら一直線だったからね。」

「八幡を紹介された時も。」

「この人と結婚するって言ってたもの。」

八幡は苦笑する。

「……実際に言われました。」

「ははは!」

親戚一同が大笑いした。

---

そこへ、小学生くらいの男の子が駆け寄ってくる。

「八幡!」

「サッカーやろう!」

「今?」

「今!」

周りの子どもたちも集まる。

「やろう!」

「やろう!」

八幡は周囲を見る。

親戚たちは全員笑っていた。

「仕事は明日だ!」

「今日は遊べ!」

「そうそう!」

「子どもたちの相手も仕事だ!」

八幡は額に手を当てる。

「……参ったな。」

苦笑しながら立ち上がる。

「少しだけだからな。」

「やったー!」

子どもたちは一斉に歓声を上げた。

庭にはボールが転がり。

夕暮れのアルゼンチンに、笑い声が響く。

八幡はボールを足元へ置くと、小さく笑った。

「仕事で来たはずなんだけどな。」

その呟きに。

周囲の親戚たちは顔を見合わせる。

そして。

「ははははは!」

大きな笑い声が庭いっぱいに広がった。

## 第204話 視察する選手

ボール遊びも終わり。

日が沈み始めた頃。

庭では再び食事が始まっていた。

八幡はグラスに入ったジュースを飲みながら、一息つく。

すると。

ソフィアの叔父が椅子へ腰掛けた。

「八幡。」

「今回は仕事なんだろ?」

「ああ。」

「誰を見に来たんだ?」

その一言で。

周りにいた親戚たちも興味津々で集まってくる。

「また凄い選手?」

「代表選手?」

「有名な奴?」

質問が次々と飛んでくる。

八幡は苦笑した。

「まだ分かりません。」

「だから来ました。」

「なるほど。」

叔父は笑う。

「それで。」

「誰なんだ?」

八幡は少し考えてから答えた。

「アルゼンチン二部の。」

「二十三歳。」

「センターフォワードです。」

「二部?」

何人かが驚いた表情を見せる。

「一部じゃないのか?」

「はい。」

「二部です。」

「珍しいな。」

八幡は頷く。

「偶然見つけました。」

「映像を見たら。」

「気になったんです。」

叔父が腕を組む。

「どんな選手なんだ?」

八幡は頭の中で映像を思い浮かべる。

「ポストプレーは。」

「うちのFWには及びません。」

「でも。」

「ゴール前の落ち着き。」

「決定力。」

「シュート精度。」

「スピード。」

「そこは非常に高い。」

親戚たちも真剣に聞いていた。

「点取り屋か。」

「そんな感じです。」

「裏への飛び出しも上手い。」

「一瞬の駆け引きもできる。」

「ゴール前では。」

「かなり嫌なタイプです。」

叔父が頷く。

「じゃあ。」

「何で二部なんだ?」

その質問に。

八幡は静かに答える。

「それが。」

「俺も気になっています。」

「能力だけ見れば。」

「もっと上でやれてもおかしくない。」

「でも。」

「二部にいる。」

「しかも。」

「移籍金も安い。」

親戚たちは顔を見合わせた。

「何か理由があるのか。」

「多分。」

「だから。」

「それを確かめに来ました。」

叔父は満足そうに笑う。

「映像だけで決めない。」

「昔から変わらないな。」

「選手は。」

「直接見ないと分からないことがあります。」

「人間性。」

「周囲との接し方。」

「試合中の声。」

「練習態度。」

「そういうところが。」

「最後は一番大事です。」

その言葉に。

親戚たちは静かに頷いた。

「だからソフィアも。」

「あんなに八幡を尊敬してるんだな。」

八幡は少し照れたように笑う。

「それは。」

「買いかぶりですよ。」

すると。

後ろから女性の声が聞こえた。

「ソフィアなら。」

『絶対そんなことない!』

って言うわよ。」

その一言で。

庭中に笑い声が響いた。

八幡も肩をすくめながら笑う。

明日からはいよいよ本来の目的。

アルゼンチン二部でプレーする、二十三歳のストライカーとの対面が待っていた。

## 第205話 まさかの繋がり

庭では笑い声が絶えない。

肉の焼ける香りが漂う中。

ソフィアの叔父がふと思い出したように口を開いた。

「そういえば。」

「その選手。」

「名前は何て言うんだ?」

周りの親戚たちも興味津々だった。

「そうだ。」

「誰なんだ?」

「有名な選手なのか?」

八幡はジュースを一口飲み、静かに答えた。

「名前は――。」

一拍置く。

「**マティアス・ベニテス**。」

その瞬間だった。

「…………。」

庭が静まり返る。

さっきまで騒いでいた子どもたちまで、不思議そうに大人の顔を見上げる。

八幡は違和感を覚えた。

「……どうしました?」

誰も答えない。

全員が顔を見合わせている。

やがて。

ソフィアの叔父が恐る恐る尋ねた。

「今……。」

「マティアス・ベニテスって言ったか?」

「ああ。」

「二十三歳のセンターフォワードです。」

再び沈黙。

次の瞬間。

「えぇぇぇぇぇっ!?」

庭中に大声が響いた。

八幡が目を瞬かせる。

「……何です?」

叔母が両手で頭を抱える。

「ちょっと待って!」

「マティアスって!」

「うちのマティアスじゃない!?」

「まさか!」

別の男性も立ち上がる。

「いや!」

「年齢も同じだ!」

「二十三歳!」

「サッカー選手!」

「二部クラブ!」

八幡は思わず聞き返す。

「……知ってるんですか?」

叔父が苦笑しながら頭を掻いた。

「知ってるも何も……。」

「親戚だ。」

「……は?」

八幡の思考が一瞬止まる。

「親戚?」

「そうだ。」

叔父は笑いながら頷く。

「俺たちの親戚。」

「ソフィアから見ても親戚になる。」

「小さい頃は親戚の集まりにも来てたぞ。」

「昔からサッカーしかしない子だった。」

周囲も一斉に頷く。

「あいつか!」

「なるほど!」

「あのマティアスだったのか!」

「テレビでは何回か見たけど!」

「まさか八幡が見に来るとは!」

八幡は苦笑した。

「……世界って狭いな。」

叔父は大笑いする。

「狭すぎる!」

「まさかソフィアの旦那が。」

「親戚をスカウトしに来るなんてな!」

庭中が笑いに包まれる。

八幡も肩をすくめた。

「偶然ですよ。」

「狙ったわけじゃありません。」

「分かってる!」

「だから面白いんだ!」

叔父は笑いながら八幡の肩を叩いた。

「だったら紹介してやる。」

「本人もびっくりするだろうけどな。」

八幡は静かに頷く。

「お願いします。」

まさかの偶然。

エストレヤ千葉が最後の補強候補として追っていたストライカー。

**マティアス・ベニテス。**

その選手は、ソフィアの親戚だった。

## 第206話 親戚のマティアス

「親戚……?」

八幡はまだ少し信じられない表情だった。

叔父は笑いながら頷く。

「ああ。」

「しかも。」

「もう結婚してるぞ。」

「結婚?」

八幡は少し驚く。

資料には家族構成までは載っていなかった。

「はい。」

「マティアスが二十歳の時にな。」

「相手は幼馴染。」

「名前は――」

**ルシア・ベニテス。**

「旧姓は、**ルシア・アルバロ**だ。」

その名前を聞いた瞬間。

八幡は少し考える。

「……どこかで聞いたような。」

すると。

叔母が笑った。

「そりゃ知ってるかもね。」

「昔。」

「アルゼンチンじゃ結構有名だったから。」

「モデルだったのよ。」

「モデル?」

「ああ。」

叔父が頷く。

「若い頃から人気があってな。」

「雑誌。」

「テレビ。」

「広告。」

「色んな仕事をしてた。」

「アルゼンチン国内じゃ知らない人はいないくらいだった。」

「ルシアは今二十六歳。」

「マティアスより三歳年上なんだ。」

「二人は幼馴染で。」

「ルシアが二十三歳。」

「マティアスが二十歳の時に結婚した。」

「結婚して。」

「名字がアルバロからベニテスになった。」

八幡は少し驚く。

「モデルを引退したんですか。」

「そう。」

叔母が優しく微笑む。

「結婚を機にね。」

「本人が。」

『家庭を一番大事にしたい。』

そう言って、迷いなく引退したのよ。」

周囲の親戚も懐かしそうに笑う。

「昔から仲良かったものね。」

「幼稚園から一緒だった。」

「ずっと一緒に育ってきた。」

「付き合う前から。」

「あの二人は絶対結婚するって。」

「親戚みんな思ってた。」

---

八幡は静かにメモを取る。

「子どもは?」

「いる。」

叔父は笑顔になる。

「長男。」

「二歳。」

「かわいいぞ。」

「マティアスなんか。」

「完全に親バカだ。」

周囲から笑い声が上がる。

「試合が終わったら真っ先に帰る。」

「休みの日は一日中息子と遊んでる。」

「スマホの写真も子どもばかり。」

「ルシアも呆れてるくらい。」

「いや。」

「ルシアも同じだけどな。」

また笑いが起こる。

---

八幡は静かに資料を閉じた。

「家庭は。」

「円満なんですね。」

叔父は即答した。

「ああ。」

「夫婦仲は本当にいい。」

「喧嘩したなんて聞いたことがない。」

「マティアスは。」

「家族第一。」

「サッカーももちろん大事。」

「でも。」

「家族を何より大切にする男だ。」

八幡は小さく頷く。

「……なるほど。」

その情報は。

スカウトとして非常に重要だった。

プレーだけではない。

家庭環境。

人間性。

責任感。

すべてが選手としての評価につながる。

叔父がニヤリと笑う。

「どうだ?」

「ますます会いたくなっただろ?」

八幡も珍しく笑みを浮かべた。

「ああ。」

「明日が。」

「少し楽しみになりました。」

その言葉に親戚たちは満足そうに笑い合った。

明日エストレヤ千葉最後の補強候補、そしてソフィアの親戚でもある。

**マティアス・ベニテス。**

八幡は、ついに本人と対面することになる。

## 第207話 練習見学

翌日。

午前九時。

ブエノスアイレス郊外。

アルゼンチン二部クラブの練習場。

八幡はクラブスタッフに案内され、グラウンド脇へ立っていた。

青く澄んだ空。

芝の状態は良い。

すでに何人もの選手がウォーミングアップを始めている。

「今日は通常練習です。」

クラブスタッフが説明する。

「ありがとうございます。」

八幡は静かに頷いた。

首からはクラブの許可証。

手にはタブレットとノート。

視線はすでにピッチへ向いていた。

今日は会話が目的ではない。

まずは。

**普段の姿を見る。**

それが八幡のやり方だった。

---

しばらくして。

一人の選手がグラウンドへ姿を現す。

「……。」

八幡の視線が止まる。

黒髪。

引き締まった体。

背番号9。

「マティアス・ベニテス……。」

映像で何度も見た男だった。

実際に見るのは初めて。

スタッフや選手へ一人ひとり笑顔で挨拶している。

グラウンドに入る前には、芝へ軽く触れ、小さく頭を下げた。

八幡はその様子を黙って見つめる。

「……礼儀正しい。」

昨日聞いた話と一致していた。

---

ウォーミングアップ開始。

マティアスは先頭に立つわけではない。

だからといって後ろでもない。

自然に周囲へ声を掛けながら走る。

若手選手が遅れそうになると。

「落ち着いて。」

「自分のペースでいい。」

スペイン語で声を掛ける。

若手が笑顔で頷いた。

八幡はメモを書く。

**『周囲への声掛けあり。』**

**『年下への接し方が自然。』**

---

ボール回し。

テンポが速い。

マティアスはワンタッチ。

ツータッチ。

無理に目立とうとはしない。

リズムを崩さない。

「……。」

ボールを失った。

その瞬間。

真っ先に切り替える。

全力でプレス。

奪い返す。

すぐ味方へ預ける。

八幡はまた書く。

**『攻守の切り替えが非常に速い。』**

---

次はシュート練習。

右足。

左足。

どちらも迷いなく振り抜く。

ネットが何度も揺れる。

「やっぱり。」

「シュートは上手い。」

映像で受けた印象は間違っていなかった。

GKが反応できないコースへ。

正確に蹴り込む。

---

紅白戦。

マティアスは最前線。

CBを背負う。

一度預ける。

裏へ抜ける。

また受ける。

味方がパスを出す。

ゴール。

次の場面。

今度はポストプレー。

落とす。

味方がシュート。

ゴール。

「……。」

八幡は静かに見続ける。

ポストプレーは悪くない。

だが。

「材木座ほどではない。」

昨日の評価通りだった。

しかし。

ゴール前へ入るタイミング。

一瞬の動き出し。

フィニッシュ。

そこは。

「かなり高い。」

八幡は小さく呟いた。

---

練習はまだ続く。

八幡はノートを閉じない。

一つひとつ。

細かな動き。

仲間との会話。

監督の指示への反応。

すべてを書き留めていく。

まだ結論は出さない。

今日は。

選手としてだけではない。

**一人の人間としてのマティアス・ベニテス**を見極めるための一日だった。

## 第208話 クラブ会長

紅白戦が終わる。

選手たちは給水を取りながら、次のメニューへ移っていく。

八幡はノートへ静かに書き込んでいた。

「……動き出しは一級品。」

「フィニッシュも高水準。」

「守備も最低限はやる。」

その時だった。

遠くから怒鳴り声が響く。

「何をやってる!」

グラウンドの空気が一変する。

選手たちの表情が固まる。

スタッフも口を閉ざした。

八幡は声のした方を見る。

スーツ姿の中年男性が、数人の取り巻きを連れて歩いてくる。

クラブスタッフが小さな声で呟いた。

「……会長です。」

八幡は黙って様子を見る。

---

会長はピッチへ近づくなり、監督を呼びつけた。

「監督!」

監督がすぐに駆け寄る。

「はい。」

「またマティアスを使っているのか?」

「コンディション確認も兼ねて――」

最後まで言わせなかった。

「私は言ったはずだ!」

「どうせ売る選手だ!」

「怪我でもされたらどうする!」

監督は何も言えない。

周囲の選手たちも俯いていた。

---

会長はマティアスを指差した。

「お前!」

「今日はもう終わりだ!」

「ベンチへ下がれ!」

マティアスは静かに答えた。

「……分かりました。」

反論はしない。

帽子を取るように軽く頭を下げ、そのままピッチの外へ歩いていく。

その背中を見ても、会長は吐き捨てた。

「商品なんだから勝手なことをするな。」

八幡の眉がわずかに動く。

「……商品。」

その言葉だけを小さく繰り返した。

---

会長は今度は監督へ向き直る。

「スポンサーも言っている。」

「高く売れる選手は壊すな。」

「分かったな?」

「……はい。」

監督は短く答えるしかなかった。

会長は満足そうに頷くと、そのまま取り巻きを連れて去っていく。

---

姿が見えなくなると。

グラウンドには重苦しい空気だけが残った。

誰も笑わない。

誰も話さない。

若手選手が小さくため息をつく。

監督は帽子を深くかぶり直した。

「練習を再開する。」

その一言だけだった。

---

八幡はクラブスタッフへ小さく尋ねる。

「……いつもですか。」

スタッフは苦い顔をした。

「ええ。」

「最近は特に。」

「経営が苦しいので。」

「会長は選手を資産としか見ていません。」

「スポンサーの意向も強くて……。」

八幡は静かに頷く。

昨日聞いた話。

**財政難。**

**主力の売却。**

それは事実だった。

しかし。

実際に目の当たりにすると印象はまるで違う。

八幡は視線をベンチへ向けた。

マティアスは文句一つ言わず、チームメイトの練習を見守っている。

悔しさはあるはずだ。

それでも、チームの空気を乱さないよう静かに座っていた。

「……。」

八幡はノートを開き、一行だけ書き加える。

**『困難な環境でも感情的にならず、チームを優先できる。精神面は高く評価。』**

その評価は、プレー以上に八幡の心へ残った。

## 第209話 現場の本音

午前練習が終わる。

選手たちは給水を取り、それぞれ談笑しながらクールダウンへ向かっていた。

マティアスも若手選手に何か声を掛けられ、笑顔で応えている。

その姿を見つめながら、八幡は隣に立つクラブスタッフへ静かに声を掛けた。

「一つ、聞いてもいいですか。」

スタッフは頷く。

「何でしょう。」

八幡は視線をマティアスから外さない。

「……正直に答えてください。」

「はい。」

「現場の人間からしたら。」

「マティアスを売りたくないですよね。」

その質問だった。

スタッフは一瞬も迷わなかった。

「もちろんです。」

即答。

あまりにも早い返事だった。

「監督も。」

「コーチも。」

「フィジカルコーチも。」

「分析担当も。」

「クラブスタッフも。」

「全員、そう思っています。」

八幡は静かに頷いた。

「やっぱり。」

スタッフは苦笑する。

「彼は、このチームのエースです。」

「点を取るだけじゃありません。」

「若手の面倒も見ます。」

「練習も最後まで残ります。」

「文句も言いません。」

「サポーターからも本当に愛されています。」

少しだけ間を置く。

「だから。」

「現場の人間で放出を望んでいる者は、一人もいません。」

八幡はマティアスを見る。

若手選手が失敗すると、笑いながら肩を叩いて励ましている。

昨日、親戚から聞いた話と一致していた。

「……それなら。」

八幡が口を開く。

「どうして放出なんです。」

スタッフの表情が曇る。

「スポンサーだけじゃないんです。」

「?」

「もっと……個人的な理由があります。」

八幡はスタッフへ視線を向けた。

「話せる範囲で構いません。」

スタッフは周囲を見回す。

他に人がいないことを確認すると、小さく息を吐いた。

「この話は。」

「外ではあまり知られていません。」

「ですが。」

「クラブ内では有名です。」

八幡は黙って聞く。

「会長は。」

「マティアスの奥さん。」

「ルシアさんの熱烈なファンでした。」

八幡の眉がわずかに動く。

「ルシアさんは。」

「結婚前。」

「ルシア・アルバロ。」

「アルゼンチンでは有名なモデルでした。」

「雑誌。」

「テレビ。」

「広告。」

「数え切れないほど出演していました。」

スタッフは苦笑する。

「会長も。」

「イベントへ何度も足を運んでいました。」

「スポンサーという立場も利用して。」

「何度も近づこうとしていたそうです。」

八幡は静かに尋ねる。

「ファンだっただけですか。」

スタッフは首を横に振る。

「違います。」

「本気でした。」

「……。」

「結婚まで考えていたそうです。」

グラウンドに吹く風だけが聞こえる。

「ですが。」

「ルシアさんが選んだのは。」

「幼い頃から一緒に育ったマティアスでした。」

「マティアスが二十歳。」

「ルシアさんが二十三歳。」

「二人は結婚しました。」

スタッフは苦々しく笑う。

「ちなみに。」

「会長は現在六十二歳です。」

八幡は何も言わない。

「もちろん。」

「ルシアさんは最初から相手にもしていません。」

「マティアス一筋でしたから。」

「ですが。」

「会長は納得できなかった。」

スタッフは小さく拳を握る。

「それ以来です。」

「マティアスへの態度が変わったのは。」

「表向きは。」

『スポンサーの意向。』

『経営判断。』

そう説明しています。

「でも。」

スタッフは静かに首を横へ振った。

「現場の人間は。」

「誰もそう思っていません。」

「逆恨みです。」

その言葉には怒りが滲んでいた。

八幡は再びマティアスへ目を向ける。

その本人は何も知らない若手と笑い合い、ボールを蹴っている。

チームの空気を明るくしようとしている姿が印象的だった。

八幡は静かにノートを開く。

一行だけ書いた。

**『現場評価は極めて高い。放出理由は競技面ではなく、経営・会長個人の事情による可能性が高い。』**

ノートを閉じる。

「……ありがとうございます。」

スタッフは小さく頭を下げた。

「比企谷さん。」

「もし彼を獲得できるなら。」

「お願いがあります。」

「何ですか。」

「サッカーだけに集中できる環境を。」

「どうか与えてあげてください。」

八幡は迷わず答えた。

「ああ。」

「そのために、俺はここまで来ました。」

その一言を聞いたスタッフは、ようやく少しだけ安堵したように微笑んだ。

## 第210話 もう一人の候補

練習が終わる。

マティアスはチームメイトと談笑しながらクラブハウスへ戻っていく。

八幡はその背中を最後まで見送った。

今日は話しかけない。

それが最初から決めていたことだった。

映像。

練習。

人間性。

現場の評価。

十分な収穫があった。

「……今日はこれでいい。」

八幡は静かに呟き、クラブスタッフへ頭を下げた。

「ありがとうございました。」

「また来ます。」

「こちらこそ。」

スタッフも笑顔で送り出す。

---

ホテルへ戻る途中。

夕暮れのブエノスアイレス。

車窓から街並みを眺めていると、スマートフォンが震えた。

画面には。

**国際電話**

エストレヤ千葉。

国内スカウト主任からだった。

八幡はすぐに通話へ出る。

「比企谷です。」

『お疲れ様です。』

『お時間大丈夫でしょうか。』

「ああ。」

「報告を。」

『はい。』

『J3の三十歳のFWですが、さらに詳しく映像を見直しました。』

八幡はホテルへ向かう車内でメモ帳を開く。

---

『まず。』

『シュート精度ですが。』

『以前より高いと思っていましたが……。』

『細かく分析すると。』

『正直、そこまで高くありません。』

八幡は頷く。

「外す場面も多かったか。」

『はい。』

『決定力は平均以上ですが。』

『シュートそのものの精度は突出していません。』

「なるほど。」

八幡は書き留める。

---

『ただし。』

国内スカウトの声色が変わる。

『裏抜けは非常に優秀です。』

『タイミング。』

『駆け引き。』

『一瞬の加速。』

『どれもJ3では頭一つ抜けています。』

八幡は映像を思い出す。

確かに。

何度も。

完璧なタイミングで最終ラインを突破していた。

問題は。

そこへ誰も出せなかったこと。

『出し手がいれば。』

『もっと得点数は伸びると思います。』

「同感だ。」

八幡も即答した。

---

『守備面ですが。』

『意識は悪くありません。』

『前線から追います。』

『ただ。』

『献身的というほどではありません。』

『平均より少し上。』

『そんな印象です。』

「分かった。」

『守備だけで評価されるタイプではありません。』

「本職は点を取ることだからな。」

『はい。』

---

八幡はさらに尋ねる。

「性格は。」

国内スカウトは少し笑った。

『面白い選手でした。』

「?」

『普段は。』

『非常に陽気です。』

『誰とでも話します。』

『冗談も好きです。』

『ロッカールームではムードメーカーですね。』

八幡は黙って聞く。

『ですが。』

『ピッチへ入ると。』

『別人になります。』

「別人?」

『はい。』

『ものすごく熱いです。』

『味方を鼓舞します。』

『負けず嫌いです。』

『審判へ文句を言うタイプではありませんが。』

『試合への執着心はかなり強いですね。』

『点を取るためなら身体も張ります。』

『熱血漢です。』

八幡は小さく笑った。

「普段とのギャップがあるのか。」

『かなりあります。』

『クラブでは。』

『"試合になると人格が変わる"なんて言われていました。』

二人とも少し笑う。

---

通話が終わる。

ホテルへ向かう車の中。

八幡はノートを開いた。

候補は二人。

**マティアス・ベニテス。**

・23歳

・決定力◎

・シュート精度◎

・スピード◎

・ポストプレー○

・人間性◎

・家族思い

・現場評価◎

そして。

**J3・30歳FW。**

・裏抜け◎

・一瞬の加速◎

・シュート精度△

・守備意識○

・陽気な性格

・試合では熱血漢

・移籍希望

八幡はノートを閉じる。

「……ますます迷うな。」

どちらも魅力がある。

最後の補強。

その答えを出すまで、八幡はまだ結論を急がなかった。

## 第211話 初めての会話

翌日。

午前。

八幡は再びクラブの練習場を訪れていた。

昨日と同じように受付を済ませ、グラウンドへ向かう。

しかし。

「あれ……。」

ピッチを見ると。

すでに練習は始まっていた。

紅白戦。

マティアスが最前線でプレーしている。

「今日は最初から出ているのか。」

八幡は静かにグラウンド脇へ立つ。

昨日と変わらず。

マティアスはよく走る。

味方へ声を掛ける。

裏へ抜ける。

前線から守備も怠らない。

一本。

裏へ飛び出す。

味方のスルーパス。

GKとの一対一。

右足。

ゴール。

ネットが揺れる。

「ナイス!」

味方が駆け寄る。

マティアスは笑いながら全員とハイタッチを交わした。

その姿を見て。

八幡は昨日よりも一つ確信を深める。

「……チームメイトから信頼されてる。」

プレーだけではない。

自然と輪の中心にいる。

それは映像では分からない部分だった。

---

約二時間後。

練習終了。

選手たちは汗を拭きながらクラブハウスへ戻っていく。

マティアスもボールを拾い、若手へ渡してから歩き始めた。

「Gracias.(ありがとう。)」

「De nada.(どういたしまして。)」

最後まで笑顔だった。

八幡は小さく息を吐く。

「……今だな。」

ゆっくり歩き出す。

マティアスの前で立ち止まった。

「Hola.(こんにちは。)」

突然スペイン語で話しかけられ。

マティアスは少し驚いて振り返る。

「……?」

「初めまして。」

「エストレヤ千葉。」

「強化部国際スカウト兼分析官。」

八幡は名刺を差し出した。

「比企谷八幡です。」

マティアスは名刺を見る。

次の瞬間。

目を丸くした。

「……日本のクラブ?」

「そうです。」

マティアスは慌ててタオルを肩へ掛け直し、両手で名刺を受け取る。

「失礼しました。」

「マティアス・ベニテスです。」

二人は固く握手を交わした。

八幡はその手の感触を確かめながら微笑む。

「昨日から練習を見させてもらっています。」

「そうだったんですか。」

「はい。」

「いいプレーでした。」

マティアスは少し照れたように笑う。

「ありがとうございます。」

「まだまだですが。」

八幡は首を横に振る。

「謙遜する必要はありません。」

「あなたには。」

「興味があります。」

その一言に。

マティアスの表情が少しだけ引き締まった。

「……そう言っていただけるのは嬉しいです。」

「もし時間があれば。」

八幡は続ける。

「少し話をしませんか。」

「もちろんです。」

マティアスは迷わず頷いた。

「ちょうど練習も終わりました。」

「少しなら時間があります。」

八幡も小さく頷く。

「ありがとうございます。」

ついに。

エストレヤ千葉最後の補強候補。

マティアス・ベニテスとの、本当の意味での最初の会話が始まろうとしていた。

## 第212話 初対面

クラブハウスのテラス。

木製のテーブルを挟み、八幡とマティアスは向かい合って座っていた。

スタッフがコーヒーを二人の前へ置く。

「ありがとう。」

マティアスが笑顔で礼を言う。

スタッフも笑顔で去っていった。

そのやり取りを見ていた八幡は、小さく頷く。

自然だ。

無理をしている様子がない。

誰に対しても同じ接し方。

そういう人間なのだろう。

---

マティアスが先に口を開いた。

「まさか。」

「日本のクラブの方が来るとは思いませんでした。」

「それも。」

「自分を見に。」

八幡はコーヒーを一口飲む。

「偶然。」

「映像を見つけました。」

「そこからです。」

「偶然……。」

マティアスは苦笑した。

「人生って分からないですね。」

「そうですね。」

短いやり取りだった。

だが、不思議と話しづらさはない。

---

八幡はストレートに切り出した。

「昨日と今日。」

「あなたの練習を見ました。」

「ありがとうございます。」

「映像も。」

「かなり見ています。」

マティアスは少し驚く。

「そんなにですか。」

「三部時代から。」

その言葉に。

マティアスは思わず笑った。

「そこまで見る人。」

「初めてですよ。」

八幡も少し笑う。

「俺は。」

「良い試合だけ見ても意味がないと思ってます。」

「悪い試合も。」

「失敗した試合も見る。」

「そうしないと。」

「本当の評価はできません。」

マティアスは静かに頷いた。

「なるほど。」

「だから。」

「昨日もずっと見ていたんですね。」

「はい。」

---

少し沈黙が流れる。

マティアスが尋ねた。

「一つ。」

「聞いてもいいですか。」

「どうぞ。」

「自分の。」

「どこを評価してくれたんですか。」

八幡は迷わなかった。

「動き出し。」

「裏抜け。」

「シュート。」

「ゴール前の落ち着き。」

「全部です。」

マティアスは静かに聞いている。

「あと。」

「守備をさぼらない。」

「若手への接し方。」

「昨日。」

「全部見ました。」

「……。」

「そういう部分も。」

「スカウトには大事です。」

マティアスは照れくさそうに笑った。

「プレーだけじゃないんですね。」

「むしろ。」

「人間性の方が重要なこともあります。」

「どれだけ上手くても。」

「チームを壊す選手はいりません。」

その言葉に。

マティアスは真っ直ぐ八幡を見た。

「エストレヤ千葉って。」

「そういうクラブなんですか。」

八幡は静かに頷く。

「ああ。」

「俺たちは。」

「能力だけで補強はしません。」

「家族。」

「人間性。」

「チームへの姿勢。」

「全部見ます。」

マティアスは少しだけ笑顔になる。

「いいクラブですね。」

---

八幡は話題を変えた。

「ところで。」

「昨日。」

「あなたの親戚に会いました。」

「……え?」

マティアスが目を丸くする。

「親戚?」

「ソフィア。」

その名前を聞いた瞬間だった。

「えっ!?」

マティアスは椅子から立ち上がりそうになる。

「ソフィア姉さん!?」

八幡は頷いた。

「ああ。」

「俺の妻です。」

数秒。

マティアスは固まった。

「…………。」

「え?」

「えぇぇぇぇぇっ!?」

クラブハウス中に響くほどの大声だった。

近くにいたスタッフが何事かと振り向く。

マティアスは八幡を指差したまま固まっている。

「ちょっ……。」

「待ってください!」

「ソフィア姉さんの旦那さんって……。」

「あなたなんですか!?」

八幡は苦笑しながら答えた。

「そうなる。」

マティアスは頭を抱えた。

「だから昨日。」

「叔父さんから。」

「日本からすごい人が来るって連絡が……。」

「まさか。」

「本当にソフィア姉さんの旦那さんだったなんて……。」

八幡は肩をすくめる。

「俺も。」

「親戚だと聞いた時は驚いた。」

二人は顔を見合わせる。

そして。

思わず同時に笑ってしまった。

世界は。

思っていた以上に狭かった。

## 第213話 十八歳の決断

クラブハウスのテラス。

マティアスはまだ驚いた表情のまま、何度も八幡の顔を見ていた。

「いや……。」

「本当に驚きました。」

「まさか。」

「ソフィア姉さんの旦那さんだったなんて。」

八幡は苦笑する。

「俺もだ。」

「アルゼンチンに来て。」

「親戚だと知った時は驚いた。」

二人は笑い合う。

すると。

マティアスが懐かしそうに空を見上げた。

「でも。」

「そう考えると。」

「姉さんらしいですね。」

「?」

八幡が首を傾げる。

マティアスはゆっくり話し始めた。

「姉さん。」

「十八歳の時。」

「突然言い出したんです。」

「日本の大学へ行く。」

「……。」

「家族全員。」

「最初は何を言ってるのか分かりませんでした。」

八幡は静かに耳を傾ける。

「それまで。」

「日本へ行ったこともない。」

「知り合いもいない。」

「もちろん。」

「日本語も話せない。」

「なのに、

『私は日本へ行く。』

『そこへ行かなきゃいけない気がする。』

『絶対に。』

そう言って。

誰が止めても考えを変えませんでした。」

八幡は少し驚く。

「そこまで。」

「はい。」

マティアスは苦笑した。

「父さんも母さんも、

『何で日本なんだ?』

って何度も聞いていました。」

「でも。」

「姉さんは、

『理由は説明できない。』

『でも、行かなきゃいけない。』

『きっと、そこで私の人生が変わる。』

そう言い続けていました。」

風が静かに吹く。

マティアスはどこか懐かしそうだった。

「結局。」

「誰も止められませんでした。」

「姉さんは。」

「一人で日本へ行った。」

「家族は心配していましたけど。」

「本人だけは。」

「不思議なくらい迷いがありませんでした。」

八幡は静かにコーヒーカップを見つめる。

大学一年。

春。

桜が咲くキャンパス。

スペイン語で道を尋ねられたこと。

それが。

ソフィアとの最初の出会いだった。

「……。」

マティアスは笑う。

「今思えば。」

「何か感じていたのかもしれませんね。」

「運命というか。」

「縁というか。」

「日本へ行けば。」

「人生で一番大切な人に出会えるって。」

八幡は少し照れたように笑う。

「そんなこと。」

「本人に聞いたことはないな。」

「聞いてみてください。」

マティアスも笑う。

「たぶん、姉さんなら

『やっぱりね。』

『私は最初から分かってた。』

そう言うと思います。」

二人は顔を見合わせる。

そして。

どちらからともなく笑った。

十八歳。

言葉も分からない異国へ。

誰にも説明できない「何か」を信じて、日本へ渡ったソフィア。

その決断がなければ。

比企谷八幡とソフィアは出会うこともなく。

結婚することも。

家族になることもなかった。

運命とは。

案外、そんな小さな「決断」の積み重ねなのかもしれなかった。

## 第214話 スカウトとして

ソフィアの話でひとしきり盛り上がった後。

マティアスは少し照れくさそうに笑った。

「すみません。」

「姉さんの話になると、つい長くなってしまって。」

八幡はコーヒーカップを置く。

「いや。」

「面白かった。」

「親戚だからこそ聞ける話だった。」

マティアスも笑顔で頷く。

「ありがとうございます。」

その空気が一段落したところで。

八幡はノートを開いた。

「……じゃあ。」

「ここからは仕事の話に戻そう。」

その一言で。

マティアスの表情も自然と引き締まる。

先ほどまでは親戚同士の会話。

ここからは。

スカウトと選手として向き合う時間だった。

「もちろんです。」

「何でも聞いてください。」

八幡は真っ直ぐマティアスを見る。

「昨日と今日。」

「練習を見させてもらった。」

「映像もかなり見ている。」

「ありがとうございます。」

「率直な感想を言う。」

マティアスは静かに耳を傾ける。

「ゴール前の動き。」

「裏への飛び出し。」

「一瞬の判断。」

「シュート技術。」

「どれも高い。」

「特に。」

「ゴール前で慌てない。」

「そこは大きな武器だ。」

マティアスは少し照れたように笑った。

「そう言っていただけると嬉しいです。」

「ただ。」

八幡は続ける。

「俺は良いところだけを見るつもりはない。」

「もちろんです。」

「ポストプレーはできる。」

「でも。」

「もっと伸ばせる。」

「守備もやっている。」

「ただ。」

「前線から九十分追い続けるタイプではない。」

マティアスは素直に頷いた。

「その通りです。」

「自分でも課題だと思っています。」

八幡はその返答を聞き、ノートへ一行書き込む。

**『課題を正確に理解している。』**

「自分の弱点を聞いて。」

「嫌な気持ちにはならないのか。」

八幡が尋ねる。

マティアスは笑った。

「なりますよ。」

「人間ですから。」

二人とも少し笑う。

「でも。」

「弱点を言ってもらえない方が困ります。」

「プロなので。」

「改善できるなら。」

「直したいです。」

八幡は静かに頷いた。

「なるほど。」

短いやり取りだった。

しかし。

その答えだけで十分だった。

言い訳をしない。

環境のせいにも。

味方のせいにも。

監督のせいにも。

一度もしていない。

八幡はノートを閉じる。

「今日はありがとう。」

「こちらこそ。」

「比企谷さんと話せて良かったです。」

二人は立ち上がる。

最後にもう一度、固く握手を交わす。

八幡はまだ獲得の話はしない。

この時点では、あくまでも視察に来たスカウト。

最終的な判断は、日本へ戻ってから首脳陣と共有した上で下すつもりだった。

そう決めていた。

## 第215話 帰国報告

翌日。

ブエノスアイレス国際空港。

搭乗ゲート前。

ソフィアの親戚たちが見送りに来ていた。

「また来いよ!」

「次は子どもたちも連れてこい!」

「ソフィアにもよろしくな!」

「はい。」

八幡は一人ひとりと握手を交わす。

「今回は本当にありがとうございました。」

叔父が笑いながら肩を叩く。

「仕事はどうだった?」

八幡も笑みを浮かべる。

「収穫はありました。」

「それなら良かった。」

最後にマティアスとも握手を交わす。

「ありがとうございました。」

「こちらこそ。」

「また会える日を楽しみにしています。」

八幡は小さく頷いた。

「ああ。」

「頑張ってくれ。」

それ以上は何も言わない。

まだ獲得を約束する段階ではない。

スカウトとして、最後まで公平でいる。

それが八幡の信条だった。

---

数十時間後。

日本。

成田空港。

飛行機を降りた八幡は、そのまま自宅へは向かわなかった。

スーツケースを車へ積み込むと、そのまま高速道路へ入る。

目的地は一つ。

**エストレヤ千葉トレーニングセンター。**

---

夕方。

クラブハウス。

分析室。

「戻りました。」

扉を開けると、すでに数人が集まっていた。

マルコ・ベッルーニ監督。

強化部長・佐藤智成。

GM・竹内正樹。

三人とも八幡の帰国を待っていた。

「お疲れ様。」

竹内が立ち上がる。

「そのまま来たのか。」

「ああ。」

「忘れないうちに報告したいので。」

佐藤が苦笑する。

「家には帰ったのか?」

「まだです。」

「相変わらずだな。」

マルコも小さく笑った。

「君らしい。」

---

四人は席に着く。

分析室のモニターが点灯する。

八幡はノートパソコンを開き、USBメモリーを差し込んだ。

画面には。

**マティアス・ベニテス**

その名前が映し出される。

マルコが腕を組む。

「では。」

「聞かせてもらおう。」

八幡は静かに頷いた。

「映像。」

「練習。」

「本人。」

「現場スタッフ。」

「すべて確認してきました。」

部屋の空気が引き締まる。

「まず結論から言います。」

三人の視線が八幡へ集まる。

八幡は迷わず口を開いた。

「獲得候補として。」

「十分に推薦できます。」

その一言に。

マルコは静かに頷き、佐藤と竹内も真剣な表情で資料へ目を落とした。

いよいよ。

アルゼンチン視察の詳細な報告が始まろうとしていた。

## 第216話 視察報告

「理由を説明します。」

八幡はリモコンを操作する。

モニターに試合映像が映し出された。

アルゼンチン二部。

マティアス・ベニテス。

最前線でプレーする姿だった。

「まず。」

「最大の武器は。」

映像が止まる。

相手センターバックの背後。

わずかな隙間へ走り込もうとしている場面。

「裏への動きです。」

八幡がレーザーポインターを当てる。

「相手DFの視線。」

「重心。」

「ラインコントロール。」

「全部見ています。」

映像を再生。

一歩。

いや。

半歩だけ先に動く。

味方のスルーパス。

完全に抜け出す。

そのままゴール。

マルコが頷く。

「オフサイドにならない。」

「はい。」

八幡も頷いた。

「タイミングが非常に優秀です。」

「速さだけではありません。」

「駆け引きが上手い。」

---

映像が切り替わる。

今度はゴール前。

クロスが入る。

マティアスは無理に力まない。

ワンタッチ。

ゴールネットが揺れる。

「シュート技術も高い。」

佐藤が呟く。

「はい。」

八幡は映像を止めた。

「左右どちらでも蹴れます。」

「体勢が悪くても枠へ飛ばせる。」

「決定力は。」

「J2なら間違いなくトップクラスです。」

竹内が腕を組む。

「ポストプレーはどうだ。」

映像が変わる。

前線でボールを受ける。

落とす。

味方が前を向く。

「できます。」

「ただ。」

八幡は首を横に振る。

「材木座ほどではありません。」

マルコも納得したように頷く。

「比較対象が材木座なら仕方ない。」

「はい。」

「ポストだけなら。」

「現時点では材木座の方が上です。」

---

さらに映像が変わる。

前線からプレス。

相手CBへ寄せる。

ボールを限定する。

「守備意識はあります。」

「ですが。」

「守備専門のFWではありません。」

「求められた仕事はやります。」

「ただ。」

「最大の武器は。」

「やはり得点です。」

---

八幡は映像を消した。

今度は写真が映る。

練習風景。

若手と笑い合う姿。

スタッフへ頭を下げる姿。

給水係へ笑顔で礼を言う姿。

竹内が少し驚く。

「これは。」

「全部現地で撮りました。」

「プレー以外です。」

八幡は静かに説明する。

「若手への接し方。」

「スタッフへの態度。」

「練習への姿勢。」

「全部確認しました。」

「結果。」

「問題ありません。」

「むしろ。」

「非常に評価できます。」

佐藤が笑う。

「君らしいな。」

「プレーだけ見て帰らない。」

八幡は肩をすくめた。

「人間性を見ないと。」

「補強はできません。」

---

マルコが口を開く。

「本人は。」

「どうだった。」

「向上心があります。」

八幡は即答した。

「課題も理解しています。」

「こちらの評価にも耳を傾けました。」

「言い訳もしません。」

「非常に素直です。」

部屋が静かになる。

マルコは腕を組みながら目を閉じた。

数秒後。

ゆっくり目を開く。

「私も。」

「欲しい。」

その一言だった。

佐藤も頷く。

「私も賛成だ。」

竹内も資料を閉じる。

「反対する理由はない。」

三人の意見は一致した。

分析室の空気が変わる。

八幡は静かに三人を見渡した。

「では。」

「代理人との交渉準備に入ります。」

誰一人として異論はなかった。

エストレヤ千葉。

夏、最後の補強は。

いよいよ本格的に動き始めようとしていた。

## 第217話 現実

翌日。

午後。

J3クラブの練習場。

この日はJ2クラブとのトレーニングマッチが行われていた。

八幡はスタンド最上段へ腰を下ろす。

視線の先には、一人の選手。

国内スカウトが推薦した三十歳のセンターフォワードだった。

「……。」

キックオフ。

八幡はノートを開くこともなく、まず試合全体を見る。

序盤十分。

J3クラブがカウンターを狙う。

縦パス。

三十歳のFWが一気に裏へ飛び出した。

「速い。」

一瞬の加速。

タイミング。

そこだけ見れば確かに優秀だった。

しかし。

相手CBが身体を入れる。

ボールを収められない。

そのまま奪われる。

「……。」

八幡は黙って見続けた。

十五分。

再び裏へ抜ける。

今度はボールを受けた。

シュート。

しかし。

力み過ぎたのか、大きく枠を外れる。

二十分。

クロス。

頭で合わせる。

GK正面。

二十五分。

前線でボールを受けようとする。

だが。

簡単に潰された。

「そういうことか。」

八幡は小さく呟く。

映像では見えなかった部分。

実際に見ると、はっきり分かった。

裏抜けは上手い。

スピードもある。

だが。

J2レベルになると。

一対一で勝ち切れない。

三十分。

相手のセンターバックが前へ出る。

あっさりボールを奪われる。

そのCBはまだ二十歳前後。

ユースから昇格したばかりの若手だった。

もう一人のCBも二十一歳。

まだ伸び盛りの選手である。

その二人相手に。

ほとんど決定的な仕事ができない。

「……厳しいな。」

八幡は静かに腕を組んだ。

前半終了。

スコアは0―0。

しかし。

内容はJ2クラブが押していた。

八幡はノートを開く。

短く書く。

**『裏抜け、一瞬の加速は武器。』**

次の行。

**『J2レベルの対人では苦戦。』**

さらに。

**『シュート精度は平均的。』**

最後に。

**『現時点でエストレヤ千葉の補強対象としては見送り。』**

ノートを閉じる。

「……マティアスとの差は大きい。」

同じストライカー。

同じ補強候補。

しかし。

J2の若いセンターバック相手に結果を残せない選手と。

アルゼンチン二部で継続して得点を積み重ねる選手。

八幡の中では、比較の答えはすでに出ていた。

彼は静かに席を立つ。

試合終了を待つ必要はなかった。

補強リストから、この名前は外れることになる。

## 第218話 新しい命

八月二十二日。

午後。

エストレヤ千葉トレーニングセンター。

分析室。

八幡はモニターに映る試合映像を見ながら、補強候補のデータを整理していた。

コンコン。

静かなノック。

「失礼します。」

坂本が資料を届けに来る。

「比企谷さん、先日頼まれていた資料です。」

「ありがとう。」

資料を受け取った、その時だった。

――ブルルルル。

机の上のスマートフォンが震える。

画面を見る。

**エミリオ・アルバレス**

八幡はすぐに通話へ出た。

「もしもし。」

電話の向こうから聞こえた声は、いつもの落ち着いたエミリオではなかった。

『八幡。』

『南が……。』

一度息を整える。

『産気づいた。』

八幡はすぐに立ち上がる。

「分かった。」

「今どこだ。」

『病院へ向かってる。』

『あと十分くらいで着く。』

「落ち着け。」

「呼吸を整えろ。」

『ああ……。』

エミリオの声は緊張で震えていた。

八幡は穏やかな口調で続ける。

「大丈夫だ。」

「南も頑張ってる。」

「お前も落ち着いて支えてやれ。」

『……ありがとう。』

「後で向かう。」

『頼む。』

通話が切れた。

---

八幡はすぐに別の番号へ電話を掛ける。

数コールで繋がった。

『もしもし?』

聞き慣れた声。

ソフィアだった。

「ソフィア。」

『どうしたの?』

「南さんが産気づいた。」

一瞬の沈黙。

次の瞬間。

『本当!?』

「今、病院へ向かってる。」

『私も行く!』

迷いはなかった。

「準備できるか。」

『もちろん!』

『すぐ支度する!』

「俺が迎えに行く。」

『分かった!』

電話が切れる。

---

八幡は机の上の資料を閉じた。

分析室を出る。

廊下でマルコとすれ違う。

「比企谷?」

「エミリオの奥さんが産気づきました。」

マルコはすぐに状況を理解した。

「そうか。」

「行ってこい。」

「ありがとうございます。」

「クラブのことは気にするな。」

「今日は家族を優先しろ。」

八幡は深く一礼した。

「失礼します。」

---

駐車場。

車へ乗り込む。

エンジンを掛ける。

目的地は自宅。

ソフィアを迎えに行き、そのまま病院へ。

今日。

エミリオと南にとって。

人生で忘れられない一日が始まろうとしていた。

## 第219話 病院へ

三十分後。

八幡は自宅へ到着した。

車を停めると、玄関の扉が開く。

「八幡!」

ソフィアが慌てて駆け寄ってくる。

すでに外出の準備は終わっていた。

「待たせた。」

「ううん!」

「早く行こう!」

ソフィアは助手席へ乗り込み、シートベルトを締める。

八幡はすぐに車を発進させた。

「兄さんは?」

「もう病院へ着いてる頃だ。」

「南さんは?」

「まだ詳しいことは聞いてない。」

ソフィアは両手をぎゅっと握り締めた。

「無事に生まれてほしい……。」

「ああ。」

---

病院へ向かう車内。

普段はよく話す二人も、今日は自然と口数が少ない。

しばらく沈黙が続いた後、ソフィアが小さく笑った。

「兄さん。」

「最近ずっと赤ちゃんの話ばかりだった。」

八幡も笑みを浮かべる。

「ああ。」

「名前の候補を何冊もノートに書いてたな。」

「ベビーベッドも。」

「何度も見に行ってた。」

「南さんに。」

『まだ早いよ。』

って笑われてたのに。」

ソフィアは懐かしそうに笑う。

「そうそう。」

「それでも兄さん。」

『絶対に一番いいものを用意したい。』

って。」

「完全に親バカだった。」

「生まれる前からな。」

二人は顔を見合わせ、少しだけ笑った。

だが、その笑顔の奥には心配もある。

ソフィアにとっては実の兄。

初めて父親になる兄を思う気持ちは、人一倍強かった。

---

病院。

受付を済ませると、二人は急いで産科フロアへ向かう。

エレベーターの扉が開く。

廊下の先。

落ち着かない様子で歩き回る一人の男性がいた。

「兄さん!」

ソフィアが駆け寄る。

振り返ったエミリオは、妹の姿を見ると少しだけ表情を緩めた。

「ソフィア……。」

「八幡。」

「来てくれたのか。」

「もちろん。」

ソフィアは兄の前に立つ。

「南さんは?」

「今、頑張ってる。」

エミリオは分娩室の方へ目を向けた。

その表情には不安と期待が入り混じっている。

ソフィアは何も言わず、兄の手をそっと握った。

「大丈夫。」

「南さんならきっと大丈夫。」

兄妹だからこそ、その一言には大きな力があった。

エミリオは静かに頷く。

「……ありがとう。」

八幡はそんな二人を見ながら、小さく微笑んだ。

そしてエミリオの肩を軽く叩く。

「落ち着け。」

「お前が倒れたら意味がない。」

エミリオは苦笑する。

「分かってる。」

「でも。」

「やっぱり緊張するな。」

「初めてだからな。」

八幡の言葉に、エミリオはゆっくりと息を吐いた。

三人は並んで分娩室の前へ立つ。

赤く点灯したランプを静かに見つめながら。

アルバレス家に、新しい命が誕生する瞬間を待っていた。

## 第220話 新しい家族

分娩室の前。

静かな時間だけが流れていた。

エミリオは何度も時計を見る。

座っては立ち。

立っては歩く。

落ち着かない。

ソフィアはそんな兄の隣に座り、何も言わず寄り添っていた。

八幡は少し離れた場所で二人を見守る。

それから、およそ一時間。

分娩室の扉が開いた。

担当医と助産師が姿を現す。

三人が同時に立ち上がった。

「ご家族の方。」

エミリオが一歩前へ出る。

「はい。」

医師は優しく微笑んだ。

「おめでとうございます。」

「無事に元気な男の子が生まれました。」

その一言だった。

エミリオの表情が固まる。

「……本当に。」

医師は力強く頷く。

「お母さんも赤ちゃんも健康です。」

「出産は無事に終わりました。」

「よかった……。」

エミリオはその場で顔を覆いた。

張り詰めていた緊張が、一気にほどける。

目には涙が浮かんでいた。

「兄さん。」

ソフィアも思わず目を潤ませる。

「おめでとう。」

エミリオは妹を見つめ、小さく笑う。

「ありがとう。」

「ありがとう……。」

何度も繰り返した。

八幡も静かに歩み寄る。

「父親になったな。」

エミリオは涙を拭きながら笑う。

「ああ。」

「まだ実感が湧かないけどな。」

八幡は笑って肩を叩いた。

「これから嫌でも実感する。」

その言葉に三人とも笑った。

しばらくして。

助産師が再び姿を現す。

「お父さん。」

「赤ちゃんに会いますか。」

エミリオは迷わず頷いた。

「もちろんです。」

「では、どうぞ。」

エミリオは一歩踏み出す。

分娩室へ入る直前。

振り返った。

八幡とソフィアへ深く頭を下げる。

「来てくれて、本当にありがとう。」

八幡は小さく手を挙げた。

「礼はいい。」

「今は奥さんと息子のところへ行け。」

ソフィアも満面の笑みで頷く。

「兄さん。」

「南さんをいっぱい褒めてあげてね。」

「ああ。」

短く返事をすると、エミリオは分娩室の中へ入っていった。

扉が静かに閉まる。

廊下には穏やかな静けさが戻った。

ソフィアは嬉しそうに八幡を見上げる。

「八幡。」

「兄さん、お父さんになったね。」

「ああ。」

八幡も自然と笑みを浮かべる。

「アルバレス家に、新しい家族が増えた。」

その日。

エストレヤ千葉の司令塔であるエミリオ・アルバレスは。

サッカー選手としてではなく。

一人の父親として、新たな人生の第一歩を踏み出した。