LNCrawler

第361話〜第375話

やはり俺のスカウト人生は間違っている。 — www.pixiv.net · All chapters

第361話〜第375話

第361話 走り続ける十九歳

「四人目」

八幡がリモコンを押す。

大型モニターからチョウ・ウンソウの映像が消え、次の選手が映し出された。

まだどこか、あどけなさの残る若い選手だった。

風祭竜也。

背番号29。

19歳。

8月6日生まれ。

左利き。

本職はLSHだが、左サイドであればほぼどこでもプレーできる。

「19歳?」

本庄が表示されたプロフィールを見る。

「はい。今年ユースからトップ昇格した選手です」

「富山のユース?」

「いや、J1です」

八幡が答えた。

風祭はJ1クラブのユース出身。

今年トップチームへ昇格したものの、そこで出場機会を得ることはできなかった。

そのため夏。

実戦経験を積むため、育成型期限付き移籍で富山へやってきた。

「それで、富山に来てすぐ使われたのか?」

中村が尋ねる。

「はい」

八幡が映像を切り替えた。

「後半戦最初の試合から、ずっとスタメンです」

「ずっと?」

「ずっとです」

19歳。

夏加入。

それでも、富山に来てすぐ定位置を掴んだ。

現在任されているのは左ウイングバック。

富山の3-4-2-1における左サイド一列を、ほぼ一人で受け持っている。

「本職はLSHなんだよな?」

「そうです。ただ、左サイドならどこでもできます」

八幡が映像を再生する。

富山が守備に回っている場面だった。

風祭は低い位置まで戻り、最終ライン近くで相手の右サイドを見ている。

ボールが反対側へ動けば中央へスライド。

再び右へ振られると、すぐ外へ出て寄せる。

相手が後方へ戻した。

富山がそこでボールを奪う。

カウンター。

その瞬間。

風祭が一気に前へ走った。

さっきまで自陣深くにいたはずの選手が、今度は左サイドを駆け上がっていく。

攻撃が終わる。

相手ボール。

すると、また戻る。

全力で自陣へ。

そして次の攻撃になれば、また前へ。

「……よく走るな」

田島が呟いた。

「走ります」

八幡が答える。

前へ。

後ろへ。

また前へ。

試合の流れが変わるたび、風祭は左サイドを上下動する。

映像が後半40分へ進んでも、その動きはほとんど変わらない。

「最大の武器の一つは、スタミナです」

八幡が言った。

「無尽蔵と言っていいくらい走ります」

中村が腕を組む。

「ウイングバック向きだな」

「ですね」

富山のウイングバックは、まず守備を求められる。

だが、守るだけではない。

ボールを奪えば、今度は攻撃へ出ていかなければならない。

それを90分間、何度も繰り返す。

当然、運動量が必要になる。

風祭のスタミナは、その要求と非常に噛み合っていた。

「それと、もう一つ」

八幡が別の映像を出す。

左サイドで風祭がボールを受けた。

相手が寄せてくる。

風祭は左足でボールを身体の近くに置く。

一人目が足を出した。

取れない。

もう一人が寄せる。

今度は身体を入れ、ボールを隠す。

それでも失わない。

「キープ力か」

マルコが言った。

「はい」

特に左足でボールを持たせると強い。

派手なドリブルで相手を何人も抜いていくタイプではない。

だが。

奪われない。

相手を背負える。

身体を使ってボールを守り、その間に味方が上がってくる時間を作れる。

十分に引きつけてから、左足で近くの味方へボールを預ける。

「19歳にしては、ボールを守るのが上手いな」

中村が言う。

「左足で持たせると、かなりしぶといです」

それはカウンターだけではなかった。

富山が一度攻撃を落ち着かせたい場面でも、左へ預ければ風祭がボールを簡単には失わない。

その間に万条が動く。

フォーンが位置を変える。

シャドーもパスコースを作る。

味方が次の形を整えるまで、左サイドで時間を作ることができる。

「なるほど」

山本が画面を見ながら呟いた。

「ただ走れるだけじゃないんだな」

「はい」

八幡も頷いた。

だが。

そこで映像を止める。

「もちろん、弱点もあります」

次の場面。

後方から風祭へパスが入る。

少し強いボール。

風祭が左足を出す。

トラップ。

だが、ボールが身体から大きく離れた。

そこへ相手が一気に寄せる。

奪われた。

「トラップか」

中村が言った。

「上手くないです」

八幡が答える。

風祭は、ボールを持ってしまえば強い。

左足でキープできる。

簡単には奪われない。

しかし。

そこへ至るまで。

つまり、ボールを受ける瞬間に粗さがある。

次の映像では浮き球が入った。

風祭が胸で落とそうとする。

落としたボールが大きく前へ流れる。

その瞬間。

相手が先に触った。

「ファーストタッチを狙えるな」

「はい」

持たせてから奪いに行く必要はない。

むしろ。

トラップした瞬間。

そこを狙う。

キープ力を発揮される前に潰す。

それが一つの攻略法になる。

「それから、もう一つ」

八幡が映像を変える。

風祭が左サイドで前を向いた。

その前方には大きなスペース。

すぐに走り出す。

相手の右サイドバックも追いかける。

最初は風祭が前。

だが。

少しずつ距離が縮まっていく。

やがて、追いつかれた。

「……速くないな」

本庄が言う。

「むしろ、遅い方です」

八幡が答えた。

スタミナはある。

何度でも走れる。

90分間、上下動し続けられる。

だが。

一回のスプリントで相手を置き去りにするような爆発的なスピードはない。

「走れるのと、速いのは別ってことか」

田島が言った。

「そういうことです」

風祭は何度でも走れる。

だが、一発の加速で抜き去ることはできない。

「だから、単純な縦突破だけならそこまで怖くないです」

八幡が言う。

「ただ――」

画面の中。

相手が風祭へ追いつく。

普通なら、そこで攻撃が止まる。

だが風祭は無理に抜き切ろうとはしなかった。

ボールを左足側へ置く。

身体を入れる。

キープ。

味方が上がってくるのを待つ。

「追いついたから終わり、でもないんだよな」

中村が苦笑した。

「そうなんですよ」

足が遅い。

それなら抜き切らなければいい。

追いつかれたら、ボールを守る。

時間を作る。

味方が来れば、そこからまた攻撃を作り直す。

「本人も、自分がどういう選手なのか分かってますね」

マルコが言った。

「そう見えます」

まだ19歳。

粗さはある。

トラップ。

スピード。

明確な弱点も持っている。

それでも。

富山に加入してから、後半戦最初の試合から全てスタメン。

そこには、当然理由があった。

左足でのキープ力。

無尽蔵と言えるスタミナ。

左サイドの複数ポジションに対応できる柔軟性。

そして。

守備を最優先しながら、必要な場面では前へ出る。

富山がウイングバックに求めている役割を、19歳ながらこなしている。

「万条」

八幡が指を一本立てる。

「フォーン」

二本目。

「チョウ」

三本目。

そして。

「風祭」

四人目。

富山が後半戦に入って勢いを増した理由。

そこには、彼らの存在がある。

風祭には、万条のような圧倒的な万能性はない。

フォーンのような高精度のパスもない。

チョウのような10年分の経験もない。

だが。

左サイドを90分走り続ける。

前へ出る。

戻る。

また出る。

その繰り返しを止めない。

それが、富山の3-4-2-1を確実に支えていた。

八幡が映像を止める。

画面にプロフィールが表示された。

背番号29。

風祭竜也。

19歳。

育成型期限付き移籍。

後半戦は全試合スタメン。

「要注意人物、四人目」

八幡が言った。

「トラップは狙えます。足も速くない」

そこで中村が続きを引き取った。

「でも、90分走らせればそのうち勝手にバテる――とは思わない方がいい」

「ですね」

八幡も頷く。

画面の中。

時計は後半アディショナルタイム。

周囲の選手たちに疲労が見え始めている。

それでも。

背番号29は、また左サイドを走っていた。

攻撃から守備へ。

守備から攻撃へ。

最後まで。

何度でも。

風祭竜也は、走り続けていた。

第362話 役割を変えた男

「五人目」

八幡がリモコンを押した。

大型モニターから風祭竜也の映像が消え、続いて別の選手が映し出される。

高井重吾。

背番号25。

26歳。

5月24日生まれ。

右利き。

本職はRSH。

現在は右ウイングバックを務めているが、シャドーでもプレーできる。

「こいつも、後半戦に入って役割が変わった選手です」

八幡がそう言うと、中村が手元の資料へ視線を落とした。

「前半戦はシャドーだったな」

「はい」

シーズン前半。

富山ベイウインズの基本布陣は、今と同じ3-4-2-1。

その中で高井は、二シャドーの一角として起用されていた。

右にも出る。

中央にも入る。

時にはCFの近くまで上がり、ゴールへ絡む。

前線寄りの位置で攻撃に関わることが、高井に与えられた役割だった。

しかし、夏。

富山のチーム構成が大きく変わった。

万条富隆。

ライアック・フォーン。

中盤と前線で使える新たな選手たちが加わった。

その一方で、それまで右ウイングバックを務めていた選手が夏に移籍した。

「それで、高井を一列下げた?」

本庄が尋ねる。

「そうです」

八幡は現在の基本布陣をモニターへ表示した。

右ウイングバック。

そこに高井重吾の名前がある。

「後半戦は、こっちが基本です」

前半戦はシャドー。

後半戦は右ウイングバック。

役割は明確に変わっていた。

「本職がRSHなら、そこまで無理なコンバートでもないな」

中村が言う。

「ですね」

八幡が映像を再生する。

富山が右サイドでボールを持っていた。

高井がタッチライン際で受ける。

相手の左サイドバックが距離を詰めてくる。

普通のウイングバックなら、そのまま縦へ運ぶか、外からクロスを狙うところだった。

だが。

高井は縦へ行かない。

右足でボールを中央方向へ持ち出した。

「ここです」

八幡が言った。

高井が中へ切り込む。

一人が前へ出てくる。

だが、その寄せが間に合うより先に右足を振り抜いた。

ドンッ、と重い音が響く。

ペナルティエリアの外。

そこから放たれたミドルシュートがゴールへ向かう。

GKが横へ飛び、辛うじて弾き出した。

「これが一番怖いです」

八幡が映像を止める。

「切り込んでからのミドル」

「ウイングバックなのに、自分で打ちに来るのか」

田島が言った。

「来ます」

次の映像。

また右サイドで高井が受ける。

今度も中央へ。

相手がミドルシュートを警戒して寄せる。

高井はそこでシュートフェイント。

一人をずらして、さらに中へ運ぶ。

そしてもう一度。

右足を振り抜く。

ボールは低く、強くゴールへ飛んだ。

「前半戦にシャドーをやってたのが分かるな」

中村が呟く。

「ゴールへ向かう意識が残ってる」

「はい」

今は右ウイングバック。

だが、攻撃時の感覚まで完全にウイングバックへ変わったわけではない。

外を走ってクロスを上げるだけではない。

中へ入る。

ゴールを見る。

そして、自分で仕留めようとする。

八幡は画面上に線を引いた。

「特に、この辺まで入らせると危ないです」

右サイドから中央へ。

ペナルティエリアの少し外。

高井が右足を振り抜きやすい位置だった。

「ここまで入らせると、普通に打ってきます」

前半戦。

シャドーとして前線でプレーしていた。

その経験があるからこそ。

ウイングバックへ下がった今でも、ゴールへ向かう感覚が消えていない。

「ただ」

マルコが静かに口を開く。

「富山が彼をウイングバックで使える理由は、攻撃力だけではないだろう」

「はい」

八幡はすぐに別の映像へ切り替えた。

今度は相手ボール。

左サイドから攻め込もうとしている。

高井は迷わず自陣へ戻った。

相手のサイドバックが上がってくる。

その動きにもついていく。

ボールが入る。

高井が距離を詰める。

縦のコースを消す。

相手は前へ出られず、後ろへ戻した。

「守備意識が高いです」

八幡が説明する。

シャドーを務めていた前半戦から、高井は守備をサボる選手ではなかった。

ボールを失えば戻る。

相手を追う。

身体を寄せる。

前線の選手でありながら、それを嫌がらなかった。

だからこそ。

右ウイングバックへの配置転換にも対応できた。

「風祭と同じで、富山がウイングバックに守備を求めるスタイルと合ってるわけか」

中村が言う。

「そうですね」

左には風祭竜也。

右には高井重吾。

守備時には二人が最終ライン近くまで下がり、三バックと合わせて五枚を作る。

そこからボールを奪えば、一気に前へ出る。

ただし。

二人の攻撃の形は同じではない。

風祭は左足でボールを守り、何度も上下動する。

一方の高井は、右サイドから中央へ切り込み、ミドルシュートまで持っていく。

「前半戦にシャドーをやらせてた選手を、後半戦ではウイングバックにする」

山本が言った。

「普通なら守備が心配になるけど」

「高井の場合、元々守備意識があります」

八幡が答える。

「だから成立してます」

さらに。

高井を一列下げることで、空いたシャドーのポジションには夏に加わった万条たちを使えるようになった。

新しい選手をただ加えたのではない。

既存の選手の役割まで変えることで、富山は後半戦の布陣を作り直した。

「選手の加入と流出を、そのまま配置変更で繋いだわけか」

マルコが言った。

「はい」

富山の後半戦の3-4-2-1。

それは夏の補強だけで完成したものではない。

元々いた選手を別の位置へ動かし、新しい役割を与えた。

高井重吾は、その代表的な一人だった。

「で」

中村が八幡を見る。

「弱点は?」

「あります」

八幡はすぐに映像を切り替えた。

高井が守備に入っている。

相手の左SHがボールを持つ。

高井が距離を詰めた。

相手が切り返す。

高井が足を出す。

接触。

相手が倒れた。

笛が鳴る。

「……荒いな」

本庄が言った。

「はい」

次の映像。

高井がボールを奪いに行く。

身体を強くぶつけすぎる。

ファウル。

さらに別の場面。

相手に先へ出られた。

追いかける高井。

抜けられそうになったところで、遅れて足を出す。

また笛が鳴った。

「プレーが荒いです」

八幡が言う。

「守備意識が高い分、強く行きすぎる時があります」

止めたい。

奪いたい。

抜かせたくない。

その意識が強い。

守備そのものを嫌がっているわけではない。

むしろ逆だった。

行きすぎる。

そこが問題になる。

「カードは?」

田島が尋ねる。

「その危険はあります」

八幡が答えた。

「特に一対一で後手に回った時ですね」

映像の中。

相手が先にボールへ触る。

高井が遅れる。

それでも追う。

そして、強引に止める。

中村が腕を組んだ。

「つまり、守備を嫌がる選手じゃない」

「はい」

「むしろ、自分から行く」

「そうです」

だからこそ。

そこを利用できる可能性もある。

「仕掛け続ければ、熱くなるかもしれないな」

山本が言う。

「可能性はありますね」

もちろん。

それだけで簡単に崩せる選手ではない。

守備意識は高い。

攻撃では右から中央へ切り込み、ミドルシュートを持っている。

前半戦にシャドーを務めていた攻撃力を、そのまま右ウイングバックでも生かしている。

八幡が映像を止めた。

画面にプロフィールが表示される。

背番号25。

高井重吾。

26歳。

右利き。

RSH。

右ウイングバック。

そしてシャドー。

「要注意人物、五人目」

八幡が言った。

画面では、高井がまた右サイドから中央へ切り込んでいる。

「こいつに関しては、外だけ見てたら駄目です」

中村が頷く。

「中へ入らせて」

「右足を振らせたら危ない」

「はい」

攻撃では、ウイングバックらしくない形でゴールを狙う。

守備では身体を張る。

追う。

寄せる。

サボらない。

ただ。

その積極性には、常に荒さが付きまとう。

前半戦はシャドー。

後半戦は右ウイングバック。

チーム事情が変われば、自分の役割も変える。

そして。

その新しい位置でも、自分の武器を失わない。

高井重吾は。

役割を変えながら、後半戦の富山ベイウインズを右サイドから支えていた。

第363話 最後の要注意人物

「最後です」

八幡がリモコンを押した。

大型モニターから高井重吾の映像が消え、六人目の選手が映し出される。

背番号9。

郡司優。

32歳。

12月17日生まれ。

左利き。

ポジションはFW。

「富山のセンターフォワードです」

中村が手元の資料へ目を落とし、すぐに顔を上げた。

「こいつは説明するまでもなく有名だな」

「ですね」

八幡も頷く。

郡司は富山ベイウインズのユース出身。

クラブが育てた生え抜きのストライカーだった。

若い頃から国内で結果を残し、その後は海外へ挑戦。

そして、日本代表にも選出された。

代表通算21キャップ。

本庄が数字を確認する。

「代表21試合。それでもワールドカップには出てないんだな」

「はい」

代表には呼ばれた。

試合にも出た。

それでも、ワールドカップのメンバーには縁がなかった。

だが、日本代表まで上り詰めたことに変わりはない。

32歳となった今でも、郡司が長年評価されてきた最大の武器は失われていなかった。

「郡司を見る時は、普通のFWだと思わない方がいいです」

八幡が映像を再生する。

「普通じゃない?」

田島が聞く。

「感覚が、です」

映像の中。

富山が右サイドから攻めている。

高井がボールを持つ。

中央には郡司。

相手センターバック二人の間にいた。

だが。

動かない。

高井が中央へ切り込む。

普通なら、FWはそこからゴール方向へ走り込む。

しかし郡司は逆だった。

僅かに後ろへ下がった。

「……そっちか?」

中村が呟く。

次の瞬間。

高井がミドルシュートを放つ。

DFが身体を投げ出してブロック。

ボールが跳ね返る。

その落下地点。

そこに郡司がいた。

左足。

迷いなく振り抜く。

ゴール。

八幡が映像を止めた。

「こういう選手です」

「こぼれる場所が分かってたみたいだな」

山本が言う。

「多分、本人に聞いても、全部は上手く説明できないと思います」

郡司優。

その最大の武器は、得点感覚。

ただし。

その感覚は、かなり独特だった。

「理屈で動いてないってことか?」

中村が聞く。

「少なくとも、全部を理屈で説明できるタイプではないですね」

次の映像。

左サイド。

風祭がボールをキープしている。

シャドーの一人が中央へ入る。

相手DFの意識がそちらへ向いた。

その背後で郡司が動く。

だが。

ゴール前へ一直線に入るわけではない。

一度、止まる。

相手DFも止まる。

その一瞬後。

郡司だけが再び動いた。

クロス。

左足。

合わせる。

ゴール。

「タイミングが変だな」

田島が言った。

「そうなんですよ」

八幡が頷く。

「でも、点を取る」

教科書通りの動き出しではない。

常にDFの逆を計算しているようにも見えない。

それなのに。

最後には、ボールが来る場所にいる。

こぼれ球。

クロス。

跳ね返り。

セカンドボール。

混戦。

気づけば郡司がそこにいる。

「海外では、この感覚をあまり生かしてもらえなかったみたいです」

八幡が別の映像へ切り替えた。

郡司には海外経験がある。

だが。

その独特すぎる得点感覚は、海外では上手くチーム戦術の中へ組み込まれなかった。

「逆に日本では?」

中村が聞く。

「重宝されました」

理由は単純だった。

点を取るからだ。

どれだけ独特な感覚でも。

どれだけ説明しづらい動きでも。

最後にゴールへ結びつく。

ストライカーとして、それ以上に分かりやすい価値はない。

日本代表21キャップ。

それもまた、その得点能力を評価された結果だった。

そして昨年。

郡司は、自分を育てた富山ベイウインズへ戻ってきた。

「でも、去年はあまり出てないな」

中村が資料を見ながら言う。

「監督と合わなかったみたいです」

復帰即主力。

そうはならなかった。

求められる役割。

起用法。

監督との相性。

そこが噛み合わなかった。

郡司の独特な得点感覚を、チームとして上手く生かすことができないままシーズンは終わった。

だが。

今シーズン。

状況が変わった。

「今季から、この形です」

八幡が富山のフォーメーションを表示する。

3-4-2-1。

郡司

シャドー シャドー

LWB           RWB

CMF  CMF

CB CB CB

GK

「この形になった」

マルコが言う。

「はい」

八幡は最前線の郡司を指した。

「で、郡司がこの恩恵を受けまくってます」

中村が思わず笑う。

「受けまくってる、か」

「実際そうなんで」

映像が動く。

右シャドーにいた万条が中央へ入る。

それにつられるように相手センターバックが僅かに動いた。

その横。

郡司が空いた場所へ入る。

パス。

シュート。

次の場面。

もう一人のシャドーが低い位置まで下がる。

相手DFが、誰を見るべきか一瞬迷った。

その瞬間。

郡司が動く。

「二シャドーが自由に動く」

八幡が言う。

「そのせいで、郡司だけを見続けるのが難しいんです」

万条が動く。

フォーンも立ち位置を変える。

左右のウイングバックが上がる。

中盤からパスが飛んでくる。

守備側には見るものが多すぎる。

その中で。

郡司は自分の感覚だけを信じるように、ゴールの匂いがする場所へ入り込んでいく。

「なるほどな」

中村が腕を組んだ。

「郡司に何でもやらせる形じゃない」

「そうです」

八幡が頷く。

「郡司が一番得意なことだけに集中できる形です」

得点。

そこへ集中できる。

ボールを運ぶ必要はない。

ゲームを作る必要もない。

サイドを何度も上下動する必要もない。

そうした仕事には、周囲に適任者がいる。

万条。

フォーン。

チョウ。

風祭。

高井。

それぞれが自分の役割をこなす。

そして。

最後。

ゴールを仕留める場所に郡司がいる。

「去年は監督と合わず、あまり出られなかった」

八幡が続ける。

「でも、今季から3-4-2-1になった」

映像の中。

郡司がゴール前で合わせる。

ネットが揺れる。

「自分の得点感覚を生かせるようになった」

別の試合。

また郡司が決める。

「それで」

さらに別のゴール。

「完全にハマった」

マルコは黙って映像を見つめていたが、やがて口を開いた。

「32歳になって、新しい能力を得たわけではない」

「はい」

「元々持っていた能力を」

「今の富山が生かしてます」

そこが重要だった。

郡司が突然、別人のように上手くなったわけではない。

元々、日本代表まで上り詰めた選手。

日の丸を背負って21試合に出場した。

得点感覚は昔から持っている。

ただ。

今の富山が、それを最大限に生かせる環境になった。

「こういうFWは、GKからすると嫌なんだよな」

田島が言った。

「予測しづらいですか?」

「ああ」

田島は映像の郡司を指す。

「普通なら、ここで入ってくるっていう基準から外れる。でも最後には、ちゃんとシュートを打てる場所にいる」

八幡も頷いた。

独特。

だからこそ読みにくい。

理屈だけで動きを限定することが難しい。

「だったら」

本庄が口を開く。

「郡司を誰かがずっと見てればいいんじゃないか?」

「それをやると」

八幡が映像を止める。

郡司。

その背後。

万条。

「こっちが空きます」

「ああ……」

「万条だけじゃないです」

もう一人のシャドー。

そしてウイングバック。

郡司だけを徹底的に追えば、周囲が空く。

逆に。

周囲へ意識を取られれば、郡司が視界から消える。

そして次に見つけた時には。

もうゴール前にいる。

「面倒だな」

中村が言った。

「面倒です」

八幡が映像を止めた。

画面にプロフィールが表示される。

背番号9。

郡司優。

32歳。

左利き。

富山ユース出身。

海外経験あり。

日本代表21キャップ。

ワールドカップには届かなかった。

それでも。

長年、日本で評価され続けてきた。

独特な得点感覚を持つストライカー。

「要注意人物」

八幡が言う。

「最後」

六人目。

郡司優。

マルコが画面を見ながら静かに口を開いた。

「富山の3-4-2-1は、郡司を生かすためだけに作られたシステムではない」

そこで一度言葉を切る。

「だが」

八幡が、その先を引き継いだ。

「結果的に、一番恩恵を受けてるのは郡司かもしれませんね」

自由に動く二シャドー。

上下動するウイングバック。

中盤を支える選手たち。

それぞれが動き。

それぞれが相手の意識を引きつける。

そして。

その中心。

最前線。

ゴールだけを嗅ぎ続ける背番号9がいる。

富山ベイウインズ。

後半戦の躍進。

その攻撃の最後に待っているのが郡司優だった。

第364話 富山分析まとめ

大型モニターの中で、郡司優の左足から放たれたシュートがゴールネットを揺らした。

そこで映像が止まる。

会議室に静けさが戻った。

画面には、富山ベイウインズの背番号9――郡司優の姿が残っている。

「……以上です」

八幡はそう言って、リモコンを机の上へ置いた。

「要注意人物は六人」

すぐに画面が切り替わる。

万条富隆。

ライアック・フォーン。

チョウ・ウンソウ。

風祭竜也。

高井重吾。

そして郡司優。

これまで一人ずつ確認してきた六人の名前が、並んで表示された。

「改めて並べると」

中村が腕を組みながらモニターを眺める。

「後半戦の富山が強い理由が分かるな」

「ですね」

八幡は再びリモコンを手に取った。

「最後に、今の富山をまとめます」

画面に表示されたのは、現在の基本布陣だった。

3-4-2-1。

**郡司優**

**ライアック・フォーン  万条富隆**

**風祭竜也            高井重吾**

**チョウ・ウンソウ CMF**

**CB CB CB**

**GK**

「これが基本です」

左シャドーにライアック・フォーン。

右シャドーに万条富隆。

左ウイングバックに風祭竜也。

右ウイングバックに高井重吾。

ダブルボランチの一角には、キャプテンのチョウ・ウンソウ。

そして最前線が郡司優。

マルコがじっと布陣を眺める。

「前半戦とは、中身がかなり違う」

「はい」

富山は今シーズンから3-4-2-1を採用している。

フォーメーションそのものは前半戦から変わっていない。

だが。

そこに入る選手と、それぞれに求められる役割は大きく変わった。

チョウ・ウンソウは昨年負った怪我の影響で前半戦を欠場。

第19節になってようやく復帰した。

さらに夏。

エストレヤ千葉から万条富隆が加入。

オーストラリア1部からライアック・フォーンも加わった。

そしてJ1クラブからは、19歳の風祭竜也を育成型期限付き移籍で獲得。

一方で、それまで右ウイングバックを務めていた選手が夏に移籍した。

そこで富山は、前半戦にシャドーを務めていた高井重吾を一列下げた。

右ウイングバックへ配置転換。

「それで、今の形が出来上がった」

中村が言う。

「そうです」

既存戦力の復帰。

夏の補強。

そして配置転換。

それらが噛み合った結果、後半戦の富山ベイウインズは前半戦とは別物と言っていいチームになった。

第28節で北海道フェニックスFCに敗れるまで、5連勝。

現在は勝ち点55で3位。

2位エストレヤ千葉は57。

その差は、わずか2ポイントだった。

「まずは前です」

八幡が画面の前線を示す。

郡司

ライアック  万条

「この三人が、一番分かりやすく厄介です」

最初に右シャドー。

万条富隆。

29歳。

両利き。

MFであれば、ほぼ全てのポジションを高いレベルでこなす。

ドリブル。

パス。

シュート。

ゲームメイク。

ボールを持ってから選択できる手段が多い。

「ただ」

八幡が万条の位置から、画面上に複数の矢印を伸ばした。

右から中央へ。

中央から左へ。

さらに低い位置。

時には最前線。

「右シャドーだからって、右にいるわけじゃないです」

富山では、万条にかなり大きな自由が与えられている。

空いていれば中央へ入る。

左へも流れる。

低い位置まで下がり、自分でゲームを作ることもある。

「富山では、かなり好きに動いてます」

追いかければ、こちらの守備陣形を動かされる。

だからといって放置すれば、一人で局面を変えられる。

中村が頷く。

「一人にずっと追わせるのは危険だな」

「はい。基本は受け渡しです」

万条だけを特定の一人が追い続けるのではない。

入ってきたエリアを担当する選手が対応する。

それが現実的な守り方になる。

「そして左」

八幡が反対側を示した。

ライアック・フォーン。

23歳。

現オーストラリア代表。

左利き。

現在は左シャドー。

「こっちは万条ほど何でもできるわけじゃないです」

「でも、万能型ではある」

中村が言う。

「はい」

ライアックの最大の特徴は、ポジショニングと高精度のパス。

ボールを受けてから考えるのではない。

受ける前に周囲を確認し、次のプレーを逆算して立ち位置を決める。

八幡がライアックの位置から、少し後方へ矢印を引いた。

「左シャドーから、ここまで下りて受けることもあります」

そこで前を向かせれば危険だった。

左足一本で。

郡司へ。

万条へ。

風祭へ。

逆サイドの高井へ。

様々な場所へ精度の高いボールを送り込める。

「しかも、守備もサボらない」

マルコが言う。

「そうですね」

攻撃だけの選手ではない。

戻る。

コースを切る。

味方と守備組織を作る。

その一方で、明確な弱点もある。

「右足です」

八幡が言った。

「右はトラップまで。パスもドリブルもシュートも、ほぼ無理です」

だからこそ、左足を切って右方向へ追い込む。

理屈としては分かりやすい。

ただ。

本人も当然、それを理解している。

最初から左足を使いやすい場所へ入る。

受ける前に身体の向きまで作る。

「だから、受けてから右へ追い込むだけじゃ遅いです」

「ボールが入る前から左を使わせない」

「そういうことです」

そして。

中央の最前線。

郡司優。

32歳。

富山ユース出身。

海外経験あり。

元日本代表。

21キャップ。

ワールドカップには縁がなかった。

「こいつは得点」

八幡は短く言った。

「そこに尽きます」

動きは独特。

タイミングも、立ち位置も、普通のストライカーとは少し違う。

それでも最後にはゴールを狙える位置にいる。

今季の3-4-2-1になって、その感覚がより生きるようになった。

「今の形で、一番恩恵を受けてる選手かもしれません」

ライアックが動く。

万条はさらに自由に動く。

相手守備陣の意識が左右へ揺れる。

その間。

郡司が視界から消える。

「万条ばかり見れば郡司」

中村が言う。

「郡司ばかり見れば万条」

八幡が続ける。

「その上、ライアックに前を向かせれば、その二人へボールが出る」

「面倒な三人だな」

「はい」

前線の三人は、同じタイプではない。

だからこそ厄介だった。

「次、中盤です」

八幡がチョウ・ウンソウを指す。

32歳。

中国代表。

富山在籍10年目。

キャプテン。

第19節から復帰した、チームの心臓。

「万条たちが自由に動けるのも、こういう選手が後ろにいるからです」

前へ出るべきなのか。

残るべきなのか。

誰かの背後をカバーするべきなのか。

中央を締めるべきなのか。

その判断を間違えない。

身体も張る。

球際からも逃げない。

「ただ、高さは弱点です」

中村が資料を見る。

「172センチ」

「はい」

地上戦では強い。

だが純粋な空中戦になれば不利になる。

そこは狙える。

ただし。

富山で10年間戦ってきたベテランは、自分の弱点もよく理解している。

競る前に身体を当てる。

落下地点へ先に入る。

無理なら周囲へ任せる。

「高さを狙うのはありです。ただ、それだけで崩せる選手じゃない」

次に左サイド。

風祭竜也。

19歳。

夏にJ1クラブから育成型期限付き移籍。

加入後は、後半戦最初の試合からずっとスタメン。

「左ウイングバックです」

武器は左足でのキープ力。

そして無尽蔵のスタミナ。

守備で下がり。

奪えば上がる。

攻撃が終われば戻る。

そしてまた上がる。

それを90分間繰り返す。

「足は速くない」

中村が言う。

「はい。そこは弱点です」

さらにトラップも安定しない。

だから狙うなら、ボールを持たせた後ではなくファーストタッチ。

「一度左足の支配下に入れられると、キープ力があるんで」

「追いついたからって終わりじゃない」

「そうです」

そして右。

高井重吾。

26歳。

右利き。

前半戦はシャドー。

後半戦は右ウイングバック。

「守備意識が高いから、一列下げても成立してます」

だが。

攻撃時には前半戦の感覚が残っている。

外へ張ってクロスを上げるだけではない。

右から中央へ切り込み。

右足でミドルを狙う。

八幡が画面に中央方向への矢印を引いた。

「この形ですね。中へ入らせて右足を振らせると危ない」

「外だけ切ったら駄目ってことだな」

マルコが言う。

「はい」

一方。

守備では積極的。

身体を当てる。

追う。

奪いに行く。

ただ、その積極性が荒さにも繋がっている。

「後手を踏ませれば、ファウルを誘える可能性はある」

山本が言った。

「あります。ただ、それ狙いだけで崩せるほど簡単じゃないです」

八幡は画面を、もう一度全体の布陣へ戻した。

**郡司優**

**ライアック・フォーン  万条富隆**

**風祭竜也            高井重吾**

**チョウ・ウンソウ CMF**

**CB CB CB**

**GK**

「富山の厄介なところは」

八幡が言う。

「こいつらが、それぞれ勝手に強いだけじゃないことです」

右シャドーの万条が自由に動く。

左シャドーのライアックが良い位置へ入る。

その後ろでチョウがバランスを取る。

左では風祭が上下動し続ける。

右では高井が攻守に関わる。

そして最前線で郡司がゴールだけを狙う。

「全部、今の3-4-2-1の中で繋がってます」

万条が動けば、相手も動く。

空いた場所へライアックが入る。

ライアックが左足で前へ送る。

必要ならウイングバックも上がる。

その後ろをチョウが支える。

そして最後。

郡司がゴール前へ現れる。

「一人を消せば終わるチームじゃない」

マルコが言った。

「はい」

八幡も頷く。

「万条だけ見ても駄目。郡司だけ見ても駄目。ライアックの左足も切らないといけない。サイドも放置できない。その上でチョウが中盤のバランスを取ってる」

中村が画面を眺めた。

「つまり」

少し間を置く。

「チーム全体で相手しないと駄目ってことだな」

「そういうことです」

そして。

富山の厄介さは攻撃だけではなかった。

八幡が守備時の映像へ切り替える。

風祭が下がる。

高井も下がる。

三バックと合わせて五枚。

「ウイングバックは守備重視です」

中央を締める。

サイドも簡単には開けない。

無理に前から奪おうとはせず、相手を引き込む。

そして奪った瞬間。

カウンター。

さらに。

もう一つ。

相手FWが最終ラインの背後へ走った。

パサーが顔を上げる。

その瞬間。

富山の三バックが揃って前へ出る。

パス。

副審の旗。

オフサイド。

「オフサイドトラップ」

中村が言う。

「かなり使います」

八幡が答えた。

裏を取るには、出し手と受け手のタイミングを正確に合わせなければならない。

「少しでもズレれば、簡単に引っかかります」

マルコが椅子から立ち上がった。

「弱点はある」

ライアックの右足。

チョウの高さ。

風祭のトラップとスピード。

高井の荒さ。

確かに攻略できる部分はある。

「だが」

マルコは布陣を見たまま続けた。

「弱点だけを見て勝てる相手ではない」

「はい」

第28節。

富山は北海道フェニックスFCに敗れた。

それまで続いていた5連勝は止まった。

だが。

現在3位。

勝ち点55。

2位エストレヤ千葉は57。

差は2。

そして首位北海道は勝ち点60。

千葉との差は3。

残り6試合。

「北海道を追う」

中村が言った。

「でも」

八幡は順位表へ目を向ける。

「富山にも追われてる」

上とは3ポイント。

下とは2ポイント。

一度でも躓けば、順位など簡単に変わる。

「北海道に負けたからって、富山の状態が悪いと考えるのは危険です」

5連勝を首位に止められた。

ただ、それだけだ。

後半戦に入って富山が強くなっているという事実は、何も変わっていない。

八幡はリモコンを机へ置いた。

「分析は終わりです」

会議室の視線が、最後にもう一度大型モニターへ集まる。

**郡司優**

**ライアック・フォーン  万条富隆**

**風祭竜也            高井重吾**

**チョウ・ウンソウ CMF**

**CB CB CB**

**GK**

左シャドー、ライアック・フォーン。

右シャドー、万条富隆。

その前に郡司優。

両翼には風祭竜也と高井重吾。

その後ろでチョウ・ウンソウが支える。

今の富山ベイウインズ。

マルコはしばらく画面を眺めた後、静かに言った。

「このチームを上回る」

短い言葉だった。

だが。

意味は十分だった。

残り6試合。

首位まで3ポイント。

3位との差は2ポイント。

優勝を狙うエストレヤ千葉にとって。

富山ベイウインズは、ただ追いかけてくるクラブではない。

最後まで順位を奪い合うことになる。

絶対に無視できない。

最大級のライバルだった。

第365話 束の間の自由

一方、その頃。

富山にある万条家のリビングは、ひどく静かだった。

テレビはついていない。

部屋の中に聞こえるのは、一定の間隔で響くエアコンの作動音くらい。

その静けさの中、ソファには一人の女性が座っていた。

万条こころ。

21歳。

万条富隆の妻。

そして、こころにとって富隆は、単なる夫というだけの存在ではなかった。

夫でありながら、同時に「ご主人様」でもある。

そんな歪な関係が、結婚してからずっと続いている。

だが。

ここ数週間、その富隆は家にいなかった。

「……今日も、か」

こころは壁に掛けられた時計へ目を向けた。

もう十分に遅い時間だった。

それでも、玄関の鍵が回る音はしない。

足音も聞こえない。

富隆から連絡が来ることもなかった。

昨日も。

その前の日も。

そして、そのさらに前も。

ここ数週間、ずっと同じだった。

帰ってこない。

どこにいるのか。

何をしているのか。

こころには何も知らされていなかった。

ただし、生活に必要なお金だけは入ってくる。

だから、暮らしていくうえで困ることはなかった。

むしろ。

こころはソファの背もたれへ身体を預けると、ゆっくりと足を伸ばした。

誰にも何も言われない。

何時に起きるのか。

何時に食事をするのか。

何を食べるのか。

いつテレビを見るのか。

何時に寝るのか。

全部、自分で決められる。

そんな当たり前のことが、今のこころには不思議なほど新鮮だった。

「……こんなに」

思わず声が漏れる。

自分の声が妙に大きく聞こえて、こころは一度口を閉じた。

それから、誰もいない部屋を見回す。

「自由なんだ……」

その言葉を口にした自分自身に、こころは少し驚いていた。

ただ一人で家にいる。

それだけなのに。

胸の奥にずっとあった重いものが、今だけは少し消えている。

普通なら。

夫が何週間も帰宅しなければ、不安になるのかもしれない。

寂しいと思うのかもしれない。

何かあったのではないかと心配するのかもしれない。

だが。

こころの胸に最初に浮かんだ感情は、そのどれでもなかった。

解放感だった。

「……すごい」

誰にも届かないほど小さな声。

「私……今」

そこで一度、考える。

そして。

「自由なんだ……」

もう一度、同じ言葉を口にした。

今度は、ほんの僅かに口元が緩んだ。

もちろん。

いつまで続くのかは分からない。

明日になれば、何事もなかったように富隆が帰ってくるかもしれない。

この静かな生活が突然終わる可能性だってある。

それでも。

少なくとも今だけは。

こころは、この時間を大切にしたかった。

ただ。

彼女が今、一人で自由を感じられている理由。

万条富隆が何週間も家へ戻ってこない理由は。

こころが想像するよりも、ずっと別の場所にあった。

◇

ホテルの広い客室。

「ふぅ……」

万条富隆はソファへ深く身体を預けた。

富山ベイウインズ、背番号8。

夏に加入して以降、右シャドーを中心に高い能力を発揮し、現在ではチームの中心選手の一人となっている。

富山の後半戦の躍進。

その中で、万条の存在感は確実に大きくなっていた。

ただ。

試合や練習が終わったあと。

ここ数週間、富隆はほとんど自宅へ帰っていない。

必要な生活費だけは妻へ渡す。

それだけ。

それ以外の時間は、このホテルで過ごしていた。

しかも。

一人ではない。

「万条さん」

声をかけられ、富隆が顔を向ける。

そこにいたのは、一色いろはだった。

そして。

「なんかさー」

もう一人。

ベッドの端に腰掛けながら、由比ヶ浜結衣が口を開く。

ここ数週間。

富隆が同じホテルで過ごしていた二人の女性。

一色いろは。

由比ヶ浜結衣。

「ほんとに帰らないんですね」

いろはが、どこか面白がるような口調で言った。

「家」

「帰る必要あるか?」

富隆は何でもないことのように返す。

「金は入れてる」

「奥さんいるんでしょ?」

今度は結衣が聞く。

「いるけど?」

「いや、それで何週間もホテルって……」

「別にいいだろ」

富隆には、悪びれる様子すらなかった。

妻が待っている家へ何週間も帰らない。

そのことに対する罪悪感も、少なくとも表情からは感じられない。

いろはと結衣も、それ以上深く追及することはしなかった。

三人でホテルにいる。

そんな時間がここ数週間続いている。

そして今のところ、誰もそれを終わらせようとはしていなかった。

「それより」

富隆が二人へ視線を向ける。

「明日もここいるんだろ?」

いろはがにっこり笑った。

「さあ?」

「えー、どうしよっかな」

結衣も楽しそうに笑う。

富隆はそんな二人を眺めた。

妻のいる家。

そこへ帰ろうという気は、今のところなかった。

こころが今、何をしているのか。

何を考えているのか。

それすら気に留めていなかった。

◇

同じ頃。

万条家。

こころは冷蔵庫の扉を開けたまま、中を眺めていた。

「……何食べよう」

ただ、それだけのこと。

だが。

少し嬉しかった。

自分で決められる。

誰かの顔色を見る必要もない。

今日はこれを食べよう。

明日は別のものにしよう。

そんな小さな選択が、こころには新鮮だった。

冷蔵庫の中を見ながら、しばらく考える。

そして。

「もう少しだけ……」

誰もいない家の中で、小さく呟いた。

「このままだったらいいな……」

富隆が今どこにいるのか。

こころは知らない。

誰と一緒にいるのかも知らない。

ただ夫が帰ってこない。

その事実によって皮肉にもこころは今、束の間の自由を手にしていた。

そして、その夫は今夜もまた、一色いろはと由比ヶ浜結衣のいるホテルへ戻るつもりでいた。

第366話 いつもの終わらせ方

深夜。

ホテルの客室は、ほとんどの照明が落とされていた。

カーテンの隙間から僅かに街の光が入り込み、薄暗い室内をぼんやりと照らしている。

ベッドでは、万条富隆が眠っていた。

ここ数週間、自宅にはほとんど帰っていない。

妻であるこころには生活費だけを渡し、自分は一色いろはと由比ヶ浜結衣の二人と、このホテルで過ごし続けていた。

富隆自身は、その生活をまだ続けるつもりでいる。

少なくとも。

眠りにつく前までは、そう思っていた。

だが。

彼だけが知らなかった。

この関係は、すでに終わりへ向かっていた。

◇

「……結衣さん」

いろはが声を潜めた。

「ん?」

結衣が顔を向ける。

いろはは一度、ベッドで眠る富隆を確認してから、小さな声で言った。

「そろそろ飽きません?」

「あー……」

結衣も富隆を見る。

数秒。

それだけで答えは決まった。

「やっぱり?」

「はい」

「私も」

二人は顔を見合わせた。

どちらも迷っていない。

「最初は結構よかったんですけどね」

いろはが退屈そうに髪を指先で弄る。

「身体の相性も」

「そこそこ?」

「そこそこですね」

結衣が小さく笑った。

「でもさ」

「はい」

「一方向しかないんだよね」

「あ、それです」

いろはは即座に頷いた。

富隆は何をするにも自分が中心だった。

自分が楽しむ。

自分が満足する。

自分の望むように相手を動かす。

最初のうちは、その強引さも二人にとっては刺激の一つだった。

だが。

何週間も続けば、話は違う。

「結局、ずっと自分中心なんですよね」

いろはが呟く。

「うん。最初から最後まで」

「だから飽きるんですよ」

「ね」

二人の間に、ほんの短い沈黙が落ちた。

そして。

「じゃあ」

結衣が言う。

「そろそろ終わり?」

「終わりましょうか」

いろはは、まるで明日の予定でも決めるような軽さで答えた。

即決だった。

だが。

二人にとって、それは何も珍しいことではない。

これまでにも何度も繰り返してきた。

サッカー選手。

野球選手。

バスケットボール選手。

その他にも、様々な競技のアスリート。

近づく。

興味を持たせる。

関係を作る。

しばらく一緒に過ごす。

そして。

飽きたら終わり。

ただし。

二人の場合、それだけでは終わらない。

最後に必ず一つ、やることがある。

写真と情報を週刊誌へ渡す。

それが。

いろはと結衣にとっての、いつもの終わらせ方だった。

「今回、どれ使う?」

結衣がスマートフォンを取り出した。

「ちょっと待ってください」

いろはも自分のスマートフォンを操作する。

保存されている写真は一枚や二枚ではない。

何週間も一緒に過ごしていたのだ。

ホテルでの写真。

外で撮った写真。

何気なく撮影したもの。

その中から。

二人は条件に合うものを探し始めた。

「私たちの顔」

いろはが念を押す。

「絶対に写ってないやつですよ」

「もちろん」

結衣も即答した。

これは毎回徹底している。

自分たちの顔は出さない。

誰なのか特定できるような写真は使わない。

姿が多少映っていても、後ろ姿。

髪。

身体の一部。

その程度。

「万条さんは?」

結衣が聞く。

「そっちは」

いろはの口元がゆっくり上がった。

「ちゃんと顔が分かるやつで」

「だよね」

相手の顔が分からなければ意味がない。

誰の記事なのか。

誰がそこにいたのか。

それだけは、一目で分からなければならない。

しばらく画面を滑らせていたいろはの指が止まった。

「あ」

「なに?」

「……これ」

いろはがスマートフォンを結衣へ向ける。

「あ」

結衣も画面を覗き込んだ。

少しして。

「いいじゃん」

そこには。

ホテルのベッド。

眠っている万条富隆。

そして。

同じベッドにいる二人の女性が写っていた。

富隆の顔ははっきりと確認できる。

誰なのか、見間違えることはない。

一方。

両側にいる女性二人の顔は写っていない。

髪。

身体の一部。

後ろ姿。

そこまで。

写真を見れば、富隆が二人の女性と同じベッドにいたことは分かる。

しかし。

その二人が一色いろはと由比ヶ浜結衣であることまでは、写真だけでは判断できない。

「完璧じゃないですか?」

いろはが言った。

「うん」

結衣も満足そうに頷く。

「万条さんだけ顔出てる」

「私たちは出てない」

「しかも」

結衣が画像を拡大する。

「女が二人いるのはちゃんと分かる」

「そこ重要です」

いろはが楽しそうに笑った。

ただの女性問題ではない。

万条富隆は既婚者。

妻がいる。

その男がホテルで二人の女性と同じベッドにいる。

それだけでも十分に記事になる。

しかも。

今は時期もいい。

「今出たら」

結衣が言った。

「結構騒がれそう」

「結構どころじゃないでしょうね」

富山ベイウインズは現在3位。

勝ち点55。

残り6試合。

優勝争いの真っ只中。

そして万条は、夏に加入したばかりの中心選手。

後半戦の躍進を支える一人として、注目も集めている。

「タイミングとしては最高です」

いろはは何のためらいもなく言った。

「やっぱり今?」

「今ですね」

これまでもそうだった。

二人は、ただ写真を売るわけではない。

相手が最も注目されている時期を選ぶ。

シーズン中。

大きな大会の直前。

好調時。

移籍直後。

代表選出。

世間の視線がその選手へ集まっている時ほど、記事の価値も大きくなる。

「コメントも付ける?」

結衣が聞いた。

「もちろん」

写真だけでは終わらない。

ここ数週間、三人でホテルに滞在していたこと。

富隆が既婚者だと知っていたこと。

それでも関係が続いていたこと。

記事に使えそうな情報をまとめる。

ただし。

二人自身が表へ出るつもりはない。

「で」

結衣が確認する。

「いつも通り?」

「はい」

いろはは即答した。

「記事が出る前に消えます」

「連絡は?」

「全部切ります」

「だよね」

売る。

そして消える。

電話。

メッセージ。

SNS。

相手が連絡できる場所は全て切る。

記事が出た後。

本人がどうなるのか。

所属チームがどう対応するのか。

家庭がどうなるのか。

二人には関係ない。

今までだってそうだった。

サッカー。

野球。

バスケットボール。

その他の競技。

何度も。

何人も。

同じやり方で終わらせてきた。

「次」

結衣が急に楽しそうな声を出した。

「誰にする?」

「もう次ですか?」

いろはが笑う。

「だって万条さん、もう終わりなんでしょ?」

「まあ」

いろはは眠っている富隆へ視線を向けた。

「終わりですね」

そこに情はなかった。

数週間、一緒に過ごしていた相手を見る目ではない。

もう興味を失った。

ただ、それだけだった。

「自分が女を選んでるって」

いろはが小さく笑う。

「思ってそうですよね」

「絶対思ってる」

結衣も笑った。

「自信すごいし」

「でも」

いろはがスマートフォンを見る。

画面に表示されている写真。

中央には富隆の顔。

その両側には、顔の分からない二人の女性。

「捨てられるの」

いろはが言う。

「万条さんの方なんですよね」

結衣の口元もゆっくりと吊り上がった。

「しかも」

「最後に記事付き」

「ですね」

二人は声を抑えながら笑った。

スマートフォンの白い光が、暗い部屋の中で二人の顔を照らす。

何度も。

同じことを繰り返してきた。

相手へ近づくことも。

飽きることも。

売る写真を選ぶことも。

そして。

相手だけを残して消えることも。

全てに慣れている。

そこに罪悪感はない。

躊躇もない。

ただ次の標的を探すことまで含めて、二人にとってはいつもの遊びの続きにすぎなかった。

暗闇の中で浮かぶ笑みは。

冷たく。

歪んでいて。

紛れもなく邪悪だった。

そのすぐ近く。

ベッドでは万条富隆が、何も知らずに眠り続けている。

自分の顔だけがはっきりと写った一枚。

一緒にいた二人の女性の顔だけは分からない一枚。

それが。

自分の知らないところで選ばれ。

週刊誌へ渡されようとしていることなど。

富隆はまだ。

知る由もなかった。

第367話 じゃあ、頑張って

深夜。

ホテルの客室には、重たい静けさが残っていた。

一色いろはと由比ヶ浜結衣は、すでに週刊誌へ渡す写真を選び終えている。

万条富隆の顔は、はっきりと写っている。

誰が見ても本人だと分かる。

その一方で、同じベッドにいた二人の女性の顔は映っていない。

後ろ姿。

髪。

身体の一部。

二人の女性がそこにいたことだけは分かる。

だが。

それがいろはと結衣だと、写真だけで特定することはできない。

準備は、もうほとんど終わっていた。

「じゃあ」

結衣がスマートフォンの画面を閉じる。

「そろそろ行く?」

「そうですね」

いろはも頷き、ベッドへ視線を向けた。

富隆はまだ眠っている。

数週間、三人で過ごしたホテル。

その最後だというのに、本人は何も知らない。

いろはがバッグへ手を伸ばしたところで、ふと動きを止めた。

「……あ」

「ん?」

「そういえば」

いろはが何かを思い出したように振り返る。

「万条さんの次の試合」

「次?」

「千葉ですよ」

結衣が一瞬考える。

そして。

「あー」

すぐに思い出した。

「エストレヤ千葉?」

「はい」

万条富隆が今シーズン途中まで所属していたクラブ。

エストレヤ千葉。

そして。

いろはと結衣にとっても、馴染みのある地元だった。

「しかも、結構大事な試合ですよ」

いろはが小さく笑う。

現在。

エストレヤ千葉は2位。

勝ち点57。

富山ベイウインズは3位。

勝ち点55。

その差は、わずか2ポイント。

残り6試合。

J2優勝争いの中で行われる、直接対決だった。

「へえ」

結衣は改めて、眠っている富隆を見る。

「古巣とやるんだ」

「そうですね」

「しかも千葉で?」

「地元ですね」

二人にとっても馴染みの深い千葉。

そこで富隆は。

今の所属クラブ、富山ベイウインズの選手として。

かつて所属していたエストレヤ千葉と戦う。

「じゃあ」

結衣が少し楽しそうに笑った。

「頑張ってもらわないとね」

「ですね」

いろはも笑う。

もちろん。

二人に、本気で富隆を応援する気持ちなどなかった。

もう二人の中では。

万条富隆との関係は終わっている。

写真も決めた。

週刊誌へ渡す情報も整理する。

残っているのは、それを実行するだけ。

いろはがバッグを持ち上げる。

結衣も立ち上がった。

そして。

二人は最後に、ベッドの前へ立った。

「万条さん」

いろはが小さく呼ぶ。

当然。

返事はない。

富隆は眠ったままだ。

「次、千葉なんですよね」

いろはがそう続ける。

その隣で、結衣も富隆を見下ろした。

「古巣相手なんだからさ」

二人は一度だけ顔を見合わせた。

そして。

「まあ」

結衣が軽く言う。

「頑張って」

「頑張ってくださいねー」

いろはも続けた。

まるで。

しばらく会わない知り合いへ、適当に挨拶するような声だった。

それが。

二人が万条富隆へかける、最後の言葉になった。

いろはが先に振り返る。

結衣も続いた。

二人は荷物を持ち、部屋の扉を開ける。

ホテルの廊下へ出る。

一度も振り返らない。

やがて。

静かに扉が閉まった。

ここ数週間。

三人で過ごしていたホテル。

そこから。

一色いろはと由比ヶ浜結衣は、何の未練もなく消えた。

◇

朝。

カーテンの隙間から差し込んだ光が、ベッドの上へ伸びていた。

「……ん」

富隆がゆっくり目を開ける。

まだ眠気の残る顔で身体を起こした。

「……」

何となく横を見る。

誰もいない。

反対側にも。

誰もいなかった。

富隆が少しだけ眉を寄せる。

「……あ?」

室内を見回す。

静かだった。

「いろは?」

返事はない。

「結衣?」

こちらも同じ。

洗面所にも気配はない。

そして。

よく見れば。

二人が持ち込んでいた荷物も消えていた。

「……」

富隆は枕元のスマートフォンへ手を伸ばす。

画面をつけ。

時間を確認する。

それから。

「帰ったのか」

それだけだった。

驚くでもない。

腹を立てるでもない。

富隆はそのままベッドから降りる。

ここ数週間。

ずっと一緒にいた二人の女性が、何も言わずにいなくなった。

普通なら。

何かあったのかと考えるかもしれない。

理由を聞こうとするかもしれない。

連絡を取ろうとするかもしれない。

だが。

富隆は違った。

「まあいいか」

あっさりと。

それで終わった。

自分から連絡する気もない。

いなくなった理由を考えるつもりもない。

そもそも。

富隆にとっても、そこまで深く考えるような関係ではなかった。

シャワーを浴びる。

着替える。

髪を整える。

いつも通り。

そして。

その頃には、いろはと結衣のことなど頭から消え始めていた。

代わりに浮かんだのは。

次の試合だった。

「……千葉か」

エストレヤ千葉。

古巣。

自分が今シーズン途中まで所属していたクラブ。

現在2位。

勝ち点57。

そして。

自分が所属する富山ベイウインズは3位。

勝ち点55。

その差。

2ポイント。

残り6試合の中で行われる、重要な直接対決。

「面白え」

富隆の口元が上がった。

古巣。

かつてのチームメイト。

そして。

優勝争い。

富隆の意識は、完全にそちらへ向いていた。

いろはと結衣がなぜ消えたのか。

二人がホテルから何を持っていったのか。

自分が眠っている間に、どんな話をしていたのか。

そして。

これから何をしようとしているのか。

何一つ知らない。

何一つ気にしていない。

万条富隆は。

自分の知らないところで、すでに別の問題が動き始めていることにも気づかないまま。

次戦。

古巣エストレヤ千葉との一戦だけを見ていた。

# 第368話 決戦の日

試合当日。

千葉。

**エストレヤスタジアム。**

まだ。

キックオフまでは。

かなり時間がある。

それでも。

スタジアム周辺には。

すでに。

多くの人が集まっていた。

「いらっしゃいませー!」

「こちら最後尾でーす!」

「サッカー教室参加の方はこちらへお願いしまーす!」

いつもの。

ホームゲームとは。

少し違う。

今日は。

クラブ側が。

試合前から。

様々なイベントを。

用意していた。

理由は。

単純。

**2位対3位。**

エストレヤ千葉。

2位。

勝点57。

富山ベイウインズ。

3位。

勝点55。

残り。

6試合。

その状況で迎えた。

直接対決。

優勝争い。

そして。

順位争い。

どちらにとっても。

絶対に。

落としたくない。

一戦。

だからこそ。

クラブも。

この試合を。

盛り上げるため。

試合前から。

大規模なイベントを。

開催していた。

◇

スタジアム前。

広場。

そこには。

何台もの。

キッチンカーが。

並んでいる。

肉料理。

丼。

カレー。

焼きそば。

軽食。

デザート。

飲み物。

様々な。

店。

「パパ、あれ食べたい!」

「さっきも食べただろ」

「でもあれは別!」

「別ってなんだよ」

親子。

笑う。

少し離れた場所では。

千葉の。

ユニフォームを着た。

サポーターたち。

「今日勝ったらデカいよな」

「デカいなんてもんじゃないだろ。富山と5差になるぞ」

「しかも首位も追ってるしな」

「北海道が60だからな」

「マジで優勝見えてきたな……」

開幕直後。

誰が。

この光景を。

想像しただろう。

第5節終了時。

千葉。

0勝2分3敗。

勝点2。

単独最下位。

それが。

今。

第28節終了。

勝点57。

2位。

優勝を。

本気で。

狙える位置。

だから。

サポーターの。

熱も。

違った。

「万条も来るんだろ?」

「来るだろ。今、富山の主力だぞ」

「まさかこんな形で戻ってくるとはな」

夏まで。

千葉にいた。

万条富隆。

今は。

富山。

背番号8。

右シャドー。

移籍後。

好調。

そして。

今日。

古巣。

エストレヤスタジアムへ。

戻ってくる。

それも。

3位。

富山の。

中心選手として。

◇

「はい!」

「じゃあ、次!」

「ボールをよく見て!」

別のスペース。

そこでは。

子ども向けの。

**サッカー教室。**

ボールを。

追いかける。

子どもたち。

ドリブル。

パス。

シュート。

「いけー!」

「頑張れ!」

保護者たちも。

外から。

見守っている。

失敗して。

笑う。

上手くできて。

喜ぶ。

ゴールが。

決まれば。

周囲から。

拍手。

「入った!」

「やった!」

子どもが。

両手を。

上げる。

その身体には。

エストレヤ千葉の。

ユニフォーム。

別の子ども。

背中。

**14。**

また。

別。

**10。**

さらに。

GKユニフォームを。

着た子どももいる。

今日。

ここへ。

来ているのは。

熱狂的な。

サポーターだけではない。

家族連れ。

子ども。

普段。

そこまで。

サッカーを見ない人。

イベントを。

きっかけに。

初めて。

スタジアムへ。

来た人。

様々。

それでも。

今日だけは。

同じ場所へ。

集まっている。

◇

スタジアム。

大型ビジョン。

そこには。

今日の。

対戦カード。

表示。

**J2 第29節。**

**エストレヤ千葉**

VS

**富山ベイウインズ**

その下。

**2位 VS 3位。**

数字だけで。

意味が。

伝わる。

「うわ」

ビジョンを見た。

一人の少年が。

声を上げる。

「本当に2位なんだ」

「何言ってんだよ」

父親が笑う。

「ずっと2位だろ」

「でも最初ビリだったじゃん」

「……まあな」

父親。

少しだけ。

感慨深そうに。

ピッチを見る。

長い。

シーズン。

序盤。

勝てなかった。

だが。

そこから。

変わった。

補強。

戦術。

選手。

競争。

勝利。

そして。

今。

優勝争い。

「今日は勝ってほしいな」

「勝つよ!」

「なんで分かるんだ?」

「千葉だから!」

「ははっ」

単純。

だが。

サポーターとは。

そういうもの。

◇

スタジアム内部。

クラブスタッフたちは。

忙しく。

動いていた。

「サッカー教室、予定通り進んでます!」

「キッチンカー側も問題ありません!」

「入場待機列、少し伸びてます!」

「誘導スタッフ増やして!」

今日。

試合だけを。

開催するのではない。

試合前から。

エストレヤ千葉という。

クラブを。

楽しんでもらう。

そして。

最後。

2位と3位。

直接対決。

そこへ。

熱気を。

繋げる。

クラブにとっても。

重要な。

一日。

◇

そして。

時間が。

進むにつれて。

スタジアム周辺。

人。

さらに。

増えていく。

紺。

金。

白。

エストレヤ千葉の。

色。

その中。

少しずつ。

見え始める。

富山ベイウインズ。

アウェイサポーター。

遠く。

富山から。

来た者たち。

こちらも。

今日の意味を。

分かっている。

「勝って2位だ!」

「千葉を抜くぞ!」

ホーム。

千葉。

勝てば。

富山との差。

**5ポイント。**

アウェイ。

富山。

勝てば。

千葉を。

**1ポイント上回る。**

引き分けなら。

差は。

2のまま。

たった。

一試合。

だが。

残り。

6試合となった。

今。

その。

重みは。

大きい。

◇

キッチンカー。

サッカー教室。

家族連れ。

サポーター。

ユニフォーム。

旗。

タオル。

笑い声。

歓声。

試合前。

まだ。

穏やかな。

空気。

しかし。

スタジアムを。

見上げれば。

大型ビジョンには。

ずっと。

表示されている。

**2位 エストレヤ千葉。**

**3位 富山ベイウインズ。**

そして。

その頃。

スタジアムへと。

一台の。

チームバスが。

近づいていた。

富山ベイウインズ。

選手たちを。

乗せた。

アウェイチームの。

バス。

その中には。

もちろん。

背番号8。

万条富隆も。

いる。

数日前まで。

一色いろは。

由比ヶ浜結衣。

二人と。

ホテルで。

過ごしていた男。

そして。

二人が。

週刊誌へ渡すため。

写真を。

選び終えていることなど。

何も。

知らない男。

今日。

万条富隆は。

かつて。

自分が所属した。

エストレヤ千葉の。

ホームへ。

敵として。

帰ってくる。

**2位対3位。**

優勝争い。

直接対決。

エストレヤスタジアム。

決戦の日が始まろうとしていた。

第369話 スターティングイレブン

キックオフの時刻が、少しずつ近づいていた。

エストレヤスタジアム。

試合前イベントを楽しんでいたサポーターたちも、次々と自分たちの席へ戻っていく。

スタンドはすでに多くの人で埋まり、あちこちでタオルマフラーが掲げられていた。

まだ試合は始まっていない。

それでも。

今日が普段とは少し違う一戦であることは、スタジアム全体の空気から伝わってくる。

2位、エストレヤ千葉。

3位、富山ベイウインズ。

勝ち点差は、わずか2。

残り6試合。

優勝争いの行方を左右しかねない、上位直接対決だった。

その時。

大型ビジョンの表示が切り替わった。

『お待たせいたしました!』

スタジアムDJの声が響き渡る。

ざわめいていたスタンドが、一気にそちらへ意識を向けた。

『本日の――エストレヤ千葉!』

一拍。

『スターティングメンバーを発表します!』

「うおおおおおおおおおおっ!!」

大歓声がスタジアムを揺らした。

◇

『ゴールキーパー!』

最初に大型ビジョンへ表示されたのは、ゴールを守る男。

『背番号21!』

『玉縄――幸三!』

「玉縄ぁぁぁぁぁぁ!!」

玉縄幸三。

今シーズンはセカンドGKとしてスタートした。

だが。

絶対的守護神である郷田京が負傷離脱してからは、代わってゴールマウスを守り続けてきた。

そして今日も。

先発を任されたのは玉縄だった。

そのまま、発表は最終ラインへ移る。

『ディフェンダー!』

『背番号6!』

『毛利――良一!』

「毛利ぃぃぃぃ!!」

右サイドバック。

毛利良一。

続いて。

『背番号35!』

『橋本――翔!』

「橋本ぉぉぉぉ!!」

19歳。

198センチ。

U-19日本代表。

若きセンターバック、橋本翔。

その隣に入るのは。

『背番号2!』

『坂本――湊!』

「坂本ぉぉぉぉ!!」

坂本湊。

そして左。

『背番号33!』

『葉山――隼人!』

「葉山ぁぁぁぁぁ!!」

歓声がさらに大きくなる。

第26節、信州アルプスFC戦。

チームを敗戦から救う同点ゴールを決めた葉山隼人。

今日は左サイドバックとして先発する。

右に毛利。

中央に橋本と坂本。

左に葉山。

四人が最終ラインを形成する。

◇

『ミッドフィールダー!』

『背番号18!』

『戸塚――彩加!』

「戸塚ぁぁぁぁぁ!!」

歓声が一段と大きくなった。

中盤の底。

ダブルボランチの一角を務める戸塚彩加。

その隣。

『背番号7!』

『エミリオ――アルバレス!』

「エミリオォォォォ!!」

エミリオ・アルバレス。

戸塚とエミリオ。

二人が中盤の底を形成する。

戸塚が後方のバランスを取り。

エミリオが一歩前へ出て、縦や斜めへボールを入れていく。

その二人の前には、攻撃陣が並ぶ。

『背番号19!』

『川崎――大志!』

「川崎ぃぃぃぃ!!」

右サイドハーフ。

川崎大志。

第25節、CS栃木戦では2得点。

第27節、秋田ノルディアFC戦でも1得点。

現在、攻撃陣の中でも特に好調な選手の一人だった。

そして。

『背番号14!』

『ダニエル――ロドリゲス!』

「ダニエルゥゥゥゥゥ!!」

この日でも屈指の大歓声が響いた。

23歳。

スペイン人ミッドフィールダー。

ダニエル・ロドリゲス。

今日もポジションはOMF。

戸塚とエミリオの前。

攻撃の中央。

ボールを引き出し、川崎や森川、最前線のマティアスへ繋ぐ。

そして左。

『背番号10!』

一度、DJが声を溜める。

『本日のキャプテン!』

『森川――佑!』

「うおおおおおおおおお!!」

「森川ぁぁぁぁぁぁ!!」

左サイドハーフ。

森川佑。

今日は、その腕にキャプテンマークを巻いている。

本来のキャプテンである郷田京がベンチスタートとなったため、今日のチームをピッチ上で率いるのは森川だった。

◇

そして。

最後。

『フォワード!』

『背番号9!』

『マティアス――ベニテス!』

「マティアスゥゥゥゥゥ!!」

最前線。

マティアス・ベニテス。

夏に加入した23歳のストライカー。

第20節、鹿児島レヴァンテFC戦でゴール。

さらに第24節、横浜マンゲールFC戦ではハットトリックを記録した。

今日。

富山が誇る三バックと、真正面からぶつかる。

◇

大型ビジョンに、十一人の名前が並んだ。

**GK 21 玉縄幸三**

**RSB 6 毛利良一**

**CB 35 橋本翔**

**CB 2 坂本湊**

**LSB 33 葉山隼人**

**DMF 18 戸塚彩加**

**DMF 7 エミリオ・アルバレス**

**RSH 19 川崎大志**

**OMF 14 ダニエル・ロドリゲス**

**LSH 10 森川佑(C)**

**CF 9 マティアス・ベニテス**

布陣は4-2-3-1。

現在のエストレヤ千葉が基本としている形だった。

戸塚とエミリオがダブルボランチ。

その前にダニエル。

右に川崎。

左に森川。

そして最前線にマティアス。

ここ数試合。

千葉が結果を出してきた形でもある。

◇

『続いて!』

再びスタジアムDJの声が響く。

『エストレヤ千葉!』

『ベンチメンバー!』

大型ビジョンが切り替わる。

『背番号1!』

『郷田――京!』

「うおおおおおおおおおおおっ!!」

この日。

スタメン発表にも負けないほどの歓声が響いた。

郷田京。

エストレヤ千葉の本来のキャプテン。

そして。

絶対的守護神。

山形ブリッツFC戦で左足首を負傷し、戦列を離れていた。

その郷田が。

今日。

ついにベンチへ戻ってきた。

まだ先発ではない。

ゴールを任されたのは、離脱期間を支えてきた玉縄。

それでも。

背番号1が試合メンバーへ戻ってきたという事実だけで、スタンドの空気は大きく変わった。

『ディフェンダー!』

『背番号5! 宇津木健太!』

『背番号24! 高山俊樹!』

『背番号29! 安原翼!』

前節。

伊勢シーガルズ戦。

終盤の攻撃参加から決勝ゴールを奪った安原翼も、今日はベンチからスタートする。

続いて中盤。

『背番号17! 佐久間浩二!』

『背番号22! 中田正和!』

『背番号3! 笹森正義!』

『背番号20! 戸部翔!』

経験。

守備。

展開力。

セットプレー。

それぞれ異なる特徴を持つ選手たちが控えている。

試合展開によっては、誰が出ても流れを変えられる。

そして。

『フォワード!』

『背番号11!』

『材木座――義輝!』

「材木座ぁぁぁぁぁ!!」

材木座義輝。

最前線で身体を張れるタイプのCF。

マティアスとはまた違う役割をこなせるストライカーが、ベンチから試合を見つめる。

大型ビジョンに、ベンチメンバーが並んだ。

**GK 1 郷田京**

**DF 5 宇津木健太**

**DF 24 高山俊樹**

**DF 29 安原翼**

**MF 17 佐久間浩二**

**MF 22 中田正和**

**MF 3 笹森正義**

**MF 20 戸部翔**

**CF 11 材木座義輝**

◇

ピッチ脇。

マルコ・ベッルーニは腕を組みながら、選手たちの姿を見つめていた。

その少し離れた場所では。

比企谷八幡も、ピッチへ視線を向けていた。

ここ数日。

何度も映像を見た。

何度も資料を確認した。

富山ベイウインズ。

3-4-2-1。

守備時には深く下がる両ウイングバック。

自由に動く二人のシャドー。

左シャドー。

ライアック・フォーン。

右シャドー。

万条富隆。

最前線。

郡司優。

中盤の中心。

チョウ・ウンソウ。

左ウイングバック。

風祭竜也。

右ウイングバック。

高井重吾。

そして。

頻繁に仕掛けてくるオフサイドトラップ。

個人の特徴。

ポジショニング。

攻撃時の連動。

守備時の形。

弱点。

危険な場所。

分析は終わっている。

対策も準備した。

もう。

映像を見る必要はない。

あとは。

ピッチに立つ選手たちが、それを実行するだけだった。

その時。

大型ビジョンが再び切り替わった。

表示されたのは。

今日の対戦カード。

**エストレヤ千葉**

**VS**

**富山ベイウインズ**

2位。

勝ち点57。

対して。

3位。

勝ち点55。

千葉が勝てば。

勝ち点差は5まで広がる。

逆に負ければ。

富山が千葉を抜く。

そして。

さらにその上。

首位には勝ち点60の北海道フェニックスFCがいる。

北海道との現在の差は3ポイント。

優勝するためには。

上だけを見ていればいいわけではない。

後ろから迫る富山も振り切らなければならない。

落とせない。

ただの一試合ではない。

直接順位を奪い合う。

重要な一戦。

スタンドから聞こえていたざわめきが、少しずつ変わっていく。

笑い声が減る。

視線がピッチへ集まる。

選手たちも。

スタッフも。

サポーターも。

キックオフが近づいていることを感じていた。

エストレヤスタジアムの空気は。

ゆっくりと。

試合前のそれへ変わり始めていた。

第370話 ベテラン勢のコンディション

エストレヤスタジアム。

ホーム側スタンド。

スターティングメンバーの発表が終わり、大型ビジョンには今日のエストレヤ千葉の先発十一人が映し出されていた。

歓声の余韻がまだ残る中、何人かの千葉サポーターが手元のメンバー表を見ながら話している。

「……やっぱり今日もか」

「何が?」

「センターバック」

「ああ」

今日のセンターバックは二人。

背番号35、橋本翔。

19歳。

そして背番号2、坂本湊。

23歳。

かなり若い組み合わせだった。

「最近さ、宇津木と長谷川、出番減ってない?」

「……ああ。俺も思ってた」

宇津木健太、30歳。

長谷川智樹、33歳。

シーズン序盤から千葉の最終ラインを支えてきた経験豊富なセンターバックだ。

だが、ここ最近は二人が揃って先発する試合が明らかに減っている。

「今日も宇津木はベンチだろ?」

「長谷川はベンチにも入ってない」

「だよな。怪我?」

「大きな怪我って話は聞かないけど」

その会話を聞いていた近くのサポーターが、横から口を挟んだ。

「コンディションじゃない?」

「やっぱり?」

「最近そういうの多いじゃん。千葉のベテラン勢」

言われてみれば。

二人も少し考え込む。

「……確かにな」

「30代組?」

「そう」

リーグ戦は第29節。

長かったシーズンも、いよいよ終盤に入っている。

毎週続く試合。

日々の練習。

アウェーへの移動。

そして少しずつ積み重なっていく疲労。

若い頃と同じように、毎回完全な状態まで身体を戻せるとは限らない。

「宇津木も30だろ」

「長谷川は33」

「鬼塚なんか36だし」

「そう考えると、CBは結構ベテラン多いな」

「だな」

鬼塚純一郎。

36歳。

長くプロの世界を生き抜いてきた、経験豊富なセンターバック。

宇津木が30歳。

長谷川が33歳。

鬼塚が36歳。

千葉のセンターバック陣には、経験値の高い選手が揃っていた。

だからこそ最近の橋本と坂本の起用が、より目につく。

「CBだけじゃないよな」

一人がメンバー表を指で追っていく。

「佐久間は37」

「中田は34」

「郷田も34」

「元原さんは39」

「元原さんまで入れると一気に上がるな」

「ははは」

周囲から小さな笑いが漏れた。

ただ。

笑い話だけで済むものでもなかった。

最近のエストレヤ千葉では、30代のベテラン勢がコンディションを整えきれない場面が少しずつ増えている。

大怪我をしているわけではない。

だが。

疲労が完全には抜けない。

筋肉の張りが残る。

小さな違和感が出る。

無理をさせるより、回復を優先した方がいい。

そうした判断が必要になる試合が、以前より確実に増えていた。

「シーズン終盤だもんな」

「もう28試合終わってるし」

「カップ戦もあった」

「練習も移動もある」

「そりゃ身体に来るよ」

まして千葉は。

シーズン序盤、最下位からスタートした。

そこから一試合ずつ勝ち点を積み上げ、今では2位まで這い上がっている。

長い追撃。

その間、選手たちは休むことなく試合を重ねてきた。

「長谷川33。鬼塚36。宇津木も30」

一人が大型ビジョンを見る。

「こう見ると……橋本19って、めちゃくちゃ若いな」

「坂本だって23だからな」

「一気に若返るよな」

大型ビジョンに表示された橋本翔と坂本湊の名前。

19歳と23歳。

そこだけ見れば、最終ラインの中央とは思えないほど若い。

「しかも今日、2位対3位だぞ?」

「分かってる」

「相手のCF、郡司だぞ」

「分かってるって」

郡司優。

32歳。

元日本代表。

代表21キャップ。

独特の得点感覚を武器とするストライカー。

その後ろには、左シャドーのライアック・フォーン。

右シャドーには万条富隆。

富山でも特に警戒すべき攻撃陣が並んでいる。

「よりによって、この試合で橋本と坂本か」

「でも」

別の一人が言った。

「逆に言えば、それだけ期待されてるってことじゃない?」

「まあ……」

「そうじゃなきゃ使わないよな」

確かにそうだった。

ただの一試合ではない。

優勝争いの直接対決。

負ければ3位転落。

勝てば富山との差を5ポイントまで広げられる。

そんな試合で、単なる穴埋めの選手を先発させるはずがない。

マルコ・ベッルーニが。

橋本と坂本なら戦える。

そう判断したからこそ、二人は今日のピッチへ送り出される。

「シーズン前だったらさ」

一人が言った。

「こういう大事な試合、宇津木とか長谷川とか鬼塚とか、経験あるCBを使うって思わない?」

「思う」

「絶対そっち想像する」

「だよな」

だが。

今日選ばれたのは、橋本と坂本だった。

「別にベテラン勢が急に駄目になったって話じゃないんだよな」

「もちろん」

「宇津木は今日もベンチだし」

「鬼塚だって経験ならチームでも上だろ」

「長谷川も状態が良ければ普通に使われる」

「ただ……」

一人が少し考えてから続けた。

「ベテランを無理して使わなくても、試合を任せられる若いCBが出てきたってことじゃない?」

「……ああ」

「それだ」

宇津木。

長谷川。

鬼塚。

経験豊富な三人。

そこへ橋本と坂本という若い二人が割って入ってきた。

だからこそ。

ベテランの状態が万全でなければ、無理をさせる必要がない。

若手であっても。

重要な試合へ送り出せる。

「郷田も似たところあるよな」

一人が今度はベンチメンバーを見る。

「今日戻ってきたけど、先発は玉縄」

「まあ郷田は怪我明けだから事情違うけどな」

「それはそう」

「でも無理してすぐ先発に戻さなくていい」

「玉縄がいるからな」

「そういうこと」

郷田京。

34歳。

エストレヤ千葉の本来のキャプテン。

絶対的守護神。

その郷田が今日、ようやくベンチまで戻ってきた。

それでもゴールマウスを任されたのは、離脱期間を守り続けてきた玉縄幸三。

郷田を急いで先発へ戻す必要はない。

今は玉縄に任せられる。

「そう考えると、層厚くなったよな」

「開幕の頃とは違う」

「若い奴も出てきたし」

「夏の補強もあった」

以前なら。

ベテランのコンディションが落ちれば、そのままチーム力まで落ちる。

そうなっていたかもしれない。

だが。

今は違う。

別の選手が出る。

そこで結果を残す。

すると、また新しい競争が生まれる。

「これって世代交代?」

「まだそこまでじゃないだろ」

「鬼塚も宇津木も長谷川も必要だし」

「佐久間も中田も今日ベンチ」

「森川なんか今日キャプテンだしな」

「ああ」

背番号10。

森川佑。

29歳。

今日のキャプテン。

「だから」

一人が言う。

「ベテランを外して若手だけにするんじゃなくて」

「状態のいい選手を使えるようになったってことだろ」

「ベテランも」

「中堅も」

「若手も」

「全部含めて?」

「そう」

シーズン終盤。

名前だけで試合に出られるわけではない。

その日。

誰の状態がいいのか。

誰が相手に合っているのか。

そして誰が90分間戦えるのか。

それを見ながら、選手を使えるだけの層が今の千葉にはある。

「でも」

一人がピッチを見ながら笑った。

「橋本と坂本、今日抑えたら一気に評価上がるぞ」

「そりゃそうだ」

「郡司だろ?」

「万条もいる」

「ライアックもいる」

「両ウイングバックも上がってくる」

「大変すぎるだろ」

「だから面白いんじゃん」

二人だけで守るわけではない。

橋本と坂本の前には、戸塚彩加とエミリオ・アルバレスのダブルボランチがいる。

左右には毛利良一と葉山隼人。

そしてその前にも、守備に参加する選手たちがいる。

守るのはセンターバックだけではない。

十一人。

チーム全体だ。

「宇津木30」

「長谷川33」

「鬼塚36」

「そこに橋本19と坂本23か」

「年齢差すごいな」

「でもさ」

一人が笑った。

「こうやって若い奴が出てこないと、ずっとベテランに頼ることになるからな」

「確かに」

ベテランが積み上げてきた経験。

若手が持つ勢い。

中堅が支える安定感。

その全てが。

今のエストレヤ千葉には必要だった。

そして。

ちょうどその時。

スタジアムに流れていた音楽が、一段と大きくなる。

「お」

「そろそろだ」

選手入場が近い。

それまで続いていた会話も、自然と止まった。

視線が一斉にピッチへ向く。

現在2位。

エストレヤ千葉。

3位。

富山ベイウインズ。

勝ち点差は2。

優勝争いの直接対決。

経験豊富な宇津木健太。

長谷川智樹。

鬼塚純一郎。

そんなベテランCBたちがいる中で。

今日、先発を任されたのは。

橋本翔。

19歳。

坂本湊。

23歳。

「……頼むぞ」

サポーターの一人が、小さく呟いた。

「今日勝ったら」

隣の男もピッチを見つめる。

「首位も、本当に見えてくるからな」

スタジアムの音楽がさらに大きくなる。

それに合わせるように。

エストレヤスタジアムの熱気も。

キックオフへ向けて、さらに高まっていった。

第371話 2位対3位

エストレヤスタジアム。

選手たちがピッチへ姿を現した瞬間、スタンドから一斉に大歓声が巻き起こった。

「うおおおおおおおおおおおおおっ!!」

ホーム側を埋めるのは、紺、金、白。

エストレヤ千葉のタオルマフラーが掲げられ、大小さまざまな旗が揺れる。

一方。

アウェイスタンドからも、富山ベイウインズのサポーターたちが負けじと声を張り上げていた。

2位、エストレヤ千葉。

勝ち点57。

3位、富山ベイウインズ。

勝ち点55。

残り6試合。

直接対決。

千葉が勝てば、富山との差は5ポイントへ広がる。

逆に富山が勝てば勝ち点58となり、千葉を1ポイント上回って順位が入れ替わる。

そして、そのさらに上。

首位、北海道フェニックスFC。

勝ち点60。

そこを追いかけるためにも、両者とも絶対に負けられない一戦だった。

◇

センターサークルを挟み、両チームの選手たちがそれぞれの配置へ散っていく。

エストレヤ千葉は4-2-3-1。

マティアス

森川佑   ダニエル   川崎大志

戸塚彩加 エミリオ

葉山隼人  坂本湊  橋本翔  毛利良一

玉縄幸三

対する富山は3-4-2-1。

郡司優

ライアック・フォーン  万条富隆

風祭竜也            高井重吾

チョウ・ウンソウ  CMF

CB  CB  CB

GK

千葉が何度も映像で確認してきた形。

左シャドーにライアック。

右シャドーに万条。

そして最前線に郡司。

特に、この三人の位置関係は絶対に見失ってはいけない。

◇

ピッチ脇。

比企谷八幡は腕を組み、富山の選手たちへ視線を向けていた。

自然と目が止まる。

背番号8。

万条富隆。

夏まで、こちら側にいた選手。

それが今では敵として立ち。

しかも、優勝争いの直接的なライバルになっている。

万条は軽く首を回した。

緊張している様子はない。

むしろ。

楽しそうだった。

「……相変わらずだな」

八幡が小さく呟く。

ホテルから一色いろはと由比ヶ浜結衣が消えたことなど、今の万条には何の影響もない。

その二人がこれから何をしようとしているのかも知らない。

今。

万条の頭にあるのは。

サッカー。

古巣。

そして目の前の試合だけだった。

◇

主審が時計を確認する。

笛を口へ運び。

そして。

ピィィィィィィィィィッ!!

「行けえええええええええ!!」

スタンドが爆発した。

第29節。

エストレヤ千葉対富山ベイウインズ。

2位対3位。

その直接対決が始まった。

◇

1分。

最初にボールを落ち着かせたのは千葉だった。

坂本から横の橋本へ。

橋本はボールを持ちながら前を見る。

富山は最前線に郡司。

その後ろにライアックと万条。

だが、三人とも無理に前から追い回してこない。

中央へのパスコースを消しながら、千葉の出方を見ている。

「慌てるな!」

森川から声が飛ぶ。

橋本は無理をせず、右の毛利へ渡した。

毛利が前を見る。

川崎がいる。

だが、その前には高井がすでに立ち位置を取っていた。

「……」

毛利は縦へ急がない。

中央のエミリオへ戻した。

エミリオはボールを受ける前から首を振る。

右。

左。

前。

だが。

富山の中央は狭い。

「やっぱり」

ベンチ脇の八幡が目を細めた。

「閉じてくる」

映像で見てきた通りだった。

富山はボールを持たれることそのものを恐れていない。

千葉に持たせる。

ただし。

中央だけは簡単に使わせない。

奪いやすい場所へ誘導し。

そこで仕留める。

◇

3分。

戸塚がボールを受けた。

正面にはダニエル。

しかし、その間にはチョウ。

さらにライアックと万条も中央の通路を消している。

戸塚は一度ダニエルを見た。

出さない。

左へ。

「葉山!」

葉山が受ける。

高井が前へ出る。

葉山はその手前で森川へ縦パス。

森川は背中に富山の右CBを感じながら、ワンタッチで葉山へ返した。

その瞬間。

森川が前へ走る。

「行け!」

葉山の左足から縦へボールが出る。

森川が走る。

だが。

富山の3バックが、一斉に前へ出た。

「……!」

副審の旗が上がる。

ピィッ!

オフサイド。

「あー!」

「早いな!」

スタンドから声が上がる。

八幡は特に反応しなかった。

想定内。

富山が頻繁に使うオフサイドトラップ。

早速、出た。

「今のライン、覚えとけ!」

マルコがピッチへ声を飛ばす。

森川が軽く手を上げた。

まだ3分。

試合は始まったばかりだ。

◇

5分。

今度は富山が長くボールを持った。

三バックの後方から、チョウへ入る。

戸塚が距離を詰める。

だが。

チョウは慌てない。

身体を戸塚との間に入れ、ボールを守った。

「強いな」

スタンドから声が漏れる。

32歳。

172センチ。

決して大柄ではない。

それでも。

身体の使い方が上手い。

戸塚を背負いながら横へ逃がし。

右の高井へ。

高井がタッチライン際で受ける。

葉山が前へ出る。

高井は一度止まった。

そして。

内側へ。

「来るぞ!」

葉山は分かっている。

高井の得意な形。

右から中央へ切り込む。

そこから右足のミドル。

葉山は先に内側を消した。

高井はさらに中へ入ろうとするが、そこへ戸塚が横からカバーに入った。

「チッ」

高井は無理をせず、後ろへ戻す。

富山はやり直す。

だが。

その間。

万条がいない。

「……万条!」

坂本が声を上げた。

右シャドーにいた万条は、いつの間にか中央へ移動していた。

さらにエミリオの背中側へ立つ。

そこへパスが入った。

万条。

右足でトラップ。

「戸塚!」

「分かってる!」

戸塚が寄せる。

だが。

万条はワンタッチで前へ。

郡司。

橋本を背負う。

ボールが入る。

しかし。

郡司は触らなかった。

「っ!」

スルー。

その後ろ。

左から中央へ入ってきていたライアック。

左足を振る。

「坂本!」

坂本が身体を投げ出した。

バンッ!!

シュートが坂本の脚へ当たり、外へ逃げる。

「うおおおおおお!!」

「坂本ぉぉぉぉ!!」

スタンドから大きな拍手。

坂本はすぐに立ち上がった。

「まだ!」

富山のコーナーキック。

最初の危険な場面だった。

郡司。

万条。

ライアック。

三人とも、固定された場所にはいない。

「これだ」

八幡が小さく呟く。

二人のシャドーは自由。

そして郡司も、ただ自分がシュートを打つためだけに動くわけではない。

独特の感覚で攻撃を繋ぐ。

◇

7分。

富山のコーナーキック。

ボールが中央へ上がる。

「俺!」

橋本が高く跳んだ。

198センチ。

この高さでは圧倒的だった。

頭で弾き返す。

セカンドボールをチョウが拾う。

だが。

森川が素早く寄せる。

チョウは無理をせず、後ろへ戻した。

富山は再び作り直す。

「焦らないな」

「富山も強いぞ」

スタンドからそんな声が聞こえる。

5連勝は前節、北海道に止められた。

だが。

それだけで弱くなったわけではない。

むしろ。

なぜ後半戦でここまで順位を上げてきたのか。

開始数分だけでも、その理由が見えてくる。

◇

9分。

千葉。

玉縄から短く坂本へ。

坂本から戸塚。

戸塚が前を見る。

ダニエルへのコースを万条が横から切る。

チョウも一歩前へ出ようとする。

その瞬間。

戸塚は右へ。

エミリオ。

そしてエミリオがダイレクトで川崎へ入れる。

「おっ!」

川崎が前向きで受けた。

富山のウイングバックがすぐに戻る。

川崎は右サイドを一度縦へ運んだ。

さらに毛利へ。

毛利がオーバーラップ。

高井が下がる。

右サイドで千葉は二人。

富山も高井と右CB。

さらに万条まで戻ってくる。

「毛利!」

川崎が再び受ける。

中央でダニエルが手を上げた。

そこへ入れる。

ダニエルには背後からチョウが近づいている。

ワンタッチ。

左の森川へ展開。

「おお!」

右から左。

森川がフリー。

風祭が急いで戻る。

森川が仕掛けた。

風祭と正対。

右へボールをずらし。

クロス。

「マティアス!」

マティアスが飛び込む。

だが。

富山の中央CBが身体を入れ、先にクリア。

ボールはペナルティエリアの外へ。

「ダニエル!」

ダニエルが拾った。

右足を振ろうとする。

そこへ。

チョウ。

身体を投げ出すわけではない。

シュートコースへ入り込む。

「……」

ダニエルは打てない。

一度止める。

チョウも飛び込まない。

簡単には動かない。

ダニエルは無理せず、左の戸塚へ戻した。

千葉も焦らない。

◇

11分。

スコアは0対0。

まだ決定機と呼べるほどの場面はない。

だが。

決して静かな試合ではなかった。

千葉がボールを動かす。

富山は中央を閉じる。

奪えば一気に前へ。

その繰り返し。

そして。

富山の厄介さが、もう一つ姿を見せる。

「ダニエル!」

戸塚から縦。

ダニエルが受け、反転する。

マティアスが最終ラインの背後へ走った。

ダニエルが右足でスルーパス。

「行け!」

マティアスが抜けた。

ように見えた。

だが。

富山の3バックは、その瞬間に全員が一歩前へ出ていた。

副審の旗が上がる。

ピィッ!

「またか!」

「うまいな、富山!」

二度目のオフサイド。

マティアスが悔しそうに手を叩く。

ダニエルは何も言わず、指を二本立てた。

二回目。

タイミングの確認。

富山がラインを上げる瞬間。

少しずつ。

情報を集めている。

◇

13分。

富山。

左の風祭へ。

毛利が前へ出て距離を詰める。

風祭のトラップが、少し大きくなった。

「今!」

毛利が一気に寄せる。

風祭の弱点。

ファーストタッチ。

狙い通りだった。

だが。

風祭も簡単には失わない。

左足で何とかボールを自分の身体側へ引き寄せた。

毛利が肩を当てる。

風祭は倒れない。

「っ……!」

速くはない。

だが。

ボールさえ収めてしまえば強い。

身体と左足でボールを守り、時間を作る。

その間にライアックが近づいてきた。

風祭は左足で預ける。

ライアック。

ボールを受ける前から、すでに周囲を確認している。

右足は使わない。

身体を左足側へ開く。

「右切れ!」

戸塚から声が飛ぶ。

毛利がライアックの左足側を消そうとする。

だが。

ライアックはボールが来る前から、左足で次へ出せる角度を作っていた。

ワンタッチ。

中央のチョウへ。

そこから右。

万条。

速い。

富山が左から右へ一気に振る。

「葉山!」

万条は右シャドーの位置から、さらに大外へ流れた。

葉山が対応する。

高井も外を上がってくる。

万条と高井。

二人が葉山の周囲にいる。

「森川、戻れ!」

森川が全力で戻る。

万条はボールを止めた。

葉山は万条を見る。

高井が外を走る。

万条が右足で高井へ出す――。

そう見せた。

葉山の重心が一瞬だけ外へ動く。

その瞬間。

万条は内側へ切り込んだ。

「っ!」

ペナルティエリア手前。

万条。

右足。

シュート。

ではない。

低いパスを郡司へ送る。

郡司が橋本の前へ入る。

「橋本!」

橋本が身体を寄せる。

それでも郡司が左足で触った。

シュート。

ゴール右。

玉縄が反応。

バシッ!!

両手で弾く。

「玉縄ぁぁぁぁぁぁ!!」

スタンドが沸く。

こぼれ球をライアックが狙う。

だが。

坂本が先に蹴り出した。

「ナイス!」

「よく守った!」

富山の最初の枠内シュート。

玉縄が止めた。

◇

15分。

玉縄が立ち上がる。

「橋本!」

「はい!」

「坂本!」

「はい!」

「郡司だけ見すぎるな!」

「はい!」

玉縄の声が若い二人へ飛ぶ。

郡司を警戒する。

当然だ。

だが。

そこへ意識を集中させれば、万条やライアックが空く。

逆にシャドーへ引っ張られれば、今度は郡司が視界から消える。

富山の前線三人。

その距離感は、やはり厄介だった。

「想定通りではある」

八幡はピッチを見ながら呟く。

「想定通りでも、止めるのは別問題だけどな」

映像で知っている。

特徴も分かっている。

だからといって、簡単に止まるわけではない。

相手もプロ。

そして。

現在3位で優勝争いをしているチームなのだから。

◇

16分。

今度は千葉が細かく繋ぐ。

戸塚。

エミリオ。

二人でボールを交換。

富山は前から無理に奪いに来ない。

戸塚が橋本へ戻す。

橋本が前を見る。

万条は少し中央寄り。

その外。

毛利が空いている。

橋本が右足で毛利へ送った。

毛利がダイレクトで川崎へ。

川崎は高井を背負いながら受けた。

すぐ毛利へ返さない。

中央へダニエルが近づく。

「ダニエル!」

川崎から縦。

チョウが寄せる。

ダニエルはワンタッチでエミリオへ落とす。

そして。

すぐ前へ走った。

エミリオがダニエルへ戻す。

チョウが一瞬遅れる。

「おっ!」

ダニエルが前向きになった。

マティアスが中央。

森川が左から斜めへ走る。

富山の最終ラインが一斉に上がろうとする。

ダニエルはそれを見た。

マティアスへは出さない。

「……!」

さらに一拍待つ。

富山の最終ラインが止まる。

そこ。

森川が背後へ飛び出した。

ダニエルの浮き球。

「森川!」

今度は。

旗が上がらない。

「行けえええええ!!」

森川が左から抜ける。

ペナルティエリアへ侵入。

中央にはマティアス。

森川の左足から低いクロス。

富山の中央CBが足を伸ばす。

届かない。

「マティアス!」

右足。

合わせる。

バンッ!!

富山GKが反応。

正面。

両手で止めた。

「あああああああああ!!」

「惜しい!!」

マティアスが両手を叩く。

森川はすぐに親指を立てた。

ダニエルは何も言わない。

ただ。

富山の最終ラインだけを見ている。

一度目。

二度目。

オフサイド。

そして三度目。

タイミングをずらした。

通った。

「……そう」

八幡が小さく頷く。

「それでいい」

オフサイドトラップを多用するなら。

そのラインを上げる瞬間そのものを利用する。

単純に早く走ればいいわけではない。

相手を動かし。

一度待たせ。

その後で出る。

◇

18分。

0対0。

だが、スタンドの熱気はさらに上がっていた。

「いいぞ千葉!」

「行けるぞ!」

「集中しろ!」

富山がGKから再開する。

三バックで横へ動かす。

千葉のマティアスは無理に追わない。

ダニエルがチョウへのコースを意識。

森川と川崎も両脇から少し絞る。

富山は右の高井へ長いボール。

葉山が競る。

高井も身体を入れる。

落ちたボール。

万条が拾った。

「また万条!」

戸塚が寄せる。

万条は右を向く。

次に左へターン。

戸塚がついていく。

そこへエミリオも来る。

「二人?」

万条が笑った。

そして。

後ろへ戻す。

無理はしない。

だが。

その瞬間。

戸塚とエミリオの二人が少し前へ出ていた。

空いた中央へ郡司が降りる。

富山が縦へ入れた。

「橋本、出るな!」

坂本の声。

橋本は止まる。

郡司について前へ出ない。

戸塚がすぐに戻る。

郡司は前を向けず、横のライアックへ。

ライアックが左足でダイレクト。

風祭。

左を上がる。

毛利が追う。

速さなら毛利。

すぐに追いつく。

風祭は無理に縦へ勝負しなかった。

止まる。

左足でボールを隠す。

毛利は奪えない。

その間にライアックが近づく。

再びボールが渡る。

ライアック。

左足。

クロス。

「中央!」

橋本と郡司が競る。

高さでは橋本。

ヘディングでクリア。

ボールはエリア外。

チョウが拾う。

森川が寄せる。

チョウは横の高井へ。

富山は左右へボールを振る。

千葉も守備ブロックを崩さない。

◇

19分。

右サイド。

高井。

葉山が正面。

高井はまた内側へ入ろうとする。

葉山が先に切る。

高井は強引に身体をぶつけた。

「っ!」

葉山は倒れない。

ボールがこぼれる。

森川が拾った。

「カウンター!」

スタジアムが一気に沸く。

森川から前のダニエルへ。

ダニエルが受ける。

富山も一斉に戻る。

風祭。

全力で戻る。

高井もすぐ反転。

両ウイングバックの戻りが速い。

三バックに二人が加わり、すぐに五枚を作る。

「速い!」

ダニエルが中央のマティアスを見る。

だが。

もう五枚揃っている。

無理をしない。

右の川崎へ。

川崎が受ける。

そこへ高井が戻っていた。

川崎が仕掛ける。

高井が身体を寄せる。

少し強い。

「おい!」

スタンドから声が飛ぶ。

川崎は踏ん張った。

倒れない。

中へ切る。

左足。

シュート――。

ではなく。

ダニエルへ。

ダニエル。

右足のミドル。

バンッ!!

富山のCBがブロック。

跳ね返る。

戸塚が拾った。

再び千葉の攻撃。

「続けろ!」

森川が声を張る。

◇

20分。

時計が進む。

スコアは0対0。

だが。

内容は濃かった。

富山は万条、ライアック、郡司の三人を中心に、位置を変えながら千葉の守備を揺さぶる。

風祭と高井。

両ウイングバックは守備ではしっかり戻り。

攻撃では必要な時だけ前へ出る。

その中央をチョウが支える。

そして。

最終ライン。

オフサイドトラップ。

すでに二度、千葉を引っかけていた。

一方。

千葉も。

戸塚とエミリオのダブルボランチが中央を支える。

その前でダニエルが動きながら、富山のラインを観察する。

森川。

川崎。

左右から揺さぶる。

マティアスは中央で何度も背後を狙う。

守備では。

橋本。

坂本。

若い二人のセンターバックが郡司たちに振り回されながらも、まだ失点を許していない。

「面白いな……」

ホームスタンド。

先ほどベテランCBについて話していたサポーターたちも、すっかりピッチから目を離せなくなっていた。

「橋本と坂本、思ったより落ち着いてる」

「玉縄も声出してるし」

「戸塚とエミリオもいる」

「でも富山も怖いな」

「ああ」

「万条がどこにいるか分かんねえ」

「右シャドーのはずなのにな」

「中央にも来るし、外にも行く」

「ライアックも動くし」

「郡司まで下がる」

そう。

富山の3-4-2-1は、数字だけを見ても分からない。

右シャドー。

万条。

左シャドー。

ライアック。

それはあくまでスタート位置にすぎない。

試合が始まれば、二人は自由に動く。

そして、その自由をチョウと両ウイングバック。

さらに後方の選手たちが支える。

◇

ベンチ。

マルコは腕を組んだままピッチを見ていた。

その横。

八幡が時計を確認する。

20分。

まだ0対0。

「どう見る?」

マルコが短く尋ねた。

「ほぼ想定通りです」

八幡は即答した。

「富山は中央を閉じて、奪った後に二人のシャドーを自由に使ってる」

「オフサイドも?」

「もう二回」

「ああ」

マルコが頷く。

「ただ」

八幡はピッチへ目を戻した。

ダニエルが何度も富山の最終ラインを確認している。

「こっちも、少しずつタイミングを掴んでます」

マルコの視線もダニエルへ向く。

「十六分の形か」

「はい」

一拍遅らせたパス。

森川が抜け出し。

マティアスがシュート。

富山GKに止められた。

まだ得点にはなっていない。

だが。

富山の武器の一つであるオフサイドトラップを突破する兆しは見えている。

「それと」

八幡は今度、富山の左サイドを見る。

風祭竜也。

「風祭の最初のタッチは、やっぱり狙えます」

「だが収められると?」

「面倒です」

左足でのキープ力は高い。

スピードはない。

だが。

スタミナは尽きない。

「ライアックも」

八幡が続ける。

「まだ右を使わせるところまで行けてない」

右足はほとんど使えない。

明確な弱点。

しかし。

それを一番理解しているのはライアック本人。

だからこそ。

最初から左足で処理できる位置と角度へ動く。

「万条は?」

マルコが聞く。

「……いつも通りです」

八幡は少しだけ嫌そうに答えた。

「自由すぎます」

マルコが小さく笑う。

「それが一番厄介だ」

「ですね」

◇

20分。

0対0。

互いに。

相手の武器を知っている。

千葉は富山を分析してきた。

富山も当然、2位の千葉を研究している。

だから。

簡単には崩れない。

簡単には決まらない。

それでも。

ピッチのあちこちで、少しずつ駆け引きが積み重なっていく。

戸塚とチョウ。

ダニエルと富山の守備ブロック。

森川、川崎と両ウイングバック。

橋本、坂本と郡司。

そして。

千葉全体で警戒しなければならない万条とライアック。

まだ20分。

まだ0対0。

だが。

2位と3位。

勝ち点差2。

その数字に相応しい。

張り詰めた試合になっていた。

第372話 崩れない両者

前半21分。

スコアは0対0。

最初の20分を終え、試合は少しずつ次の段階へ入り始めていた。

互いに、相手が何をしてくるのかは分かっている。

千葉が確認したのは、富山の3-4-2-1。

自由に位置を変える二人のシャドー。

守備時には最終ラインまで下がる両ウイングバック。

中央を固めた守備。

そして、頻繁に仕掛けてくるオフサイドトラップ。

事前に映像で何度も見てきたものを、実際のピッチでも確認した。

だが。

それは富山も同じだった。

千葉の4-2-3-1。

戸塚彩加とエミリオ・アルバレスのダブルボランチ。

その前にダニエル・ロドリゲス。

右に川崎大志。

左に森川佑。

最前線にはマティアス・ベニテス。

富山もまた、どこから千葉を崩せるのかを探り続けている。

互いに手の内をある程度理解したうえで。

ここから、どう相手を上回るか。

その勝負へ移り始めていた。

◇

22分。

千葉が後方からボールを動かす。

坂本が持つと、正面では郡司が中央へのコースを消した。

無理には追ってこない。

坂本は横の橋本へ渡す。

さらに右の毛利へ。

毛利が顔を上げる。

前には川崎。

「大志!」

パスが入った。

だが、高井もすぐに距離を詰めてくる。

川崎は高井を背負ったまま無理に振り向こうとはせず、後ろのエミリオへ戻した。

エミリオはワンタッチ。

中央のダニエルへ。

チョウが前へ出る。

しかしダニエルは、ボールを受ける前にすでに左を見ていた。

森川が少し中央へ入っている。

その分。

左の大外には葉山が上がっていた。

「……!」

ダニエルの右足から、大きく左へボールが飛ぶ。

葉山が前向きで受けた。

その正面へ、風祭が戻ってくる。

「行け葉山!」

スタンドから声が飛ぶ。

葉山は縦へ運んだ。

風祭もついていく。

一度止まる。

その内側では森川が動いた。

風祭の視線が僅かに森川へ向く。

そこだった。

葉山が再び縦へ加速した。

「おおっ!」

風祭の横を抜く。

そのまま左足でクロス。

中央へマティアスが飛び込んだ。

富山の中央CBも競る。

双方がぶつかり合ったことで、ボールはその奥へ流れた。

「川崎!」

逆サイドから川崎が入っている。

右足を振り抜いた。

バンッ!!

シュート。

だが。

富山の左CBが身体を投げ出した。

ボールは当たり、ゴールラインの外へ。

「惜しい!」

「いいぞ!」

スタンドから拍手が起こる。

千葉のコーナーキック。

◇

23分。

キッカーはダニエル。

ゴール前には橋本、坂本、マティアスが入っている。

当然。

富山が最も警戒しているのは橋本だった。

198センチ。

空中戦でまともに競れば、簡単に勝てる相手ではない。

ダニエルが右足で蹴り込む。

中央。

橋本が跳ぶ。

だが。

富山は一人では行かない。

二人が身体を寄せ、橋本へ自由に跳ばせなかった。

触れない。

しかし。

ボールはその奥へ流れる。

「坂本!」

坂本が頭で合わせた。

ゴール左。

わずかに外。

「あああああ!」

坂本が悔しそうに顔を上げる。

守備だけではない。

セットプレーになれば、橋本も坂本も相手にとって警戒しなければならない存在になる。

若い二人のセンターバックは、この試合でも少しずつ存在感を見せていた。

◇

25分。

今度は富山。

チョウが中央でボールを持つ。

戸塚が前から距離を詰めると、チョウは横のCMFへ預けた。

そこから左。

風祭へ。

しかし。

風祭の最初のタッチが少し浮いた。

「毛利!」

川崎が叫ぶ。

毛利も見逃していない。

一気に間合いを詰めた。

だが。

風祭もそれを分かっている。

すぐ左足でボールを身体の後ろ側へ隠した。

毛利が身体を寄せる。

それでも奪い切れない。

風祭は速くない。

一瞬の加速で相手を置き去りにすることもできない。

しかし。

一度自分の支配下へボールを入れてしまえば、しぶとかった。

そこへライアックが近づく。

風祭からパス。

ライアックが左足で受ける。

戸塚が素早く身体の向きを変えた。

右足側へ追い込む。

「右!」

声も飛ぶ。

ライアックもすぐに反応した。

右足を使わされる前に、左足のワンタッチで後方のチョウへ戻す。

「徹底してるな」

八幡が呟いた。

弱点がある。

だから簡単。

そんな話ではない。

誰よりも、その弱点を理解しているのは本人だ。

右足を使わなければならない状況へ追い込まれる前に。

左足だけで逃げられる場所へ移動する。

千葉がライアックの弱点を知っているように。

ライアックも、自分の弱点を知り尽くしていた。

◇

27分。

チョウから右へ展開。

高井が受ける。

正面には葉山。

その内側に万条がいた。

高井は縦へ。

ボールを受けた万条は、今度はタッチライン際に立っていた。

葉山が寄せる。

森川は高井を見る。

その瞬間だった。

万条が足裏でボールを止めた。

「……」

急に動かない。

葉山も飛び込まず待つ。

すると万条は、右足でゆっくりとボールを中央方向へ転がした。

自分もそこへついていく。

戸塚が前へ出る。

だが。

万条はさらに下がった。

「そこまで来るのかよ」

スタンドから声が漏れる。

右シャドー。

それが万条のスタート位置のはずだった。

だが今は。

ほとんど中盤。

チョウと変わらない高さまで下がっている。

そこで。

突然。

左足から縦パスが入った。

中央へ入っていたライアック。

ライアックは左足でダイレクト。

郡司へ。

「橋本!」

橋本が背後から寄せる。

郡司もそれを感じていた。

ワンタッチ。

右。

そこへ。

万条。

「戻ってきた!」

先ほどまで中盤にいたはずの男が。

いつの間にかペナルティエリア手前の右側まで戻ってきている。

右足を振り抜く。

バンッ!!

坂本が身体を投げ出した。

ブロック。

跳ね返ったボールを高井が拾う。

高井も右から中へ切り込もうとした。

「葉山!」

今度は離れない。

葉山が内側を消す。

高井は右足を振れない。

強引に突破しようとするが、葉山が身体を入れた。

ボールはタッチラインの外。

「よし!」

「葉山ナイス!」

千葉のスローイン。

ようやく富山の連続攻撃を止めた。

◇

29分。

まだ0対0。

千葉がボールを持つ時間は、少しずつ増えていた。

それでも。

富山は慌てない。

風祭と高井。

二人のウイングバックが下がる。

三バックと合わせて五枚。

その前には中盤。

シャドーも必要な位置まで戻ってくる。

中央が一気に狭くなった。

「入らないな」

「富山、真ん中固い」

「だから外から行ってるんだろ」

「でもクロス入れても3バックいるぞ」

「面倒だな」

ホームスタンドの言葉通りだった。

中央を閉じる。

相手を外へ追い出す。

そして外からクロスが入れば、三人のセンターバックが対応する。

富山が何をしたいのかは明確だった。

分かっていても。

簡単には崩せない。

◇

31分。

エミリオがボールを持つ。

前にはダニエル。

その近くにはチョウ。

無理には出さない。

右の川崎へ。

高井が寄せる。

川崎から中央のダニエル。

ダニエルはワンタッチで戸塚へ落とした。

戸塚はすぐ左へ。

森川。

テンポの速い横移動。

富山の守備陣も右から左へ動く。

森川が受けた。

風祭が正面。

森川は中へドリブル。

風祭がついてくる。

さらにチョウも寄せた。

森川はダニエルへ預け、そのまま前へ走る。

「ダニエル!」

ダニエルは森川を見る。

富山の最終ラインが上がった。

だが。

森川が止まる。

ダニエルも蹴らない。

「……!」

富山のラインだけが、一度前へ出た。

その直後。

マティアスが下がった。

足元で受ける。

中央CBがついてくる。

マティアスはワンタッチでダニエルへ返した。

そのため。

富山の最終ラインから、一人だけが前へ引き出される。

生まれた隙間。

そこへ。

川崎が斜めに走った。

ダニエルの右足。

スルーパス。

「川崎!!」

副審を見る。

旗は上がらない。

川崎が抜けた。

右からペナルティエリアへ侵入する。

「行けえええええ!!」

富山GKが前へ出る。

川崎が右足を振った。

バシッ!!

GKが右手一本で弾いた。

「ああああああああ!!」

ボールは中央へこぼれる。

「マティアス!」

マティアスが詰める。

だが。

富山のCBが先に滑り込んだ。

スライディングでクリア。

「うわあああ!」

「惜しい!」

川崎が頭を抱える。

ダニエルはその場で手を叩いた。

「いい! 続けろ!」

森川の声が飛ぶ。

前半序盤。

千葉は二度、富山のオフサイドトラップに引っかかった。

だが。

少しずつ対応し始めている。

ただ背後へ走るのではない。

前後へ動く。

相手の最終ラインを一度前へ引き出す。

そして。

その後ろを使う。

「効いてきたな」

八幡が言った。

「あぁ」

マルコも短く答える。

富山の一つの武器。

その攻略法が、徐々にピッチ上でも形になり始めていた。

◇

34分。

今度は富山のカウンターだった。

千葉が左から攻める。

葉山のクロス。

富山が跳ね返した。

セカンドボールを戸塚が拾おうとする。

だが。

その前へチョウが身体を入れた。

「っ!」

奪う。

そして迷わない。

すぐ左。

ライアック。

ライアックも左足で前へ。

郡司。

わずか三本。

それだけでボールが前線まで運ばれた。

郡司が坂本を背負う。

その右を万条が走る。

左から風祭も上がる。

「戻れ!」

森川が叫んだ。

郡司は左足で万条へ。

万条が前を向く。

葉山はまだ戻り切れていない。

坂本が外へ出る。

中央では橋本が郡司を見る。

万条は坂本を確認した。

そして右足。

ふわりと浮かせる。

橋本の頭上。

その背後。

「郡司!」

玉縄が前へ出る。

落ちてきたボールへ郡司が左足を合わせた。

バンッ!!

玉縄が両手を上へ伸ばす。

弾いた。

ボールはクロスバーの上へ。

「玉縄ぁぁぁぁぁぁぁ!!」

スタジアムが揺れる。

玉縄はすぐに立ち上がった。

「集中!!」

橋本と坂本へ声を飛ばす。

二人も頷いた。

富山。

やはり怖い。

守備から攻撃へ変わった瞬間が速い。

そして。

万条の最後のパス。

その精度も高かった。

◇

36分。

富山のコーナーキック。

ライアックが左足で蹴り込む。

中央。

橋本が再び高さで勝った。

クリア。

川崎が拾う。

「行け!」

今度は千葉のカウンター。

川崎が前へ運ぶ。

高井が追う。

川崎からダニエル。

ダニエルが前を向いた。

マティアスが走る。

逆から森川も走る。

富山の3バックがラインを上げ始めた。

ダニエルは見ている。

だが。

出さない。

一秒。

待つ。

マティアスも一度戻った。

そして。

もう一度。

背後へ。

「今!」

ダニエルの縦パス。

マティアスが抜けた。

副審の旗。

上がらない。

だが。

富山の中央CBも簡単には離されない。

マティアスへ身体を寄せる。

二人で競り合いながらペナルティエリアへ。

それでもマティアスは右足を振った。

バンッ!!

ボールはゴール右へ。

わずかに外。

「あああああああ!」

マティアスが悔しそうに空を見る。

ダニエルは親指を立てた。

完全に攻略したわけではない。

それでも。

富山が最終ラインを上げるタイミング。

前半序盤よりも明らかに見えている。

◇

38分を過ぎた頃。

中盤の攻防も少しずつ激しくなっていた。

戸塚とチョウが競る。

先に触ったのは戸塚。

チョウが身体を当てる。

戸塚も倒れない。

こぼれ球をエミリオが拾った。

そこへ万条が足を出す。

エミリオは僅かにボールをずらした。

「チッ」

万条が追う。

だが。

エミリオから川崎へ。

川崎が受けた。

高井が身体を寄せる。

強い。

川崎のバランスが崩れた。

ピィッ!

笛が鳴る。

千葉のフリーキック。

「おいおい!」

「今の強いだろ!」

スタンドがざわつく。

高井は両手を広げ、ファウルではないと訴える。

主審が近づいた。

口頭で注意。

カードは出ない。

「高井らしいな」

八幡が呟いた。

守備意識は高い。

奪いに行くことも嫌がらない。

だからこそ。

時折。

強く行きすぎる。

そこも分析通りだった。

◇

40分。

千葉が右寄り、やや距離のある位置からフリーキックを得た。

戸部はベンチ。

ボールの前に立ったのはダニエルと森川。

「どっちだ?」

「ダニエルじゃない?」

「森川もあるぞ」

スタンドがざわめく。

ゴール前には橋本。

坂本。

マティアス。

富山は高めのラインを設定している。

ダニエルがボールを見る。

森川が離れた。

蹴るのはダニエル。

右足。

速いボールがゴール前へ入る。

橋本が走る。

富山のラインも一斉に上がる。

橋本は触れない。

その奥。

坂本も足を伸ばした。

届かない。

ボールはそのままGKの腕の中へ。

「うーん!」

千葉。

得点にはならなかった。

◇

42分。

富山は再び万条を右シャドーから中央へ移動させる。

左のライアックも少し低い位置へ。

二人が斜めに位置を変えた。

チョウからライアック。

ライアックの左足から万条。

万条はワンタッチで右の高井へ。

高井がクロス。

中央。

郡司と橋本が競る。

先に触ったのは橋本。

だが。

クリアが少し小さい。

ペナルティエリアの外。

そこには。

ライアックが待っていた。

「左!」

戸塚が飛び出す。

ライアック。

左足。

シュート。

バンッ!!

戸塚の身体に当たった。

ボールが跳ねる。

万条が拾う。

「万条!」

エミリオが寄せる。

万条は右足でフェイント。

エミリオは動かない。

すると万条は左へ持ち替えた。

坂本も前へ出る。

それでも。

打たない。

郡司へ短く預けた。

郡司は背中に橋本。

左足でトラップ。

振り向く。

「打たせるな!」

橋本が身体をぶつけた。

郡司の体勢が崩れる。

それでも左足を振る。

だが。

力は入らなかった。

弱いシュート。

玉縄が正面でキャッチする。

「よし!」

玉縄はすぐに立ち上がり、前を確認した。

しかし富山の切り替えも速い。

無理に投げてもカウンターにはならない。

玉縄はボールを抱えたまま、時間を使った。

◇

44分。

0対0。

前半の残り時間も僅かになっていた。

「前半このままか?」

「いや、まだあるぞ!」

サポーターの声が飛ぶ。

千葉はもう一度、後方から攻撃を作った。

坂本。

戸塚。

エミリオ。

そして前のダニエル。

チョウがついてくる。

ダニエルから右の川崎へ。

正面には高井。

外から毛利が上がる。

川崎は最初、その毛利を使わなかった。

中へ切り込む。

高井がついてくる。

そこで。

今度は外。

毛利へ。

毛利がダイレクトでクロスを入れた。

中央。

マティアス。

富山のCBと競る。

ボールがこぼれた。

「森川!」

左から森川が入ってくる。

右足。

シュート。

バンッ!!

しかし。

チョウが身体を投げ出した。

ブロック。

ボールはエリア外へ。

戸塚が拾う。

「もう一回!」

左の葉山へ。

葉山のクロス。

今度は富山の3バックが跳ね返す。

千葉が攻める。

富山が耐える。

スタジアムの声は、時間が進むほど大きくなっていった。

◇

第四審判がボードを掲げる。

アディショナルタイム。

2分。

「あと2分!」

「行け千葉!」

45+1分。

富山が千葉の攻撃をクリアした。

高井が拾う。

前の万条へ。

万条はワンタッチで中央の郡司へ。

千葉の選手たちが一気に戻る。

橋本。

坂本。

二人が構えた。

郡司がボールを収める。

右を万条。

左をライアック。

二人が走る。

「戻れ!」

戸塚も全力で戻った。

郡司から右の万条へ。

坂本が外へ出る。

万条は中央を確認する。

そこには郡司。

橋本が見ている。

さらにその外。

左からライアック。

万条が左足で大きく展開した。

ライアック。

左足。

そのままクロス。

中央へ郡司が走る。

橋本も並ぶ。

ボールが落ちる。

郡司が左足を伸ばした。

その前。

「橋本!」

橋本の長い脚が先に伸びた。

触る。

ボールはゴールラインの外へ。

「うおおおおおお!!」

「橋本ぉぉぉぉぉ!!」

富山のコーナーキック。

時計は45+2分。

これが前半最後のプレーになる。

富山の選手たちがゴール前へ集まる。

キッカーはライアック。

左足で蹴り込んだ。

高いボール。

ゴール前は混戦。

橋本が跳ぶ。

郡司も競る。

その横には坂本。

だが。

その頭上へ。

「玉縄!」

玉縄が前へ出た。

両手を伸ばす。

ガシッ!!

しっかりとキャッチ。

その瞬間。

ピッ。

ピィィィィィィィィッ!!

主審の笛が響いた。

前半終了。

◇

**エストレヤ千葉 0-0 富山ベイウインズ。**

得点はなかった。

だが。

見どころがなかったわけではない。

むしろ逆だった。

互いに何度も相手の狙いを消しているからこそ。

簡単にはゴールまで届かない。

富山は万条、ライアック、郡司。

三人が自由に位置を変えながら千葉の守備を揺さぶった。

そこへ風祭と高井。

両ウイングバックが加わる。

中央ではチョウがチームのバランスを取る。

守備に入れば5バック。

そして。

積極的なオフサイドトラップ。

一方の千葉。

前半序盤は二度、そのオフサイドトラップに引っかかった。

だが。

時間が進むにつれ、少しずつタイミングを合わせ始めた。

ダニエルが富山の最終ラインを見ながら、パスを一拍遅らせる。

森川。

川崎。

マティアス。

前線の選手たちも走り出しを変える。

31分には川崎が背後へ抜けて決定機。

36分にはマティアスもオフサイドを回避してシュートまで持ち込んだ。

前半序盤には捕まっていた富山のライン。

それを突破する場面が、徐々に増えている。

そして守備。

橋本。

坂本。

19歳と23歳。

若いセンターバック二人は。

郡司、万条、ライアックを中心とする富山の攻撃を相手に、前半を無失点で終えた。

玉縄も大きかった。

郡司の危険なシュートを二度防ぎ、若い二人へ何度も声を送り続けた。

◇

「ふぅ……」

ホームスタンド。

一人のサポーターが大きく息を吐いた。

「0対0か」

「でも怖かったな」

「富山やっぱ強い」

「万条、面倒くさすぎるだろ」

「どこにでもいるじゃん」

「ライアックも左足うまいし」

「郡司も怖い」

だが。

一人がピッチへ目を向ける。

橋本と坂本。

二人が並んでロッカールームへ戻っていく。

「でも、若いCB二人」

少し笑った。

「やれてるじゃん」

「ああ」

「橋本かなり競り勝ってる」

「坂本もカバーしてる」

「玉縄もいい」

「前半は合格だろ」

「前半はな」

そこで。

誰かが付け加えた。

まだ45分。

残っている。

しかも。

千葉にも富山にも、ベンチにはまだ選択肢が残されていた。

◇

エストレヤ千葉のベンチ。

材木座義輝。

戸部翔。

笹森正義。

中田正和。

佐久間浩二。

安原翼。

高山俊樹。

宇津木健太。

そして。

怪我から戻ってきた郷田京。

攻撃を変えられる選手。

中盤の形を変えられる選手。

守備を締められる選手。

まだカードは残っている。

◇

ピッチ脇。

八幡は、選手たちがロッカールームへ戻っていく姿を見送っていた。

「……前半で」

小さく呟く。

「だいぶ見えたな」

富山のオフサイドトラップ。

風祭のファーストタッチ。

高井の強い守備。

ライアックの左足への依存。

チョウの中央での判断。

そして。

万条の自由。

すべて事前に分かっていた特徴だった。

だが。

映像と実際の試合では違う。

今日の試合で、それぞれがどの程度出ているのか。

どこなら狙えるのか。

何が想定以上なのか。

実際に45分戦ったことで、かなり見えてきた。

その横。

マルコが八幡を見る。

「後半」

「はい」

「少し変える」

八幡は頷いた。

前半。

0対0。

2位、エストレヤ千葉。

3位、富山ベイウインズ。

勝ち点差は2。

互いに一歩も譲らないまま上位直接対決の勝負は後半へ持ち越された。

# 第373話 それぞれの修正

前半終了。

0対0。

エストレヤ千葉と富山ベイウインズ。

勝ち点差2で迎えた上位直接対決は、互いに決定機を作りながらも、得点のないまま45分を終えていた。

選手たちがロッカールームへ戻っていく。

スタンドでは前半の攻防について、あちこちで話が続いている。

だが。

両チームのロッカールームでは、すでに後半へ向けた修正が始まろうとしていた。

◇

エストレヤ千葉。

ロッカールーム。

選手たちはそれぞれ水分を取り、汗を拭っていた。

橋本は大きく息を吐きながらベンチへ座り、隣では坂本がスパイクの紐を結び直している。

玉縄は立ったまま、二人へ声をかけた。

「前半は悪くない。ただ、郡司だけに引っ張られるなよ」

「はい」

橋本が頷く。

「万条とライアックが入ってきた時、全部ついていこうとしなくていい。前にいる奴と受け渡せ」

「分かりました」

坂本も短く答えた。

前半。

若いセンターバック二人は、富山の攻撃を無失点に抑えている。

だが。

何度も危険な場面はあった。

郡司だけを見れば、万条が空く。

万条へ意識を向ければ、ライアックが入ってくる。

さらに郡司まで低い位置へ落ちる。

一人ひとりを追いかけていては、最終ラインそのものが崩される。

「全員、聞いてくれ」

マルコの声で、ロッカールームの空気が変わった。

選手たちの視線が集まる。

マルコはホワイトボードの前に立った。

そこには富山の3-4-2-1が描かれている。

「前半。悪くない」

最初にそう言った。

「むしろ、我々が準備したものはかなり出せている」

富山のオフサイドトラップ。

風祭のファーストタッチ。

ライアックの左足。

高井の守備の荒さ。

万条の自由な動き。

そして郡司の得点感覚。

分析した特徴は、ほぼそのまま試合にも現れている。

「だが、分かっていることと、抑えられることは違う」

マルコは富山の二シャドーを指した。

「まず守備」

右シャドー。

万条。

左シャドー。

ライアック。

「この二人を、一人の選手が追い続けるな」

戸塚とエミリオが頷く。

「万条は右から中央へ来る。さらに左へも行く。低い位置まで下がることもある。そこまで戸塚やエミリオが全部追えば、その後ろを使われる」

前半18分。

実際にそれがあった。

万条へ戸塚とエミリオが二人で寄せた瞬間。

その背後へ郡司が降りた。

「万条が下がったら?」

マルコが尋ねる。

戸塚が答える。

「無理についていかず、そのエリアの選手へ渡す」

「そうだ」

相手が自由なら。

こちらまで相手に合わせて自由に動く必要はない。

守るべき場所を守る。

その中へ入ってきた選手を捕まえる。

「万条一人に守備の形を壊されないこと」

マルコは念を押した。

そして。

「郡司も同じだ」

最前線の背番号9を指す。

「郡司が下がっても、橋本と坂本は簡単についていかない」

坂本が橋本を見る。

「前半にもやったな」

「はい」

郡司が降りた時。

橋本が前へ出ようとしたところを、坂本が止めた。

結果として戸塚が戻り、郡司を前向きにさせなかった。

「それでいい」

マルコは頷く。

「郡司の怖さは、足元でボールを持つことだけではない。そこから消えて、次にゴール前へ現れることだ。必要以上に追えば、その後ろに別のスペースができる」

前半の守備修正は大きくない。

形を変える必要もない。

ただ。

富山の自由な攻撃につられて、自分たちの基準まで壊さない。

それが重要だった。

「次」

マルコが攻撃側へ話を移す。

八幡が横から口を開く。

「オフサイドトラップです」

ダニエルが顔を上げた。

「前半序盤に二回引っかかりました。でも、後半も同じ入り方をしてくるとは限らない」

「だろうな」

森川が言う。

「こっちがタイミング変え始めたの、向こうも分かってるだろ」

「はい」

八幡が頷いた。

16分。

31分。

36分。

千葉は徐々に、富山がラインを上げる瞬間を利用できるようになっていた。

単純に背後へ走らない。

一度足元へ下がる。

相手CBを引き出す。

ラインが上がった後に、別の選手が背後へ走る。

あるいは。

走る選手を囮にして、一拍遅れて別の選手を使う。

「後半は、同じことをもっとやります」

八幡が言う。

「ただし、裏ばかり見ないでください」

マティアスが頷く。

「富山も修正してくるから?」

「そうです」

前半に二度成功した罠を、そのまま後半も同じタイミングで使い続けるとは限らない。

ラインを上げる回数を減らす可能性もある。

逆に。

千葉が警戒して遅らせることを読んで、今度は上げずに残るかもしれない。

「だから」

ダニエルが静かに口を開いた。

「ラインだけじゃなくて、CBが前へ出る瞬間も見る」

「そういうことです」

マティアスが足元へ降りる。

CBがついてくれば、その背後。

ついてこなければ、そのままマティアスへ入れる。

富山がどちらを選ぶのかによって、攻め方を変える。

「あと」

八幡が風祭の位置を指した。

「風祭の最初のタッチ」

毛利が頷く。

「狙える」

「はい。そこは変わってません」

風祭は一度ボールを収めれば、左足と身体を使って強くキープする。

だから。

収めさせない。

ファーストタッチが身体から離れた瞬間。

そこへ毛利。

川崎。

近い選手が一気に入る。

「ただし、無理して奪いに行って外されたら?」

マルコが聞く。

毛利が答える。

「追いすぎない。ライアックまで一緒に釣られないようにする」

「そうだ」

風祭だけを狙いすぎれば。

その近くにはライアックがいる。

奪えなかった時に、二人まとめてかわされる方が危険だった。

「ライアックは?」

戸塚が聞く。

八幡は少し考える。

「前半は、右足を使わせるところまで行けてません」

右足がほぼ使えない。

そこは明確。

だが。

ライアック自身がそれを理解し、左足で処理できる場所へ先に動いている。

「後半は、ボールが入ってから追い込むだけじゃなく」

八幡がライアックの周囲へ線を引く。

「入る前に、左足側の出口を減らしたいです」

戸塚とエミリオ。

そこへ場合によっては森川や川崎も絞る。

完全に右足だけへ追い込めなくてもいい。

少なくとも。

左足一本で前を向き、好きな場所へパスを出せる状況を減らす。

「高井は?」

川崎が聞いた。

「そこは」

八幡の目が僅かに細くなる。

「仕掛けていいです」

川崎の口元が少し上がる。

前半38分。

高井は強く身体を当て、ファウルを取られている。

カードは出ていない。

それでも主審からは口頭注意を受けた。

「また強く来るなら?」

「受ければいい」

八幡が答えた。

「無理に倒れろって意味じゃないです。ただ、あいつが前に出てくるなら、一対一は避けなくていい」

高井は守備を嫌がらない。

むしろ自分から行く。

その積極性が、時に荒さへ変わる。

そこを使う。

「攻撃は大きく変えない」

最後にマルコがまとめた。

「ただし、テンポを一つ上げる」

戸塚。

エミリオ。

ダニエル。

その三人を中心に。

富山が中央を閉じる前。

あるいは。

一度片側へ寄せた後。

素早く逆へ振る。

「前半は向こうの守備が揃ってから攻める場面も多かった」

マルコが言う。

「後半は、揃う前に動かす」

富山の守備は強い。

5バックが完成し。

その前まで戻られれば。

中央は狭くなる。

だから。

形が完成する前に攻める。

「分かったな?」

「はい!」

選手たちの声が揃った。

マルコは最後にスコアボードを見るように、ロッカールームの時計へ視線を向けた。

「0対0」

まだ何も決まっていない。

「後半。取りに行くぞ」

「はい!」

空気が変わった。

◇

一方。

富山ベイウインズのロッカールーム。

こちらにも、大きな焦りはなかった。

前半0対0。

アウェー。

2位千葉との直接対決。

悪い結果ではない。

ただし。

前半の終盤。

千葉が富山のオフサイドトラップへ対応し始めていることは、当然こちら側も理解していた。

ホワイトボードの前に立つ富山の指揮官が、最終ラインを指した。

「後半」

選手たちが顔を上げる。

「同じタイミングで、毎回上げるな」

三人のセンターバックが頷いた。

前半序盤。

千葉を二度オフサイドへ追い込んだ。

だが。

16分。

31分。

36分。

ダニエルが意図的にパスを遅らせ始めている。

森川。

川崎。

マティアス。

走る側もタイミングを変えてきた。

「相手はもう見ている」

だから。

罠を仕掛ける側も変える。

毎回上げれば読まれる。

時には残る。

時には一人だけ前へ出ず、スペースを埋める。

それでも。

狙える時は一気に上げる。

武器を捨てるのではない。

使い方を変える。

「ダニエル」

次に、千葉の背番号14へ話が移る。

チョウが顔を上げる。

「前を向かせるな」

「分かった」

前半。

ダニエルが前向きになった時。

何度か危険なパスを通されている。

特に。

相手が富山の最終ラインを見る余裕を持った瞬間。

背後へ出るタイミングを調整される。

「俺が行く」

チョウが言う。

その隣のCMFも頷いた。

ダニエルへボールが入る前。

距離を詰める。

前を向かせない。

もし一人が出れば、もう一人がその背後を埋める。

「戸塚とエミリオから簡単に入れさせるな」

千葉の中盤。

そこを自由にさせれば。

ダニエルへ。

そして両サイドへ。

ボールが次々と出てくる。

特に前半後半。

千葉は左右への展開を増やしていた。

「風祭」

「はい」

19歳が顔を上げる。

「前半より半歩早く戻れ」

「はい」

「森川が内へ入った時、葉山が外を使っている」

22分。

まさにその形で葉山に縦を破られた。

森川が中へ入り。

風祭の視線を引きつける。

外から葉山。

「森川だけ見るな。葉山の位置を必ず確認しろ」

「分かりました」

風祭が短く答える。

「高井」

「はい」

「無駄なファウルはやめろ」

高井が一瞬、視線を逸らした。

「……はい」

「川崎は仕掛けてくるぞ」

前半38分。

すでに一度、強く行きすぎて笛を吹かれている。

後半。

千葉がそこを狙ってくる可能性は高い。

「取れる時だけ行け」

「はい」

守備意識の高さは長所。

だが。

カードを受ければ、その後の一対一は難しくなる。

優勝争いの直接対決。

余計な退場など、最も避けなければならない。

そして。

攻撃。

万条。

ライアック。

郡司。

三人へ視線が向く。

「前半は悪くない」

万条は椅子へ深く座ったまま聞いている。

「ただ、千葉は万条を追いすぎなくなってきている」

「だろうな」

万条が笑った。

前半。

最初は万条の移動についてくる場面があった。

だが時間が進むにつれ、千葉は受け渡しへ変わり始めた。

「だから?」

万条が聞く。

「もっと動け」

「は?」

一瞬。

万条が笑う。

「今以上?」

「今以上だ」

右へ。

中央へ。

低い位置へ。

左へ。

ただ移動するだけではない。

千葉が受け渡そうとする、その境目。

誰が捕まえるのか迷う場所へ入る。

「いいね」

万条の口元が上がった。

「分かりやすい」

元々。

自由に動くことを得意とする男。

さらに自由を与えられる。

「ライアック」

「はい」

「万条が動いた後を使え」

万条へ二人寄れば。

その逆。

万条を受け渡す瞬間。

守備側の視線は僅かに揺れる。

その場所へ。

ライアックが入る。

「チョウから早く出す」

ライアックが答える。

「そうだ」

そして。

最後に郡司。

「前半より、一度下がる回数を増やせ」

郡司が静かに頷いた。

下がる。

橋本や坂本がついてくれば。

その背後へ万条やライアック。

ついてこなければ。

郡司が足元で受けて次へ繋ぐ。

そして。

一度下がった後。

もう一度ゴール前へ。

その独特な動きこそ。

郡司の最大の武器だった。

「千葉の若いCBは?」

万条が聞く。

「思ったよりやるね」

郡司も小さく頷いた。

橋本。

19歳。

坂本。

23歳。

前半45分。

二人とも簡単には崩れなかった。

「なら」

万条が笑う。

「もっと迷わせればいい」

橋本が出るのか。

坂本がカバーするのか。

戸塚が戻るのか。

その判断を何度も迫る。

判断する回数が増えれば。

いつか。

一度はズレる。

「後半」

富山の指揮官が全員を見る。

「最初の10分。少し強く行く」

アウェーだからといって。

受けるだけではない。

千葉が前半で見つけた攻略法を、後半開始直後からそのまま使わせない。

ライン。

プレス。

シャドーの位置。

全て。

少しずつ変える。

「勝ち点1で満足するな」

ロッカールームの空気が引き締まった。

「勝てば2位だ」

現在。

千葉57。

富山55。

この試合に勝てば。

富山は58。

千葉を抜く。

「取りに行くぞ」

「はい!」

◇

そして。

ほぼ同じ時刻。

二つのロッカールームで。

選手たちが立ち上がった。

千葉は。

富山のオフサイドトラップを利用する。

ダニエルを中心に、パスのタイミングをさらに変える。

風祭のファーストタッチを狙う。

ライアックには左足を自由に使わせない。

万条と郡司には、ついていきすぎず受け渡す。

一方。

富山は。

オフサイドトラップのタイミングを変える。

ダニエルを前向きにさせない。

森川と葉山の連係を警戒する。

高井には無駄なファウルを減らさせる。

そして。

万条をさらに自由に動かす。

郡司も前半以上に上下へ動く。

前半を見て。

相手を理解し。

その相手が修正してくることまで考え。

さらに、その先を変える。

2位。

エストレヤ千葉。

3位。

富山ベイウインズ。

前半。

0対0。

どちらも。

崩れなかった。

だからこそ。

後半は。

前半と同じ試合にはならない。

両チームが、それぞれの修正を抱え。

再びピッチへ向かって歩き始めた。

第374話 個の力

後半。

両チームの選手たちが、再びエストレヤスタジアムのピッチへ姿を現した。

前半は0対0。

現在2位のエストレヤ千葉と、3位の富山ベイウインズ。その勝ち点差は、わずか2しかない。

互いに前半45分を使って相手の特徴を確認し、ハーフタイムでそれぞれ修正を加えてきた。

選手たちが配置につくと、スタンドから再び大きな声が飛ぶ。

「行けえええええええ!!」

「後半取るぞ千葉!!」

主審が時計を確認する。

そして――。

ピィィィィィィィィッ!!

後半が始まった。

◇

後半1分。

最初に前へ出たのは富山だった。

前半とは明らかに違う。

千葉の最終ラインがボールを持った瞬間、郡司が一気に距離を詰める。その後ろでは万条とライアックも高い位置を取り、千葉の中盤へのパスコースを消しにかかった。

「来るぞ!」

坂本から橋本へボールが渡る。

橋本が前を見るが、万条がエミリオへのコースを消し、ライアックは戸塚を監視している。そして郡司自身が橋本へ圧力をかけてきた。

「無理するな!」

後方から玉縄の声が飛ぶ。

橋本は無理に中央へ入れず、右の毛利へ逃がした。

そこへ寄せてきたのは風祭ではない。

逆サイドにいた高井が、一気に高い位置まで押し出されてきた。

富山は後半開始直後から、前半以上に前から圧力をかけている。

「やっぱり変えたな」

ベンチ脇で八幡が呟いた。

前半の富山は中央を閉じながら、無理には追ってこなかった。

しかし後半開始から数分間は、明らかに強く行くつもりだ。

その意図が見える。

毛利も無理に縦へは出さず、一度玉縄へ戻した。

玉縄から左の坂本へ。

富山の前線三人が、それに合わせて動く。

だが、前線が動けば、その後ろにはわずかな空間が生まれる。

「戸塚!」

坂本がそこを見逃さず、戸塚へ縦パスを入れた。

戸塚はワンタッチでエミリオへ。

その瞬間、富山のCMFが前へ出る。

エミリオも長く持たない。

すぐにダニエルへ預けた。

しかし、チョウの反応が速い。

ダニエルの背中へぴったりとついた。

ダニエルは無理に前を向かず、ワンタッチで右の川崎へ流す。

川崎が受ければ、高井が寄せる。

富山が修正してきたのなら、それを見ながらこちらも変える。

千葉は慌てることなくボールを動かしていた。

◇

後半3分。

今度は富山が右から攻める。

チョウから高井。

高井が前を向けば、その正面には葉山がいた。

前半に一度ファウルを取られ、主審から注意を受けている高井は、少し慎重になっている。

すぐに内側へ切り込もうとはしない。

その外側へ万条が流れた。

葉山が一瞬そちらを見る。

だが、追わない。

「森川!」

「分かってる!」

戻ってきた森川が万条を受け持つ。

高井には葉山。

戸塚は中央を空けず、エミリオも必要以上には寄らない。

前半よりも、明確に受け渡しが整理されていた。

万条が右でボールを受ける。

一度中央を見る。

戸塚は動かない。

エミリオも寄ってこない。

「……」

万条の目が細くなった。

前半は、自分が動けば千葉の中盤も少し動いていた。

だが後半は違う。

追ってこない。

ならば――別の場所を使えばいい。

万条が中へ運び、森川がついていく。

その瞬間、高井が外を走った。

万条から高井。

高井が右足でクロスを上げる。

「中央!」

橋本と郡司が競り合った。

先に触ったのは橋本。

高く弾き返す。

そのセカンドボールへライアックが入る。

しかし今度は、戸塚が最初からライアックの左足側へ寄っていた。

ライアックは左足で受けたものの、前を向けない。

すぐに後ろへ戻すしかなかった。

「いいぞ!」

スタンドから拍手が起こる。

八幡も小さく頷いた。

完全に止める必要はない。

相手の得意な形を、簡単に作らせなければいい。

それだけでも十分に違う。

◇

後半5分。

開始直後から続いていた富山の前線の圧力が、少しずつ弱くなってきた。

最初から最後まで、あの強度で走り続けることはできない。

坂本から戸塚。

戸塚から右のエミリオへ。

エミリオが前を見る。

ダニエルにはチョウがついていた。

前半以上に近い。

エミリオは無理にそこへ入れず、右の川崎へ渡す。

川崎に高井が寄せる。

その外を毛利が上がった。

川崎が一度毛利を見る。

高井の視線も外へ動いた。

その瞬間だった。

川崎は中へパスを入れる。

ダニエル。

当然、チョウが背後から寄せた。

「前向かせるな!」

富山ベンチから声が飛ぶ。

ダニエルは右足でトラップしたものの、背中にはチョウがいる。

簡単には振り向けない。

ならば無理はしない。

戸塚へ戻し、一度やり直す。

戸塚はすぐ左の森川へ展開した。

富山の守備ブロックが横へ動く。

森川の正面には風祭。

さらに大外を葉山が上がった。

前半22分に一度やられた形だ。

風祭も葉山の動きを警戒している。

森川は無理に仕掛けず、中央の戸塚へ戻した。

戸塚からエミリオ。

再び右へ。

そして左。

また右。

千葉がボールを動かすたび、富山の守備も左右へ揺さぶられていく。

それでも、まだ崩れない。

◇

そして後半6分。

その瞬間は、突然訪れた。

中央でエミリオがボールを受ける。

正面にはチョウ。

右には川崎。

左には戸塚。

そして前にはダニエル。

エミリオは一度右を見た。

そこから――縦。

「ダニエル!」

ダニエルへボールが入る。

チョウがすぐに背後から寄せた。

前を向かせない。

前半を踏まえた、富山の修正だった。

だが。

ダニエルはボールが来る直前、一度だけ右肩越しにチョウの位置を確認していた。

右足でトラップ。

いや――止めない。

そのまま身体を半回転させる。

「……!」

チョウが足を出した。

しかしダニエルは、右足のアウトサイドでボールをわずかに横へずらす。

チョウの足が空を切った。

「抜いた!」

スタンドが立ち上がる。

チョウの横を通過し、ダニエルが前を向いた。

正面には富山の3バック。

さらに、その手前からもう一人のCMFが寄せてくる。

それでもダニエルは止まらない。

右足でボールを前へ運ぶ。

CMFが正面から入った。

ダニエルは右へ行くように身体を向ける。

相手も右へ重心を動かした。

次の瞬間。

左足で、ボールだけを内側へ運ぶ。

「うおっ!」

二人目も抜いた。

中央。

ペナルティエリア手前。

富山の中央CBが前へ出る。

その横をマティアスが走り、右には川崎、左には森川。

三つの選択肢。

富山のCBも一瞬迷った。

パスか。

ドリブルか。

それとも――シュートか。

ダニエルがマティアスを見る。

そして、右足を振るような動きを見せた。

中央CBの身体が、わずかにマティアス側へ開く。

そこだった。

ダニエルがさらに一歩、中央へ運ぶ。

「打て!!」

スタンドから声が飛ぶ。

ペナルティエリア手前。

ダニエルが右足を振り抜いた。

バンッ!!

低い。

そして速い。

富山GKが反応し、右へ飛ぶ。

だが――届かない。

ボールは伸ばされた手の先を抜け、そのままゴール左隅へ突き刺さった。

ネットが大きく揺れる。

一瞬。

スタジアム全体が止まった。

そして――。

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」

エストレヤスタジアムが爆発した。

ダニエルはシュートがゴールへ入ったことを見届けると、その場で両拳を強く握った。

「よっしゃあああああ!!」

川崎が真っ先に飛びつく。

「ダニエル!!」

森川、マティアス、戸塚。

次々と仲間たちが集まった。

大型ビジョンの表示が変わる。

**エストレヤ千葉 1-0 富山ベイウインズ。**

後半6分。

背番号14。

ダニエル・ロドリゲス。

前半、ダニエルは富山のオフサイドトラップのタイミングを読み続け、味方を使いながら守備を観察し続けていた。

だが、この得点は違う。

戦術ではない。

チョウのマークを個人技で外し、次の相手もかわし、最後は自分の右足で仕留めた。

「……そこは」

八幡が小さく息を吐く。

「分析じゃないな」

横にいたマルコが笑った。

「個人の力だ」

「ですね」

戦術で用意できるものには限界がある。

そして最後に、その限界を超えるのは――選手自身の能力だった。

◇

後半8分。

試合が再開する。

1点を追う富山は、当然ながら少し前へ出た。

チョウから万条。

中央へ入ってきた万条に、今度は戸塚が出る。

ただし深追いはしない。

万条は右の高井へ渡す。

高井には葉山が対応した。

その間に郡司が下がる。

橋本はついていかない。

代わりにエミリオが見る。

郡司が足元で受け、前を向こうとしたところへエミリオが寄せた。

郡司は無理をせず左のライアックへ。

ライアックが左足で縦へ入れ、風祭が受ける。

毛利が距離を詰めた。

風祭の最初のタッチが、わずかに前へ流れる。

「今!」

毛利が一気に身体を入れた。

風祭も左足で戻そうとするが、毛利の方が速い。

ボールを奪った。

「おおっ!」

毛利はすぐ前の川崎へ。

カウンター。

高井が全力で戻る。

川崎は中央のダニエルを見る。

だが今度はチョウがぴったりとついている。

無理はしない。

川崎は後ろの戸塚へ戻した。

1点を取ったからといって、千葉は急がなかった。

◇

後半10分。

富山のボールを持つ位置が、前半より明確に高くなってきた。

チョウから右の万条へ。

万条は今度、中盤まで下がらない。

右シャドーの位置からすぐに中央へ入り、戸塚とエミリオの間を狙う。

さらにライアックも左から中央へ寄ってきた。

二人の距離が近い。

「そこ!」

戸塚が万条へ出る。

エミリオはライアックを見る。

万条からライアックへ。

ワンタッチで郡司。

郡司も左足で落とし、再び万条。

速い。

細かい。

中央で千葉の選手たちが寄る。

その瞬間、万条は右へ展開した。

高井。

外でフリー。

「葉山!」

葉山が出る。

しかし高井はダイレクトでクロスを上げた。

ゴール前。

郡司と橋本が並ぶ。

郡司が前へ入り、橋本が身体を入れる。

ボールはその奥へ流れた。

そこへライアック。

左足。

シュート。

バンッ!!

だが坂本が身体を投げ出した。

ブロック。

「坂本ぉぉぉ!!」

ボールは外へ。

富山のコーナーキックとなった。

1点を失っても、富山は崩れていない。

むしろ攻撃にかける人数を増やしてきている。

◇

後半12分。

富山のコーナー。

ライアックが左足でゴール前へ送る。

橋本と郡司が競り合い、橋本が先に頭で弾いた。

セカンドボールをチョウが拾う。

森川が寄せると、チョウは無理をせず後ろのCBへ戻した。

富山はもう一度作り直す。

「落ち着け!」

玉縄が声を飛ばした。

千葉は最終ラインを下げすぎない。

1点を取ったからといって、ゴール前へ籠もるつもりはなかった。

前半と同じ4-2-3-1。

守備時には森川と川崎が下がる。

それでも、ボールを奪った瞬間にすぐ前へ出られる距離だけは保っている。

◇

後半14分。

戸塚がボールを持つ。

富山の最終ラインを見ると、前半とはまた違う変化があった。

オフサイドトラップを簡単には使ってこない。

最終ラインが少し低い。

「やっぱり変えた」

八幡がその変化を見る。

前半、富山は何度もラインを上げていた。

しかし千葉がそのタイミングを合わせ始めたことで、後半は使用頻度を落としている。

戸塚から中央のダニエルへ。

チョウが密着する。

今度はダニエルも無理に振り向かず、ワンタッチで森川へ。

森川から左の葉山。

風祭が戻る。

葉山も一度止めて中の森川へ返した。

森川は風祭とチョウの間で受け、反転する。

右足。

シュート――ではない。

縦のマティアスへ入れた。

マティアスはCBを背負いながら右足で落とす。

後ろからダニエルが入ってきた。

チョウもついてきている。

ダニエルは右の川崎へ。

川崎の正面には高井。

「行け!」

川崎が仕掛ける。

右へ。

そこから中へ。

高井も身体を寄せる。

前半より慎重で、足だけでは飛び込まない。

川崎も抜き切れず、後ろの毛利へ戻した。

得点後の千葉も、無理に攻め切ろうとはしなかった。

◇

後半16分。

富山の万条が、再び中央へ現れた。

戸塚とエミリオの境目。

まさに後半、富山が狙い続けている場所だった。

「誰が行く!?」

坂本の声。

「俺!」

戸塚が出る。

エミリオはその後ろで郡司を見る。

万条は戸塚が来る前に左へ流した。

ライアック。

左足で郡司へ。

郡司が橋本の前でワンタッチ。

再び万条。

「万条!」

ペナルティエリア手前。

万条が右足を振り抜いた。

バンッ!!

ボールが橋本の横を抜ける。

玉縄が反応した。

バシッ!!

右手一本で弾く。

「玉縄ぁぁぁぁぁぁ!!」

こぼれ球へ高井が走る。

だが葉山が先だった。

スライディングで外へ逃がす。

「ナイス葉山!」

富山が攻める。

千葉が耐える。

1点差。

まだ、何も決まっていない。

◇

後半18分。

千葉が自陣でボールを奪った。

エミリオから戸塚。

そして前のダニエルへ。

当然、チョウが寄る。

しかし今度のダニエルは――ボールに触らなかった。

スルー。

「おっ!」

その後ろにいた森川が受ける。

ダニエルはそのまま前へ走った。

チョウの反応が一瞬遅れる。

森川が右足でダニエルへ返す。

今度は前向き。

富山の最終ラインは、今日は上げない。

そのまま残る。

ダニエルもすぐに判断し、右の川崎へ。

川崎の正面には高井。

外から毛利が上がる。

川崎から毛利へ。

毛利がクロスを入れた。

中央でマティアスと富山CBが競る。

マティアスが頭で合わせた。

だが――ゴールの上。

「惜しい!」

スタンドから拍手が起きる。

富山がラインを上げないのなら、別の方法で攻めればいい。

クロス。

足元。

千葉も相手の変化に合わせて攻撃を変えていた。

◇

後半20分。

スコアは1対0。

ダニエルの一撃以降、試合のテンポは前半より明らかに速くなっていた。

追いつかなければならない富山。

追加点が欲しい千葉。

互いに前へ出る回数が増える。

中盤で戸塚とチョウが競り合った。

チョウが身体を入れて奪う。

すぐに万条。

万条から右の高井へ。

高井の正面には葉山。

高井が縦へ仕掛ける。

葉山もついていく。

高井が強く身体を当てた。

葉山も踏ん張る。

ライン際。

高井が右足でクロスを上げようとする。

葉山が足を出した。

ボールは当たって外へ。

コーナー。

「またか!」

富山サポーターの声が飛び、アウェイスタンドの音量も再び大きくなっていく。

◇

後半21分。

富山のコーナー。

キッカーは高井ではなくライアック。

左足からニアへ入れる。

郡司が動き、橋本がついていく。

だが、郡司は直前で止まった。

橋本だけが一歩前へ出る。

ボールはその後ろへ。

空いた場所へチョウが入ってきた。

頭で合わせる。

ボールはゴールの上へ外れた。

「危ねえ!」

スタンドから声が漏れる。

チョウは172センチ。

空中戦そのものが強みの選手ではない。

だからといって、セットプレーで無視していいわけではない。

郡司が人を動かせば、その背後には空間が生まれる。

富山も細かく狙っていた。

◇

後半23分。

1点をリードする千葉がボールを持つ。

戸塚とエミリオが、少しテンポを落とした。

急がない。

あえて富山を前へ出させる。

1点を追う富山は、チョウもCMFも少しずつ前へ出てくる。

その分、中盤の背後が開き始めた。

「ダニエル!」

戸塚が縦へ入れる。

ダニエルにチョウが来る。

ワンタッチで右の川崎へ。

川崎の正面には高井。

だが今度は中央からマティアスが降りてきた。

富山の右CBがついてくる。

川崎はそこへ縦パスを入れた。

マティアスが右足でダイレクト。

その前へダニエルが入る。

「またダニエル!」

富山のCMFも慌てて戻る。

ダニエルは右足で持った。

だが今度は仕掛けない。

左の森川へ。

森川がペナルティエリア手前から右足を振り抜く。

バンッ!!

富山CBがブロック。

ボールは外へ出た。

「続けろ!」

森川の声。

千葉のコーナーキックとなった。

◇

後半25分。

時計が進む。

スコアは――。

**エストレヤ千葉 1-0 富山ベイウインズ。**

後半6分。

ダニエル・ロドリゲス。

チョウを個人技で外し、次の相手もかわし、最後は右足でゴール左隅へ突き刺した。

戦術。

連係。

分析。

そのどれだけを積み重ねても、それだけでは作れないものがある。

純粋な――個の力。

その一撃によって、千葉が先に試合を動かした。

だが、富山も崩れてはいない。

失点後は万条の自由な動きをさらに増やし、ライアック、郡司、高井、風祭、チョウも前半以上に前へ出ている。

千葉も橋本、坂本、玉縄、戸塚、エミリオを中心に中央を耐えながら、奪った瞬間にはダニエル、森川、川崎、マティアスが追加点を狙う。

ベンチ脇で、八幡が時計を見た。

後半25分。

残り20分。

「……ここからだな」

1点差。

富山が前へ出る。

その分だけ、千葉にも前半にはなかったスペースが生まれ始めている。

マルコもベンチへ視線を向けた。

材木座。

戸部。

笹森。

中田。

佐久間。

安原。

高山。

宇津木。

そして郷田。

まだ、カードはある。

当然、富山も動いてくるだろう。

2位と3位。

勝ち点差2。

その直接対決は、ダニエルの一撃によって均衡こそ破れた。

しかし――。

勝負そのものは。

まだ、まったく終わっていなかった。

第375話 苛立ち

後半25分。

スコアは1対0。

エストレヤ千葉が、ダニエル・ロドリゲスの個人技から奪った一点を守っている。

だが、先制したからといって千葉が一方的に試合を支配しているわけではなかった。

失点後の富山ベイウインズは、むしろ前半以上に前へ出ている。

万条。

ライアック。

郡司。

さらに両サイドの風祭、高井が高い位置を取り、中盤のチョウまで積極的に攻撃へ顔を出す。

前半より明らかに攻撃へかける人数を増やし、千葉を自陣へ押し込む時間帯も作っていた。

それでも。

ゴールが遠い。

形は作る。

ペナルティエリア付近までは入る。

だが、最後のところで千葉の守備に止められる。

入らない。

崩し切れない。

そして何より――決められない。

その事実が、少しずつ富山の選手たちへ影を落とし始めていた。

◇

後半27分。

富山が中央から攻める。

チョウから万条へボールが渡った。

万条は右シャドーの位置から内側へ入り込む。

対応する戸塚は、前へ出すぎない。

間合いを保ち、万条が次に何をするかを見ていた。

万条は右足でライアックへ預ける。

ライアックは左足ですぐに郡司へ。

郡司は橋本を背負いながら受けると、一度ボールを落とした。

再び万条。

「来るぞ!」

坂本の声が飛ぶ。

万条はペナルティエリア手前で前を向いた。

右足を振る。

シュート――ではない。

外へ。

高井。

高井がダイレクトでクロスを入れた。

中央へ入った郡司と橋本が競る。

ボールは完全にはクリアされず、こぼれた。

そこへライアック。

左足を振ろうとする。

「戸塚!」

戸塚が素早く身体を入れた。

シュートコースを消す。

ライアックは打てない。

仕方なく後ろへ戻す。

チョウ。

さらに左の風祭へ。

富山はもう一度、攻撃を作り直そうとした。

その時だった。

「遅い!」

万条の声が響いた。

「もっと早く入れろよ!」

風祭が一瞬だけ万条を見る。

「……はい」

返事は短かった。

それだけだった。

言い返したわけでもない。

睨み合ったわけでもない。

だが。

それまでとは違う何かが、富山の中に混ざった。

ほんの少しだけ。

ピッチの空気が変わった。

◇

後半29分。

千葉の自陣。

戸塚がボールを受けると、チョウがすぐに寄せてくる。

戸塚は身体を入れながら横のエミリオへ預けた。

エミリオが前を見る。

ダニエル。

そこへ――万条が後ろから来た。

強く足を出す。

ガッ!

「っ!」

ダニエルの身体が大きく崩れた。

ピィッ!

すぐに笛が鳴る。

千葉のフリーキック。

「おい!」

川崎が声を上げた。

万条は両手を広げる。

「ボールだろ!」

主審が万条へ歩み寄り、両手を下へ動かしながら落ち着くように促した。

カードは出ない。

ただし、注意。

「……」

八幡はベンチ脇から万条を見つめていた。

「出てきたな」

横のマルコも同じ方向を見る。

「苛立ちか」

「ですね」

前半の万条は、楽しそうだった。

自由に動き、あちこちでボールへ触れ、千葉の守備を揺さぶる。

自分の思い通りにプレーできている時間も多かった。

だが後半。

先に一点を取られた。

その後も時間だけが進んでいく。

攻撃している。

ボールにも触れている。

それでも結果へ繋がらない。

徐々に。

ほんの少しずつ。

万条のプレーには、余計な力が入り始めていた。

◇

そして、それは万条だけではなかった。

後半30分。

右サイドで川崎がボールを持つ。

正面には高井。

川崎は一度止まった。

高井も飛び込まず、待つ。

川崎が縦へ仕掛ける。

高井もついていく。

だが次の瞬間、川崎は急停止して切り返した。

高井が身体をぶつける。

強い。

「っ!」

川崎が倒れる。

ピィィッ!

またしても笛が鳴った。

「またかよ!」

「高井!」

スタンドがざわつく。

高井はすぐに片手を上げた。

「今のは違うだろ!」

主審が高井へ近づく。

前半にも一度、強く行きすぎて注意を受けている。

だから今回は、さっきより長く話をされた。

高井は明らかに納得していなかった。

顔を歪める。

「チッ……」

小さな舌打ち。

「高井!」

遠くからチョウが声を飛ばした。

「落ち着け!」

「分かってる!」

返事も強い。

そのやり取りを、八幡は見逃していなかった。

「高井も来てますね」

「前節もそうだったな」

マルコが言う。

前節。

北海道フェニックスFC戦。

富山の5連勝が止まった試合。

あの日もそうだった。

思うようにいかない時間が長くなるにつれ、富山の選手たちは苛立ちを募らせていった。

接触が増えた。

言葉も荒くなった。

プレーとは関係のないところで余計なやり取りまで増え、試合そのものが徐々に荒れていった。

結果として、冷静さを失った時間帯に自分たちのリズムまで崩してしまった。

そして今日も。

同じ兆候が、少しずつ出始めている。

◇

後半32分。

富山の左。

風祭がボールを受ける。

正面には毛利。

風祭のファーストタッチが、またわずかに大きくなった。

「今!」

毛利が一気に距離を詰める。

風祭は左足でボールを隠そうとする。

しかし毛利は、今日何度もそこを狙っていた。

身体を当てる。

ボールがこぼれた。

川崎が拾う。

「行け!」

千葉のカウンター。

川崎が前へ運ぶ。

中央のダニエルへ。

ダニエルが受けると、チョウが必死に戻る。

万条も追ってきた。

ダニエルは左の森川へ展開する。

森川が前へ運ぶ。

後方から風祭が戻り、どうにか追いついた。

森川は一度止まる。

風祭も正面で構える。

その外を葉山が追い越した。

風祭の視線が、わずかに葉山へ動く。

森川はその瞬間を逃さず、中のダニエルへ返した。

ダニエルが右足で受ける。

その前ではマティアスが富山のCBを背負っている。

一瞬、縦へ出せる。

だがダニエルは出さなかった。

一度ボールを止める。

その間に富山も戻る。

5バックが完成した。

「……」

ダニエルは無理をしない。

後ろの戸塚へ戻した。

「いいぞ!」

森川が声をかける。

千葉はリードしている。

焦る必要はない。

まして、相手が苛立ち始めているのなら――なおさらだ。

こちらまで付き合う必要はなかった。

◇

後半34分。

再び富山。

中央の万条から右の高井へ。

高井が受ける。

葉山との距離は近い。

高井は縦へ仕掛けた。

葉山もぴったりついていく。

高井が身体をぶつける。

葉山は倒れない。

さらに高井が足を出す。

ボールには葉山が先に触った。

高井が遅れる。

ガッ!

「っ!」

葉山が倒れた。

ピィィィィッ!

今までより強い笛。

「おい!!」

スタンドから一気に声が上がった。

主審はすぐに走ってくる。

高井は両手を広げた。

「ボール行ってるって!」

だが今回は、主審も迷わなかった。

胸ポケットへ手を入れる。

「……」

出されたカードは黄色。

イエローカード。

「うおおおおお!」

「やっと出た!」

千葉サポーターから大きな声が上がる。

高井は不満そうに顔をしかめた。

「マジかよ……」

すぐにチョウが近づく。

「高井!」

「分かってるって!」

「なら止まれ!」

少し強い言葉だった。

高井は黙った。

その様子を万条が見ている。

だが、笑ってはいない。

前半にあった余裕が。

少しずつ。

消えていた。

◇

後半35分。

千葉のフリーキック。

位置は左。

やや距離がある。

ボールの前にはダニエルと森川。

富山も最終ラインを整える。

ただし、前半ほど思い切ってラインを上げてはこない。

ダニエルが中央を見る。

橋本。

坂本。

マティアス。

三人がゴール前へ入っている。

森川がボールから離れた。

ダニエル。

右足。

ゴール前へ蹴り込む。

橋本が飛んだ。

富山のCBも競る。

ボールがこぼれる。

「坂本!」

坂本が右足を振った。

バンッ!!

富山のDFが身体を投げ出す。

ブロック。

ボールは外へ。

コーナーキック。

「もう一回!」

スタンドが沸く。

千葉にとっては、それでいい。

時間も使える。

しかも、もう一度セットプレー。

富山は落ち着きたい。

だが。

落ち着ける時間を千葉が与えない。

◇

後半36分。

千葉のコーナー。

ダニエルが右足で中央へ蹴り込む。

橋本が高く飛んだ。

ヘディング。

だがボールはゴールの上へ。

「惜しい!」

富山のゴールキックになる。

橋本はそのまま自陣へ戻ろうとした。

その途中。

郡司と肩が少し当たった。

郡司が橋本を見る。

だが橋本は何も言わない。

振り返りもしない。

そのまま自陣へ戻っていった。

郡司の眉が、わずかに動いた。

富山は思ったように前へ進めない。

接触しても、相手は乗ってこない。

守備も簡単には崩れない。

挑発めいたものにも反応しない。

それが。

かえって富山の苛立ちを強めていた。

◇

後半38分。

中央でチョウがボールを持った。

戸塚が距離を詰める。

チョウは右の万条へ預けた。

万条が受ける。

エミリオが対応。

万条が右足でフェイントを入れた。

エミリオは動かない。

もう一度、右。

それでも動かない。

「……チッ」

万条は一度後ろへ戻した。

アウェイスタンドから声が飛ぶ。

「行け!」

「前だ!」

万条がボールを受け直す。

今度は強引だった。

中央へ運ぶ。

戸塚が寄せる。

万条のタッチが少し大きくなった。

戸塚が先に触る。

そこへ万条が足を出す。

ガツッ!

「っ!」

戸塚が倒れた。

ピィッ!

また笛が鳴る。

スタンドがざわめく。

万条は主審へ顔を向けた。

「今のまで取るの?」

声は低い。

主審が近づき、再び注意する。

万条は首を振った。

「いや、マジで意味分かんねえ」

その間にチョウが入る。

「万条」

「何?」

「戻れ」

「はいはい」

軽い返事。

だが。

その目は笑っていなかった。

◇

「まずいな」

八幡が富山を見ながら呟いた。

マルコが横を見る。

「向こうが?」

「はい」

スコアは1対0。

残された時間は、少しずつ減っていく。

「ただ」

八幡は続けた。

「こっちも巻き込まれたら同じです」

「分かっている」

マルコはすぐにピッチへ声を飛ばした。

「森川!」

キャプテンの森川が振り向く。

「落ち着かせろ!」

「はい!」

森川もすぐに周囲へ声を飛ばす。

「付き合うな!」

川崎。

戸塚。

葉山。

ダニエル。

それぞれが頷いた。

富山の苛立ち。

それ自体は、千葉にとって利用できる要素でもある。

相手が余計なファウルをする。

判断を急ぐ。

強引に仕掛ける。

そこを冷静に突けばいい。

だが一歩間違えれば、試合そのものが荒れる。

強い接触。

報復。

抗議。

そこへ千葉の選手まで入ってしまえば、1点のリードなど簡単に意味を失う。

だからこそ。

今、必要なのは。

相手より先に熱くなることではない。

相手が熱くなっているからこそ。

こちらが冷静でいることだった。

◇

前節。

北海道フェニックスFC戦。

富山は思うようにいかない展開の中で苛立った。

プレーが荒れた。

そして。

今日。

また同じ空気が近づき始めている。

万条。

高井。

郡司。

そして、その他の選手たち。

焦り。

不満。

残り時間。

1点のビハインド。

それらすべてが、少しずつ富山の精神を削っている。

それでも。

まだ1点差だった。

試合は終わっていない。

むしろ、こうして荒れ始めた試合ほど何が起こるか分からない。

一つのファウル。

一つの判定。

一つのミス。

それだけで空気は簡単にひっくり返る。

ベンチ脇で、八幡は腕を組んだままピッチを見つめていた。

「……ここ」

小さく呟く。

「一番危ない時間だな」

千葉がこのまま試合を落ち着かせるのか。

富山が苛立ちの中から同点へ追いつくのか。

それとも。

さらに何かが起こるのか。

後半終盤。

2位と3位による上位直接対決は、ここへ来て前半とも後半開始直後とも違う、まったく別の熱を帯び始めていた。