第378話 問い詰められる男
第378話 問い詰められる男
同じ頃。
富山ベイウインズのクラブハウスには、朝から最悪の空気が流れていた。
原因は言うまでもない。
今日発売された複数の週刊誌。
その誌面を大きく飾っていたのは、富山ベイウインズの背番号8――万条富隆だった。
既婚者でありながら、二人の女性と数週間にわたってホテルで過ごしていた。
記事だけなら、まだ本人が否定する余地もあったかもしれない。
だが今回は写真まであった。
ホテルのベッド。
その中央にいる万条の顔は、はっきりと写っている。
見間違えようがない。
一方で、その両側にいる二人の女性は違った。
後ろ姿。
髪。
身体の輪郭。
二人の女性がそこにいることだけは分かる。
しかし。
顔だけは、不自然なほど見えない。
そして、その写真の当事者である万条富隆は、すでにクラブハウスへ呼び出されていた。
◇
会議室。
万条は一人、椅子に座っていた。
正面には監督。
強化責任者。
クラブ幹部。
普段なら一度に揃うことなどない人間たちが、今日は何人も並んでいる。
机の上には今日発売された週刊誌。
一冊ではない。
二冊。
三冊。
さらに別の記事を表示したタブレットまで置かれていた。
「……」
さすがの万条も、いつもの軽い表情ではなかった。
「万条」
「はい」
監督が口を開く。
「まず事実確認をする」
机の上に置かれていた一冊の週刊誌が開かれた。
「この写真に写っている男は、お前だな?」
「……俺です」
「間違いないな」
「はい」
否定はしなかった。
というより、できない。
顔が完全に写っている。
「では、記事の内容は?」
万条が少し黙る。
「全部が正しいかまでは分からないですけど」
「何が事実だ」
「ホテルにいたこと」
「二人の女性と?」
「はい」
「何度も?」
「……はい」
「数週間にわたって?」
「まあ……」
「まあ、じゃない」
すぐに強い声が飛んだ。
万条が口を閉じる。
「お前は既婚者だな」
「はい」
「妻がいる」
「います」
「その状態で、二人の女性とこういう関係を持っていた」
「……はい」
短い返事だった。
会議室に重い沈黙が落ちる。
◇
「なぜだ」
問いかけられた万条は、一度だけ天井へ目を向けた。
「……別に」
「別に?」
「そこまで深く考えてなかったです」
その瞬間。
正面に並んでいた何人かの表情が、一斉に険しくなった。
「深く考えていなかった?」
監督の声が低くなる。
「お前、何歳だ」
「29です」
「29歳だぞ」
「……はい」
「若手じゃない」
「はい」
「海外も経験した。日本でも何年もプロとしてやってきた」
「……」
「それで、深く考えていなかった?」
万条は答えなかった。
これまでにも、何度もあった。
遅刻。
寝坊。
練習態度。
監督との衝突。
チームメイトとの喧嘩。
能力はある。
圧倒的なほどに。
それなのに万条は、自分自身の行動によって何度も自分の立場を悪くしてきた。
「また同じことをするつもりなのか」
「……そのつもりはないです」
「なら、行動で示せ」
「はい」
◇
「しかも今だ」
別の幹部が口を開いた。
「チームがどういう状況か分かっているな」
「分かってます」
「リーグ3位」
「はい」
「残り5試合」
「はい」
「北海道に負けた」
「……はい」
「千葉にも負けた」
「はい」
二連敗。
5連勝で一気に順位を上げてきた富山の勢いは、そこで止まった。
それでもシーズンは終わっていない。
まだ上を狙える。
だからこそ。
「今日から、記者が聞くのはサッカーじゃない」
「……」
「お前の記事だ」
「……はい」
「監督も聞かれる」
「はい」
「チームメイトも聞かれる」
「……はい」
「クラブも対応しなければならない」
そこで初めて、万条の表情が少し変わった。
「スポンサーから問い合わせが来る可能性もある」
「……」
「お前一人の問題では済まない」
「はい」
その返事は、さっきよりも小さかった。
◇
「二人の女性について確認する」
その言葉に、万条が顔を上げる。
「名前は分かるか」
「分かります」
「言えるか」
「ああ……」
少しだけ考えた。
だが、隠す理由もない。
だから万条は、何でもないことのようにその名前を口にした。
「一色いろは」
そして。
「由比ヶ浜結衣」
次の瞬間。
会議室の空気が止まった。
「……」
誰も喋らない。
「?」
万条が不思議そうに周囲を見る。
「何?」
強化責任者がゆっくり顔を上げた。
「今」
「はい?」
「何て言った?」
「だから」
万条は少し面倒そうに繰り返した。
「一色いろはと、由比ヶ浜結衣」
また。
沈黙。
「……お前」
幹部の一人が口を開いた。
「知らなかったのか?」
「何を?」
万条が眉を寄せる。
「その二人を」
「知ってるから名前言ってるんですけど」
「そういう意味じゃない」
「は?」
監督まで、さっきまでとは少し違う表情で万条を見ていた。
「万条」
「何ですか」
「スポーツ界で、その二人の名前を聞いたことがないのか」
「……ないですけど」
「本当に?」
「何なんですか」
万条の声に少し苛立ちが混じる。
「有名人なんですか?」
その問いに、強化責任者が深く息を吐いた。
「……有名だ」
◇
一色いろは。
由比ヶ浜結衣。
その二つの名前を、スポーツ界で知っている者は少なくなかった。
ただし。
選手ではない。
代理人でもない。
記者でもない。
もちろん、芸能人でもない。
何年も前から、選手たちの間で噂され続けている二人組。
「……ハニートラップ」
幹部の一人が言った。
「は?」
万条が固まる。
「スポーツ選手を狙う二人組だ」
「……」
「サッカーだけじゃない」
野球。
バスケットボール。
その他の競技。
活躍している選手。
注目を集め始めた選手。
移籍。
代表。
大会。
優勝争い。
そうした、選手の名前が世間で大きくなり始める時期に近づいてくる。
そして十分に距離を縮めた後。
突然、消える。
その直後。
週刊誌。
ネット記事。
写真。
情報。
選手だけが特定できる形で、すべてが世間へ出てくる。
「ちょっと待て」
ようやく万条の表情が変わった。
「何それ」
「知らなかったのか?」
「だから知らねえって!」
万条の声が大きくなる。
「そんなの聞いたことねえよ!」
嘘ではない。
万条は、本当に知らなかった。
◇
名前だけは知られている。
一色いろは。
由比ヶ浜結衣。
だが、それだけだった。
誰も二人の顔を知らない。
過去の記事に写っているのも、狙われた選手と顔の見えない女性たちばかり。
後ろ姿。
髪で顔が隠れた横顔。
そもそも顔が画角から外れている写真。
二人を特定できる顔写真だけは、なぜか一枚も世に出回っていなかった。
だから。
名前は有名。
しかし、正体は不明。
「二人の名前だけが何度も出てくる」
強化責任者が続けた。
「でも顔が分からない」
「……」
「本当に同じ二人なのかすら、外からは証明できない」
「……」
「ただ、過去に狙われた複数の選手や関係者から、同じ二つの名前が出ている」
一色いろは。
由比ヶ浜結衣。
その二つだけが、何度も繰り返し出てきた。
だからこそスポーツ界では、半ば都市伝説のように知られている。
◇
「……マジかよ」
万条が初めて完全に言葉を失った。
机の上の記事へ視線を落とす。
写真。
自分の顔は、はっきり写っている。
いろはの顔は見えない。
結衣の顔も見えない。
「あいつら……」
あの日。
朝起きた時には、二人ともいなかった。
荷物も消えていた。
万条は単純に帰ったのだと思っていた。
だから連絡もしなかった。
深く考えもしなかった。
だが。
その数日後。
これだ。
「……」
少しずつ。
すべてが繋がっていく。
「じゃあ」
万条は写真を指差した。
「これ、あいつらが?」
「断定はできない」
幹部がすぐに止めた。
「証拠はない」
「でも」
「可能性と事実は分けろ」
「……」
万条は歯を食いしばった。
◇
「何で……」
万条が呟く。
「何でそんなことするんだよ」
誰もすぐには答えなかった。
やがて監督が口を開く。
「理由なんて、本人たちにしか分からない」
ただ。
スポーツ界では、こう言われている。
二人にとって、金だけが目的ではない。
恨みでもない。
特定の選手を憎んでいるわけでもない。
むしろ。
もっと質が悪い。
遊び。
そうとしか見えない。
有名になった選手。
これから栄光へ手を伸ばそうとしている選手。
大きな舞台へ進もうとしている選手。
そんな男に近づき、十分に親しくなったところで情報が週刊誌へ流れる。
その結果。
家庭が壊れた者もいる。
チームを去った者もいる。
スポンサーを失った者もいる。
代表から外れた者もいる。
それまで積み上げてきたものを、一気に失った選手すらいた。
「……悪魔みてえな奴らだな」
万条が呟いた。
誰も否定しなかった。
スポーツ界では、まさにそんなふうに語られている二人だった。
◇
「でも」
強化責任者が万条を見る。
「勘違いするなよ」
「……何が」
「仮に今回の記事を二人が売ったとしても、お前の責任がなくなるわけじゃない」
「分かってるよ」
「本当に?」
「分かってる」
万条が少し強く返した。
「俺がホテル行ったのも」
「……」
「二人といたのも」
「……」
「俺だから」
再び会議室が静かになった。
「そこは言い訳しねえよ」
万条は記事から目を逸らさなかった。
◇
その後も話は続いた。
今後の取材対応。
クラブとしての発表。
スポンサーへの説明。
練習参加。
次節の出場可否。
処分。
そして家族への対応。
当然、その場ですべてを決められるわけではない。
「今日は勝手に取材へ答えるな」
「はい」
「SNSも触るな」
「分かりました」
「報道陣の前にも勝手に出るな」
「はい」
「次の指示はこちらから出す」
「分かりました」
最後に、監督が万条を見た。
「万条」
「はい」
「お前の能力は評価している」
「……」
「だから獲った」
「はい」
「実際、お前が来てチームは良くなった」
万条。
ライアック。
風祭。
そして復帰したチョウ。
後半戦の富山は、一気に順位を上げてきた。
「でも」
監督の声が低くなる。
「サッカーが上手いことと、何をしても許されることは別だ」
「……はい」
「そこは間違えるな」
「分かりました」
◇
会議室を出た。
扉が閉まる。
「……はぁ」
万条は大きく息を吐き、片手で頭を掻いた。
「……知らねえよ、そんなの」
一色いろは。
由比ヶ浜結衣。
スポーツ界では有名。
ただし、名前だけ。
顔は誰も知らない。
何人もの選手へ近づき、最後に突然消える。
そして、その直後。
選手が積み上げてきた栄光を壊すような情報が世間へ流れる。
そんな二人。
万条は何も知らなかった。
ただ。
可愛い女二人と知り合った。
その程度にしか思っていなかった。
「……マジかよ」
もう一度呟いた。
すると。
「万条」
声をかけられた。
「……ん?」
顔を上げる。
廊下には何人もの選手がいた。
チョウ・ウンソウ。
郡司優。
高井重吾。
風祭竜也。
ライアック・フォーン。
さらに他の選手たちもいる。
「……何?」
チョウが腕を組んだ。
「首脳陣との話は終わったか」
「ああ」
「じゃあ次だ」
「は?」
万条が露骨に嫌そうな顔をする。
「何が?」
「俺たち」
チョウは真っ直ぐ万条を見る。
「選手側の話だ」
◇
選手用のミーティングスペース。
またしても万条が座らされていた。
その周囲にはチームメイトたち。
「……今日これ何回やるんだよ」
万条がぼやく。
「知るか」
チョウが即答した。
「原因はお前だ」
「……」
「俺たちも聞きたいことがある」
「何」
今度は郡司が口を開く。
「お前」
「うん」
「本当に知らなかったのか?」
「何を」
郡司が少し呆れた顔をする。
「一色いろはと由比ヶ浜結衣」
「……」
万条が嫌そうに顔をしかめた。
「郡司さんも知ってたの?」
「名前はな」
「マジかよ」
「俺でも知ってる」
高井も口を挟む。
「……お前も?」
「いや、顔は知らないけど」
「そこなんだよ!」
万条の声が大きくなった。
「顔知らねえのに分かるわけねえだろ!」
「名前聞いた時点で気づけよ」
「名前すら知らなかったんだって!」
「マジで?」
「マジだよ!」
高井が呆れたように万条を見る。
「いや、万条さん……」
「何だよ」
「そういう噂、スポーツ選手なら一回ぐらい聞くでしょ」
「聞いてねえよ!」
◇
「僕も名前は知ってました」
風祭が小さく言った。
万条がゆっくりと風祭を見る。
「……お前19だよな?」
「はい」
「何で19のお前が知ってて、俺知らねえんだよ」
「それは僕に言われても……」
風祭も困るしかない。
するとライアックまで、少し首を傾げながら口を開いた。
「オーストラリアでも」
「は?」
「日本に来る前」
ライアックは言葉を選びながら日本語を続ける。
「日本でプレーした選手から、名前だけ聞いた」
「海外まで行ってんのかよ!」
「有名」
「嘘だろ……」
万条は頭を抱えた。
◇
チョウが大きく息を吐く。
「名前は有名なんだ」
「……」
「顔だけが分からない」
「ああ」
「だから、気づかなかったこと自体は分からなくもない」
万条が勢いよく顔を上げる。
「だろ?」
「でも」
チョウはそこで言葉を切った。
「それと、お前が既婚者なのに二人とホテルにいたことは別」
「……」
「そこは混ぜるな」
「分かってるよ」
「ならいい」
◇
「でもさ」
高井が記事を見ながら言った。
「これ、本当にいつもの形じゃん」
「いつもの?」
万条が眉を寄せる。
「ほら」
高井がスマートフォンを見せた。
「男だけ顔はっきり」
万条も画面を見る。
「女側は顔なし」
「……」
「過去の記事も大体こんな感じらしいよ」
「……」
「名前だけ後から出る」
万条の表情が、さらに険しくなった。
「完全にやられてんじゃん、俺」
「言い方」
郡司が苦笑する。
「いや、そうだろ!」
「お前も自分から行ってるだろ」
「それは……」
「なら被害者みたいな顔すんな」
「……はい」
珍しく。
万条は素直に引いた。
◇
「そもそも」
郡司が椅子へ深く座り直す。
「何でそんな二人と知り合ったんだよ」
「普通に」
「普通って何」
「知り合って、話して」
「それから?」
「……まあ」
「また『まあ』か」
「細かく聞くなよ!」
「聞くだろ!」
周囲から少しだけ笑いが起きた。
だが、それも長くは続かない。
チョウがすぐに話を戻した。
「万条」
「何」
「俺たちが一番言いたいのは、そこじゃない」
「……」
チョウは真っ直ぐ万条を見る。
「今、チームは二連敗だ」
「分かってる」
「北海道」
「ああ」
「千葉」
「ああ」
「残り5試合」
「分かってるって」
「そこへこれ」
チョウが週刊誌へ視線を向ける。
「今日から取材は全部、お前だ」
「……」
「監督も」
「……」
「クラブも」
「……」
「俺たちも」
そして、はっきりと言った。
「全員巻き込まれた」
万条は黙った。
◇
「俺ら」
風祭が口を開いた。
「本気で優勝狙ってるんで」
「……」
「せっかくここまで来たのに」
19歳。
夏に加入したばかり。
それでも、その言葉は真っ直ぐだった。
「こういうことで、チームがおかしくなるの嫌です」
「……悪かったよ」
万条が小さく答えた。
「え?」
高井が聞き返す。
「何」
「今何て?」
「うるせえな」
「聞こえなかった」
万条が顔を上げる。
「悪かったって言ったんだよ」
周囲が少し静かになった。
「迷惑かけた」
万条は続ける。
「そこは悪かった」
普段、自分の非を簡単には認めない男だ。
だからこそ、チームメイトたちも少し驚いていた。
◇
「それなら」
郡司が言った。
「一つだけ」
「何」
「これ以上、余計なことするな」
「分かってる」
「二人に直接何かしようとするなよ」
「……」
「クラブが止めてるだろ?」
「止めてる」
「なら従え」
「はいはい」
「はいは一回」
「はい」
万条は面倒そうに答えた。
それでも、今は従った。
◇
「次の試合」
高井が聞く。
「出るの?」
「知らない」
「まだ決まってない?」
「クラブが決める」
「もし出るなら」
「何?」
高井は万条を見た。
「ちゃんとやってくださいよ」
万条が一瞬、高井を見つめる。
「お前」
「はい」
「俺より年下だよな?」
「そうですけど」
「説教?」
「今は言いますよ」
「……」
そのやり取りに郡司が吹き出した。
「言われてやんの」
「うるさいっすよ」
万条にも、ほんの少しだけいつもの表情が戻った。
◇
だが。
最後までチョウだけは笑わなかった。
「万条」
「何」
「サッカーまで壊すな」
万条の表情が止まった。
「……」
「一色いろは」
「……」
「由比ヶ浜結衣」
「……」
「あの二人は」
チョウは少しだけ間を置いた。
「選手が積み上げたものを壊していくことで有名だ」
万条は何も言わない。
「遊びみたいにな」
「……」
「だったら」
チョウはさらに続けた。
「お前まで、自分から全部壊すな」
「……」
「出るならやる」
「……」
「出ないならチームを支える」
「……」
「今できるのは、それだけだ」
しばらく沈黙が続いた。
やがて万条は。
「ああ」
小さく頷いた。
◇
クラブハウスの外には、すでに大勢の報道陣が集まっていた。
カメラ。
マイク。
記者。
今日、彼らが聞きたいのは富山の連敗ではない。
残り5試合でもない。
優勝争いでもない。
万条富隆。
そして。
スポーツ界では名前だけが有名な二人。
**一色いろは。**
**由比ヶ浜結衣。**
顔を知る者はいない。
顔写真もない。
だから。
たとえ目の前に現れたとしても、本人たちだとは分からない。
それなのに。
何人もの選手が同じように、栄光へ近づいたところで足元を崩されてきた。
悪魔。
そんな呼び方さえされる二人組だった。
◇
一人になったロッカールーム。
万条はスマートフォンを取り出した。
今日の記事を開く。
写真。
中央には自分。
顔は、はっきり写っている。
右にはいろは。
顔は見えない。
左には結衣。
こちらも顔は見えない。
「……」
今なら分かる。
偶然ではない。
少なくとも、そう疑わずにはいられなかった。
「……俺」
乾いた笑いが漏れる。
「とんでもねえの引いてたんだな」
だがもう遅い。
一色いろは。
由比ヶ浜結衣。
スポーツ界では有名だった。
ただ、万条富隆だけは二人の正体を何も知らなかった。