第379話 終わる夫婦
第379話 終わる夫婦
その日の夜。
万条家のリビングには、普段とはまるで違う空気が流れていた。
いつもなら、この家にいるのは万条富隆と妻のこころだけだ。
だが、今日は違う。
ソファや椅子には万条の両親。そして向かい側には、こころの両親が座っていた。
双方の親が揃っている。
テレビはついていない。
誰一人としてスマートフォンを見ている者もいない。
静まり返った部屋に聞こえてくるのは、壁に掛けられた時計が時を刻む音だけだった。
その中心。
万条とこころは、少し距離を空けて座っていた。
二人の間にある距離は、ほんのわずか。
それなのに今夜は、それがひどく遠く感じられた。
◇
誰も、なかなか最初の言葉を口にできなかった。
テーブルの上には一冊の週刊誌が置かれている。
今日発売されたものだ。
誌面には万条富隆の名前。
そして、あの写真。
やがて万条の父親が深く息を吐いた。
「富隆」
「……うん」
「クラブでは、話をしたんだな」
「ああ」
「何て言われた」
「いろいろ」
「いろいろじゃ分からん」
万条がわずかに顔をしかめる。
だが、今日は朝から何度も同じようなことを言われている。
クラブの首脳陣。
チームメイト。
そして今度は家族。
ここで反発したところで、何も変わらないことくらいは分かっていた。
「事実確認されて……今後の処分とか、取材対応とかはクラブで決めるって」
「そうか」
「SNSも触るなって」
「当然だ」
「……」
父親は厳しい表情のまま息子を見つめた。
「記事は本当なのか」
万条は少しだけ間を置いた。
「……大体は」
「大体?」
「ホテルにいたのは本当」
「二人の女性と?」
「ああ」
「何度も?」
「……ああ」
その答えを聞いた瞬間、向かい側に座っていたこころの母親の表情が強張った。
父親も何も言わない。
ただ、娘を見る。
こころは俯いたまま、膝の上で両手を強く握っていた。
◇
「こころちゃん」
万条の母親が静かに声をかけた。
「……はい」
「本当に、ごめんなさい」
「……」
「親の私たちが謝って済むことじゃないのは分かってる。でも――」
「母さん」
万条が止めようとした。
しかし。
「富隆は黙ってなさい」
「……」
強い声だった。
万条も口を閉じる。
「あなたがしたことよ」
「分かってる」
「分かってないから、こうなってるんでしょう」
「……」
何も言い返せなかった。
◇
やがて、こころの父親が口を開いた。
「富隆君」
「はい」
「一つ、聞きたい」
「はい」
父親は感情的になることなく、静かに万条を見ていた。
「こころと、これからも夫婦としてやっていくつもりはあるのか」
「……」
万条の動きが止まった。
今日、何度も問い詰められた。
だが、この質問だけは一度もされていない。
クラブでも。
チームメイトからも。
聞かれなかった。
これはサッカー選手・万条富隆の問題ではない。
家族。
夫婦。
この家でしか答えられない問題だった。
「……俺は」
万条が一度だけ、こころを見る。
しかし、こころは万条を見ていなかった。
「……分かんない」
ようやく出てきた答えは、それだった。
こころの母親がわずかに眉を動かす。
「分からない?」
「……」
「これだけのことをして、それでも分からないの?」
「すみません」
万条は視線を落とした。
「今、俺も……何て言えばいいのか」
「富隆君」
こころの父親が静かに遮った。
「君の気持ちより先に、こころの気持ちを聞こう」
「……」
万条は黙った。
◇
全員の視線が、こころへ向けられた。
21歳。
かつて有名アイドルグループの一員として活動していた女性。
結婚を機に芸能界を離れた。
それから。
髪も。
生活も。
仕事も。
自分で自由に選べるものは、少しずつ減っていった。
そして、ここ数週間。
夫はほとんど家へ帰ってこなかった。
生活費だけは入っていた。
けれど、家にはずっと一人だった。
最初は、どうしていいのか分からなかった。
夫が帰ってこない。
一人で過ごす時間ばかりが増えていく。
本来なら寂しくなるはずだった。
ところが。
少しずつ、こころは気づいてしまった。
好きなものを食べる。
好きなテレビを見る。
眠くなったら、自分の好きな時間に眠る。
誰にも何も言われない。
たったそれだけの生活が。
驚くほど楽だった。
「こころ」
母親が優しく呼びかけた。
「どうしたい?」
「……」
こころの指がわずかに動く。
「お父さんも、お母さんもいる」
「……」
「今日は、言っていいの」
その言葉を聞いて。
こころはゆっくりと顔を上げた。
◇
「……離婚したい」
小さな声だった。
それでも。
はっきりと聞こえた。
部屋が静まり返る。
万条がこころを見る。
「……」
こころも、今度は目を逸らさなかった。
「離婚したいです」
もう一度。
さっきよりも少しだけ強く。
自分の意思で、はっきりと言った。
「……そうか」
万条から出た言葉は、それだけだった。
◇
「今回の記事が出たから?」
万条の父親が確認するように尋ねた。
だが、こころは首を横に振った。
「違います」
「……」
「今回の記事だけじゃないです」
万条の表情が変わる。
「こころ?」
「私……ずっと、何も言えませんでした」
「……」
「富隆君が怒るのが怖かったとか、嫌われるのが怖かったとか……そういうのもあったと思います」
こころの母親は、何も言わず娘の手を見つめていた。
「でも」
こころが一度、大きく息を吸う。
「一人になって、気づきました」
万条は黙っている。
「私」
こころは正面から万条を見た。
「この家で、一人でいる方が楽でした」
「……」
その言葉を聞いた瞬間。
万条の表情から、少しずつ何かが消えていった。
◇
「好きなもの食べて」
「……」
「好きなテレビ見て」
「……」
「寝たい時間に寝て」
「……」
「それだけなのに」
こころの目が、少しだけ潤んだ。
「すごく楽だった」
「……」
「富隆君が帰ってこないのが」
一瞬。
言葉に詰まる。
それでも、こころは言った。
「寂しいより……ほっとしてました」
万条が俯いた。
双方の両親も、途中で止めようとはしなかった。
こころが今まで言えなかったことを、初めて口にしている。
だからこそ。
最後まで聞かなければならなかった。
「私、それで思ったんです」
「……」
「これって……夫婦なのかなって」
◇
万条は何も言えなかった。
こころが、ここまで自分の気持ちを直接ぶつけてきたことはなかった。
いや。
違う。
言わなかったのではない。
言えなかった。
言えるような空気を。
自分が作ってこなかった。
「芸能界辞めたことも」
「……」
「髪のことも」
その言葉に、万条の目が動く。
「全部、私がちゃんと嫌だって言わなかったから」
「……」
「富隆君は、いいと思ってたかもしれない」
こころは小さく首を横に振った。
「でも」
そして。
今まで言えなかった言葉を、はっきりと口にする。
「私は嫌でした」
「……」
万条は完全に言葉を失った。
◇
「……ごめん」
しばらくして。
ようやく出てきた言葉は、それだけだった。
「……知らなかった」
こころは万条を見る。
「うん」
責めるような言い方ではなかった。
「知らなかったと思う」
だからこそ。
余計に重かった。
「私も言わなかったから」
「……」
「でも」
こころはゆっくりと言葉を続ける。
「これから言えるようになる自信もないです」
「……」
「また一緒に暮らして」
「……」
「前みたいになるのも怖い」
「……」
「だから」
こころはもう一度、自分の意思を口にした。
「離婚したいです」
◇
万条の母親が目を伏せる。
父親も何も言わなかった。
こころの両親も、娘の言葉を黙って受け止めている。
やがて父親が言った。
「分かった」
「お父さん……」
「こころが決めたなら」
娘を真っ直ぐ見る。
「俺たちは、それを尊重する」
母親も頷いた。
「うん」
そして。
「帰ってきていいのよ」
こころの目が大きくなる。
「いつでも」
「……お母さん」
「荷物だって後でいい」
「……」
「今すぐ全部決めなくてもいいの」
「……うん」
こころの目から、ようやく涙がこぼれた。
◇
「富隆」
今度は万条の父親だった。
「うん」
「お前はどうする」
「……」
「こころちゃんが離婚を望んでいる」
「……」
「まさか拒むつもりじゃないだろうな」
万条は一度だけ、こころを見た。
こころは静かに答えを待っている。
長い沈黙のあと。
「……しない」
「何?」
「拒まない」
万条は息を吐いた。
そして。
「離婚する」
その瞬間。
こころの肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。
◇
「俺が……」
万条は言いかけて、止まった。
何を言えばいいのか。
すぐには分からない。
「俺が原因なのは分かってる」
「……」
「記事のことだけじゃなくて」
「……」
「今までのことも」
こころは黙って聞いていた。
「多分、俺……」
万条は苦い表情を浮かべる。
そして、自嘲するように少し笑った。
「結婚向いてなかったんだろうな」
「そうやって逃げるな」
父親がすぐに遮った。
「……」
「向いてる、向いてないの話じゃない」
「……」
「お前が、こころちゃんの気持ちを聞かなかった」
万条は俯く。
「それだけだ」
「……」
何も返せなかった。
しばらくして。
「はい」
短く。
認めた。
◇
その夜。
双方の両親を交え、離婚へ向けた話が一つずつ進められていった。
財産。
住居。
荷物。
今後の連絡。
正式な手続き。
細かなことについては、後日あらためて整理する。
今日だけで何もかもを終わらせることはできない。
ただし。
一つだけ。
今夜、はっきりと決まったことがある。
万条富隆。
万条こころ。
二人は。
離婚する。
◇
話し合いが終わると、こころは両親と一緒にこの家を出ることになった。
今日は必要なものだけを小さなバッグへ入れる。
残った荷物は、後日あらためて両親と一緒に取りに来ればいい。
玄関で靴を履く。
その背中へ。
「……こころ」
万条が声をかけた。
こころが振り返る。
「何?」
「……」
一瞬。
何を言えばいいのか迷った。
引き止める言葉ではない。
そんなことを言える立場ではない。
だから。
結局。
出てきたのは一言だけだった。
「ごめん」
こころは少し黙った。
「……うん」
許したとも言わない。
許していないとも言わない。
それ以上、何かを言うこともなかった。
「じゃあ」
こころが玄関の扉へ手をかける。
そして。
「さようなら」
「……」
万条は目を伏せた。
「ああ」
扉が開く。
こころが両親とともに家を出ていく。
やがて。
扉が閉まった。
◇
静かだった。
両親も少し前に帰り、万条は一人、リビングのソファに座っていた。
テーブルの上には週刊誌。
今日一日。
何度見たか分からない。
表紙を開けば、そこには写真がある。
自分。
一色いろは。
由比ヶ浜結衣。
朝まで何も知らなかった二人。
スポーツ界で名前だけが知られていた女たち。
選手へ近づき、十分に入り込んだあと。
その選手が積み上げてきたものを、遊ぶように壊していく。
悪魔。
そんなふうに呼ばれている二人。
万条は、その二人に狙われた。
それは事実なのかもしれない。
だが。
「……」
万条は週刊誌を閉じた。
今回、自分が失ったもの。
そのすべてを。
あの二人のせいにはできない。
ホテルへ行ったのは自分だ。
既婚者だったのも自分。
そして。
こころの気持ちをずっと見ようとしなかったのも。
自分だった。
「……離婚、か」
呟く。
当然。
誰も返事をしない。
ついさっきまで、こころが暮らしていた家。
今日から。
本当に一人になる。
万条富隆。
29歳。
サッカー選手としては、まだ優勝争いの途中にいる。
シーズンは終わっていない。
残り5試合。
ピッチの上では、まだ戦いが続く。
だが。
その日の夜。
一つの夫婦は。
そして一つの家庭は。
静かに。
完全に終わった。