第380話 自分の身は自分で守る
第380話 自分の身は自分で守る
その頃。
エストレヤ千葉トレーニングセンター。
普段なら午後の練習が終われば、選手たちはそれぞれの時間へ移っていく。
身体のケアをする者。
グラウンドへ残って自主トレーニングを続ける者。
シャワーを浴び、早々に帰宅する者。
だが、今日は違った。
「全員、ミーティングルーム集合です」
スタッフから飛んできた声に、帰る準備を始めていた川崎が振り返った。
「え? またミーティング?」
「試合のじゃないらしい」
近くにいた戸塚が答える。
「じゃあ何?」
「研修会だって」
「研修?」
聞き慣れない言葉に首を傾げながらも、川崎は他の選手たちと一緒にクラブハウスへ向かった。
若手。
中堅。
ベテラン。
ほぼ全員がミーティングルームへ集められている。
後方には八幡をはじめ、クラブスタッフの姿もあった。
◇
「……タイミング的に」
席へ座った川崎が、隣へ聞こえる程度の小声で呟く。
「絶対あれですよね」
「だろうな」
森川も察していた。
今日。
スポーツニュースを見ても。
ネットニュースを開いても。
週刊誌の記事を見ても。
そこには同じ名前が並んでいた。
万条富隆。
既婚者でありながら、二人の女性との関係を報じられた富山ベイウインズの中心選手。
しかも、その相手として名前が挙がった二人が、さらに騒動を大きくしていた。
一色いろは。
由比ヶ浜結衣。
スポーツ界では名前だけが知られている、正体不明の二人。
選手へ近づき、関係を作り、やがて姿を消す。
そして最後には、その選手の人生やキャリアを大きく揺らす情報が表へ出てくる。
過去にも二人の名前は何度も出ている。
それなのに、顔写真は一枚も出回っていない。
誰も本人たちの正体を知らない。
だからこそ厄介だった。
◇
「全員いる?」
前方から女性の声が響き、それまでざわついていた室内が静かになった。
スクリーンの前に立っていたのは、エストレヤ千葉の広報部長――**天童くれは**。
39歳。
2月13日生まれ。
選手ではない。
コーチでもない。
だが、クラブから外へ出ていく情報、メディア対応、取材、広報、そして選手たちの対外的なトラブル。
そうした問題と最も近い位置にいる部署を預かる人間だった。
「今日は試合の話じゃありません」
くれはが手にしたリモコンを押した。
スクリーンが切り替わる。
そこへ大きく表示されたのは、一つの言葉。
**自分の身は、自分で守る。**
「……重いな」
川崎が思わず呟いた。
「そこ、聞こえてるからね」
「すみません」
室内に小さな笑いが起きる。
しかし、くれははすぐに真面目な表情へ戻った。
◇
「先に言います」
くれはは選手全員を見渡した。
「今日の研修は、万条選手を笑うためのものではありません」
空気が変わった。
「他クラブの選手が問題を起こした。だから『あいつ馬鹿だな』で終わる。それが一番危ないです」
後方では、八幡が腕を組んでその話を聞いている。
「皆さんも同じプロサッカー選手です。名前が知られる。顔が知られる。収入を知られる。住んでいる地域を調べられる。試合日程も分かる。遠征の日も分かる」
誰も喋らない。
「SNSをやっていれば、好きなものや普段の行動範囲まで分かることがあります」
そして次のスライドへ。
「有名になればなるほど、知らない相手から近づかれる機会も増えます」
◇
「女性関係だけですか?」
橋本が手を上げた。
「違います」
くれはは即答した。
「今日は女性関係が大きなきっかけではあるけど、それだけじゃない」
画面に複数の項目が表示される。
女性関係。
SNS。
金銭。
投資。
飲酒。
賭け事。
知人からの紹介。
怪しい仕事。
写真。
動画。
秘密保持。
メディア対応。
「……多いな」
坂本が思わず呟く。
「多いです」
くれはははっきり答えた。
「プロ選手って、ピッチの上だけ守ればいい仕事じゃないから」
その言葉に、何人かの選手が姿勢を正した。
◇
「まず、これ」
次に画面へ出たのは、
**知らない相手が、自分のことを知りすぎている場合。**
という文章だった。
「普通に怖がってください」
「怖がる?」
川崎が反応する。
「はい」
「でも、ファンなら知ってません?」
「だから判断が難しいの」
くれははそう答え、具体的に説明していく。
試合。
背番号。
誕生日。
好きな選手。
公式プロフィール。
その程度なら、少し調べれば誰にでも分かる。
「でも、行きつけのお店とか、家族の予定とか、非公開の交友関係とか、まだ発表されていない移籍や契約の話とか。そこまで相手が知っていたら警戒してください」
「……」
「相手が美人だから。感じがいいから。自分のことを好きって言ってくれたから。それだけで信用しない」
何人かが妙に真剣な顔になる。
川崎がすぐに隣を見る。
「……こっち見るなよ」
「見てない」
戸塚は前を向いたまま答えた。
「絶対見たじゃん」
「研修中」
「はい」
◇
「それから、これは本当に気をつけて」
次のスライド。
**写真と動画。**
室内が先ほどより静かになった。
ホテル。
自宅。
飲食店。
車内。
今はどこにいても、スマートフォン一台あれば簡単に写真や動画を残せる。
「皆さんが撮っていなくても、相手が撮っている可能性はあります」
「……」
「あとから『消して』と言っても、その時にはもう複製されているかもしれない」
そこで、くれはは一度話を止めた。
「ただし、だからって常に全員を疑えって話じゃないです」
人間関係をすべて恐れろ。
誰とも付き合うな。
そういう話ではない。
「大事なのは、自分が外へ出たら困る行動を、最初からしないこと」
その言葉で、室内が少し重くなった。
「これが一番強いです」
◇
後方で聞いていた八幡が、わずかに目を細めた。
万条の記事。
仮に、一色いろはと由比ヶ浜結衣が意図的に情報を週刊誌へ渡したのだとしても。
既婚者だった万条自身が、その場所へ行った。
その事実まで消えるわけではない。
くれはも同じだった。
「相手が悪かった。騙された。狙われた。もちろん、そういうことはあります」
選手たちを見渡す。
「でも、自分で避けられる部分まで全部相手のせいにはできません」
誰も異論を挟まなかった。
◇
「じゃあ」
そこで佐久間が手を上げた。
「実際、ちょっと怪しいなと思った時はどうすればいい?」
37歳のベテラン。
その聞き方も落ち着いていた。
「一人で処理しない」
くれははすぐに答えた。
「これ、大事です」
「広報に相談?」
「広報でもいいです。監督でも、GMでも、チームスタッフでもいい。場合によっては代理人でもいいです。とにかく誰かに共有してください」
佐久間が頷く。
「黙って自分だけで何とかしようとする方が危ないってことか」
「そうです」
くれはも頷いた。
「特に、『写真を持っている』『記事にする』『家族へ言う』『クラブへ言う』。そういう言葉が相手から出てきた時」
一度、選手たちの顔を見る。
「絶対に一人で交渉しないでください」
それまで少し軽い雰囲気で聞いていた選手たちの表情も、さらに真剣になった。
◇
「あと、SNS」
次のスライドへ移る。
くれはは今度、前方に座っている若手たちへ目を向けた。
「これは若手。特に聞いて」
「はい」
橋本。
黒崎。
村上。
若い選手たちの姿勢が、わずかに良くなる。
「知らないアカウントからDM。美女のアイコン。共通の知人がいるように見える。選手を知っていると言ってくる。これだけで信用しない」
「はい」
「あと」
くれはが少し眉を上げた。
「鍵アカなら何を書いてもいいと思わない」
「あー……」
どこかから声が漏れた。
くれはの視線が動く。
「今、声出した人」
「いや、誰だろうな」
「川崎」
「俺!?」
室内に笑いが広がる。
「スクリーンショットされたら終わりです」
「はい」
「消しても残る」
「はい」
「酔って書くな」
「はい」
「腹立って書くな」
「はい」
「試合後すぐ書くな」
「それは何で?」
「負けた直後、人間だいたい冷静じゃないから」
「ああ……」
今度は川崎も素直に納得した。
◇
「金銭関係も同じです」
くれはは話を進めていく。
「知人から『簡単に増える』『選手だけに教える』『有名人もやっている』『絶対儲かる』。こういう言葉が出たら、一回止まってください」
「……俺ら」
材木座が口を開く。
「結構狙われやすい?」
「狙われやすいです」
即答だった。
「収入が一般に想像されやすい。若いうちからある程度まとまったお金を持つ。そして、サッカーしかやってこなかった選手も多い」
「……」
何人かが黙った。
「だから、恥ずかしがらずに専門家へ聞く。知らないなら知らないと言う。分からないものへお金を出さない。それでいいです」
◇
「酒は?」
今度は中田が聞いた。
「飲むなってこと?」
「違います」
くれはは首を振る。
「飲酒そのものを全部禁止する話じゃない。ただ、酔った時の自分を過信しないこと」
「……耳痛い奴いるだろ」
佐久間が周囲を見る。
「何で俺ら見るんすか」
川崎が抗議した。
「お前、自覚あるのか」
「ないです!」
また少し笑いが起こる。
それでも、くれはの説明は続いた。
「酔っている時に知らない人と移動しない。重要な話をしない。SNSを触らない。契約の話をしない。クラブ内部の情報を喋らない」
そして。
「写真を撮らせない、というより――撮られて困る状態にならない」
その考え方が一番重要だった。
◇
最後。
スクリーンに大きな文字が表示された。
**困った時は、クラブに言う。**
「これで終わりです」
「え、シンプル」
川崎が言う。
「シンプルでいいの」
くれははすぐに返した。
「自分一人で完璧に見抜けなんて無理です」
一色いろは。
由比ヶ浜結衣。
二人はスポーツ界で名前を知られている。
しかし、顔は知られていない。
もし同じような人間が目の前に現れたとしても、一目で見抜ける保証などない。
「だから、怪しいと思った時に誰かへ言える環境を作っておく。これが一番大事です」
◇
その後も質問は続いた。
「昔の知り合いから急に連絡来た場合は?」
「内容次第。でも、お金や仕事が絡むなら慎重に」
「写真送ってって言われたら?」
「送って問題ないもの以外は送らない」
「知り合いの知り合いなら?」
「それだけでは信用材料にならない」
「飲み会に誘われた時は?」
「行くこと自体より、誰がいるか分からない状態で行く方が危ない」
どれも現実的で、単純な話だった。
そして、その多くが当たり前のことでもある。
だが。
その当たり前を、もう一度全員で確認する。
そのための研修だった。
◇
一時間ほどが経過したところで、くれはが資料を閉じた。
「プロ選手は、サッカーが上手ければ、それだけで人生全部を守ってもらえる仕事じゃありません」
選手たちは静かに聞いている。
「クラブも守ります。スタッフも守ります。広報も守ります」
そこで一度言葉を切った。
「でも、最初に自分の行動を決めるのは、皆さん自身です」
スクリーンには、最初と同じ言葉が表示されていた。
**自分の身は、自分で守る。**
「これだけ覚えて帰ってください」
◇
研修終了。
緊張から解放された川崎が、椅子へ深く背中を預けた。
「疲れたー」
「練習より疲れてないだろ」
佐久間が呆れたように言う。
「頭使いました」
「普段から使え」
「ひどくないですか?」
周囲から笑いが起きた。
その横では、橋本が配られた資料をまだ見ている。
「でも」
坂本が声をかけた。
「ん?」
「普通に怖いですね」
「ああ」
「知らない人が近づいてきても、何目的か分かんないし」
「だから全部疑うんじゃなくて」
戸塚が横から口を挟んだ。
「変だと思ったら相談しろってことだろ」
「そうですね」
橋本も頷いた。
◇
少し離れた場所。
八幡は手元の資料を眺めていた。
その横では、研修を終えたくれはが片付けを始めている。
「急にすみませんでした」
八幡が言った。
「何が?」
「今日の研修」
「ああ」
くれはは特に気にした様子もなく答えた。
「むしろ今やるべきでしょ」
「まあ」
「他所でああいうことが起きた時が、一番みんな真剣に聞くから」
「……確かに」
八幡も少しだけ納得する。
「でも」
くれはが続けた。
「万条選手の件だけじゃないよ」
「はい」
「これからもっと上に行けば」
現在のエストレヤ千葉。
勝ち点60。
優勝争いの真っただ中。
シーズン序盤、最下位に沈んでいた頃とは違う。
注目度は明らかに上がっている。
「注目されるって、良いことだけじゃないから」
「……」
「取材も増える。連絡してくる人も増える。昔の知り合いが急に増えることだってある」
八幡が少し嫌そうな顔をした。
「嫌ですね」
「広報部長の前で言う?」
「注目されるの苦手なんで」
「知ってる」
くれはが笑った。
「だから」
天童くれは。
39歳。
2月13日生まれ。
エストレヤ千葉広報部長。
クラブの外側と、選手やスタッフたちの間に立つ人間。
「何かあったら、勝手に一人で解決しようとしないで」
「俺も?」
「当たり前でしょ」
「選手じゃないですけど」
「クラブの人間でしょ」
「……」
「しかも比企谷君、そういうの一人で抱えそうだし」
「偏見じゃないですか」
「経験則」
「何の経験ですか」
「広報の」
「万能ですね、広報」
「そういうことにしといて」
八幡は小さく息を吐いた。
◇
ミーティングルームから、選手たちが一人、また一人と出ていく。
万条富隆のスキャンダル。
本来なら、エストレヤ千葉にとっては他クラブの出来事にすぎない。
だが。
千葉はそれを、ただのゴシップとして消費するだけでは終わらせなかった。
プロサッカー選手。
人から注目される仕事。
有名になれば、良い人間だけが近づいてくるわけではない。
狙われることもある。
騙されることもある。
利用されることもある。
そして時には。
本人自身の軽率な行動によって、それまで積み上げてきたものを失うこともある。
だから。
クラブが守る。
仲間が守る。
スタッフが守る。
だが、それだけでは足りない。
最初に自分自身が危険から距離を取る。
少しでもおかしいと思えば、一人で抱え込まず誰かへ相談する。
それが自分のキャリアを守り。
家族を守り。
そしてクラブを守ることにもつながっていく。
**自分の身は、自分で守る。**
その日。
エストレヤ千葉では、残り5試合の優勝争いとはまったく別の。
それでもプロとして生きていくためには欠かすことのできない、一つの研修が行われていた。