第388話 お前だから任せる
第388話 お前だから任せる
午後。
戦術練習が始まる少し前。
エストレヤ千葉トレーニングセンターの分析室には、仙台アステルFCの試合映像が映し出されていた。
扉が軽くノックされる。
「失礼します」
入ってきたのは、背番号25。
小林庄雅だった。
「呼びました?」
「ああ。座ってくれ」
マルコに促され、小林は空いている椅子へ腰を下ろした。
室内にいるのは、マルコ、中村、八幡。
普段の分析会と比べれば、明らかに人数が少ない。
小林は大型モニターを一度見てから、八幡へ視線を移した。
「仙台?」
「はい。第33節です」
「それは分かってるけど」
小林は少しだけ眉を上げる。
「俺だけ呼んだってことは――アンカーの話?」
「話が早くて助かります」
「九月から散々やってるからな」
もう。
小林にとってDMFは、突然押しつけられる未知のポジションではなかった。
◇
きっかけは、数か月前の紅白戦だった。
普段とは違うポジションを試す中で、たまたま小林が中盤の底へ入った。
そこで見つかった。
誰も予想していなかった適性。
パスコースを読む。
危険な場所へ先回りする。
そして、相手がボールを蹴るより一瞬早く動く。
その紅白戦をきっかけに、九月から小林は継続的にDMFとして練習してきた。
戸塚。
エミリオ。
笹森。
組む相手も何度も変えた。
最初は、FWとして長年染みついてきた感覚が邪魔をした。
必要以上に前へ出る。
ボールを追いすぎる。
インターセプトを狙いすぎて、自分の背後を空ける。
それでも。
二か月以上。
何度も繰り返した。
立つ位置。
身体の向き。
最初にどこを見るのか。
いつ奪いに出るのか。
逆に。
いつ出てはいけないのか。
小林は少しずつ覚えてきた。
だからこそ。
今。
この部屋でアンカーの話をされても、驚きはしなかった。
ただ。
「で」
小林が言う。
「今回は、練習じゃないんだろ?」
「はい」
八幡は即答した。
「仙台戦。アンカーで使いたいです」
小林の目が止まる。
「……スタメン?」
「そのつもりだ」
マルコが答えた。
その瞬間。
小林の表情が、ほんの少しだけ変わった。
◇
第33節。
リーグ戦残り2試合。
北海道フェニックスFCと勝ち点69で並んでいる。
得失点差によって千葉は2位。
優勝争いの真っただ中。
一度でも勝ち点を落とせば。
それだけで、優勝から大きく遠ざかる可能性がある。
そんな試合。
そのスターティングメンバー。
しかも。
FWではない。
アンカー。
「……マジか」
「マジだ」
マルコの声は落ち着いていた。
「遊びじゃない」
「試すためでもない」
そして。
はっきり言う。
「仙台に勝つために、お前を使う」
小林は、しばらく何も答えなかった。
◇
昔なら。
スタメンという言葉は、特別なものではなかった。
高校選手権得点王。
プロ一年目から活躍。
年代別日本代表。
オリンピック。
エストレヤ千葉のエース。
次の日本代表の9番。
誰もが。
そんな未来を思い描いていた。
本人だって。
疑っていなかった。
しかし。
一つの怪我が。
その未来を変えた。
「……俺が」
小林はわずかに笑った。
「優勝争いの試合で、アンカーか」
「はい」
「不思議だな」
「そうですか?」
「昔の俺に言っても絶対信じないだろ」
八幡は即答した。
「それはそうでしょうね」
「即答するなよ」
中村が小さく笑った。
◇
八幡はリモコンを操作した。
「まず、これ見てください」
仙台のセンターバックがボールを持っている。
横へ。
一度戻す。
相手の前線がスライドする。
そこで。
中央。
ボランチへ縦パスが入った。
「仙台は最近、ここを出口にしています」
「中央?」
「はい」
別の場面。
また縦。
さらに別の試合。
そこでも中盤へ差し込む。
「前から追われた時、一度中央へ入れて、そこから逃げる」
小林は黙って映像を見ていた。
数秒して。
「……出したくなるな」
八幡がすぐに反応する。
「どこがです?」
「ここ」
小林がモニターを指した。
「受ける側が一回、相手の背中に隠れてる」
八幡は頷く。
「はい」
「そこから外れる。出し手からしたら急に見えるんだよ」
「だから?」
「出したくなる」
八幡が次の映像を止めた。
「じゃあ、これは?」
小林は数秒だけ見た。
「左のボランチ」
「はい」
「一回下がってる。相手の前線がついてこなかった」
小林は指を動かす。
「ここ、入る」
映像を再生する。
直後。
本当にそこへパスが入った。
中村が思わず小林を見る。
「……やっぱ分かるんだな」
小林は画面から目を離さない。
「FWやってたから」
そして。
静かに続ける。
「こういう場所、欲しいんですよ」
◇
八幡が頷いた。
「だからです」
「だから?」
「小林さんを使います」
小林が八幡を見る。
「俺が欲しかった場所」
「はい」
「相手も欲しい」
「そうです」
「そこを先に取れって?」
「はい」
八幡はホワイトボードの前へ移動した。
仙台の配置。
千葉の配置。
中央。
一番後ろ。
アンカー。
そこへ。
**小林庄雅。**
「全部のパスコースを消しません」
八幡が言う。
「一つ残します」
小林がすぐ理解する。
「俺が狙うところ」
「そうです」
その前には。
戸塚。
エミリオ。
さらに両サイド。
「周囲で仙台の選択肢を減らす」
「完全には閉じない?」
「はい」
八幡は中央に一本だけ線を残した。
「ここだけ、空いているように見せる」
小林が少し笑う。
「でも俺は最初からそこ狙ってる」
「はい」
「出た瞬間に前へ出る」
「それだけです」
◇
「……面白いな」
小林が笑った。
「ですよね」
「お前」
小林は八幡を見る。
「俺を使うために考えた?」
「違います」
「即答かよ」
「仙台を見て、一番嫌な方法を考えました」
そして。
一拍。
「それで、小林さんの能力が一番ハマった」
小林の笑みが少しだけ消えた。
代わりに。
真剣な表情になる。
「つまり」
「はい」
「昔エースだったからじゃない」
「はい」
「可哀想だからでもない」
「それで優勝争いの試合に出すほど、このクラブ余裕ないです」
「……そりゃそうだ」
「今の小林さんが」
八幡は言う。
「仙台戦に必要だからです」
◇
しばらく。
小林は黙っていた。
やがて。
「それ」
小さく息を吐く。
「嬉しいな」
マルコも頷いた。
「同情はしない」
小林がマルコを見る。
「過去の実績でも選ばない」
一拍置く。
「今、勝つために庄雅が必要だ」
「……はい」
その返事だけは。
少しだけ重かった。
◇
「ただし」
八幡が続けた。
「注意点あります」
「やっぱあるか」
「あります」
「まず、奪いに行きすぎない」
「九月から何回も言われた」
「なら大丈夫ですね」
「たぶん」
「たぶんは困ります」
インターセプト。
小林の最大の武器。
だが。
一本取れる。
すると。
次も取れるような気がしてくる。
もう一歩前へ。
さらに。
もう一歩。
そこで外された瞬間。
アンカーの背後。
そこから先は。
最終ライン。
一気に危険になる。
「全部取らなくていいです」
「分かってる」
「取れなければ?」
「受け手を前向かせない」
「はい」
「戸塚かエミリオが来るまで遅らせる」
「それでいいです」
◇
「それと」
八幡は一度。
小林の顔を見る。
「取った後、無理に大きく蹴らないでください」
その言葉で。
小林の表情が。
ほんの一瞬。
固まった。
「……ああ」
八幡は。
その変化を見逃さなかった。
◇
小林庄雅は。
ロングパスが下手なわけではない。
昔から長いボールを蹴れなかったわけでもない。
左足。
本来なら。
誰よりも強く。
鋭く。
正確に振れる足だった。
かつて。
ゴールへ向かって何度もシュートを叩き込んだ。
その左足。
だが。
今。
強く振ろうとすると。
あの日が戻ってくる。
◇
後ろ。
迫る気配。
自分はボールへ踏み込む。
左足。
地面を捉える。
次の瞬間。
激しい衝撃。
脚が捻れる。
身体が崩れる。
痛み。
そして。
あの時、耳に残った音。
倒れたまま。
動けない。
そこから始まった。
長い。
長い。
リハビリ。
◇
左足を強く振ろうとする瞬間。
身体が固まる。
小林自身が止めようとしているわけではない。
頭では。
蹴れると分かっている。
医師からも。
身体に問題はないと言われている。
筋力だって戻った。
走れる。
ボールも蹴れる。
それでも。
身体だけが。
あの瞬間を忘れていなかった。
シュート。
左足で振り抜こうとする。
その瞬間。
硬直。
振れない。
ほんの一瞬。
だが。
プロの世界では。
その一瞬で十分だった。
シュートコースが消える。
相手DFが寄せる。
だから。
右足へ持ち替える。
あるいは。
パスを選ぶ。
ロングパスも同じだった。
助走。
踏み込み。
強く蹴ろうとする。
その瞬間。
一瞬だけ。
身体から力が抜ける。
足首を固定できない。
軸がずれる。
インパクトが狂う。
浮く。
弱くなる。
曲がる。
伸びない。
狙ったところへ。
飛ばない。
技術の問題ではない。
身体能力でもない。
あの怪我の記憶によって。
身体が勝手に反応する。
**イップス。**
◇
「昔みたいに」
小林が静かに言った。
「強く蹴ろうとすると、止まるんだよ」
中村も。
マルコも。
何も挟まない。
小林は自分の左太腿へ手を置いた。
「頭じゃ、蹴れって思ってる」
「でも」
少しだけ指に力が入る。
「ここから下が、一瞬だけ俺の足じゃなくなる感じがする」
八幡が聞く。
「シュートも?」
「ああ」
小林は目を伏せた。
「左で思い切り振ろうとすると」
一拍。
「タックルされた時を思い出す」
打てる。
左足。
コースもある。
それでも。
身体が止まる。
その一瞬で。
全部消える。
「ロングボールも同じですか」
「ああ」
「強く振るってなると?」
「来る」
小林は自分の左足を見た。
「あの時の感覚が」
◇
しかし。
すべてのキックで症状が出るわけではない。
短いパス。
強く振り抜く必要がないキック。
ワンタッチ。
ツータッチ。
数メートル。
十数メートル。
そこでは。
ほとんど問題が出ない。
「ショートパスは普通にできる」
「はい」
八幡が頷く。
「だから、そこだけ使います」
小林が顔を上げた。
「取る」
「はい」
「近くへ渡す」
「はい」
戸塚。
エミリオ。
ダニエル。
「これならできますよね」
「ああ」
「ロングパスは?」
小林は少し考えてから答えた。
「……やらない」
「シュートは?」
そこで。
少し笑う。
「アンカーから、そんな前まで行かねえよ」
「その通りです」
◇
それは。
今回。
小林をアンカーで使える理由の一つでもあった。
FWならば。
どうしても求められる。
シュート。
裏への全力疾走。
相手CBとの接触。
そして。
左足を強く振り抜く場面。
小林のイップスを、正面から刺激するプレーが多くなる。
だが。
今回のアンカー。
求めるものは。
まったく違う。
読む。
立つ。
パスを切る。
そして。
短く繋ぐ。
八幡は言った。
「昔できたこと、無理にやらなくていいです」
小林が八幡を見る。
「……」
「今できることで勝てばいい」
◇
「比企谷」
「はい」
「それ」
小林が少しだけ目を細める。
「慰め?」
「違います」
「だよな」
「慰めで、北海道と勝ち点並んでる状態のスタメンなんて任せません」
小林が笑った。
「本当、そういう言い方するよな」
「事実なんで」
◇
そこで。
マルコが静かに口を開いた。
「庄雅」
「はい」
「怪我をする前に戻る必要はない」
小林の視線がマルコへ向く。
「……」
「昔のお前を取り戻すために、アンカーをやらせているわけじゃない」
マルコは淡々と。
それでも。
はっきり言った。
「今のお前が持っているものを使いたい」
一拍。
「それだけだ」
小林は。
少し俯いた。
◇
怪我から。
もう何年も経った。
身体は治った。
検査でも問題はない。
走れる。
蹴れる。
サッカーもできる。
それでも。
左足を強く振ろうとすると。
あの日だけが戻ってくる。
何度。
悔しかったか。
何度。
昔の自分の映像を見たか。
何度。
もう一度。
あの左足で。
あのシュートを。
そう思ったか。
それでも。
できなかった。
「……戻れなくても」
小林が小さく呟いた。
「はい?」
八幡が聞く。
「いや」
小林は顔を上げた。
「昔の俺に戻れなくても」
少しだけ間を置く。
「まだ、サッカーできるんだな」
誰も。
すぐには答えなかった。
そして。
マルコが。
短く言った。
「当たり前だ」
◇
小林が笑った。
「分かりました」
立ち上がる。
「やります」
「仙台戦」
一度。
自分で確認するように言う。
「アンカー」
「はい」
八幡が答えた。
「出てくるパス、刈ればいいんだろ?」
「そうです」
「全部?」
「全部狙うなって」
「冗談だよ」
少しだけ。
室内の空気が緩んだ。
◇
だが。
小林の目は。
すでに試合へ向いていた。
「一つ聞いていい?」
「何です?」
「俺が取った後、近くに誰もいなかったら?」
八幡は即答する。
「それが起きない配置にします」
「徹底してんな」
「小林さんにロングパス蹴らせる必要ないんで」
「助かる」
その言葉だけは。
冗談ではなかった。
◇
小林が扉へ向かう。
「じゃあ、練習行ってきます」
「はい」
扉へ手を伸ばす。
だが。
そこで一度止まった。
「比企谷」
「はい」
「ありがとな」
「何がです?」
小林は少しだけ迷った。
「……左足でシュート打てなくても」
そして。
「必要だって言ってくれたから」
八幡は小林を見る。
「俺、そんなこと言ってませんよ」
「は?」
「仙台戦でパスカットが必要だって言っただけです」
「……お前なあ」
中村が笑った。
「素直に受け取れよ」
「事実なんで」
小林も。
呆れながら笑う。
「まあいいや」
「行ってくる」
◇
扉が閉まった。
廊下。
小林は一人で歩く。
頭の中へ。
また。
あの日の映像が浮かぶ。
左足で踏み込んだ瞬間。
後ろから削られた。
激しい衝撃。
痛み。
その記憶は。
まだ消えていない。
ロングパス。
シュート。
強く振ろうとすれば。
身体が一瞬固まる。
それは。
今も治っていない。
この先。
いつか消えるのか。
それすら。
小林には分からない。
◇
それでも。
九月から。
中盤の底に立った。
相手のパスを読んだ。
危険な場所へ先回りした。
そこで。
左足を思い切り振り抜く必要はなかった。
ゴールを決める必要もない。
誰かと激しくぶつかり続ける必要もない。
それでも。
チームを助けることができた。
「……アンカーか」
小林は。
一人。
小さく笑った。
昔。
日本最高のストライカーになる。
そう言われていた。
今。
求められているものは。
ゴールではない。
相手が出す。
一本のパス。
そこへ。
先に入り。
刈り取ること。
◇
第33節。
仙台アステルFC。
優勝争い。
残り2試合。
エストレヤ千葉が用意する新しい一手。
**背番号25。**
**小林庄雅。**
FWとして失ったものは。
確かにある。
強く振り抜く左足。
かつてのシュート。
ロングキック。
怪我の瞬間を呼び起こすイップスは。
まだ。
消えていない。
だが。
残っているものもある。
長年。
ストライカーとして生きてきたからこそ身についた。
危険な場所を嗅ぎ取る感覚。
どこでパスが欲しくなるのかを読む力。
ボールが出るより。
一歩早く。
そこへ入る能力。
ならば。
それを使えばいい。
昔の自分へ。
無理に戻る必要はない。
今の自分で。
別の場所へ進めばいい。
背番号25。
小林庄雅。
次の試合。
彼が立つのは。
ゴール前ではなく。
**中盤の底。**
仙台の攻撃を。
狙って。
刈り取るための。
アンカーだった。