第389話 仙台の10番
第389話 仙台の10番
扉が閉まり、小林庄雅の姿が分析室から消えた。
しばらくの間、室内には誰も言葉を発しない時間が流れた。
第33節・仙台アステルFC戦。
北海道フェニックスFCと勝ち点69で並び、優勝争いが最終局面へ突入した中で、千葉は背番号25をアンカーとして先発させる。
数か月前の紅白戦で偶然見つかった適性を、九月から時間をかけて育ててきた。それをついに、公式戦、それも残り二試合という大一番で本格的に使う。
小林にとっても、チームにとっても、大きな意味を持つ一試合になる。
その余韻が残る分析室で、やがてマルコが口を開いた。
「……さて」
全員の視線が監督へ向く。
「庄雅の話はここまでだ。次は仙台の個人を見る」
「はい」
八幡はリモコンを手に取った。
大型モニターの映像が切り替わった。
◇
映し出されたのは、青紫と黒のユニフォームを身にまとった仙台の選手たち。
その右サイドで、一人の男がボールを持っていた。
左腕にはキャプテンマーク。
「まず、一番警戒するならこの選手です」
八幡が映像を止める。
画面の脇へ選手プロフィールが表示された。
**背番号10 安西清勝。**
6月16日生まれ。
30歳。
右利き。
ポジションはRSH、OMF、LSH。
その中でも主戦場は右サイドだった。
「仙台のキャプテン。そして、クラブの顔です」
安西清勝。
高校卒業後、そのまま仙台アステルFCへ加入した。
それ以来、一度もクラブを離れていない。
完全移籍もなければ、期限付き移籍もない。
高校を卒業してから今日まで、ずっと仙台。
「バンディエラか」
中村が言った。
「はい」
「高校卒業してからずっと?」
「ずっとです」
「長いな」
八幡も資料へ目を落とす。
「仙台サポーターからしたら、完全に象徴でしょうね」
クラブが苦しかった時期も。
上位へ迫った時期も。
監督が変わっても。
フォーメーションが変わっても。
安西は仙台にいた。
若手だった男は、いつしか30歳になり。
背番号10を背負い。
キャプテンマークを巻くようになった。
「第16節も出てたな」
山本が言う。
「はい」
八幡が再び映像を切り替えた。
◇
画面に表示されたのは前回対戦。
第16節。
**エストレヤ千葉 7-0 仙台アステルFC。**
仙台が千葉に徹底的に崩された、今シーズン最大の大敗。
そのピッチにも。
安西清勝はいた。
「この試合」
中村が映像を眺めながら言う。
「安西も、ほとんど何もできてなかった印象だけど」
「チーム全体としてはそうです」
八幡が答える。
「でも、個人で見ると少し違います」
映像を進める。
前半。
仙台の右サイド。
安西がボールを受けた。
そこへ森川が寄せる。
さらに戸塚も加わった。
二対一。
普通なら、早くボールを離すか、そのまま奪われてもおかしくない場面。
それでも。
安西は慌てなかった。
身体を入れ、ボールを相手から遠い位置へ置く。
一度背中を向けて二人の圧力を受け止める。
そして。
奪われない。
時間を作り。
相手の動きを見て。
再び前を向いた。
八幡がそこで映像を止めた。
「ここです」
全員が画面を見る。
「二人来ても、簡単には失ってません」
中村も小さく頷いた。
「確かに」
◇
安西清勝の最大の武器の一つ。
それが。
**キープ力。**
派手なドリブルで一人、二人と抜き去っていく選手ではない。
だが。
とにかく取られない。
身体の入れ方。
ボールを置く位置。
相手との距離。
その調整が上手い。
背中を向けてボールを守っても、そこでプレーが終わるわけではない。
相手を一度止め。
味方が動く時間を作り。
そして、もう一度前を向く。
「ボールを持った時、かなりしぶといです」
八幡が説明する。
「一発で奪おうとすると――」
別の場面。
相手が勢いよく安西へ飛び込む。
その瞬間。
安西はボールを少し引いた。
相手の重心だけが前へ出る。
そこを横から抜けていった。
「逆に外されます」
田島が聞く。
「ファウルも貰えるタイプか?」
「上手いですね」
ボールを身体で隠す。
相手が苛立って足を出せば。
そこで接触を受ける。
そのまま倒れれば。
ファウル。
仙台にとって、安西へボールを預けること自体が、一つの逃げ道になっていた。
◇
今度は最近の試合。
自陣右サイドで安西がボールを受ける。
前方へ味方へパスを出す。
そこで終わらない。
自分も走る。
再び受ける。
さらに前へ。
高い位置まで進み。
クロス。
相手DFに弾かれ。
攻撃はいったん終わった。
数秒後。
相手のカウンター。
すると。
安西はすでに自陣へ向かって走っていた。
守備位置まで戻る。
仙台がボールを奪い返せば。
再び右サイドを上がっていく。
「もう一つ」
八幡が言う。
「運動量」
中村が少し感心したように画面を見る。
「30歳なのにな」
「かなり走ります」
「九十分?」
「大きくは落ちません」
一度上がる。
戻る。
また上がる。
二度。
三度。
終盤に入っても。
安西は同じ動きを繰り返す。
マルコが映像を見ながら言った。
「だから仙台の右は、安西一人でもかなり動きを作れる」
「はい」
八幡が別の映像を再生した。
「しかも、サイドに張るだけじゃありません」
右サイドにいた安西が、中央へ入ってくる。
次の場面。
今度は左サイドまで顔を出していた。
「中にも入るし、試合中に逆サイドまで行くこともあります」
山本が言う。
「主戦場はRSHだけど、トップ下も左もできる」
「だから立ち位置が変わっても困らない」
「そういうことです」
◇
RSH。
OMF。
LSH。
右が中心ではあるが、中央でも左でもプレーできる。
そして。
仙台の背番号10。
キャプテン。
クラブ一筋。
八幡は資料を開いた。
「仙台の攻撃で、安西がボールへ触る回数はかなり多いです」
中村が聞く。
「困ったら預ける?」
「それもあります」
安西なら簡単に失わない。
時間を作れる。
その間に味方が前へ出られる。
ボールを失いたくない時。
少し攻撃を落ち着かせたい時。
仙台は自然と右の10番を使う。
「仙台にとって、攻撃の中心であると同時に逃げ道でもあります」
◇
「なら」
中村が言った。
「潰す?」
八幡が横目で中村を見る。
「簡単に言いますね」
「警戒選手なんだろ?」
「だから、簡単には潰せないって話です」
「それもそうか」
再び映像。
安西が相手を背負っている。
そこへ強く寄せる。
すると。
安西は一度ボールを引く。
相手の重心が前へ動いた瞬間。
横へ抜ける。
「飛び込まない」
八幡が言った。
「まず、それです」
マルコも頷く。
「遅らせる」
「はい」
「安西一人に時間を使わせる」
「そうです」
キープ力が高い。
なら。
無理に奪わなくていい。
前を切る。
中央を切る。
後ろへ戻させる。
時間を使わせる。
簡単に前進させなければ。
それで十分だった。
◇
「ただ」
八幡が言う。
「弱点もあります」
映像が切り替わる。
仙台の攻撃。
右の高い位置。
安西がボールを失った。
相手がすぐにカウンターへ移る。
安西も急いで戻ってくる。
走っている。
サボってはいない。
だが。
ポジショニングが少し遅れた。
相手の左サイドバックが外側から上がる。
安西も追っている。
しかし。
完全には捕まえ切れない。
中村がすぐに気づいた。
「守備」
「はい」
八幡が頷く。
「走らないわけじゃありません。むしろ走る。ちゃんと戻っても来る」
「でも?」
「守備そのものは――」
少しだけ間を置く。
「上手くないです」
◇
運動量はある。
守備をサボるわけでもない。
それでも。
守り方は得意ではなかった。
「距離の取り方」
八幡が続ける。
「受け渡し。相手を外へ追い込む角度。その辺が少し甘いです」
山本が映像を見る。
「走って戻ってるのに、結果的に使われることがある」
「はい」
次の場面。
安西は右SH。
相手の左SBが外からオーバーラップしてくる。
安西も一度はついていく。
だが。
同時に。
内側へ相手のSHが入ってきた。
どちらを見るか。
ほんの一瞬。
迷う。
その間。
外の左SBがフリーになる。
そこへパス。
「ここですね」
八幡が映像を止める。
「守備判断は、攻撃ほど上手くない」
中村が少し笑った。
「なら、狙い目は安西の後ろ?」
「一つは」
◇
仙台が攻撃する。
安西が右の高い位置へ出る。
さらに。
安西がボールを持つと、右サイドバックも攻撃へ参加する。
二人が前へ出る。
八幡は、その瞬間で映像を止めた。
「特に、安西がボールを持つと本人も前へ行くし、右SBも絡んできます」
つまり。
そこでボールを奪えれば。
「戻りが間に合わない」
中村が言う。
「はい」
千葉から見れば。
左サイド。
森川。
あるいは左サイドバック。
「奪った瞬間、こっちの左を使えます」
「なるほど」
◇
マルコが八幡を見る。
「それ、小林のパスカットとも繋がっているか?」
「はい」
八幡は迷わず頷いた。
仙台が安西へ入れるパス。
安西から中央へ逃がすパス。
あるいは中央から再び安西へ入れるパス。
その途中で。
小林が奪う。
「そこを取れれば」
安西はすでに攻撃へ重心をかけている。
右SBも前へ出ている。
周囲の選手も攻撃へ切り替わっている。
まだ守備準備はできていない。
そこで。
千葉は。
左へ。
一気に展開する。
相手の強み。
その裏側を使う。
◇
「ただ」
八幡が言った。
「安西だけ見すぎないでください」
中村が苦笑する。
「またか」
「警戒するけど、消しに行かない?」
「はい」
八幡は第16節の仙台を思い出すように言う。
「前回の仙台と同じことをやったら駄目です」
一人を止めるために。
二人。
三人。
集まる。
その結果。
別の場所が空く。
前回。
仙台は。
それを千葉に利用された。
ならば。
今度は千葉自身が。
同じ失敗をしてはいけない。
「こっちは、同じ失敗しない」
マルコも静かに頷いた。
◇
マルコはもう一度、画面に映る10番を見る。
「安西清勝」
「30歳」
「仙台一筋」
「背番号10」
「キャプテン」
そして。
指を二本立てる。
「キープ」
「運動量」
「この二つは特に警戒」
「はい」
「守備」
「そこは狙える」
「はい」
◇
八幡は資料を一枚めくった。
「あと」
全員の視線が集まる。
「第16節」
一度。
モニターへ目を向ける。
「7対0でしたけど」
その数字。
あまりにも大きい。
だからこそ。
勘違いしやすい。
「安西個人まで軽く見るのは危ないです」
「だな」
マルコが言った。
「チームが負けた」
そして。
「安西一人が七点取られたわけじゃない」
「そうです」
7対0。
そのスコアだけを見れば。
仙台が何もできなかったように思える。
仙台の選手が全員。
千葉に通用しなかったようにも見える。
しかし。
実際には。
戦術。
噛み合わせ。
試合展開。
そして。
あの日の千葉の完成度。
そのすべてが重なって生まれた七点だった。
そんな試合の中でも。
安西はボールを持てば。
簡単には失っていなかった。
「むしろ」
八幡は言う。
「今回は向こうのキャプテンとして、かなり気合い入ってるでしょうね」
中村が頷いた。
「前回の借り」
「返したいだろうな」
「でしょうね」
クラブ一筋。
背番号10。
キャプテン。
仙台の象徴。
その男が。
自分たちのクラブが七失点した相手を。
忘れているはずがない。
◇
マルコが席から立ち上がった。
「では、要点を整理する」
指を一本立てる。
「安西には簡単に飛び込まない」
二本目。
「前を向かせない」
三本目。
「攻撃参加した後、その背後を使う」
そして。
四本目。
少し間を置く。
「だが、安西だけに守備を集中させない」
「はい」
八幡も頷いた。
◇
映像を止める。
画面には。
第16節の安西清勝。
左腕にはキャプテンマーク。
その横。
**0-7。**
仙台にとって。
忘れようとしても忘れられない数字。
その敗戦を。
安西はピッチの上で最後まで味わった。
あれから。
数か月。
仙台は変わった。
4-4-2から4-2-3-1へ。
夏の補強。
守備の改善。
ビルドアップの整理。
そして現在。
J2、4位。
その中心にいるのが。
背番号10。
安西清勝。
◇
「小林さん」
不意に中村が言った。
八幡が見る。
「最初に狙うパス」
中村は少し笑った。
「安西絡みになるかもな」
「あり得ます」
八幡も画面を見る。
仙台は。
困った時。
10番を使う。
ならば。
その10番へ入る一本。
そこを。
小林が読めれば。
奪う。
そして。
一気に前へ。
安西は攻撃へ出ている。
仙台の右サイドも高い。
背後が空く。
八幡は静かに言った。
「一気にひっくり返せます」
マルコが頷いた。
◇
第33節。
仙台アステルFC。
最重要警戒選手。
背番号10。
**安西清勝。**
30歳。
6月16日生まれ。
右利き。
RSH。
OMF。
LSH。
主戦場は右サイド。
高校卒業後。
仙台アステルFCへ加入。
それ以来。
一度もクラブを離れていない。
バンディエラ。
キャプテン。
最大の武器は。
**高いキープ力。**
そして。
**九十分落ちにくい運動量。**
一方で。
守備判断には隙がある。
◇
前回。
7対0。
その数字だけで。
今の仙台を見てはいけない。
そして。
安西清勝という一人の選手を見てもいけない。
あの日にもいた仙台の10番。
今度は。
前回とは違う仙台を。
キャプテンとして率いてくる。
そして。
千葉も。
あの日とは違う。
中盤の底には。
かつてのストライカー。
小林庄雅。
仙台の縦パスを狙う。
新しいアンカー。
残り2試合。
北海道フェニックスFCと勝ち点69で並ぶ。
優勝するためには。
一歩も引けない。
その一戦へ向けて。
エストレヤ千葉の準備は。
チーム全体の分析から。
一人一人の特徴へ。
さらに細かく。
深く進んでいた。