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第393話 来てほしい

やはり俺のスカウト人生は間違っている。 — www.pixiv.net · All chapters

第393話 来てほしい

その日の夜。

小林庄雅が自宅へ戻った頃には、外はすっかり暗くなっていた。

玄関の扉を開ける。

「ただいま」

「おかえりー!」

返事はすぐに返ってきた。

リビングの方から、ぱたぱたと小さな足音が近づいてくる。

最初に姿を見せたのは長女。

その後ろから、少し遅れて長男も走ってきた。

「パパ!」

「おかえり!」

「おう。ただいま」

小林はその場にしゃがみ込み、二人の頭を順番に撫でた。

十一月。

春には七歳だった娘も、五月の誕生日を迎えて今は八歳。

四歳だった息子も、六月に五歳になった。

ほんの数か月。

だが。

こうして近くで見ると、二人とも少しずつ大きくなっている。

当たり前のことだった。

それなのに、シーズン中は練習と試合を繰り返しているうちに、気づけば時間ばかりが過ぎていく。

「今日は遅かったね」

リビングの方から声がした。

小林が顔を上げる。

妻。

小林天音。

旧姓、天草天音。

十月二十一日に誕生日を迎え、現在二十九歳。

小林とは、幼い頃からずっと一緒だった。

小林がサッカーを始めた頃も。

高校で全国を沸かせた頃も。

プロになった時も。

エストレヤ千葉のエースと呼ばれていた頃も。

そして。

怪我をして、以前と同じようにプレーできなくなってからも。

一番近くにいた。

「ちょっと話が長くなって」

小林は立ち上がりながら答えた。

「分析?」

「まあ、それも」

「そっか」

天音はそれ以上聞かなかった。

昔からそうだった。

小林が自分から話し始めるまでは、必要以上に踏み込まない。

何かあるのだろうと思っていても。

聞きたいことがあっても。

待つ。

それが天音だった。

◇

夕食を終えた後。

娘はダイニングテーブルで宿題をしていた。

息子はリビングの床に座り、小さなサッカーボールを両手で転がしている。

その動きを見て。

小林がすぐに声をかけた。

「家の中で蹴るなよ」

「蹴ってないよ」

「今から蹴ろうとしてただろ」

「してない」

「その顔はする顔だ」

「してないもん」

台所から、天音の笑い声が聞こえた。

「庄雅と同じこと言ってる」

「俺?」

「子どもの頃、家の中でボール蹴って怒られてたでしょ」

「……覚えてない」

「私は覚えてる」

「よくそんな昔のこと覚えてるな」

「だって何回もやってたもん」

小林は苦笑した。

幼馴染というのは、こういう時に非常に厄介だ。

自分ですら忘れている昔の失敗を。

妻だけはしっかり覚えている。

小林はソファへ腰を下ろした。

いつもと同じ家。

いつもと同じ夜。

娘が鉛筆を走らせる音。

息子がボールを転がす音。

台所で天音が食器を片づける音。

何も変わらない。

はずなのに。

小林の頭の中には、昼間に聞いた言葉がずっと残っていた。

第33節。

仙台アステルFC戦。

スタメン。

アンカー。

優勝争い。

そして。

比企谷八幡とマルコ・ベッルーニから言われた言葉。

昔のお前ではない。

今のお前が必要だ。

小林は膝の上で両手を組んだ。

しばらく迷ってから。

「天音」

「ん?」

台所から返事が来る。

「ちょっといい?」

その声が。

普段とは少し違っていたのだろう。

天音は手を止め、小林の方を見た。

「どうしたの?」

「いや……」

小林は一度。

娘と息子を見る。

そして。

なるべく何でもないことのように。

口にした。

「今度の試合」

一拍。

「みんなで来ないか?」

◇

天音の動きが止まった。

「……え?」

小林が顔を上げる。

「仙台戦」

「うん」

「来ないかと思って」

返事がない。

予想していた反応と違い、小林は少し眉を寄せた。

「予定あった?」

「違う」

天音は慌てて首を横へ振った。

「そうじゃなくて」

それから。

しばらく夫の顔を見つめた。

「庄雅から?」

「ん?」

「庄雅から、来てって言ってるの?」

「……そうだけど」

その答えを聞いた瞬間。

天音は。

本当に驚いた顔をした。

◇

怪我をする前。

小林はよく言っていた。

次の試合、来る?

今度ホームだから。

見に来いよ。

子どもがまだ小さかった頃も。

天音に当たり前のように声をかけていた。

自分が出る。

自分がゴールを決める。

自分のサッカーを。

家族に見てほしかった。

だが。

怪我をしてから。

それがなくなった。

天音たちが試合を見に行かなかったわけではない。

家族でスタジアムへ足を運んだこともある。

娘は。

父親がベンチにいれば。

そしてピッチへ出れば。

誰より大きな声で、

「パパ、頑張れ!」

と叫んだ。

息子も、それを真似していた。

それでも。

小林本人から。

見に来てほしい。

そう言われたことは。

一度もなかった。

試合へ行くと天音が伝えれば。

「無理しなくていいぞ」

「家で見ればいいだろ」

「子どもたちも疲れるし」

そんな言葉が返ってくる。

止めるわけではない。

嫌がるわけでもない。

ただ。

自分から呼ぶこともしない。

いつの間にか。

それが普通になっていた。

だからこそ。

天音は驚いていた。

◇

「……どうした?」

小林が聞いた。

「そんな変なこと言った?」

「変じゃないけど」

天音はゆっくりダイニングの椅子へ腰を下ろした。

「久しぶりだから」

「何が?」

「庄雅が、試合に来てって言うの」

その言葉で。

今度は小林が黙った。

「……そうだっけ」

「そうだよ」

天音はすぐに答えた。

「怪我してから、一回も言ってない」

「一回も?」

「一回も」

断言された。

小林は視線を落とした。

自分では。

そこまで意識していなかった。

だが。

言われてみれば。

確かにそうだった。

◇

試合へ来てほしくなかったわけではない。

応援されたくなかったわけでもない。

ただ。

怖かった。

かつて。

何も考えずに振り抜けた左足。

今は。

振り抜けない。

打つべき場面で身体が止まる。

一瞬。

迷う。

その一瞬で。

右へ持ち替える。

相手に寄せられる。

奪われる。

シュートを打てない。

やがて。

ベンチへ下がる。

そして。

少しずつ。

試合へ出る時間そのものが減っていった。

そんな自分を。

家族に。

わざわざ見せたいとは思えなかった。

天音は。

昔の自分を知っている。

誰よりも。

知っている。

左足でゴールを決めて。

歓声の中。

笑って。

スタンドへ手を振っていた頃を。

だからこそ。

余計に。

来てほしい。

そう言えなかった。

◇

「パパ、試合出るの?」

不意に娘の声がした。

小林が顔を上げる。

宿題をしていたはずの娘は、いつの間にか完全にこちらを見ていた。

息子もボールを抱えたまま父親を見る。

「たぶんな」

そう答えてから。

昼間のマルコの顔を思い出した。

そのつもりだ。

遊びでもない。

試してみるためでもない。

仙台に勝つために使う。

小林は言い直した。

「いや」

少しだけ笑う。

「出る予定だ」

「ほんと!?」

娘の表情が一気に明るくなった。

「スタメン?」

「その予定」

「やった!」

息子まで小林の前へ乗り出す。

「パパ、ゴールする?」

「いや」

「しないの?」

「しないとは言ってないけど」

小林は少し考える。

「たぶん、ゴールする仕事じゃない」

娘が首を傾げた。

「フォワードじゃないの?」

「今度は違う」

その言葉を聞いて。

天音が小林を見る。

すぐに察したらしい。

「アンカー?」

「ああ」

◇

九月から。

小林が中盤の練習をしていることは、天音も知っていた。

もちろん。

細かい戦術まで毎日説明しているわけではない。

それでも。

帰宅した夫との会話から。

少しずつ。

何をしているのかは聞いていた。

紅白戦でDMFをやったこと。

思っていたよりボールを奪えたこと。

その後も何度か中盤へ入るようになったこと。

最初は失敗ばかりだったこと。

戸塚やエミリオたちから、立ち位置を教わっていること。

そして。

最近の夫が。

以前より少しだけ。

サッカーの話をするようになったこと。

天音は。

全部。

気づいていた。

「九月からやってたところで?」

「ああ」

「本当に試合でやるんだ」

「俺も今日聞いた」

「びっくりした?」

「かなり」

「顔に出た?」

「多分」

天音が小さく笑う。

「珍しい」

「俺だって驚く時くらいある」

◇

娘がまた口を開いた。

「アンカーって何するの?」

「うーん……」

小林は困った。

八歳の娘へ説明するには、少し難しい。

しかも。

自分自身。

まだ完全に説明できるほど慣れているわけではない。

息子まで父親の前へ座り込んだ。

「ボールとる?」

「まあ、そうだな」

「ディフェンス?」

「ディフェンス……に近いけど」

「キーパー?」

「それは違う」

横で天音が笑っている。

小林は頭を掻いた。

「相手がパスするだろ?」

二人が頷く。

「そのパスが来るところを先に見つけて」

手を伸ばし。

見えないボールを横から奪うような仕草をする。

「こうやって取る」

息子の目が輝いた。

「いっぱい取る?」

「全部取りに行くと怒られる」

「なんで?」

「パパがいなくなったところ使われるから」

「じゃあ全部取っちゃダメなの?」

「そう」

娘が真剣な顔で考え込む。

「難しいね」

「難しい」

小林は笑った。

「パパも今、勉強中」

◇

「シュートは?」

娘が聞いた。

その瞬間。

ほんのわずかに。

小林の表情が止まった。

天音は。

それに気づいた。

だが。

何も言わない。

「たぶん、そんなに打たない」

「そうなの?」

「ああ」

「じゃあ点取れないじゃん」

「点取るだけがサッカーじゃないんだよ」

言った後。

小林自身が。

少しだけ驚いた。

何年も。

自分が。

一番そう思えていなかったからだ。

FW。

ストライカー。

ゴールを決める。

それが自分の仕事。

点を取れなければ価値がない。

左足で打てなければ。

昔のようにプレーできなければ。

自分はもう。

プロとして必要とされない。

ずっと。

心のどこかで。

そう思っていた。

それなのに。

今。

自分の口から自然に出た。

点を取るだけが。

サッカーではない。

天音も。

その言葉を聞いていた。

◇

「そっか」

娘は素直に頷いた。

「じゃあ、パパがボール取ったら応援すればいい?」

「いや、ずっと応援してくれ」

「分かった!」

「俺も!」

息子が勢いよく手を上げる。

「パパ、がんばれー!」

「まだ試合じゃない」

「練習!」

「家でやるな」

二人が笑った。

小林も。

つられて笑った。

◇

子どもたちが風呂へ入った後。

リビングには。

小林と天音だけが残った。

テレビはついている。

だが。

二人とも。

ほとんど画面を見ていなかった。

天音が温かい飲み物を小林の前へ置く。

「ありがとう」

「うん」

向かい側へ座る。

しばらく。

何も言わなかった。

やがて。

天音が静かに聞いた。

「どうして今回、来てほしいって思ったの?」

小林はカップへ目を落とした。

「……分かんない」

「分かんないの?」

「ああ」

本当に。

最初から明確な理由を考えていたわけではなかった。

ただ。

帰り道。

家族の顔が浮かんだ。

だから。

聞いてみようと思った。

それだけだった。

しかし。

少し考えてみると。

一つだけ。

思い当たるものがあった。

「多分」

小林は顔を上げる。

「見てほしいんだと思う」

◇

天音は何も言わなかった。

ただ。

続きを待つ。

「昔みたいに」

小林はゆっくり言葉を選んだ。

「左でシュート打つところじゃなくて」

一拍。

「今の俺」

天音の目が。

ほんの少しだけ見開かれる。

「今できること」

「それをやってるところ」

小林は照れ隠しのように苦笑した。

「見てほしいのかもしれない」

◇

怪我をする前の小林庄雅。

高校選手権得点王。

クラブのエース。

年代別代表。

オリンピック。

日本代表候補。

左足。

ゴール。

歓声。

天音は。

その姿を全部知っている。

だが。

今度。

家族へ見せようとしているのは。

それではない。

ゴール前に立つ小林ではない。

中盤の底。

相手のパスを読む。

危険な場所を先回りする。

奪う。

そして。

近くの味方へ繋ぐ。

誰より強く左足を振り抜く必要はない。

昔の自分へ戻る必要もない。

今。

できること。

今。

必要とされていること。

それを。

見てほしい。

◇

「今日」

小林は続ける。

「比企谷と監督に言われた」

「何て?」

「昔の俺に戻すために、アンカーやらせるわけじゃないって」

天音は黙って聞いていた。

「今の俺が必要だから使うって」

小林は少しだけ笑う。

「比企谷の言い方は、もっと可愛げなかったけど」

「何て言ったの?」

「慰めで優勝争いの試合にスタメンで出すほど、クラブに余裕ないって」

天音が吹き出した。

「すごい言い方」

「だろ?」

「でも」

笑いながら。

夫を見る。

「庄雅には、そのくらいがいいのかもね」

「……そうか?」

「変に優しくされたら嫌でしょ」

「……まあ」

否定できなかった。

◇

「天音」

「ん?」

「俺さ」

小林は自分の左足へ視線を落とした。

「まだ駄目なんだ」

天音は。

何のことか。

聞き返さなかった。

分かっている。

「強く蹴ろうとすると」

小林は続けた。

「まだ止まる」

左足。

シュート。

ロングキック。

踏み込む。

その瞬間。

身体が蘇らせる。

あの日の。

衝撃。

痛み。

恐怖。

「多分、次の試合でも治ってない」

「うん」

天音はただ頷く。

「これから治るかも分からない」

「うん」

「昔みたいに戻れるかも……」

そこで。

小林の言葉が止まった。

天音は急かさない。

小林は。

ゆっくり息を吐いた。

「分からない」

◇

長い間。

それを口にすること自体が。

嫌だった。

戻れる。

戻らなければいけない。

戻る。

そう思い続けていた。

怪我をする以前の自分。

そこだけを。

唯一のゴールにしていた。

それ以外の自分を認めることは。

負けることだと思っていたのかもしれない。

だが。

今日。

初めて。

別の道を。

認められた気がした。

「でも」

小林は言った。

「今度の試合」

顔を上げる。

「俺じゃないと駄目らしい」

天音の表情が。

ゆっくり柔らかくなる。

「そっか」

「ああ」

「じゃあ」

少しだけ笑って。

「見に行かなきゃね」

◇

小林は。

その言葉に。

しばらく返事をしなかった。

やがて。

「うん」

とだけ答えた。

天音が笑う。

「娘、絶対うるさいよ」

「知ってる」

「『パパ頑張れ』って、ずっと言うよ」

「知ってる」

「息子も真似するよ」

「それも知ってる」

「恥ずかしい?」

小林は少し考えた。

試合中。

何千人。

何万人。

いくつもの声が混ざる。

一人一人の声など、普通は聞き分けられない。

それでも。

不思議なもので。

娘の声だけは。

聞こえた気がする時があった。

「……いや」

小林は答えた。

「今回は」

少しだけ。

笑う。

「聞こえた方がいいかもな」

◇

しばらくして。

風呂から出てきた子どもたちが、再びリビングへ飛び込んできた。

娘が開口一番。

「ママ! 試合行く!?」

天音が振り返る。

「行くよ」

「やった!」

息子も両手を上げる。

「パパの試合!」

「そう」

「ボールとるやつ!」

「そうだな」

「いっぱい取って!」

小林が苦笑した。

「だから全部行くと怒られるんだって」

娘が笑う。

「じゃあ、ちょうどよく取って!」

「それが一番難しいんだよ」

家の中に。

笑い声が広がった。

◇

その夜。

寝室。

天音が眠った後も。

小林はしばらく目を開けていた。

暗い天井を見る。

第33節。

仙台アステルFC。

勝ち点69。

優勝争い。

スタメン。

アンカー。

これまでなら。

プレッシャーしか感じなかったかもしれない。

試合へ出れば。

点を取らなければ。

左で打たなければ。

昔の小林庄雅を見せなければ。

そんなことばかり考えた。

今度は。

違う。

パスを読む。

先回りする。

奪う。

近くへ繋ぐ。

それでいい。

いや。

それを。

求められている。

◇

隣を見る。

眠っている天音。

怪我をした後。

一度も。

自分から。

試合へ来てほしいと言わなかった。

今日まで。

自分自身。

そのことに気づいてすらいなかった。

それくらい。

あの怪我から。

自分は。

家族にサッカーを見せることを。

どこかで避けていたのかもしれない。

だが。

次は。

違う。

「……見ててくれよ」

小さく。

誰にも聞こえない声で呟いた。

◇

かつて。

ゴールを決める自分を。

見てほしかった。

今度は。

ゴールを決めないかもしれない。

シュートすら。

一本も打たないかもしれない。

それでも。

見てほしい。

怪我をする前の。

小林庄雅ではない。

今の。

小林庄雅を。

◇

第33節。

仙台アステルFC戦。

背番号25。

小林庄雅。

中盤の底。

アンカー。

そして。

そのスタンドには。

久しぶりに。

彼自身が。

来てほしい。

そう願った。

妻。

天音。

八歳になった娘。

五歳になった息子。

三人の家族が。

彼を見に来ることになった。