第395話 仙台到着
第395話 仙台到着
朝に千葉を出発したエストレヤ千葉一行が仙台へ到着したのは、すでに午後へ入ってからだった。
途中で何度か休憩を挟んだとはいえ、何時間も同じ姿勢で座り続ける長距離移動である。身体が重くなるのは避けられなかった。
大型バスが宿泊先となるホテルの正面へゆっくりと滑り込む。
それまで眠っていた選手たちも、車体が止まった気配を感じて次々と目を覚ましていった。
「着いたー……」
後方から気の抜けた声が聞こえる。
「腰いてぇ」
「まだ何もしてないのに疲れた」
「移動だけで試合したみたいな顔してんな」
「佐久間さんも結構ひどい顔してますよ」
「俺は元からこういう顔だ」
「それ、自分で言うんですか」
車内に笑いが起こる。
長時間の移動で多少の疲労はある。それでも、チームの雰囲気が沈んでいるわけではなかった。
むしろ仙台まで来たことで、二日後の試合が確実に近づいていることを、それぞれが改めて実感し始めていた。
◇
やがてバスの扉が開いた。
外から流れ込んできた冷たい空気に、何人かの選手が思わず肩をすくめる。
上着を羽織り、荷物を手にした選手たちが次々と外へ降りていった。
「寒っ」
若手の一人が思わず声を上げる。
「千葉とちょっと違うな」
「十一月だからな」
「仙台だし」
「それ理由になってる?」
先に降りていた広報スタッフが、ホテル前で選手たちを誘導している。
その中には広報部長の天童くれはもいた。
いつもの落ち着いた表情で一人ずつ人数を確認していたくれはは、全員が降り始めたところで声をかける。
「荷物置いたら、休みじゃないからね」
その一言に、何人かの足が止まった。
「え?」
「分かってるでしょ」
くれはが呆れたように選手たちを見る。
「このあと身体動かすんでしょ?」
「ですよね……」
「なんでちょっと期待したの?」
「ホテル着いたら、一回寝れるかなって」
「寝るのは終わってから」
「はい……」
そのやり取りを聞きながら、小林庄雅もバスを降りた。
仙台。
二日後。
この街で、自分は試合をする。
そう考えるだけで、朝に千葉を出た時よりもずっと現実味が増していた。
◇
少し遅れて、首脳陣を乗せていたハイエースもホテルへ到着した。
スライドドアが開くなり、中村敏三郎が外へ降り、大きく背中を反らした。
「うわ……腰固まった」
その横を八幡が通り過ぎる。
「年ですね」
「お前も何時間か座ってただろ」
「俺はまだ大丈夫です」
「今に分かる」
「何年後の話ですか」
その後ろからマルコ・ベッルーニが降りてきた。
「二人とも、ホテル前でくだらない話をするな」
「はい」
「はい」
そこだけは妙に息が合っていた。
続いて田島、ルイス、山本、鳥山、本庄と、スタッフ陣も次々に車を降りる。
荷物をホテルへ運び込むと、一行はすぐに次の準備へ入った。
今日は戦術を詰める日ではない。
目的は一つ。
長距離移動で固まった身体を、元の状態へ戻すことだった。
◇
チェックインを済ませた選手たちは、最低限の荷物だけをそれぞれの部屋へ置いた。
ゆっくり休む時間はない。
着替えを済ませると、再びロビーへ集合する。
「全員いる?」
広報スタッフが人数を確認する。
三十人。
全員、問題なし。
確認が終わると、フィジカルコーチのルイス・マルティネスが選手たちの前へ出た。
「今日は軽く動かす。長距離移動の後だ。強度はいらない」
その横から本庄麻衣も補足する。
「股関節、ハムストリングス、ふくらはぎは特にしっかり動かしてください。張りが強い人はすぐ言ってください」
鳥山右京も続けた。
「少しでも違和感があるなら我慢しないこと。明日が最終調整だから、今日無理して悪くするのが一番駄目だ」
「はい」
選手たちの返事が揃う。
最後にマルコが前へ出た。
「今日はサッカーを上手くなる日じゃない」
その言い方に、何人かが少し笑った。
「身体を戻す日だ。終わったら食事、休養。それだけでいい」
余計な負荷はかけない。
二日後へ向け、身体を整える。
今日の目的は明確だった。
◇
ホテルからそれほど離れていない場所に、クラブが事前に確保していたグラウンドがあった。
選手たちはもう一度バスへ乗り込み、今度は数分だけ移動する。
到着すると、全員がトレーニングウェア姿でピッチへ出た。
午後の仙台。
空気は少し冷たい。
だが、身体を動かすにはむしろちょうどいい。
「まずジョグ!」
ルイスの声が響き、選手たちはピッチの外周をゆっくりと走り始めた。
一周目。
やはり足は重い。
「うわ、脚動かねえ」
「ずっと座ってたからな」
「これ試合二日前で良かったわ」
「明日着いてたらやばいな」
「だから今日入ってんだろ」
二周目に入る頃には、少しずつ身体が温まってくる。
呼吸も動きも楽になり、三周目には足取りもかなり軽くなっていた。
小林も周囲と同じく、ゆっくりとしたペースで走っている。
腰。
股関節。
太腿。
最初は確かに固かった。
それでも走るごとに、いつもの感覚が戻ってくる。
隣には戸塚彩加。
少し前にはエミリオと笹森がいる。
九月から何度も、小林が中盤で一緒にプレーしてきた選手たちだった。
「庄雅さん」
戸塚が横を向いた。
「身体どうです?」
「最初重かったけど、もう大丈夫」
「明日ですね」
「ああ」
それだけで十分だった。
明日。
仙台戦へ向けた最後の戦術確認。
そして小林にとっては、アンカーとして本番を迎える前の最後の調整になる。
◇
ジョギングが終わると、続いてストレッチへ入った。
股関節を大きく回し、腿を上げる。
ハムストリングス。
ふくらはぎ。
足首。
肩。
腰。
全身をゆっくりと丁寧に動かしていく。
本庄は一人ひとりの動きを見ながら、選手の間を歩いていた。
「橋本、右の股関節どう?」
「大丈夫です」
「左右差ある?」
「少し右が固いです」
「じゃあ無理に可動域出さなくていい。ゆっくり」
「はい」
続いて佐久間のところで足を止める。
「佐久間さん、ハム張ってません?」
「ちょっとだけ」
「ちょっとでも言ってください」
「はい」
「年齢とか関係なく」
「まだ何も言ってないだろ」
近くにいた選手たちから笑いが起こった。
◇
ストレッチの後は軽いステップへ移る。
サイドステップ。
バックステップ。
短いダッシュ。
ただし、全力ではない。
七割どころか、八割にも届かない程度。
長時間座り続けていた身体へ、走る感覚を思い出させるための動きだった。
「スピードいらない!」
ルイスが何度も声を飛ばす。
「無理に伸ばさない! 今日は身体を起こすだけ!」
それでも若い選手ほど、つい速度を上げたくなる。
毛利良一と黒崎隼吾が、並んで少しだけペースを上げた。
「お前ら!」
すぐさまルイスの声が飛ぶ。
二人は同時に速度を落とした。
「すみません!」
「明日やれ!」
「はい!」
その後ろでは鬼塚が笑っている。
「若いな」
長谷川も苦笑した。
「こういう時、一番怒られるやつ」
「俺らも昔やっただろ」
「だから分かる」
二人のベテランが顔を見合わせた。
◇
一通り身体を動かしたところで、ようやくボールが出された。
ただし、シュート練習でも戦術練習でもない。
二人一組になり、短い距離でインサイドパスを交換するだけだ。
止める。
返す。
また止める。
「強く蹴らなくていいぞ!」
スタッフから声が飛ぶ。
軽く。
丁寧に。
ボールを扱う感覚を戻していく。
小林は戸塚と組んでいた。
右足で返す。
戸塚から戻ってくる。
今度は左足。
軽くインサイドで押し出す。
ボールは問題なく戸塚の足元へ届いた。
もう一度。
左足。
短いパス。
何も起こらない。
普段通りだ。
「やっぱ短いのは大丈夫ですね」
戸塚が言う。
小林は少し笑った。
「九月から何百本やってると思ってる」
「もっとじゃないですか?」
「数えてない」
少なくとも。
左足を使うことに迷いはなくなっていた。
◇
少し離れた場所では、ダニエルとマティアス・ベニテスがスペイン語と日本語を混ぜながらボールを交換していた。
森川と塩川。
左サイドでプレーする二人。
川崎と安原。
右サイドで起用される可能性を持つ二人。
材木座は栗林と組み。
戸部は笹森とボールを回している。
若手も。
中堅も。
ベテランも。
三十人全員が同じグラウンドで軽くボールへ触れていた。
誰が先発なのか。
誰がベンチなのか。
この光景だけを外から見ても、何も分からない。
それも今回、全員を仙台まで連れてきた意味の一つだった。
◇
「鳥かご、軽くやるぞ!」
中村が声を上げる。
すぐにマルコが振り返った。
「軽くだぞ」
「分かってます」
「選手にも言え」
「はい」
数人ずつ、小さなグループへ分かれていく。
中央に守備役を置き、外側でボールを回す。
ただし、本気で奪い合うわけではない。
ボールの感覚。
身体の向き。
周囲を見ること。
足元の感触。
それらを確かめる程度だった。
――だったのだが。
サッカー選手というものは、ボールが入るとどうしても熱が入る。
「おい!」
川崎が叫んだ。
「今の取れてないだろ!」
「触った!」
「触ってない!」
「触ったって!」
しばらく言い争った末、川崎が離れた場所へ顔を向ける。
「天童さん、判定お願いします!」
くれはは一度だけこちらを見た。
「知らない」
即答だった。
「ええ!?」
再び笑いが起こる。
◇
八幡は少し離れた場所から、その光景を眺めていた。
今日は戦術を見る日ではない。
分かっている。
それでも。
自然と視線は一人の選手へ向かってしまう。
小林庄雅。
ボールを受ける前。
一度、右。
左。
後ろ。
何度も首を振る。
周囲の位置を確かめてからボールを受け、無理をせず近くへ預ける。
その一連の動作が。
すでに自然になっていた。
二か月前とは明らかに違う。
「見てるな」
いつの間にか中村が隣に立っていた。
「何がです?」
「庄雅」
「全員見てます」
「そういうことにしとくか」
八幡は返事をしなかった。
ただ。
もう一度。
小林の動きを目で追った。
◇
トレーニングは一時間も続かなかった。
最後に全員でもう一度ゆっくりとジョギングを行い、十分にストレッチをして終了する。
「今日は終わり!」
ルイスの声が響いた。
選手たちが一斉に息を吐く。
疲れた、というほどの運動量ではない。
むしろホテルへ到着した直後よりも、身体は明らかに軽くなっていた。
マルコが選手たちを集める。
三十人が円を作った。
その周囲にはスタッフも集まる。
「今日はこれで終わりだ」
誰も喋らない。
「ホテルへ戻ったら食事。ケア。そして休養」
マルコは一度、選手たち全員を見渡した。
「明日」
そこで少し声を強める。
「仙台戦の最終準備をする」
選手たちの表情が変わった。
ここまでは移動だった。
身体を整えるための時間だった。
だが。
明日からは違う。
完全に試合へ向かう時間になる。
「今日の夜、余計なことはするな」
マルコが続ける。
すると誰かが小さな声で聞いた。
「外出は?」
マルコは答えず、隣にいたくれはへ視線を向けた。
くれはが笑顔になる。
「必要ある?」
「ありません」
即答だった。
また小さな笑いが起こった。
◇
トレーニング終了。
選手たちは次々とバスへ戻っていく。
その列から少し遅れ、小林は一人だけグラウンドを振り返った。
二日後。
本番。
明日は最後の確認。
そして、その次の日。
仙台アステルFC。
ダニー・フォーレン。
安西清勝。
中央へ入ってくる縦パス。
その先に。
自分が立つ。
小林は左足で芝を軽く踏んだ。
何も起こらない。
痛くない。
怖くもない。
ただそこにある。
自分の足だった。
「庄雅さん!」
先を歩いていた戸塚が振り返る。
「置いてきますよ!」
「今行く」
小林はもう一度だけグラウンドへ視線を向けると、ゆっくりとバスへ歩き出した。
◇
朝。
千葉を出発した。
午後。
仙台へ到着した。
長時間の移動を終え。
ホテルへ入り。
そのまま近くのグラウンドへ移動して、軽く身体を動かした。
まだ激しい練習はしない。
まだ戦術も詰めない。
それでも。
エストレヤ千葉は確実に試合へ近づいている。
第33節まで。
あと二日。
そして翌日。
いよいよ。
仙台アステルFC戦へ向けた、最後の実戦調整が始まる。