第396話 非公開の二時間
第396話 非公開の二時間
翌日。
仙台。
試合前日。
エストレヤ千葉の選手たちは朝食を終えると、宿泊しているホテルを出発した。
向かうのは、この日の最終調整に使用するグラウンド。
昨日の練習は、長距離移動によって固まった身体をほぐすことが目的だった。
走る。
伸ばす。
軽くボールへ触れる。
あくまで、身体を通常の状態へ戻すための時間。
だが。
今日は違う。
第33節。
仙台アステルFC戦。
その試合へ向けた、最後の確認を行う。
予定されている練習時間は、およそ二時間。
そしてクラブから事前に発表されていた通り、報道陣が見学できるのは。
最初の十分間だけ。
それ以降は。
完全非公開だった。
◇
午前。
選手たちを乗せた大型バスがグラウンドへ到着すると、すでに入口付近には複数の報道関係者が集まっていた。
地元仙台のメディア。
千葉からチームを追ってきた記者。
サッカー専門誌。
テレビ局。
リーグ戦は残り二試合。
北海道フェニックスFCと勝ち点69で並ぶエストレヤ千葉。
優勝争いの真っただ中にいるチームなのだから、注目度が高いのは当然だった。
しかも今回は。
千葉がトップチーム登録選手三十人を全員、仙台へ連れてきている。
誰が先発するのか。
誰がベンチへ入るのか。
誰がメンバー外になるのか。
昨日のホテル入りを見ても、ほとんど何も分からなかった。
「全員来てるらしいな」
「昨日のホテル入りでも絞れなかった」
「怪我人もいないみたいだしな」
「今日の公開時間で何か分かるか?」
「十分は短いな」
そんな会話が、グラウンド脇で交わされていた。
わずか十分。
その時間の中で、少しでも情報を拾おうとしている。
◇
やがて。
選手たちがピッチへ姿を見せた。
郷田京。
玉縄幸三。
古賀悠斗。
村上渉。
まずGK陣。
その後ろからDF、MF、FWと続いていく。
小林庄雅も。
普段と何ら変わらない表情で、その列の中にいた。
ビブスは着ていない。
ポジションごとの組分けもない。
誰が誰と組むのかすら見せない。
何より。
首脳陣自身が。
この十分で何かを見せるつもりなどなかった。
「始めるぞ!」
ルイス・マルティネスの声が響く。
選手たちがゆっくりと走り始めた。
公開される最初の十分間。
行うのは。
ウォーミングアップだけだった。
◇
軽いジョギング。
動的ストレッチ。
腿上げ。
股関節。
足首。
サイドステップ。
短いステップワーク。
昨日とは違い、選手たちの身体は最初から軽かった。
長距離移動直後に見られた重さもない。
「もっと大きく!」
ルイスの声が飛ぶ。
「可動域!」
「はい!」
橋本翔が大きく脚を振る。
黒崎隼吾。
毛利良一。
若手組もそれに続いた。
少し離れた場所では、佐久間浩二が身体を捻りながら小さく息を吐く。
「昨日より全然マシだな」
横にいた森川佑が答えた。
「そりゃ昨日は何時間も座ってましたから」
「でも寒いな」
「動けばちょうどいいですよ」
何気ない会話。
普通のウォーミングアップ。
外から見れば。
それ以上でも。
それ以下でもない。
◇
報道陣の視線は自然と、一人ひとりの選手へ向けられていた。
ダニエル・ロドリゲス。
マティアス・ベニテス。
森川。
川崎。
戸塚。
エミリオ。
ここ最近の試合で中心となっている選手たち。
そして。
小林庄雅。
一人の記者が小さく首を傾げた。
「小林も普通に来てるな」
「全員いるんだから当然だろ」
「最近、DMFの練習してるって話は?」
「クラブ内ではやってるらしいけど、公式戦で使うかは分からない」
「仙台戦で?」
「さすがにこの状況でいきなりは……」
そこまで言って。
記者は再びピッチへ視線を戻した。
小林は何も特別なことをしていない。
普通に走り。
普通に身体を動かし。
普通にストレッチをしている。
それだけだった。
◇
八幡はピッチ脇から、一度だけ報道陣の方へ視線を向けた。
「めっちゃ見てますね」
隣にいた中村敏三郎が言う。
「そりゃ見ますよ」
「何か分かると思ってんのかな」
「十分で?」
「思ってるから来てるんだろ」
八幡は肩をすくめた。
「まあ、こっちは何も見せないですけど」
「性格悪いな」
「なんでですか」
「全員連れてきて、公開十分はアップだけ」
「情報戦ってそういうものでしょう」
少し前にいたマルコが振り返る。
「二人とも」
「はい」
「はい」
「時間」
八幡が時計を確認した。
公開開始から。
すでに九分を過ぎていた。
◇
天童くれはが報道陣の前へ出る。
「まもなく公開時間終了です」
その言葉を聞き。
カメラがもう一度、一斉に選手たちへ向いた。
残り一分。
何か一つでも。
情報を持ち帰ろうとする。
誰かが別メニューではないか。
特定の選手同士で話していないか。
何か特別な動きがないか。
だが。
最後まで。
千葉はウォーミングアップしか行わなかった。
そして。
十分。
「以上で、本日の公開練習は終了となります」
くれはが報道陣へ頭を下げる。
「この先は非公開です。ご協力をお願いします」
記者たちが順番に退出していく。
テレビカメラも止まる。
撮影機材が片づけられ。
グラウンド入口が閉じられる。
周囲を広報スタッフが確認。
関係者以外。
誰も残っていない。
最後の一人まで退出したことを確認すると。
くれはがマルコへ向かって頷いた。
「大丈夫です」
その瞬間。
空気が変わった。
◇
「ビブス!」
中村の声が響く。
選手たちが一斉に動き始める。
つい数秒前まで。
誰が。
どこへ入るのか。
何一つ分からなかった。
だが。
ここから。
本当の前日練習が始まる。
小林庄雅は手渡されたビブスを着ると。
迷うことなく。
中盤の底へ向かった。
もう。
誰も驚かない。
九月から二か月以上。
何度も。
そこへ立ってきた。
ただし。
明日は違う。
紅白戦ではない。
練習試合でもない。
公式戦。
しかも。
優勝争いの最終局面。
本当に。
この場所へ立つ。
◇
「まず仙台のビルドアップから!」
マルコが声を張った。
反対側のチームが。
仙台アステルFCの4-2-3-1を模した配置へ変わる。
右サイド。
安西清勝を想定した役割。
中央。
ダニー・フォーレン役。
その後ろに二枚のボランチ。
さらにCB。
両SB。
この数日。
映像の中で何度も見てきた仙台。
今度は。
それを実際のピッチ上へ再現する。
「最初は止めながらやる!」
マルコが全員を見る。
「形を確認するぞ!」
◇
ボールは仙台役のCBから始まった。
横。
もう一枚のCB。
そこから右SB。
千葉側が連動して動く。
前線から。
少しずつ。
パスコースを限定する。
完全に追い込むわけではない。
一つずつ。
相手が選べる場所を削っていく。
中盤の底。
小林は。
ボールだけを見ない。
右。
左。
背後。
もう一度。
前。
フォーレン役。
その先。
CF役。
どこへ入ろうとしているのか。
誰が。
どこを見ているのか。
「庄雅!」
エミリオの声が飛ぶ。
「左、残せ!」
小林が半歩だけ位置を変える。
戸塚は別のコースを切る。
仙台役のCBが中央を見た。
縦。
通せそうに見える。
そこには。
わざと。
わずかな隙間が残されていた。
パス。
入る。
その瞬間。
小林が前へ出た。
パシッ。
受け手より先に。
ボールへ触れる。
「よし!」
中村の声。
小林は奪ったボールを大きく蹴らない。
右足。
近くにいるエミリオへ。
エミリオから。
すぐにダニエル。
一気に。
攻守が切り替わる。
「続けろ!」
マルコが声を飛ばす。
「今の形!」
◇
もう一度。
今度は仙台役も変化を加える。
中央へ差し込むと見せて。
右。
安西役へ預けた。
安西役がボールをキープする。
千葉側は。
飛び込まない。
森川が前へのコースを切る。
小林は中央を空けない。
戸塚が後方への戻しへ寄せる。
「焦るな!」
八幡が声を出す。
「そこで取りに行かなくていいです!」
安西役は一度後ろへ戻す。
右SB。
もう一度。
中央へ。
フォーレン役。
今度は選手と選手の間。
狭いゲートへ。
鋭い縦パスが入る。
小林。
一歩。
遅れた。
届かない。
だが。
無理に脚は出さなかった。
受け手へ寄せる。
前を向かせない。
フォーレン役のトラップが。
わずかに後ろへ流れた。
そこへ。
戸塚。
奪う。
「それ!」
中村が叫ぶ。
「それでいい!」
◇
小林は小さく息を吐いた。
全部。
自分で取る必要はない。
九月から。
何度も言われ続けてきたことだった。
最初の頃なら。
今の一本も。
無理に脚を伸ばしていたかもしれない。
かわされる。
そして。
空いた背後を使われる。
だが。
今は違う。
届かないなら。
前を向かせない。
時間を作る。
その次で。
味方が奪う。
それも。
アンカーの仕事だった。
◇
練習は徐々に止める回数を減らしていった。
強度も上がる。
仙台役は。
右の安西。
中央のフォーレン。
そこを何度も使ってくる。
千葉側も。
一度上手くいったからといって。
同じ守り方だけを繰り返さない。
ある時は。
小林。
ある時は戸塚。
ある時はエミリオ。
そしてサイド。
誰が出るのか。
誰が残るのか。
その判断を一つずつ合わせていく。
「一人で奪うな!」
マルコの声が響く。
「誘導しろ!」
◇
仙台役のボランチが少し外へ開いた。
小林は中央へ残る。
そこへフォーレン役が下がってくる。
ボールを受けた。
「出るな!」
戸塚の声。
小林は。
止まる。
フォーレン役が前を向く。
だが。
次に出す場所がない。
エミリオが一つ消している。
戸塚がもう一つ。
サイドも。
森川が戻っている。
結果。
横。
「いい!」
八幡が声を上げた。
「取らなくていいです!」
奪っていない。
だが。
仙台の攻撃は。
前へ進んでいない。
それでいい。
◇
マルコが一度。
笛を吹いた。
全員が止まる。
「庄雅」
「はい」
小林が監督を見る。
「今」
一拍。
「取れなかった」
「はい」
「問題あるか?」
小林は少しだけ考える。
そして。
「ないです」
答えた。
「なぜ?」
「前を向かせてないから」
「その後は?」
「戸塚とエミリオがコースを切ってる」
「そうだ」
マルコが頷く。
「全部奪う必要はない」
そして。
周囲に立つ選手たちを見た。
戸塚。
エミリオ。
最終ライン。
サイド。
「庄雅を目立たせるための戦術じゃない」
小林も。
黙って聞く。
「チームで仙台を止める」
「はい!」
◇
次は。
千葉の攻撃。
仙台の弱点を使う確認へ移る。
フォーレン役は中央。
守備時。
積極的には追わない。
その周辺。
生まれるスペース。
「ダニエル!」
八幡の声。
ダニエルがそこへ入る。
戸塚。
下。
エミリオ。
斜め。
フォーレン役を囲むように。
三角形ができる。
ダニエル。
受ける。
前を向く。
仙台役のボランチが出る。
その背後。
ベニテス。
「そこ!」
ダニエルが縦へ通す。
ベニテスが裏へ抜ける。
シュートまでは打たない。
試合前日。
必要以上にフィニッシュまで強く行く必要はない。
だが。
狙いは。
はっきりしていた。
「フォーレン本人を抜く必要ない!」
中村が声を飛ばす。
「その周り使え!」
◇
次。
仙台役の右。
安西が高い位置を取る。
さらに右SBも外から上がっていく。
二人。
前。
そこで。
仙台役がボールを失った。
「切り替え!」
千葉が一斉に動く。
左。
森川。
仙台役の右SBが空けたスペース。
高山も後方から出る。
二人で使う。
仙台役が戻る。
だが。
遅い。
森川。
中央。
ダニエル。
そこで。
「止め!」
マルコの笛。
全員が動きを止めた。
「これだ」
ここ数日。
ホワイトボードで。
映像で。
何度も確認してきた形。
仙台の強み。
安西。
右SB。
その攻撃参加。
だからこそ。
失った瞬間。
その背後には。
場所がある。
「奪った瞬間」
マルコが言う。
「迷うな」
「左」
「はい!」
◇
練習開始から一時間ほどが過ぎた。
短い給水。
選手たちがボトルへ手を伸ばす。
昨日とは明らかに違う。
額には汗。
呼吸も少し荒い。
だが。
誰一人。
疲れ切ってはいない。
今日は。
身体を追い込む日ではない。
明日は試合。
この日の目的は。
頭の中で理解していることと。
実際の身体の動きを。
一致させることだった。
◇
小林は水を飲みながらピッチを見ていた。
そこへ。
戸塚が近づいてくる。
「庄雅さん」
「ん?」
「今のところ、かなりいいですね」
「まだ練習だろ」
「でも」
戸塚が少し笑う。
「九月の最初より、全然違います」
小林も苦笑した。
「あの頃は、全部取りに行ってたからな」
「七本取ったせいで」
「調子乗った」
「自覚あったんですね」
「今だから言える」
そこへエミリオもやってくる。
「明日も」
小林を見る。
「全部取ろうとするな」
「分かってる」
「本当に?」
「お前らまで比企谷みたいなこと言うなよ」
三人。
少しだけ笑った。
◇
短い休憩が終わる。
次は。
セットプレー。
山本恭三郎が前へ出た。
「仙台のCKから!」
まずは守備。
ニア。
中央。
ファー。
誰が。
どこへ立つのか。
誰を見るのか。
安西が蹴る場合。
フォーレンが蹴る場合。
ボールの軌道。
高さ。
セカンドボール。
一つずつ確認していく。
ゴール前。
郷田京の声が響いた。
「前!」
「もう一歩!」
「橋本、そこ!」
「坂本、後ろ見ろ!」
35歳。
キャプテン。
絶対的守護神。
試合が近づくほど。
その声は。
普段より鋭くなっていく。
◇
今度は千葉の攻撃時。
CK。
FK。
仙台がゾーンで守った場合。
マンツーマンを混ぜた場合。
山本が準備してきた形を。
一つずつ合わせる。
ただし。
何度も繰り返すことはしない。
一回。
確認。
必要なら。
もう一回。
それで終わる。
明日へ疲労を残さない。
「OK!」
山本が手を叩いた。
「これ以上やらない!」
◇
残り。
三十分ほど。
再び。
実戦形式へ移った。
今度は。
ほとんど止めない。
仙台役。
対。
千葉。
十数分。
一度止める。
配置を微調整。
そして。
もう一度。
◇
フォーレン役。
中央。
ボール。
右。
安西役。
キープ。
千葉は焦らない。
一度戻される。
仙台役のCB。
横。
そして。
再びボランチへ。
そこから。
縦。
小林が見る。
受け手が。
一歩。
外へ動いた。
パスが出る。
その瞬間。
小林も。
動く。
相手より。
一歩。
早い。
インターセプト。
そして。
左足。
短く。
戸塚へ。
症状は。
出ない。
戸塚。
ワンタッチ。
ダニエル。
ダニエルが前へ運ぶ。
左。
森川。
仙台役の右SBは。
まだ戻り切れていない。
一気に。
前へ。
「よし!」
マルコの声が飛んだ。
◇
小林はその場で。
一度だけ息を吐いた。
左足。
何も起こらなかった。
強く振る必要はない。
思い切り。
蹴る必要もない。
短く。
正確に。
それでいい。
それだけで。
攻撃は始まる。
ゴールを決めなくても。
自分の一歩から。
チームが前へ進む。
◇
さらに。
次の攻撃。
仙台役は。
今度は小林を警戒した。
中央への縦を使わない。
横。
右。
また戻す。
小林は。
追わない。
待つ。
「それでいい!」
八幡が声を飛ばした。
仙台が小林を嫌い。
中央への縦パスを使わない。
なら。
それはそれでいい。
相手の得意な出口を。
一つ。
消せている。
ボールを奪わなくても。
仕事はできる。
◇
そして。
練習開始から。
およそ二時間。
マルコが長く笛を吹いた。
ピーッ――!
全員の動きが止まる。
「終わり!」
選手たちは一斉に肩の力を抜いた。
何人かが軽く拍手をする。
水を飲む。
呼吸を整える。
試合前最後の。
本格的なトレーニング。
終了だった。
◇
全員がピッチ中央へ集まる。
マルコが選手たちを見渡した。
「今日」
少しだけ間を置く。
「やるべきことは確認した」
誰も口を挟まない。
「明日」
マルコは続ける。
「急に何か新しいことをやる必要はない」
仙台アステルFC。
4位。
15勝11分6敗。
前回対戦。
7対0。
だが。
今の仙台は。
あの時とは違う。
「相手を尊重する」
マルコが言った。
「だが」
一拍。
「恐れる必要もない」
選手たちを。
一人ずつ見る。
「俺たちも」
静かに。
しかし。
はっきりと言った。
「前回とは違う」
◇
小林。
戸塚。
エミリオ。
ダニエル。
森川。
ベニテス。
郷田。
そして。
三十人全員。
「今日はホテルへ戻って」
「食事」
「ケア」
「休め」
最後に。
「明日」
マルコの声が強くなる。
「勝ちに行く」
「はい!」
声が揃った。
◇
グラウンドの外に。
もう報道陣はいない。
公開されたのは。
最初の十分間だけ。
外から見えたのは。
ジョギング。
動的ストレッチ。
ウォーミングアップ。
それだけだった。
その後。
閉ざされたグラウンドの中で。
およそ二時間。
エストレヤ千葉は。
仙台アステルFC戦へ向けた最後の準備を終えた。
安西を。
どう止めるか。
フォーレンの縦パスを。
どう消すか。
仙台の右サイドを。
どう突くか。
中央を。
どう使うか。
セットプレー。
攻守の切り替え。
そして。
背番号25。
小林庄雅。
アンカー。
◇
外からは。
まだ。
何も分からない。
翌日。
エストレヤ千葉が。
どの十一人を並べるのか。
その答えが明らかになるのは。
試合前のスターティングメンバーが正式に発表された時。
それまでは何も見せない。
第33節仙台アステルFC戦。
キックオフまであと一日だった。