第403話 届かない司令塔
第403話 届かない司令塔
前半三十三分。
バーバリスタジアム。
仙台アステルFCの背番号33、ダニー・フォーレンは、中央で何度も立ち位置を変えながら味方へ手を上げた。
「ここ!」
ボランチが顔を上げる。
フォーレンが立っているのは、エストレヤ千葉の中盤と最終ラインの間だった。本来なら、彼が最も得意としている場所だ。
狭いからこそいい。
相手と相手の間に生まれる、ほんのわずかなゲート。そこへボールが入れば、ワンタッチかツータッチで次のプレーへ移れる。たった一本のパスで、相手の守備を一枚、二枚と一気に外すこともできる。
スペインでも、日本でも、フォーレンは何度もそうやって試合へ入ってきた。
だが、今日は違った。
ボランチは一度フォーレンを見る。それでも縦には入れず、隣のCBへ横パスを選んだ。
そこから、もう一度横。
フォーレンは眉を寄せる。
「……」
前半三十分を過ぎても、ほとんどボールが来ない。
こんな試合は、フォーレンにとってほとんど経験がなかった。
厳しくマークされたことならいくらでもある。二人で見られたこともあれば、背後から身体を当て続けられたこともある。パスコースを切られ、受けた瞬間に潰された試合もあった。
それでも、試合へ関わることはできた。
下がればいい。
横へ動けばいい。
サイドへ流れてもいい。
受ける場所そのものを変えれば、どこかには必ず逃げ道があった。
ところが今日は、その逃げ道まで先回りされているような感覚があった。
「……何なんだ」
思わず、独り言が漏れる。
◇
誰か一人がマンマークで張りついているわけではない。
特に小林庄雅は、常にフォーレンの近くへ立っているわけではなかった。
五メートル。
六メートル。
時にはそれ以上離れている。
だからこそ、最初は簡単に受けられると思っていた。
仙台のボランチから見ても空いている。フォーレン自身から見ても、パスコースはある。
だが。
いざボールが出ると、その瞬間だけ小林が入ってくる。
フォーレンへ突っ込んでくるわけではない。身体をぶつけて潰しに来るわけでもない。
パスとフォーレンの間。
そこへ先に足を置く。
たったそれだけだった。
だが、そのたった一歩が邪魔だった。
フォーレンは視線を小林へ向けた。
「……FWだろ」
試合前、そう聞いていた。
背番号25、小林庄雅。
元々はストライカー。少なくとも公式戦でDMFとしてプレーした記録はない。
だから、正直に言えば少し甘く見ていた。
中盤の守備は簡単ではない。
自分の立ち位置だけではなく、味方との距離、相手の位置、ボールの位置、その次に使われる場所まで同時に見なければならない。
いきなりできるものではない。
そう思っていた。
それなのに、前半三十分を過ぎて最も自分を苦しめているのは、その小林だった。
◇
前半三十五分。
フォーレンはさらに低い位置へ下りた。
小林から距離を取り、仙台のダブルボランチの近くまで落ちる。
「ダニー?」
味方が振り向いた。
「寄こせ」
今度はようやくパスが入る。
フォーレンはボールを受けると、素早く身体を前へ向けた。
「よし」
一気に視界が広がる。
右には安西。その外には右SB。中央にはCF。左にも味方がいる。
選択肢は多い。
ようやく自分の時間が来た。
そう思った。
だが、千葉は無理に追ってこない。
宍道はCBへの戻しを意識し、戸塚は少し右。エミリオは左。そして小林は中央、自分よりも前の位置に立っていた。
フォーレンは顔を上げる。
右の安西へは出せる。
だが、その瞬間には塩川が寄れる。
中央のCFへ入れれば、小林が近い。
左へ出せば、安原が準備している。
「……」
フォーレンは一度、足元でボールを止めた。
普段なら、こんなに迷うことはない。
むしろ狭ければ狭いほど道が見える。
相手からは閉じているように見えても、自分だけには一本の線が見える。
そこへ通す。
それがフォーレンという選手だった。
なのに今日は。
道を見つけるたび、その出口に紺色のユニフォームが立っている。
「……っ」
結局、フォーレンは横へ戻した。
スタンドから、わずかなため息が漏れる。
その音が、妙に耳へ残った。
◇
自分が怖がってバックパスを選ぶ。
そんなこと自体が珍しい。
そして、何より腹が立つのは、小林が何もしていないように見えることだった。
激しく追い回すわけではない。
身体をぶつけてくるわけでもない。
ただ、自分が使いたい場所だけを潰してくる。
「俺じゃなくて……」
そこで、ようやくフォーレンは気づいた。
「あいつ、パスを見てるのか」
自分を見ているのではない。
ボールの出どころ。
出し手の身体の向き。
前線の選手がどこへ動くか。
それを見ながら、自分へのパスが通る瞬間だけ動いている。
だから、距離があっても間に合う。
◇
前半三十七分。
仙台は左からボールを動かし、千葉の守備を一度そちらへ寄せた。
そこで大きく右へ展開する。
安西清勝が胸で収めた。
すぐに塩川が寄せるが、安西は身体を入れてボールを守る。
「ダニー!」
安西が呼ぶ。
フォーレンは今度、小林の真正面ではなく右寄りの位置へ動いていた。
短いパスが入る。
前向き。
「来た!」
スタンドから声が上がる。
フォーレンはワンタッチで中央を見る。
狭い。
だが、見える。
CFが一瞬動いた。
そのわずかな動きで、守備者と守備者の間に道ができる。
「ここだ」
右足を振る。
低く、速く、鋭い縦パス。
フォーレンらしい一本だった。
ほんのわずかな隙間を抜き、CFの足元へ入る。
――はずだった。
次の瞬間。
横から背番号25が滑り込んできた。
「なっ……」
小林だった。
CFへ身体をぶつけることもない。
競り合いもしない。
ただ、ボールの軌道へ右足を差し出した。
パシッ、と乾いた音。
完全なインターセプト。
◇
その瞬間、千葉の動きが一変した。
「前!」
戸塚の声。
小林は奪ったボールを持ちすぎない。
すぐ近くのエミリオへ預けた。
エミリオもワンタッチ。
「ダニエル!」
右。
背番号14。
ダニエル・ロドリゲスが走り出す。
仙台は、フォーレンの縦パスが通ると判断した瞬間に前へ人数をかけ始めていた。
安西は高い位置にいる。
右SBも上がっている。
ダブルボランチの一人も前へ出ていた。
つまりボールを奪われた瞬間、守備の形が整っていない。
「戻れ!」
仙台ベンチから叫び声が飛ぶ。
ダニエルは右でボールを受けると、そのまま前へ運んだ。
仙台の左SBが下がる。
だが、ダニエルは止まらない。
一気に距離を詰めていく。
中央では宍道が走っていた。
19歳。
今日が公式戦初出場。
普通なら、ゴール前へ真っ直ぐ入っていきたくなる場面。
だが、宍道は左斜めへ走った。
その動きに仙台のCBが引っ張られる。
前日まで、何度も確認してきた動きだった。
左から塩川。
中央後方から戸塚。
右からダニエル。
仙台の左SBは中を切りながら、外へ追い出そうとする。
ダニエルは一度、外へ行くように見せた。
次の瞬間内側へ切り込む。
「中!」
仙台のCBが一枚出た。
ダニエルはそこで、一瞬だけ速度を落とす。
宍道がさらに左へ走る。
CBがつられる。
中央が空く。
そこへダニエル自身が入った。
「まずい!」
仙台サポーターが一斉に立ち上がる。
ペナルティーエリア右寄り。
寄せてくるCB。
ダニエルは右足を振った。
低い。
強い。
シュートはゴール左下へ飛ぶ。
仙台GKが横っ飛び。
腕を伸ばす。
だが届かない。
ボールはポストの内側を叩き、そのままネットを揺らした。
一瞬。
バーバリスタジアムが静まり返る。
そして次の瞬間。
アウェーゴール裏が爆発した。
「うおおおおおおおおおっ!!」
「ダニエルぅぅぅぅぅ!!」
「よっしゃあああああ!!」
前半三十八分。
エストレヤ千葉、先制。
**仙台アステルFC 0-1 エストレヤ千葉。**
得点者。
背番号14**ダニエル・ロドリゲス。**
◇
ダニエルはそのままアウェーゴール裏へ走った。
両腕を広げる。
「Vamos!!」
塩川、戸塚、エミリオ、宍道が次々と追いつき、少し遅れて安原、高山、そして小林も加わる。
ダニエルは小林を見つけると、すぐに指を差した。
「お前からだ!」
小林は苦笑しながら首を横へ振る。
「決めたのお前だろ」
「始めたのはお前だ!」
そこへ戸塚が割って入り、二人まとめて背中を叩いた。
「どっちでもいいです!」
歓声が、さらに大きくなった。
◇
一方。
フォーレンは、その場からほとんど動けずにいた。
自分が出した縦パス。
それを小林に奪われた。
そこから、わずか数秒。
ダニエルのゴール。
「……」
フォーレンは無言のままゴールを見る。
そして、その先。
千葉の背番号14へ視線を向けた。
ダニエル。
かつて同じクラブでプレーした選手。
自分が中央にいて、ダニエルが右でプレーしていた時期もあった。
今日も、配置だけ見れば似ている。
自分が中央。
ダニエルが右。
それなのに。
試合へ関われているのはダニエルだった。
自分は、ほとんど何もできていない。
前半三十八分。
ボールタッチは少ない。
決定的なパスはゼロ。
シュートもゼロ。
そして今。
自分の縦パスを奪われ、失点の起点になった。
「……こんなの」
フォーレンは、小さく呟いた。
経験したことがない。
スペインでも。
日本でも。
代表でも。
悪い試合ならあった。
何度もミスをした試合もある。
自分の思った通りにプレーできない日もあった。
だが、ここまで試合そのものから消される感覚は初めてだった。
◇
安西が近づいてきた。
「ダニー」
フォーレンが顔を上げる。
安西も苛立っている。
だが、キャプテンとして感情を押さえていた。
「まだ一点だ」
「……分かってる」
「中央が無理なら外を使おう」
フォーレンは無意識に小林を見る。
「俺が逃げたら――」
「逃げるんじゃない」
安西が遮った。
「場所を変えるだけだ」
フォーレンは黙る。
「あいつの前で意地張る必要ない」
その言葉が、少し刺さった。
まるで小林に負けていると言われたような気がした。
「分かってる」
返事が少し強くなる。
安西も、それには気づいた。
だが何も言わなかった。
フォーレンにはプライドがある。
元スペイン代表。
中央の司令塔。
狭い場所へ、誰にも見えないパスを通す。
それが自分の価値だった。
なのに今日は、その武器を使う場所すら与えられていない。
◇
前半四十分。
試合が再開すると、仙台はすぐに前へ出た。
安西が右で受ける。
塩川と高山が対応。
また二枚。
安西は中央へ預ける。
今度のフォーレンは、右へ流れていた。
小林の正面から外れた位置。
パスを受けて、前を向く。
「行け!」
ホームスタンドから声が飛ぶ。
フォーレンは右足で斜めへパスを通そうとした。
中央のCF。
狭いゲート。
今度こそ。
だが橋本が一歩前へ出る。
カット。
「くそっ!」
フォーレンが声を上げた。
今度は小林ではない。
それでも通らない。
◇
千葉はすぐに攻撃へ移った。
橋本から戸塚。
戸塚から右のダニエル。
仙台も今度は戻りが速い。
無理がないと判断したダニエルは、後ろの安原へ戻した。
安原からエミリオ。
そして小林。
千葉はそこで一度、試合を落ち着かせた。
小林がボールを受ける。
フォーレンが前から寄せる。
だが。
身体が触れるより前に、小林はワンタッチで戸塚へ預けた。
フォーレンが足を伸ばした時には、もうボールはない。
振り返る。
小林は何事もなかったように、自分のアンカーの位置へ戻っていた。
「……」
それも腹が立った。
◇
前半四十二分。
仙台が左右にボールを動かす。
千葉は一点リードしているが、必要以上に下がらない。
宍道も前線から走り続けていた。
CBから中央へのパスコースを消す。
仙台は横。
GK。
また横。
ホームスタンドが焦れ始める。
「前!」
「行け!」
「時間ないぞ!」
前半の残り時間は少ない。
仙台としては、できれば同点でハーフタイムへ入りたい。
◇
四十三分。
右CBから縦パスが入る。
仙台のボランチ。
戸塚が寄せる。
その先。
フォーレンは今度、低い位置へ下りなかった。
小林の背後。
少し高い位置に残る。
逆にCFが下りてくる。
二人が位置を入れ替えた。
仙台のボランチが一瞬迷う。
フォーレンへ入れるか。
下りてきたCFへ入れるか。
その一瞬。
小林は出し手。
CF。
フォーレン。
三つを順番に見る。
そして半歩右へ動いた。
パスが出る。
フォーレンではない。
CFへ。
だが小林はすでにそのコースにいた。
パシッ。
またパスカット。
スタンドから、大きなため息。
フォーレンの表情が歪む。
今のパスは、自分へのものではない。
それでも。
自分が関わるために作った動きそのものが、小林に読まれていた。
「こいつ……」
思わず睨むように小林を見る。
だが、小林はこちらを見もしない。
奪ったボールを短くエミリオへ渡しただけだった。
まるで何でもないプレー。
フォーレンには、それが一番腹立たしかった。
◇
前半四十四分。
今度は千葉がボールを持つ。
エミリオ。
小林。
戸塚。
右のダニエル。
安原。
仙台が前から奪いに出る。
千葉は一度、橋本まで戻した。
宇津木。
玉縄。
焦らない。
今度は仙台の方が走らされる。
安西が前から出る。
フォーレンも追う。
だが守備は、得意ではない。
小林はそこを見ていた。
戸塚から小林。
小林はワンタッチでフォーレンの横を通す。
エミリオ。
仙台の中盤が一枚剥がれる。
フォーレンが戻ろうとする。
だが遅い。
エミリオは前へ。
宍道が下りる。
仙台CBは、今度はついてこない。
ゾーンを維持する。
宍道はワンタッチで右のダニエルへ。
ダニエルから縦。
安原が走る。
そのままクロス。
中央へ入ってきた塩川が頭で合わせた。
仙台GKが正面でキャッチする。
「危ねえ……!」
ホームスタンドから安堵の息が漏れた。
◇
アディショナルタイムは二分。
仙台は最後にもう一度攻める。
右。
安西。
塩川が寄る。
高山がその後ろ。
前半、何度も繰り返してきた形だった。
それでも。
まだ諦めない。
フォーレンは今度、かなり外へ流れた。
右のハーフスペース。
小林から距離を取る。
安西からパスが入る。
ようやく前を向けた。
「ダニー!」
CFが動く。
フォーレンは右足を振り上げる。
橋本と宇津木。
その間が。
ほんの少し開いた。
今日。
ずっと探していた道。
右足を振り抜く。
低い。
速い。
縦パス。
今度は。
通った。
CFが抜ける。
「来た!」
仙台サポーターが総立ちになる。
ペナルティーエリア。
CFがトラップ。
そのままシュート。
だが。
玉縄幸三が前へ飛び出した。
身体を大きく広げる。
バンッ!
右腕に当たった。
ボールが外へ弾かれる。
「玉縄ぁぁぁぁぁ!!」
千葉ゴール裏から大歓声。
仙台。
前半最大の決定機。
ついに。
フォーレンの縦パスは通った。
それでもゴールにはならなかった。
◇
フォーレンは両手を頭へ置いた。
「……っ!」
あと少し。
ようやく。
自分らしいプレーが出た。
玉縄には止められた。
それでも。
ほんの少し。
失いかけていた感覚が戻った。
「これだ」
小林を完全に避ける必要はない。
動かす。
ずらす。
その先に生まれた狭いゲート。
そこなら自分は通せる。
そう思った。
だがその直後。
前半終了の笛が鳴った。
ピーッ!
前半終了。
スコアは。
**仙台アステルFC 0-1 エストレヤ千葉。**
得点は前半三十八分。
ダニエル・ロドリゲス。
◇
千葉の選手たちが、次々とロッカールームへ戻っていく。
宇津木。
橋本。
高山。
安原。
玉縄。
戸塚。
エミリオ。
塩川。
宍道。
ダニエル。
そして。
小林。
前半。
小林は何度も仙台の縦パスを消した。
そして、そのうちの一本。
フォーレンから前線へ出されたパスを奪ったところから。
エミリオ。
ダニエル。
先制点へつながった。
◇
フォーレンは、ピッチ中央付近で少し立ち止まっていた。
スコアボード。
0-1。
得点者。
14。
ダニエル・ロドリゲス。
「……ダニエル」
思わず、その名前を口にする。
かつて同じクラブでプレーした。
自分が中央。
ダニエルが右。
今日も配置だけを見れば、似ている。
だが。
前半の存在感は、まるで違った。
自分は消された。
ダニエルはゴールを決めた。
安西が横を通る。
「行くぞ」
フォーレンは少し遅れて歩き始める。
「ダニー」
「何?」
「最後のパス」
安西が言った。
「通った」
フォーレンは一瞬黙る。
「……ああ」
「あれ、続けるぞ」
「分かってる」
安西は先に歩いていく。
フォーレンは、もう一度だけ千葉の背番号25へ目を向けた。
小林はすでにロッカールームへ向かっていた。
前半。
これほど試合へ関われなかったのは初めてだった。
ボールが来ない。
来ても次へ出せない。
自分のパスを読まれる。
そして、失点につながった。
それでも。
最後に一度だけ通した。
「後半……」
小さく呟く。
このまま終わるつもりはない。
◇
一方。
小林庄雅も。
満足してはいなかった。
前半終了間際。
フォーレンに、一度通された。
そして玉縄に救われた。
つまり完璧ではない。
後半、仙台は変えてくる。
フォーレンも。
同じ場所へ。
同じパスを繰り返すほど単純ではない。
それは、小林にも分かっていた。
◇
バーバリスタジアム。
ハーフタイム。
**仙台アステルFC 0-1 エストレヤ千葉。**
前半。
数字として最も大きな違いを作ったのは。
ゴールを決めたダニエル・ロドリゲス。
だがその得点の始まりは。
中盤の底の背番号25。
小林庄雅だった。
フォーレンの縦パスを読み、先へ入り、奪う。
そこから千葉のカウンターが始まった。
試合前誰にも分からなかった。
なぜ小林庄雅をDMFへ置くのか。
その答えは前半だけで十分すぎるほど。
バーバリスタジアムに示されていた。