第408話 初めての数字
第408話 初めての数字
後半二十分。
バーバリスタジアムのスコアボードには、依然として仙台アステルFC0対1エストレヤ千葉の数字が表示されていた。
一点を追う仙台に残された時間は、およそ二十五分。ホームで勝ち点を失わないためにも、当然ここから攻勢を強めなければならない。
しかし、試合の流れはなかなか仙台へ戻ってこなかった。
前半終了間際、仙台は一度だけ千葉の守備を崩しかけた。
ダニー・フォーレンを中央から右のハーフスペースへ動かし、安西清勝と右サイドバックを絡ませる。小林庄雅が守る中央を避けることでフォーレンを前向きにし、そこから得意の縦パスを入れる。
ハーフタイムにも確認した形だった。
仙台は後半に入ってから何度か同じ狙いを試している。
だが、千葉はもう驚かなかった。
フォーレンが右へ流れれば戸塚彩加が受け渡し、左へ逃げればエミリオ・アルバレスが見る。さらに外まで出れば、そのサイドの選手が対応する。
そして小林は追わない。
フォーレンがどこまで動いても、中盤の底から大きく離れることなく、中央へ戻ってくるパスだけを待つ。
仙台が前半最後に見つけたはずの答えは、すでに答えではなくなっていた。
◇
後半二十二分。
仙台が右サイドから攻撃を組み立てる。
安西がボールを収め、背後から寄せてきた塩川康文を身体で押さえ込む。その外を右サイドバックが追い越し、フォーレンは内側へ顔を出した。
三人。
まさにハーフタイムで確認した配置だった。
「ダニー!」
安西が短く預ける。
フォーレンはボールを受けると、すぐに身体を前へ向けようとした。
だが、その瞬間には戸塚が正面に入っている。
奪いに飛び込んでくるわけではない。
ただ、中央を切る。
フォーレンが最も通したい場所を消していた。
「……っ」
無理をすれば、前半と同じことになる。
フォーレンは右へ返すしかなかった。
再び安西。
そこから外を走っていた右サイドバックへ預けるが、高山俊樹がすぐに対応する。簡単にクロスを上げられる距離ではない。
仕方なく、また後ろへ戻した。
仙台はボールを失ってはいない。
攻撃そのものも続いている。
それでも。
ゴールへは近づいていなかった。
「また戻した……」
ホームスタンドのどこかから、焦れた声が漏れる。
一点を追っている。
時間も少しずつ減っている。
それなのに、ボールだけが自陣方向へ戻っていく。
◇
仙台の選手たちにも、少しずつ焦りが出始めていた。
特にフォーレンだった。
前半よりボールへ触れる回数自体は増えている。
だが、それだけだった。
右へ動けば戸塚がいる。
左へ流れればエミリオがいる。
中央へ戻れば小林が待っている。
どこへ立っても、自分が本当に使いたい場所では前を向かせてもらえない。
「……またか」
右サイドでボールを受けたフォーレンは、中央へ視線を向けた。
そこには小林がいる。
少し前には戸塚。
狭い場所へ強引に差し込めば、前半と同じように奪われる危険がある。
結局、フォーレンはもう一度後方へボールを返した。
そして、ほんの一瞬だけ空を仰いだ。
自分は司令塔のはずだった。
本来なら。
試合を動かす側の選手だ。
それなのに今日は、自分がどこへ立つのかまで千葉に決められているような感覚があった。
◇
後半二十四分。
今度は千葉がボールを持った。
宇津木健太から橋本翔へ。橋本が一度前を確認してから、小林へ縦につける。
仙台の選手がすぐに前へ出た。
しかし小林は、相手が身体を当てられる距離まで近づく前にエミリオへ預ける。
エミリオから戸塚。
戸塚は右のダニエル・ロドリゲスを見た。
そこへ出す。
そう思わせておいて、身体の向きを変える。
左。
塩川。
大きく展開した。
塩川が受けると、仙台の右サイドバックが寄せる。その後ろでは高山がサポートの位置を取っていた。
千葉は急がない。
一点をリードしているからといって、時計だけを進めるようなプレーもしない。
ボールを動かす。
仙台を走らせる。
相手が食いつけば、その一つ先へ逃がす。
「これ、仙台はきついですね」
放送席で実況が言った。
隣の解説者も頷く。
「取りに行けば外される。でも待っていれば時間だけが減っていく。追いかける側にとっては、かなり嫌な展開ですよ」
仙台が前へ出れば、千葉は一つ後ろへ逃がす。
仙台が足を止めれば、また前へ運ぶ。
簡単には捕まらない。
◇
後半二十六分。
ようやく仙台が高い位置でボールを奪った。
その瞬間、バーバリスタジアムの空気が一気に変わる。
「行け!」
「今だ!」
ホームスタンドから声が飛ぶ。
右で安西が受けた。
塩川が急いで戻る。
安西は身体を使いながら前へ進み、近づいてきたフォーレンへ預けた。
フォーレンはワンタッチ。
今度こそ中央へ入れる。
仙台のCFが小林の前へ下りてきた。
ハーフタイムに確認した動きだった。
だが。
小林はすぐには動かなかった。
前半なら、もう一歩早く前へ出ていた場面。
後半の小林は待っている。
フォーレンは一度、キックフェイントを入れた。
小林を動かすため。
だが、小林は反応しない。
「……!」
ならば。
フォーレンが本当に右足を振った。
その瞬間だけ。
小林が動く。
スッとパスコースへ入ると、右足でボールを引っかけた。
「また小林!」
アウェーゴール裏から大きな歓声が上がる。
フォーレンは、その場で歯を食いしばった。
前半とは違う。
自分たちが修正すれば。
千葉も修正している。
◇
小林は奪ったボールを持ち運ばず、すぐ近くの戸塚へ短く預けた。
戸塚が前を向く。
仙台は攻撃へ人数をかけていた。
ここで。
千葉のテンポが変わった。
戸塚からエミリオ。
エミリオは右のダニエルへ展開する。
ダニエルが受けると、仙台の左サイドバックが正面に立った。
その外を安原翼が勢いよく追い越す。
仙台の守備が右へ寄った。
だが、ダニエルは安原を使わない。
一度中央へ戻す。
エミリオ。
エミリオは、そのまま逆を見た。
左。
大きく空いている。
「塩川!」
アウェーゴール裏が沸いた。
塩川がボールを収め、そのまま前へ運ぶ。
仙台の右サイドバックが急いで戻ってくる。
だが塩川は、無理に一対一へ仕掛けなかった。
中央を見る。
そこへ。
宍道務が下りてきた。
パス。
宍道が背中で仙台CBを感じながら受ける。
ゴールはまだ遠い。
背負った状態。
ここで無理に反転すれば、ボールを失う可能性が高い。
宍道は。
振り向かなかった。
ワンタッチ。
塩川へ返す。
ただ戻したのではない。
パスを出したあとも走り続けていた塩川が、そのまま速度を落とさず入っていける場所。
仙台の右サイドバックとCBの間。
ほんの少し前へ。
そこへ。
左足で置いた。
◇
「行け!」
塩川は止まらない。
宍道から返されたボールへ、そのまま走り込んだ。
仙台の右サイドバックが慌てて振り返る。
遅れた。
中央のCBも、宍道に引っ張られて一歩前へ出ている。
その背後。
そこへ塩川が入った。
ペナルティーエリア左。
角度はある。
仙台GKが距離を詰める。
塩川は一度だけゴールを見た。
右足。
インサイド。
力任せには蹴らない。
GKの動きを見ながら、反対側。
ゴール右隅へ流し込む。
仙台GKが横へ飛ぶ。
だが。
届かない。
ボールはそのままサイドネットを揺らした。
◇
一瞬。
バーバリスタジアムが静まり返った。
次の瞬間。
アウェーゴール裏が爆発する。
「うおおおおおおおおお!!」
「塩川ぁぁぁぁぁぁ!!」
「よっしゃああああ!!」
後半二十八分。
エストレヤ千葉。
追加点。
**仙台アステルFC 0-2 エストレヤ千葉。**
得点。
背番号8。
**塩川康文。**
そして。
アシスト。
背番号23。
**宍道務。**
◇
塩川はそのままアウェーゴール裏へ走っていった。
両腕を広げ、大歓声を正面から浴びる。
真っ先にダニエルが追いつき、背中へ飛びついた。
戸塚。
エミリオ。
安原。
次々と仲間が集まってくる。
そして。
少し遅れて。
宍道も輪へ加わった。
塩川はすぐに宍道を見つけた。
「務!」
「はい!」
「いいボール!」
「……え?」
宍道は一瞬。
何を言われたのか理解できていないような顔をした。
「俺?」
ダニエルが吹き出す。
「お前だろ!」
「アシストですよ!」
戸塚も笑った。
そこでようやく。
宍道の表情が崩れた。
「……マジか」
プロ公式戦。
初出場。
初先発。
そして。
初アシスト。
ゴールではない。
それでも。
初めて。
公式記録の中に。
自分の数字が残った。
◇
塩川に肩を抱かれながら、宍道はアウェーゴール裏を見た。
試合前。
大型ビジョンで自分の名前を呼ばれただけでも、心臓が飛び出しそうだった。
前半は。
とにかく走った。
相手CBへ寄せ。
中央へのコースを切り。
戻されれば、また追った。
何度も何度も。
自分に求められていることだけを考え続けた。
だが後半。
少しだけ。
周囲を見る余裕が出てきていた。
どこへ走るのか。
どこで止まるのか。
どこで受ければ味方が生きるのか。
そして今。
CFとして一度下りた。
仙台CBを一歩だけ引き出した。
その背後へ走る塩川を見た。
反転せず。
持ち直さず。
ワンタッチ。
そこへ送った。
それが。
ゴールになった。
「務!」
少し離れたところから小林の声がした。
宍道が振り返る。
小林は。
何も言わず。
親指を立てていた。
宍道も照れくさそうに笑いながら、同じように親指を立て返した。
◇
放送席も興奮していた。
「エストレヤ千葉、二点目です! 塩川康文! そしてアシストは宍道務!」
「今の宍道、素晴らしかったですね」
「今日が公式戦初出場の19歳です」
「前半は守備でかなり効いていましたが、今度は攻撃で数字を残しました」
リプレイが流れる。
左の塩川から中央の宍道。
背負って受ける。
そして、ワンタッチで塩川へ戻す。
そのまま塩川が抜け出し。
ゴール。
「宍道がターンしなかったのがいいんですよ」
「無理に自分で行かなかった?」
「そうです。背負った状態で自分が何かしようとしなかった。塩川の動きを使っています。それに、宍道が下りたことで仙台のCBを一歩前へ引っ張り出している」
たった一歩。
だが。
その一歩によって、塩川が走り込む道が開いた。
「得点力だけがCFの仕事ではない、というプレーですね」
◇
一方。
仙台。
安西は自陣で腰へ手を当て、荒く息を吐いていた。
0対2。
まだ時間は残っている。
だが。
苦しい。
後半。
自分たちは追いつくために前へ出た。
ハーフタイムで見つけた形も試した。
フォーレンを右へ動かし。
千葉をずらし。
前進しようとした。
それなのに。
また。
始まりは中央だった。
フォーレンのパスを小林に奪われた。
そこからボールを動かされ。
最後には。
塩川。
そして。
公式戦初出場の宍道。
「……またかよ」
安西は低く呟いた。
少し離れた場所では、フォーレンも無言のままだった。
自分たちが何かを始めようとする。
その前で。
小林が止める。
そこから。
宍道が動く。
そして今度は。
得点にまでつながった。
◇
仙台ベンチにも重たい空気が流れ始めていた。
後半。
流れを変えるつもりだった。
右サイド。
フォーレン。
安西。
右SB。
そこを使う。
だが、千葉はすでに対応していた。
そして仙台が右へ人数を使えば。
今度は、その反対側に生まれたスペースを千葉に使われる。
「二点か……」
スタッフの一人が低く呟いた。
前回対戦。
0対7。
その数字を。
誰も口には出さない。
それでも。
ホームスタンドには少しずつ。
あの日を思い出させるような嫌な空気が漂い始めていた。
◇
試合再開。
後半三十分。
二点を追う仙台は、当然のように人数を前へ出した。
ボランチも高い位置を取る。
安西が内側へ入り。
フォーレンも中央へ顔を出す。
攻撃に人数を増やす。
だが。
千葉は慌てなかった。
中央には小林。
その前に戸塚とエミリオ。
最終ラインには宇津木、橋本、高山、安原。
互いの距離を崩さない。
右から安西へ入る。
塩川がすぐに戻った。
安西からフォーレン。
フォーレンは今度、ワンタッチで中央へ差し込もうとする。
小林が足を伸ばした。
完全には奪えない。
それでも。
わずかに触れた。
ボールがこぼれる。
そこへ戸塚。
回収。
また。
千葉のボールになる。
「くそっ!」
安西が叫んだ。
小林は相手を吹き飛ばしたわけでもない。
激しいタックルをしたわけでもない。
それでも。
また。
仙台の攻撃は止まった。
◇
後半三十二分。
今度は千葉が自陣からボールを動かす。
橋本から小林。
小林からエミリオ。
エミリオが右の安原へ展開する。
仙台は前から奪いに出た。
二点差。
時間も少ない。
どうしても。
焦りが出る。
一人が行く。
だが。
次の選手の寄せが、ほんの少し遅れる。
千葉は。
そこを使う。
安原からダニエル。
ダニエルは中央の戸塚へ戻す。
仙台の選手たちが中へ寄る。
すると。
また左。
塩川。
背番号8がボールを持っただけで、ホームスタンドが少しざわついた。
つい先ほど。
二点目を決めた選手。
仙台の右サイドバックが、今度は早めに距離を詰める。
塩川は無理をしない。
後方の高山へ戻した。
そこから。
また。
千葉がやり直す。
◇
後半三十四分。
ホームスタンドから、少しずつ苛立った声が増えていった。
「奪え!」
「前行け!」
「まだ時間あるぞ!」
その通りだった。
残りは十分以上。
アディショナルタイムもある。
まだ終わってはいない。
だが。
仙台サポーターには。
残された時間が。
実際よりも短く感じられていた。
千葉がボールを持つ。
戻す。
動かす。
また持つ。
仙台が一度ボールへ触れても。
中央へ進もうとしたところで詰まる。
そして。
フォーレンに。
自由がない。
◇
時計が八十分を示す。
スコアは。
**仙台アステルFC 0-2 エストレヤ千葉。**
二点目の得点者。
塩川康文。
そして。
アシスト。
宍道務。
千葉ベンチでは、中村が腕を組んだまま少しだけ笑った。
「務、数字まで付いたな」
八幡はピッチから目を離さない。
「でも、まだ十分あります」
「分かってるよ」
マルコも。
喜んで終わり。
そんな表情はしていなかった。
二点のリード。
有利なのは間違いない。
だが。
仙台はホーム。
最後は必ず前へ出てくる。
試合は。
まだ終わっていない。
◇
ピッチでは。
宍道がまだ走っていた。
当然。
疲労はある。
前半からかなりの距離を動いている。
それでも。
仙台のCBが前を向けば。
中央へのコースを切る。
ただし。
前半のように何でも全力で追いかけるわけではなくなっていた。
行くべき時に行く。
行く必要がなければ待つ。
プロ公式戦初出場。
八十分。
試合開始直後の宍道とは。
明らかに違っていた。
塩川も同じだった。
得点した喜びを引きずることなく、自分の位置へ戻っている。
右の安西を見る。
背後には高山。
二点目を奪った。
それでも。
試合はまだ終わっていない。
◇
バーバリスタジアム。
後半三十五分。
**仙台アステルFC 0-2 エストレヤ千葉。**
千葉は。
後半に入っても自分たちのリズムを崩していなかった。
そして。
その流れの中。
19歳。
公式戦初出場のCF。
宍道務が。
初めて。
公式記録へ自分の名前を刻んだ。
**アシスト。**
ゴールを決めたのは塩川康文。
だが、その一歩前。
仙台のCBを前へ引き出し。
塩川が走り込む道を作り。
自分では振り向かず。
一度もボールを止めず。
最も走りやすい場所へ送り込んだのは。
背番号23。
宍道務だった。
試合前、誰もが驚いた。
なぜ公式戦出場経験すらない19歳を優勝争いの大一番でいきなり先発させるのか。
その答えを前半は守備で。
そして後半は攻撃で宍道は。
少しずつ自分のプレーによって証明し始めていた。