第409話 最初の一手
第409話 最初の一手
後半三十五分。
バーバリスタジアムのスコアボードには、仙台アステルFC0対2エストレヤ千葉の数字が表示されていた。
塩川康文が追加点を決めてから数分。試合は終盤へ入り、千葉ベンチの空気も少しずつ変わり始めていた。
二点差。
ここまで準備してきたゲームプランは、ほぼ狙い通りに機能している。小林庄雅を中盤の底へ置き、仙台が得意とする中央への縦パスを消す。フォーレンがそこを避けてサイドへ動けば、戸塚やエミリオ、両サイドの選手が受け渡す。
そして仙台に動かせる。
前半から積み重ねてきたものが、ここへ来て目に見える形になり始めていた。
だからこそ。
そろそろ次を考える時間だった。
マルコ・ベッルーニは腕を組んだまま、ピッチから目を離さない。その横には中村敏三郎と八幡がいる。
三人が見ていた場所は同じだった。
仙台の右サイド。
背番号10、安西清勝。
そして、その周辺へ流れている背番号33、ダニー・フォーレン。
二人とも。
前半とは明らかに違っていた。
◇
安西が右サイドでボールを受けた。
塩川がすぐに距離を詰め、その後ろでは高山俊樹が構えている。
前半の安西なら、一度身体を入れてボールを守り、相手の出方を確認してからもう一度前へ仕掛けていた。
だが今は違った。
トラップ。
一歩だけ前へ出る。
そこで。
止まる。
「……」
安西自身も分かっていた。
脚が重い。
前半から何度上下動したのか、自分でも分からないほどだった。
ボールを受けるために中へ入る。外へ開く。ボールを失えば守備へ戻る。高山の攻撃参加を警戒し、塩川の動きについていく。
さらに後半。
フォーレンが中央を避け、右へ流れるようになってからは、そのサポートまで増えた。
フォーレンへ近づく。
追い越す。
内側へ入る。
外へ戻る。
また守備へ走る。
千葉が安西一人を追い回しているわけではない。
それなのに気づけば。
走らされていたのは。
安西の方だった。
◇
塩川を前にした安西は、仕掛けずに右サイドバックへ戻した。
本来なら、そこからすぐに動き直す。
前へ出る。
内側へ入る。
次にボールを受けられる場所を探す。
だが。
ほんの一瞬。
安西の足がその場に残った。
八幡は、それを見逃さなかった。
「落ちましたね」
中村も小さく頷く。
「ああ。前半より一歩目が遅い」
そこで中村は視線を少し内側へ移した。
「安西だけじゃないな」
そこにいたのは。
フォーレンだった。
◇
仙台の右サイドバックから、フォーレンへパスが入る。
戸塚が正面に立った。
前半、そして後半開始直後までのフォーレンなら、この瞬間にほとんど止まることはなかった。
ワンタッチ。
あるいはツータッチ。
身体の向きを少し変えるだけで、次のパスコースを探し出していた。
だが今は。
一度。
足元でボールを止めた。
顔を上げる。
正面には戸塚。
中央には小林。
外には塩川。
どこへ出すか。
ほんの一秒。
迷った。
たった一秒。
だが。
フォーレンほど判断の速い選手にとって、その一秒は大きかった。
「キレがない」
八幡が言う。
マルコも短く頷いた。
◇
前半。
フォーレンは中央で小林に消された。
そこで後半は、中央へこだわることをやめた。
右へ。
左へ。
時には低い位置へ。
もう一度中央へ。
何とかボールへ関わろうと、何度も立ち位置を変え続けた。
だが。
フォーレンが右へ行けば戸塚。
左へ行けばエミリオ。
さらに外へ出れば塩川やダニエル。
千葉は担当する選手を受け渡すだけで、守備全体の形を大きく崩さなかった。
位置を変え続けたのはフォーレン。
そしてフォーレンが動けば、それに合わせて安西や右サイドバックも動く。
千葉が追い回したのではない。
仙台に。
自分たちから動かせた。
その積み重ねが。
後半三十五分を過ぎた今。
安西とフォーレンの身体へ、はっきり表れ始めていた。
◇
フォーレンが戸塚の前で右へ持ち出した。
普段なら。
その一歩で身体の向きをずらし、縦か斜めへ鋭いパスを通す。
だが。
今日は、その一歩が鈍かった。
戸塚が無理なくついていく。
「……っ」
フォーレンは前へのコースを失い、結局後ろへ戻した。
ホームスタンドからため息が漏れる。
「ダニー、前向け!」
声が飛ぶ。
フォーレン自身も分かっている。
前を向きたい。
パスコースだって。
頭の中では見えている。
だが。
そこへ身体を持っていくための一歩が。
前半のようには出なくなっていた。
◇
安西も同じだった。
千葉が右のダニエルから逆サイドの塩川へ展開する。
安西は守備へ戻った。
そこまではできる。
まだ走れる。
問題は。
その次だった。
仙台がボールを奪う。
攻撃へ切り替わる。
普段なら、その瞬間に安西が前へ走り出す。
塩川から離れ。
少しでも高い位置へ移動する。
だが。
一歩目が出ない。
身体が反応するまでに。
ほんのわずかな遅れがある。
塩川も気づいていた。
後ろの高山も。
中央の小林も。
戸塚も。
そして。
千葉ベンチも。
「そろそろですね」
八幡が言った。
マルコはピッチを見たまま答える。
「ああ」
そして。
ようやくベンチを振り返った。
◇
控え選手たちはすでに終盤の出場を見据え、身体を動かす準備をしていた。
その中に。
背番号10。
森川佑がいる。
「森川」
マルコが呼んだ。
「はい」
森川はすぐに立ち上がる。
「アップ、強度上げろ」
一瞬で。
森川の表情が変わった。
「はい」
ビブスを手に取ると、そのままタッチライン際のアップスペースへ向かった。
◇
軽く身体を温めるだけのジョギングではなかった。
森川は最初から速度を上げる。
腿を高く上げ、細かいステップを踏み、短い距離を一気に走る。
止まる。
切り返す。
また走る。
「もう一段!」
スタッフから声が飛ぶ。
森川はさらにペースを上げた。
その変化に。
アウェーゴール裏もすぐ気づいた。
「あっ」
「森川だ」
「アップ強くなったぞ」
「来る?」
千葉サポーターの間に、少しずつざわめきが広がる。
もちろん。
まだ交代が決まったわけではない。
誰と代わるのかも。
何分に入るのかも分からない。
それでも。
千葉ベンチが動き始めた。
その事実だけで。
試合が次の段階へ入りつつあることは十分に伝わった。
◇
中村はアップを続ける森川を一度確認してから、再びピッチへ視線を戻した。
「右、かなり落ちてきたな」
「安西は前半から相当走らせています」
八幡が答える。
ちょうどその安西へ、またボールが入った。
塩川が寄る。
安西は身体を入れ、ボールを守った。
そこはまだできる。
だが反転が遅い。
塩川が少し距離を取ると、高山が前へのコースを消した。
安西は仕掛けられず、右サイドバックへ戻す。
中村が小さく笑った。
「これなら、フレッシュな選手入れたらかなり嫌だろうな」
八幡はアップ中の森川へ目を向ける。
「でしょうね」
◇
森川佑。
29歳。
元日本代表。
長くエストレヤ千葉の左サイドを支えてきた選手。
単純なスピードだけで相手を抜いていくタイプではない。
ボールを持つ。
運ぶ。
中へ入る。
味方を使う。
そして。
相手の立ち位置を見ながら。
最も嫌な場所へ入り続ける。
今。
仙台の右には。
前半から走り続けてきた安西がいる。
その後ろの右サイドバックも、フォーレンと安西の動きへ合わせながら何度も上下動している。
そこへ。
フレッシュな森川が投入されたら。
仙台にとって。
楽なはずがなかった。
◇
後半三十七分。
仙台はまた右へボールを運んだ。
安西が受ける。
今度は自分で仕掛けた。
正面。
塩川。
安西は右へ一歩。
だが。
その瞬間。
ボールがわずかに身体から離れた。
前半なら。
ほとんど見られなかったミスだった。
高山がすぐ足を伸ばす。
ボールはそのままタッチラインを割った。
仙台ボール。
それでも安西は悔しそうに舌打ちした。
「……くそ」
胸が大きく上下している。
顎から汗が落ちる。
もちろん塩川にも疲労はある。
それでも。
消耗の度合いは安西の方が明らかに大きかった。
◇
フォーレンがスローインを受けに近づいてくる。
「ダニー」
「分かってる」
安西が投げた。
フォーレンが足元へ収める。
すぐに戸塚が寄る。
フォーレンは反転しようとした。
だが。
切り返しが遅い。
戸塚は簡単には外されない。
仕方なくフォーレンが安西へ戻す。
安西へは塩川が寄る。
そして。
また後ろ。
ホームスタンドから苛立った声が飛んだ。
「前行け!」
「時間ないぞ!」
「行け、安西!」
「ダニー!」
選手たちだって分かっている。
時間は減っている。
二点を取り返さなければならない。
急ぎたい。
だが。
急ぐための身体が。
もう。
前半と同じようには動かない。
◇
フォーレンが両膝へ手をついた。
ほんの数秒。
すぐに身体を起こす。
だが。
その仕草も。
八幡は見ていた。
「ダニーもかなり来てます」
「ああ」
マルコが短く答える。
「前半から、受ける場所を探させすぎたな」
中村が少し笑う。
「向こうは自分たちで小林を避けて外に出たつもりだったんだろうけどな」
「結果として、ずっと走ってますから」
八幡はピッチ上のフォーレンを見た。
中央。
右。
左。
また右。
小林を避ける。
戸塚を避ける。
エミリオを避ける。
それでもボールに触りたいから。
また場所を変える。
千葉は。
追わない。
待って。
受け渡す。
だから。
走るのはフォーレンになる。
◇
前半。
仙台の中心になるはずだった二人。
安西清勝。
ダニー・フォーレン。
今。
その二人が。
最も消耗していた。
安西は右サイドを何度も上下した。
フォーレンはボールを求め、縦にも横にもピッチを動き続けた。
そして。
後半三十五分を過ぎた今。
そこから。
少しずつキレが失われ始めている。
一方。
タッチライン際では。
森川が短いダッシュを一本終えた。
すぐに。
もう一本。
身体はすでに温まっている。
呼吸を整えながら、今度はボールを使ったアップへ移る。
スタッフから来たパスをトラップ。
返す。
右。
左。
中央。
そして。
森川は顔を上げた。
ピッチを見る。
自然と視線は。
仙台の右サイドへ向かった。
安西。
森川自身も。
何を見られているのか。
もう分かっていた。
「なるほどね」
小さく呟く。
隣にいたスタッフが振り向いた。
「何が?」
「いや」
森川は少しだけ口元を緩めた。
「そろそろかなと思って」
そう言って。
また走り始めた。
◇
千葉ベンチ。
マルコはまだ交代カードを切らない。
時計を見る。
ピッチを見る。
森川を見る。
そして。
もう一度。
仙台を見る。
焦る必要はない。
二点をリードしている。
そして。
相手の中心選手二人は。
確実に落ち始めている。
なら。
ここからさらに苦しくすればいい。
◇
後半三十八分。
フォーレンが中央へ戻った。
ボランチから縦パスが入る。
小林が前へ出る。
今度はフォーレンも先に気づいた。
ワンタッチで外へ逃がす。
安西。
安西が受けると、塩川が寄せる。
縦へ行こうとした。
だが。
一歩が伸びない。
高山は無理に身体を当てず、ただ前へのコースを塞いでいる。
安西は。
また。
後ろへ戻した。
その瞬間。
マルコがアップスペースへ目を向けた。
「森川」
「はい!」
「そのまま上げろ」
「はい!」
まだ。
交代とは言わない。
それでも。
準備は。
さらに一段進んだ。
◇
中村が少し前へ出る。
「そろそろ動くな」
「はい」
八幡が答えた。
「最初は森川か」
八幡は何も言わなかった。
決めるのは監督だ。
ただ。
その視線は。
アップを続ける森川と。
仙台の右サイドを。
何度も行き来していた。
◇
後半。
残り十数分。
スコアは0対2。
ここまで。
千葉が準備したものは、ほとんど狙い通りに機能している。
小林庄雅が中央を消す。
宍道務が前から出しどころを限定する。
戸塚とエミリオがフォーレンを受け渡す。
ダニエルが右から先制点を奪い。
塩川が左から二点目を決めた。
その積み重ねが。
今。
仙台の身体へ残っている。
安西清勝の脚は重い。
ダニー・フォーレンの切り返しも遅くなった。
二人とも。
前半に見せていたキレはない。
そして。
千葉ベンチも。
それを見逃さない。
次の一手へ向け。
最初にアップの強度を上げるよう命じられたのは。
背番号10。
森川佑。
まだ交代そのものは告げられていない。
それでも試合終盤。
仙台が最も苦しくなり始めた場所へ。
千葉はフレッシュなカードを。
静かに準備し始めていた。