第410話 変えられない流れ
第410話 変えられない流れ
後半三十八分。
バーバリスタジアム。
スコアは、仙台アステルFC0対2エストレヤ千葉。
タッチライン際では、背番号10の森川佑が第四審判の横に立っていた。
ほどなくして大型ビジョンに交代を告げる表示が映し出される。
**OUT 8 塩川康文**
**IN 10 森川佑**
その瞬間、アウェーゴール裏から大きな拍手が起こった。
二点目を決めた塩川が、ゆっくりとタッチラインへ向かってくる。
前半から仙台の右サイドと向き合い続けた。相手のキャプテンである安西清勝を警戒しながら守備へ戻り、ボールを持てば高山俊樹との連係で左サイドから前進する。後半二十八分には宍道務とのワンツーから抜け出し、試合を大きく千葉へ傾ける追加点まで決めた。
十分すぎる仕事だった。
森川はライン際で塩川を待った。
「頼みます」
塩川が差し出した手に、森川が軽く自分の手を合わせる。
「任せろ」
短く答えると、森川はそのままピッチへ入った。
向かった場所は、塩川が守っていた左サイド。
ポジションは変わらない。
左サイドハーフ。
ただ。
そこに立つ選手だけが変わった。
前半から走り続け、二点目まで奪った塩川から。
試合終盤までベンチで待ち、十分に脚を残している森川へ。
◇
マルコ・ベッルーニは森川が近くを通ったところで、改めて短く指示を送った。
「左。そのままだ」
「はい」
「安西を自由にするな」
森川は返事をしながら、一度だけ仙台の右サイドへ視線を向けた。
背番号10。
安西清勝。
仙台アステルFCのキャプテン。
前半から何度も右サイドを上下している。ボールを受けるために動き、失えば守備へ戻り、高山と塩川の攻撃にも対応し続けてきた。
さらに後半に入ると、中央で自由を得られなかったダニー・フォーレンが右へ流れ始めたため、その連係へ加わるための動きまで増えている。
試合開始直後の安西にあった鋭い一歩目は、もうほとんど残っていなかった。
「奪おうとしすぎなくていい」
今度は中村が声をかけた。
森川が振り返る。
「前を向かせないだけで十分だ」
「分かりました」
自分から無理に勝負へ行く必要はない。
疲れている安西に、さらに足を使わせればいい。
森川も、その意図はすぐに理解した。
◇
試合が再開した。
後半三十九分。
仙台の右センターバックから、右サイドにいる安西へボールが入る。
安西が足元へ収めた、その瞬間だった。
森川が一気に距離を詰めた。
「……っ」
速い。
もちろん、塩川もここまで安西に対して良い守備を続けていた。
だが、森川にはまだ脚がある。
というより。
この試合では、まだほとんど使っていない。
安西が身体を中央へ向けようとする。
そこへ森川が先回りした。
ならば外。
安西が右へ一歩運ぶ。
森川もついていく。
身体を入れてボールを守るところまでは、安西もできる。しかし、その先がなかった。
もう一度仕掛けるための一歩。
森川を外すための切り返し。
それが出ない。
安西が足を止めた瞬間、森川は中央へのコースを完全に閉じた。
「……くそ」
小さく吐き捨てると、安西は右サイドバックへボールを戻した。
森川は深追いしない。
パスが離れた瞬間には、もう左サイドハーフの位置へ戻り始めていた。
安西はその背中を見ながら、思わず呟いた。
「この時間に森川かよ……」
最悪だった。
元日本代表。
長く千葉の左サイドを支えてきた経験豊富な選手が、自分の脚が最も重くなった時間帯に、ほとんど疲れていない状態で目の前へ出てきた。
◇
仙台サポーターも、その意味にはすぐ気づいた。
「塩川下げて森川?」
「そのまま左だな」
「安西のところか」
「この時間に森川出してくるの、きついな」
「安西、もうかなり疲れてるぞ」
千葉は守備の人数を増やしていない。
五バックへ変更したわけでもない。
左サイドハーフを、塩川から森川へ代えただけ。
位置も大きな役割も変わらない。
違うのは。
脚だけだった。
だが、今の仙台にとっては。
それだけで十分すぎるほど厄介だった。
◇
後半四十分。
再び右サイドバックから安西へ短いパスが入った。
今度の森川は、最初から距離を詰めなかった。
安西が前を向くまで待つ。
そこから寄せた。
安西は右へ持ち出す。
森川がついていく。
ならば中へ。
安西が切り返す。
森川は先に中央への進路を塞いだ。
もう一度外。
安西も意地を見せる。
だが。
三度目の切り返しで。
とうとう脚がついてこなかった。
ボールがわずかに身体から離れる。
森川が狙ったのは、その瞬間だけだった。
足先で軽く触れる。
ボールは安西の足に当たり、そのままタッチラインの外へ出た。
千葉ボール。
「……っ」
安西は悔しそうに天を仰いだ。
放送席からも、その差は明らかに見えていた。
「森川の方が圧倒的に動けていますね」
実況の言葉に、解説者が頷く。
「当然ではあります。森川は今入ったばかりですから。一方の安西は前半からかなりの距離を走っています」
「千葉はそこを見て、この交代を?」
「そうでしょうね。単なる時間稼ぎでも、守備固めでもないと思います。消耗した安西のところへ、フレッシュな森川をぶつけている」
しかも。
その安西は仙台のキャプテンであり、右サイドの攻撃を担う中心選手でもある。
「安西からすると、かなり厳しいですよ」
◇
そして。
疲れているのは安西だけではなかった。
背番号33。
ダニー・フォーレン。
前半は中央で小林に自由を奪われた。
後半に入ってからは、その小林を避けるために何度も立ち位置を変えている。
中央。
右。
左。
また中央。
ボールを受けられる場所を探し続けた。
だが、小林を避ければ戸塚がいる。
戸塚を避ければエミリオがいる。
さらにサイドへ流れれば、その場所の選手へ受け渡される。
フォーレンが動けば動くほど。
千葉は守備者を受け渡す。
形を大きく崩さない。
結果。
走り続けることになったのは。
フォーレン自身だった。
後半四十分。
その疲労も、もう隠せなくなっていた。
◇
フォーレンが右へ流れ、安西との距離を縮める。
仙台としては、もう一度このサイドで数的優位を作りたかった。
パスが入る。
フォーレンの正面には戸塚。
中央には小林。
フォーレンはワンタッチで安西へ預ける。
安西の前には森川がいる。
前を向けない。
仕方なくフォーレンへ戻す。
ならば自分で。
フォーレンが内側へ運んだ。
戸塚がついていく。
一歩。
二歩。
フォーレンが身体の向きを変え、切り返す。
だが。
遅い。
前半なら、ほんのわずかな身体の向きだけで相手を外せていた。
今は戸塚が普通についてこられる。
「……っ」
フォーレンは悔しそうに顔を歪め、後ろへパスを戻した。
◇
ベンチの八幡は、その一連の動きを黙って見ていた。
「二人とも、かなり落ちましたね」
中村も頷く。
「安西は上下動。フォーレンは受ける場所を探して動きすぎた」
マルコは何も言わない。
ただ。
森川。
安西。
フォーレン。
その三人を順番に追っていた。
今。
目の前で起きていることは偶然ではない。
千葉が前半から積み重ねてきたものが。
終盤になって。
仙台の身体へ現れている。
◇
後半四十一分。
仙台が中央へ縦パスを入れようとした。
フォーレンが受けに入る。
小林がコースへ動いた。
完全なインターセプトにはならない。
それでも、右足の先がボールへ触れる。
パスの軌道がわずかに変わった。
そこを戸塚が回収する。
千葉はすぐに切り替えた。
戸塚から左。
森川。
安西が慌てて戻る。
「……!」
森川は前を向くと、そのままボールを運んだ。
安西が追う。
森川は一度、中へ持ち出す。
安西が反応した。
その瞬間。
今度は外。
森川が切り返す。
安西の反応が。
遅れた。
完全に。
一歩。
置いていかれる。
「森川!」
千葉ゴール裏から歓声が上がる。
森川が縦へ進んだ。
仙台の右サイドバックがカバーへ出る。
そこで森川は無理をしなかった。
戸塚へ戻す。
戸塚からエミリオ。
また。
千葉がボールを持つ。
ようやく安西が自分の位置へ戻った時には、肩が大きく上下していた。
対する森川は、すでに次の位置へ動いている。
「……きついな」
誰にも聞かせるつもりのない声が、安西の口から漏れた。
認めたくはない。
それでも。
今の自分では。
森川の動きへ何度もついていくのは。
あまりにも苦しい。
◇
しかも。
森川は一度の勝負で安西を抜き切ろうとはしてこなかった。
一度仕掛ける。
安西を走らせる。
難しければ戻す。
別の場所でボールを回す。
しばらくして。
また森川へ。
もう一度、安西が走る。
一対一を一度制して終わりではない。
何度も。
何度も。
安西に脚を使わせる。
それが余計に苦しかった。
◇
仙台ベンチ。
監督は腕を組んだまま、控え選手たちへ視線を向けた。
流れを変えたい。
当然だった。
二点差。
残された時間は少ない。
ここで一人。
何かを変えてほしい。
ドリブル一発でもいい。
決定的なパス一本でもいい。
圧倒的なスピードでも。
ゴール前での得点力でも。
何でもいい。
この試合の流れを。
強引にでも仙台側へ引き戻せる選手がほしい。
だが。
ベンチを見ても。
その答えが見つからなかった。
もちろん、交代できる選手はいる。
走れる選手。
守備ができる選手。
与えられた役割をきちんと遂行できる選手。
そうした戦力はいる。
しかし。
今必要なのは。
0対2で進んでいるこの試合そのものを、別の形へ変えられる選手だった。
そして。
仙台でそれを最も期待されているのは。
今ピッチにいる。
安西とフォーレンだった。
◇
監督は唇を固く結んだ。
安西を下げるか。
難しい。
キャプテン。
背番号10。
長く仙台の攻撃を背負ってきた中心選手。
では。
フォーレンを下げるか。
それも難しい。
どれだけ疲れていても。
狭い場所へ最後の一本を通せる可能性がある。
今の仙台のベンチに。
同じものを持っている選手はいない。
結局。
疲労している二人へ。
まだ頼らざるを得ない。
そこが。
今の仙台にとって。
最も苦しいところだった。
◇
後半四十三分。
また安西が右でボールを持った。
森川が正面に立つ。
安西は早めにフォーレンへ預けた。
フォーレン。
ワンタッチで再び安西。
だが。
そこにはまた森川がいる。
安西は前へ行こうとした。
森川は内側を切る。
その後ろには高山もいる。
ならば外。
安西が一歩運ぶ。
森川がついてくる。
止まる。
結局、右サイドバックへ返した。
「前行け!」
ホームスタンドから叫び声が飛ぶ。
安西だって行きたかった。
だが行けない。
◇
フォーレンが中央へ戻った。
ボランチから縦パスが入る。
小林が待っている。
フォーレンはそこを避け、再び安西へ逃がした。
だがそこには森川がいる。
「……」
フォーレンは思わず足を止めた。
中央へ行けば小林。
右へ出せば森川。
その少し前には戸塚。
左へ逃げればエミリオ。
前半からずっと同じだった。
何かを変えたい。
試合を動かしたい。
自分は、そのために仙台へ来たはずだった。
なのに、その流れを変えるための身体がもう自分の頭についてこない。
◇
千葉ベンチでは、マルコが時計を確認していた。
二点リード。
試合終盤。
それでも、守備ラインを極端に下げることはしない。
仙台へ完全にボールを渡すこともしない。
中村も八幡も考えていることは同じだった。
流れを渡さない。
そのための後半三十八分、塩川康文から森川佑。
左サイドハーフ。
ポジションはそのまま。
役割も大きく変えてはいない。
ただ新しい脚、技術、経験を、それを入れた。
それだけで限界へ近づいていた仙台の右サイドはさらに苦しくなった。
◇
安西清勝は前半から千葉に動かされ続けた。
そして終盤。
フレッシュな森川をぶつけられ。
とうとう前を向くことすら難しくなった。
ダニー・フォーレンもボールを求めて動き続けた。
小林を避け。
戸塚を避け。
エミリオを避け。
それでも試合へ関わろうと走った。
その結果。
最も必要な終盤でキレを失った。
仙台は流れを変えたい。
このまま終わるわけにはいかない。
だがベンチには明確に流れを変えられる切り札がいない。
だから疲れ切った二人にまだ頼るしかなかった。
◇
バーバリスタジアム。
後半。
残された時間はわずか。
スコアは0対2。
エストレヤ千葉が行ったのは塩川康文から森川佑への交代。
同じ左サイドハーフ。
ただその一枚の交代が、すでに限界へ近づいていた安西清勝を、完全に封じ込め始めていた。
そして仙台アステルFCには、この流れを別の形へ塗り替える選手が最後まで見つからなかった。