第1話 逢い引き・はじまり・ハンバーグ(前編)
第1話 逢い引き・はじまり・ハンバーグ(前編)
初めて料理をしたいと言ったとき、お母さんを随分と困らせたのを覚えている。 幼い頃、私にとって料理は魔法だった。 それだけでは味気ない食材を、混ぜたり、こねたり、焼いたりして、ほっぺが落ちそうなくらいおいしいものに変えてしまう、不思議な技。 その秘密を知りたくて、私はお母さんに教えてとせがんだ。 でも、初めての料理は思い描いていたものとは、どこかズレていた。 過程を一つ一つ指示されては、その通りに手を動かすだけの行為は、なんだか、つまらない作業みたいに感じてしまったのだ。 「次はこうするのよ」と言うお母さんに、私はいちいち食いついた。 「どうして? どうして?」と。 ***「どうしてなんか、わかるか—————————————————————い!」 四月初旬の夕暮れ時。 名知大学、農理学研究棟の一室で、塔山うららは叫んでいた。 PCのデスクトップには、たった今終了したシミュレーションの結果が表示されている。 パラメータをいじり、手法を変え、これで七度目の挑戦である。 しかし、計算結果はとても報告できるような内容ではなかった。 「どうして? どうして?」と探求心の絶えない性分であったうららは、大学に進学し、修士課程に進学し、とうとう博士課程に進学してしまった。 そして今、こうしてぺたんとデスクに突っ伏して長いため息を吐いている。「塔山さん、お疲れ」 研究室の扉が開かれる。 入ってきたのは、ほっそりとした白髪の老人。丸眼鏡をしていて、くたびれた背広には僅かにチョークの粉が降りかかっている。きっと新学期初めての講義だったのだろう。 うららは、老人もとい自分が所属する研究室のボスに会釈した。「お疲れさまです、田宮教授」「今日も遅くなりそうですか?」「えぇ、その……結果があまり芳しくないもので」 今回の計算で、いや今回も、何の成果も得られませんでした! とは声高らかに言えるはずもなく、うららは言葉を濁す。「頑張るのは結構なことですが、あまり暗くならないうちに帰ることをおすすめしますよ。何でも最近、研究棟で不審者が目撃されたらしいので」「不審者?」「真夜中の研究棟で、刃物を持ってうろついていたらしいです。全学のメールにも回ってきてますよ」「……あ、本当だ」 メールボックスを開いてみると、注意喚起のお知らせが届いている。 文面を追いかけてみると、次のようなことが書かれていた。 目撃者の学生曰く、真夜中に実験をしている最中、この農理学研究棟で見知らぬ女性と遭遇したらしい。 長い黒髪、全身を覆う真っ白い装束。そして右手には、ギラリと光る刃物。それを見た学生は、パニックになってその場から逃げ出したということだった。「う~ん。でもこれ、特徴は完全に幽霊ですよね。深夜まで実験してた学生が、寝ぼけていただけじゃないですか?」 この農理学研究棟は、夜八時以降に全ての扉が自動で施錠されるので、キーを持っていない部外者は立ち入れない。セキュリティは問題ないはずだった。「それなら、ただの笑い話ですみますが……まぁ、気をつけて下さい。塔山さんは、女の子ですから」「女、ですけど、子が付くかどうかは結構厳しいと思うんですが」「僕からすれば同じですよ……おっと、いけない。孫との夕食に遅れてしまうので、僕はこれで」 田宮は腕時計を確認すると、慌てて荷物をまとめ、研究室を後にした。 室内は再び、うららの独壇場になる。「教授、孫ができてから帰るの早くなったなぁ」 パーテーションで区切られた田宮のデスクをちらりと覗く。その一角には、孫の誕生日に撮ったと思しき食卓の写真が飾られていた。「誰かと、ごはん……か」 そう言えば、もう何年もしてないな。 うららは、ぼんやりとそんなことを思いながら、再び結果の考察を再開した。***「ありゃ?」 真夜中の一時。 腹の虫が鳴り、カップラーメンを食べようとしていたうららだったが、なかなかお湯が沸かないことに気付いた。 見てみると、研究室の流しの近くでスイッチを入れていたはずの電気ケトルが、故障していた。「寿命かな? ま、仕方ない。休憩室の鍋とコンロを使おう」 休憩室とは研究棟二階に設けられた食事スペースだ。 なぜかシステムキッチン一式が設けられており、テーブルはなく、ござとちゃぶ台が広がっている。海外から招いた教員を喜ばせるためにそんな造りにしたらしいが、あまり使われてはいなかった。「に、二階ってこんなに暗かったっけ?」 階段を下りてみると、ひんやりとした空気がうららの肌を這い上がった。自分の足音がやけにうるさく、薄暗い緑の非常灯がいやに不気味だ。 不審者、という言葉がうららの脳裏に蘇った。「あぁ、もう。どうしてこんな時に思い出すかな」 スマホのライトを使おうとポケットに手を伸ばすと、不意にブーっとバイブレーションが起こった。「ひっ——!?」 口から心臓が飛び出しそうになったが、とっさに飲み込む。 光った画面を見ると、新着メッセージの通知だった。「な、何だ凪か。まったく、おどかさないでよ……」 へろへろと、肩の力を抜いた瞬間—— カッ、カッと乾いた足音が、うららの後ろから響いた。 固唾を飲み、恐る恐る振り返る。 すると、そこには長い黒髪の白装束の女がいた。 右手には、非常灯の緑を返し、ギラリと光る鋭い刃物。「で、でででででで出た————————————————————————!」 その言葉を最後に、うららは意識を手放した。 *** 瞼越しに、光を感じる。次いで、い草の柔らかい感触と香りが伝わってきた。どうやら、ここは休憩室らしい。「よ、よかった。気が付きました?」 瞳を開いて最初に飛び込んできたのは、見知らぬ美少女だった。 滑らかな黒髪に縁取られた、華奢な体躯。顔立ちは人形のように整っていて、白い肌とは対照的に、その双眸は吸い込まれそうな漆黒だ。 彼女の全身を覆うのは、この研究棟でおなじみの白衣、ではなくレースの入ったエプロンだった。 その美しさに見とれていたうららだったが、徐々に気絶する前の記憶が思い出されると、恐怖から声が漏れた。「ひぇっ!?」「ま、待って。落ち着いて、下さい。私、怪しいものじゃないんです!」 相手はぎゅっと目を閉じて、何かを差し出してきた。 名刺のように思われたそれは、名知大学の学生証で、彼女の身分を記している。うららは、その名前を読み上げた。「 鳥見川 ( とみかわ ) 、 氷彗 ( ひすい ) ?」「この春から、こちらの大学院に進学した、修士課程の一年生、です。その、普段は三階にいるんですが……」 よかった……ここの学生だ。不審者じゃなかったんだ。 うららはほっと胸をなで下ろすと、全身を縛っていた緊張感が解けていった。「あー、ってことは、飯塚研かな? ドラッグデザインとか代謝とかやってる」 うららの言葉に、氷彗の睫毛が大きく持ち上がった。「ど……どうして知っているんですか?」「そりゃ、同じ研究棟だしね。三年もいれば大体分かるよ」 相手の素性も明らかになり、完全に警戒心が薄れたうららは、手を差し出した。「私、塔山うらら。四階の田宮研で、シミュレーションやってるんだ」「塔山、うららさん。分かりました。私は」「鳥見川さん、でしょ? もう覚えたよ」 握手をした氷彗の手は、体質なのかヒンヤリしていた。 安心すると、忘れていた空腹感が再び顔を出してきた。 うららは自分のカップラーメンを探そうと、キョロキョロと辺りを見回していたら、システムキッチンの上に挽き肉の入ったボウルを見つけた。「もしかして鳥見川さん、ここで料理作ってたの?」「は、はい。今日はハンバーグを」「ハンバーグ!?」 うららは目を輝かせ、食欲のせり上がるまま、ぐいっと身を乗り出す。「……もしよければ、完成したら、一緒に食べます?」「え……いいの?」「その、驚かせてしまったお詫びを、したいので」「そういうことなら、お言葉に甘えて!」