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恋する暇なんてないのです

異世界コンビニ☆ワンオペレーション — novelup.plus · All chapters

恋する暇なんてないのです

私のトイレ問題は、――内緒です。 お嫁に行けなくなります。命を優先したとだけ、言っておきます。 夜になると、騎士さんが来てくれました。「やあ、無事だったかい?」「はい。おかげさまで、生きてます」「そういえば自己紹介がまだだったね。俺はランドルフ。王国騎士団所属の騎士だ」 私が言うよりも先に自己紹介をしてくれました。「私は白井沙織です。昨日はありがとうございました」「シライサオリ? ずいぶんと珍しい名前だね」「そうですか? シライでもサオリでも、どちらでも好きに呼んで下さい」「じゃあサオリと呼ぶ事にするよ。サオリ」 ドキリとしてしまいました。 男の人に名前で呼ばれるのなんて、何年ぶりでしょう。 いえ、別にそんな事で嬉しいとか思ったりしません。 名前で呼ばれるのが久しぶりだったから、ちょっとドキッとしただけです。 別にこの人が少し彫りが深くてイケメンだからとかじゃなくて、特に何もないです。 私だって彼氏が居た事もありますし、たまたま今居ないだけで、ちょっとその期間が長いかなってだけで、別に気にもしてませんし、もちろんこの歳で処女でもありませんし、イケメンに名前を呼ばれたくらいでクラッとかするわけもないですし、そんな事で頬を赤く染めたりなんて、もちろんありません。「どうしたんだい? 顔が赤いよ? なにか困った事でもあったのかい?」「あうあう」 私は言葉に詰まってしまいました。何か、何か言わないと、変な子だと思われちゃいます。「じ、実はトイレが結界の外で困っています!」 ああっ、これは言っていい事だったのでしょうか。 じゃあどこでトイレしているんだって話になったらどうしましょう!「トイレが? なるほど、それは困ったね」「あ、いえ、べつに、困ったとか、そういうんじゃ……」「トイレはどこだい?」「あ、あっちです」 トイレの扉はこのカウンターの正面、反対側に位置していて、オープンケースの隣になります。「結界はどこまでだったかな」 結界はカウンターからバックルームまで、……あ、そういえばオープンケースの裏までは調べてもらっていませんでした。  オープンケースの表となる飲料の棚はゴブリンに荒らされていたので、その裏側のウォークインのバックスペースも駄目なのだと、最初から諦めていたのです。「ちょ、ちょっと調べてもらっていいですか?」 カウンターからバックルームを通った先、ちょうど建物の角にあたる所を曲がると、ウォークインの扉があります。 この扉を開けると、飲料のオープンケースの裏側に入る事ができ、飲料の在庫を保存したり棚の補充も裏から出来るのです。 ランドルフさんに、オープンケースの表側から剣を突いてみてもらいました。 カンカンと途中でぶつかる音がします。「どうやらこの裏側も結界みたいだね」 やった。安全地帯が広がりました。 いえ、広がったわけではなく、私が気づかなかっただけなのですが、それでも私の移動スペースが広くなった事が嬉しかったのです。  このウォークインが安全地帯なのはラッキーでした。保存してある飲料がすべて無傷だったのですから。 これでこのお店の結界はくの字からコの字になりました。 そしてこのウォークインの突き当りの壁の先にあるのが、女子トイレなのです。「なんとかならないかなあ」 ランドルフさんに女子トイレを確認してもらったら、ランドルフさんは入れました。つまり女子トイレ内は結界の外なのです。 ウォークインと壁一枚を隔てているだけなのに、くやしい。「サオリが結界を作っているわけではないんだね」「はい。そうなんです。このお店のデフォらしくて」「デフォ?」「あ、はい。つまり標準設定? みたいな」「この壁、壊したら結界が繋がらないだろうか?」 ランドルフさんがとんでもない提案をしてきました。「そ、それは」 もし壁を壊して、結界が壊れたりしないのでしょうか。「そ、そんな事をして、結界は大丈夫なんでしょうか?」「うーんそれは保証できないなあ」 それじゃ困るのです。命が掛かっているのです。 でも、私もずっとキッチンでってわけにもいかない事を知っています。  だって、大きい方はキッチンでは無理ですから……。 せっかく水道は生きているので、流せるものはちゃんと流したいのです。 どこに流れて行くのかは、知りませんけど。「この壁はすぐに壊せそうですか?」「そうだね、随分と軽い材質みたいだから、俺の剣で壊せると思うけど」 これは賭けです。もし壁を壊して結界そのものが無くなってしまったら、私はアウトです。 でも結界がトイレにまで広がったなら、私はこれ以上ない至福のおトイレ時間を得る事が出来るのです。 でも、でも、何か保証が欲しい。――駄目だった場合の最低保証が。「あの、壁を壊してもし結界が壊れてしまったら、責任取ってくれますか?」「はい?」「駄目ですか?」「責任って……いったいどういった?」「私を……お嫁にもらってくれて、一生養ってくれる……とか?」「……」 だってそれくらいしてもらわないと、私生きていけないですよね? 別に私が二十代の折り返し地点で、結婚に焦っているとかじゃないんです。 ここで結界が無かったら確実に私、死にますよね? 別に私がイケメンに惹かれたとかじゃないんです。 なら最初からやめろとおっしゃいます? トイレですよ? 女子がトイレ行けないとか人間止めろと言ってますよね? もう片足突っ込んじゃいましたけど! キッチンでちょっとしちゃいましたけど! 私が心の中で、やけになって叫んでいると――「よし。やってやる!」 ――ランドルフさんの何かに火が点きました。「君くらい可愛い子だったら、ひとりやふたり養ってやる」「え!?」 か、かわいい……。 私は決して美人ではありません。 ですが、中の上といった所でしょうか、普通に整った顔立ちです。 私で満足してもらえるのなら、それに越したことはありません。  私としてもこのイケメンなら……いえ、決して顔で選ぶ事はしませんが、第一印象は大事なのです。 え? 第一印象は昨日この人に襲われるかもって思ってたって? そんな昔の事など覚えていません。記憶にございません。「で、では、やっちゃってください!」「おう!」 ランドルフさんは剣を振り、女子トイレの中から壁を壊し始めました。  ◇   ◇   ◇ その結果、私はイケメンのお嫁さんになる事にはなりませんでした。「結界が広がったぞ!」 壁一面が壊れた瞬間、ランドルフさんは結界に弾かれて女子トイレから飛び出してきました。 女子トイレまで結界が届いたのです。  壁を壊しても結界は広がらずに、トイレとの境界で留まる可能性もありました。 カウンターの空中の見えない壁のように。 でもトイレも結界の中に入れたのです。「あ、ありがとうございます。ランドルフさん」「ああ、俺としてはちょっと残念だけどな。いや、このまま俺の嫁になってもいいんだぞ」「それは……」 私としても、それでもいいかなって気持ちになっちゃいそうでした。 私と同い年くらいのランドルフさん。 この世界でこの人と結ばれて、子供とか作っちゃって、幸せに暮らせるのかなって少し想像しちゃったりして。 でも私はまだ、ここでやる事があるような気がします。 元の世界に戻れるのか分からないけど、まだしがみ付かなければならないような気がするのです。 その気持ちをそのまま、ランドルフさんに伝えました。「ランドルフさん。私、ここの結界がまだある内は、やらなきゃならない事があると思うの。だからまだ暫くはここに居ます。勝手な事言ってごめんなさい。でも本当に感謝してます。ありがとう」「ああ、構わないよ。そのうちどうにもならなくなったら、また俺に相談してくれ」 ああ、……優しいなあ、この人は。「はい。ランドルフさん」「ランドルフでいいよ。サオリ」「……ランドルフ、これからも巡回に来てくれますか?」「もちろんさ。毎日サオリに会いに来るよ」 私は少し、この人を好きになったのかも知れません。 でもこの世界に来たばかりの私は、まだ帰れる可能性を諦めたわけでもないのです。 この世界のシステムだか神だかが私を弄んでいるのだとしたら、なんとかそれに反抗してみたいとも思います。 ランドルフが帰った後、ゆっくりとトイレの時間を過ごせました。至福の時でした。 決して心の中で、(イケメンキープ)なんて思ったりしていません。