第1話 羊と蜂蜜の丘
第1話 羊と蜂蜜の丘
丘を越えたところで、オルヴァンが馬を止めた。なだらかな緑の斜面が幾重にも重なり、遠くまで続いている。石垣で区切られた牧草地には白い羊が散らばり、その向こうには赤茶色の屋根が二十軒ほど集まっていた。風が吹くたび、草の波が丘を渡る。「アデ。すごく綺麗です」隣で馬を止めたアデマールは、景色より先に夫を見た。白い襟付きシャツに旅用のズボン。左腕には白い長手袋が伸び、指先だけが覗いている。風に髪を揺らしながら丘を眺める横顔は、旅に出てから何度も見てきた。それでも、こんなふうに嬉しそうに目を細められると、毎回見入ってしまう。「気に入った?」「はい。あっち、一面に花が咲いています」「行ってみる?」「行きたいです」オルヴァンが笑った。アデマールも笑い、黒い革手袋をつけた手で手綱を引いた。村へ下りる道から少し外れると、黄色や薄紫の小さな花が斜面いっぱいに咲いていた。二人は馬を降り、手綱を引きながらゆっくり歩く。足元では蜂が忙しそうに花から花へ移り、遠くでは羊飼いの笛が鳴っている。「蜂が多いですね」「蜂蜜が名物かもな」「食べたいです」「即答」「アデも食べるでしょう?」「食べる」「ほら」「何が、ほら、なんだよ」オルヴァンが楽しそうに肩を寄せてきた。アデマールはその肩を抱き、頬へ口づける。「ん」「何?」「もう一回」「村に着く前から甘えん坊だな」「夫に甘えて何が悪いんですか」「何も悪くない」今度は唇へキスした。短く触れて離れるつもりだったのに、オルヴァンの指が黒いシャツの袖を掴む。アデマールはもう一度唇を重ねた。さっきより少し長い。離れると、オルヴァンが満足そうに笑った。「蜂蜜、楽しみですね」「結局そっちか」「アデも楽しみでしょう?」「オルがそんな顔するなら楽しみ」「またそういうことを言う」「本当だし」歩き出す。今度はアデマールから手を差し出した。オルヴァンは当たり前のように握る。花の中を抜け、二人は手をつないだまま村へ下りていった。****村へ入って最初に見つけた食堂では、本当に蜂蜜が出た。焼きたての丸パンを半分に割り、濃い羊乳のチーズを挟み、その上から黄金色の蜂蜜を垂らす。オルヴァンは一口食べた瞬間、目を丸くした。「アデ」「うん」「これ、すごくおいしいです」「顔見れば分かる」アデマールもかじる。焼けたパンの香ばしさ。塩気のあるチーズ。そこへ蜂蜜の甘さが重なる。「うまいな」「でしょう?」なぜかオルヴァンが得意そうだった。「お前が作ったみたいな顔するなよ」「僕が先に蜂へ気づきました」「蜂を見ただけだろ」「蜂蜜につながりました」「すごいすごい」「雑です」オルヴァンが少しむっとしたので、アデマールは自分の皿から蜂蜜の多いところを切り分けた。「ほら」「いいんですか?」「好きだろ」「好きです」オルヴァンが嬉しそうに食べる。アデマールはその顔を見て笑った。「もう一つ頼む?」「お願いします」「俺の分は?」「半分あげます」「優しい」「夫ですから」そこで食堂の外から、激しい鈴の音がした。一頭の羊が広場へ飛び込んでくる。「柵を閉めろ!」男の怒鳴り声が響いた。羊は広場の端で別の男に捕まり、ようやく止まった。腹の大きな母羊だった。店の主人が窓の外を見て眉をひそめる。「またかい」オルヴァンがパンを置いた。「また?」「三日前から羊が消えてるんだよ。今朝ので八頭目さ」すぐに、日に焼けた五十前後の男が食堂へ入ってきた。「マルテ、水」厨房から別の男が水差しを持って出てくる。「オドン、先に座れ。朝から何も食ってないだろ」「羊が戻った。東の柵も外れてる」「俺が見る。お前は飲め」「今は――」「朝もそう言った」「……半分だけだぞ」パンまで押しつけられ、オドンは渋々椅子へ座った。そのやり取りを見て、オルヴァンが笑う。アデマールが小声で言った。「似たようなこと言われてるな」「僕はちゃんと食べています」「忙しいと忘れる」「アデは怪我すると隠します」「今それ言う?」「言いました」アデマールはパンを食べた。負けた。オドンは水を飲み、ようやく二人へ気づいた。「騒がせたな」「羊がいなくなっているんですね」「ああ。狼ならまだ分かるんだが、妙なんだ」オドンは窓の外を見る。「森に近い牧草地から消える。なのに最近は、その狼まで森から逃げてきてる」オルヴァンの表情が少し変わった。「狼が?」「ああ。猟師が言ってた。昨日なんか群れごと西の丘まで出てきたそうだ」アデマールとオルヴァンが目を合わせる。オドンは続けた。「森の近くに何かいるのかもしれん。だが、羊を放ってもおけない」マルテが低い声で言う。「だからって一人で森へ入るな。昨日も止めただろ」「俺たちの羊だぞ」「分かってる。お前まで帰ってこなくなったらどうする」オドンの口が閉じた。窓の外では、戻った母羊が牧草地へ連れていかれている。オルヴァンはその姿をしばらく見てから立ち上がった。「森の入口だけ、見てきてもいいですか?」「旅人が?」「少し気になるので」アデマールも最後のパンを口へ入れる。「俺も行く」オドンが眉を寄せた。「危なかったら戻ってこいよ」「うん」「本当にだぞ」「大丈夫」マルテがオドンの肩を叩く。「その間に俺たちは柵を直すぞ」「……ああ」二人は食堂を出た。歩きながら、アデマールがオルヴァンを見る。「気になる?」「狼が群れごと逃げるなら、普通の獣ではなさそうです」「じゃあ見るだけ見よう」「はい」アデマールが手を差し出す。オルヴァンが握った。「森まで?」「森まで」「その先は?」「危なかったら手放す」「嫌です」「戦う時は離れて」「それなら仕方ありません」アデマールは笑った。****森の入口には、猟師が二人いた。地面には狼の足跡が残っている。だが、森の奥へ向かってはいない。外へ向かっている。オルヴァンは少し先まで歩き、黒ずんだ草の前でしゃがんだ。白い手袋から出た指先を近づける。「アデ」「うん?」「悪魔のマナです」アデマールの顔から笑みが消えた。「濃い?」「ここでは薄いです。でも、森の奥から流れてきています」年長の猟師が息を呑む。「魔獣か?」「たぶん」オルヴァンが立ち上がる。「狼も、これから逃げているんでしょう」説明はそれで十分だった。森の奥から、低い鳴き声が響いた。猟師二人が武器へ手を伸ばす。アデマールは黒い革手袋をつけたまま、魔法収納から大太刀を取り出した。オルヴァンの手にも細身のレイピアが現れる。「俺たちが見てくる」「二人で?」「二人の方が早い」オルヴァンも頷く。「村では羊を森から離してください。狼は西へ逃げていますから、そちら側へ寄せるのがいいと思います」猟師は二人の武器を見て、少し迷ってから頷いた。「分かった。気をつけろ」「はい」二人は森へ入った。****それほど奥まで行く必要はなかった。太い木の幹が大きく抉られている。踏み潰された低木。黒ずんだ草。そして、巨体が枝を押し分けて姿を現した。牛より一回り大きい四足の魔獣だった。黒褐色の体毛の間から硬い鱗が覗き、額から捩れた二本の角が伸びている。口元から落ちた黒い涎が草を萎らせた。「これですね」「分かりやすいな」魔獣が吠える。空気が震えた。アデマールが大太刀を肩へ担ぐ。「オル」「はい」それだけだった。魔獣が突進する。アデマールは真正面から受けた。二本の角が大太刀の腹へぶつかり、轟音が森へ響く。足元の土が抉れた。それでもアデマールはほとんど下がらない。「重っ」口元だけ笑う。魔獣がさらに押し込もうとする。その横を白い影が抜けた。オルヴァンのレイピアが魔獣の後脚を浅く裂く。魔獣が振り向いた。オルヴァンはすでに離れている。怒った魔獣がそのまま追う。数歩。オルヴァンが横へ跳んだ。同時に足元から蔓が伸び、魔獣の前脚へ絡みつく。ほんの一瞬、巨体が傾いた。その進路上には、もうアデマールがいた。「そこ」大太刀が振り下ろされる。一撃だった。魔獣の巨体が地面へ叩きつけられ、折れた角が土へ突き刺さる。森が静かになった。アデマールは魔獣の様子を確かめ、大太刀を下ろす。「終わり」「はい」オルヴァンがレイピアを収める。アデマールがすぐ近づいた。「怪我は?」「ありません」「ほんと?」「本当です。アデは?」「俺も平気」二人とも無事だと分かると、張り詰めていた空気があっさりほどけた。オルヴァンが笑う。「格好よかったです」「また惚れた?」「はい。何度でも」アデマールの顔が一気に緩む。「俺も。オル、すごかった」「いつもの補助です」「俺が欲しいところに、ちゃんといてくれる」「夫ですから」アデマールが何か言おうとした時だった。森の奥から、弱い鳴き声が聞こえた。二人とも振り向く。「羊?」「行きましょう」****魔獣が潜んでいた岩場の裏に、浅い窪地があった。その奥で四頭の羊が身を寄せ合っている。一頭は後脚を痛め、もう一頭は脇腹に傷があった。残る二頭も怯えている。「生きています」オルヴァンが急いで近づく。アデマールは暴れそうになった一頭の首へ腕を回し、ゆっくり押さえた。「大丈夫。もう終わったからな」オルヴァンが傷を確かめる。「少し治します」淡い光が羊の身体を包む。痛めていた脚へも魔法を重ねると、荒かった呼吸が少しずつ落ち着いていった。「歩けそう?」「少し休めば。ただ、この子は無理をさせたくありません」アデマールが周囲を見る。木々の切れ間に小さな草地がある。「じゃあ、あそこで休ませよう」四頭を草地へ移す。しばらくすると、一頭が草を食み始めた。もう一頭も続く。オルヴァンがようやく肩の力を抜いた。「よかった」その横顔を見た瞬間、アデマールの胸の奥が熱くなった。魔獣を前にしていた時より、羊が草を食べただけでこんなに嬉しそうな顔をする。昔からそうだった。強くて、賢くて、それなのに目の前の小さな命まで放っておけない。「オル」「はい?」オルヴァンが振り返る。「好き」「急ですね」「今また惚れた」「僕が先に言ったのに」「じゃあ同じ」アデマールは笑って、オルヴァンの腰を抱いた。最初のキスは短かった。けれど離れた時、オルヴァンが嬉しそうに目を細めた。それを見たら、もう一度触れたくなった。今度は言葉より先に身体が動いた。アデマールが深く口づける。オルヴァンは驚くどころか、すぐ首へ腕を回して応えた。白いシャツ越しに身体が重なる。唇が離れる。「アデ」声が少し甘い。アデマールが頬へ触れる。「ごめん。かわいすぎた」「謝るくらいなら、もう一回してください」また唇が重なる。オルヴァンの指が黒いシャツを掴み、身体を引き寄せる。アデマールの腕も腰を強く抱いた。何度か口づけるうちに、ただ嬉しかっただけの熱が、もっと近くにいたい欲へ変わっていく。オルヴァンが唇を離し、額を寄せた。「アデ……もっと」「うん」今度はオルヴァンから口づけた。アデマールがその身体を抱き上げる。オルヴァンの脚が腰へ絡み、首へ回した腕が離れない。「オル」「離れたくないです」「俺も」アデマールは羊から少し離れた木陰へ歩いた。オルヴァンは抱かれたまま、何度も頬や唇へ口づける。木陰へ入ると、アデマールは夫を下ろした。けれど、二人の距離は離れなかった。オルヴァンの指が黒いシャツの留め具を緩める。アデマールも白い襟元へ触れ、そこから覗く肌へ唇を寄せた。「アデ」「ん?」「好きです」「俺も」肩から背中へ掌が滑り、互いの身体をもっと近くへ引き寄せる。オルヴァンがもう一度脚を絡める。アデマールの名前を呼ぶ。何度触れても足りなかった。森を渡る風と、少し離れた場所で草を食む羊の鈴だけが聞こえていた。二人はそのまま、しばらく身体を重ねた。****太陽が西へ傾いていた。オルヴァンは白いシャツの留め具を一つずつ直し、髪を手櫛で整えていた。アデマールも黒いシャツを着直し、草のついたズボンを払う。オルヴァンが胸元を見る。「……これで大丈夫ですか?」アデマールが眺める。「一個ずれてる」「どこです?」「ここ」留め具を直してやる。オルヴァンが少し頬を赤くした。「アデのせいです」「俺だけ?」「僕もです」素直だった。アデマールが笑う。「かわいい」「今はいいですから」「何が?」「顔を見ないでください」「無理」オルヴァンは諦めて白い長手袋を整えた。その横で一頭の羊がじっと二人を見ている。オルヴァンも気づいた。「……見てました?」「たぶん」「ずっと?」「さあ」オルヴァンが両手で顔を覆った。アデマールは笑いを堪えきれなかった。「羊だぞ」「分かっています!」「誰にも言わないって」「当たり前です!」羊が小さく鳴いた。オルヴァンはさらに赤くなった。それでも少しすると、二人とも笑った。帰る支度を始める。二頭は自力で歩けた。脚を痛めていた一頭をアデマールが抱え、もう一頭を即席の担架へ乗せる。「持てます?」「羊一頭くらい余裕」「担架もありますよ」「じゃあそっちは一緒に持とう」「はい」四頭を連れ、二人は村へ戻った。****村へ着いた頃には日が沈みかけていた。牧草地には羊が集められ、森側の柵は二重に補強されている。村人たちは松明と道具まで用意していた。オドンが二人を見つけて走ってくる。「帰ったか!」その声が途中で変わった。「……羊!」四頭を見つけ、さらに速度を上げる。アデマールが抱いている羊を見た瞬間、オドンの顔が崩れた。「ミナ!」アデマールが慎重に地面へ下ろす。「脚を痛めてた。オルが治したけど、今日は休ませてやって」「分かった。分かった……」オドンが膝をつき、羊の額へ手を置く。「この子、腹に子がいるんだ」手が少し震えていた。「帰ってきたか。よかったなあ」ミナが小さく鳴く。遅れて来たマルテが、オドンの肩へ手を置いた。それから二人へ向き直る。「魔獣は?」「倒したよ」「二人で?」アデマールが頷く。「うん」オルヴァンが森を見る。「原因はそれだと思います。狼も魔獣から逃げていました。明るくなってから、猟師の方と森を確認してください」「ああ。そうする」オドンは二人を見た。そこで眉を寄せる。「お前ら……」アデマールの黒いシャツには草が残り、髪も少し乱れている。オルヴァンも整えたつもりらしいが、白い襟元はわずかに曲がり、長手袋の片方が少し下がっていた。オドンの表情が痛ましげになる。「相当、大変だったんだな」アデマールが黙った。オルヴァンも黙った。二人で目を合わせる。オルヴァンの耳が一気に赤くなった。「……まあ、いろいろ」アデマールが答える。オドンは深く頷いた。「本当にありがとう」マルテも頭を下げる。オルヴァンは視線を逸らした。アデマールは笑いそうになるのを我慢した。****その夜、村ではささやかな宴になった。焼きたてのパン。羊乳のチーズ。香草を詰めた肉料理。根菜の煮込み。そして蜂蜜酒。オルヴァンが一口飲む。「アデ、これおいしいです」「甘いな」「好きです」「知ってる」オルヴァンが自分の杯を差し出した。「もう一口飲みます?」「もらう」アデマールが同じ杯から飲む。向かいでは、オドンとマルテが笑っていた。昼の張り詰めた様子はもうない。食事が終わる頃、オドンが革袋を持ってきた。「礼だ。受け取ってくれ」硬貨の音がする。アデマールは袋より、後ろの棚を見た。蜂蜜の瓶が並んでいる。「あれ一瓶くれない?」「こんなもんでいいのか?」「あとチーズ」オルヴァンがすぐ言う。「蜂蜜は二瓶がいいです」「増えたな」「旅の途中で食べられます」「絶対すぐなくなるだろ」「大事に食べます」オドンが笑った。「なら蜂蜜二瓶とチーズ二つだ。持ってけ!」マルテが棚から包みを出す。「次の町まで残ってるといいけどな」オルヴァンは嬉しそうに受け取った。その顔を見て、アデマールは自然に頬へ口づけた。「よかったな」「はい。アデも一緒に食べましょう」「もちろん」オドンが二人を見る。「仲のいい夫夫だな」アデマールはすぐオルヴァンの肩を抱いた。「俺の自慢の夫だから」オルヴァンの口元が緩む。「アデも僕の自慢です」顔を見合わせる。一度、軽くキスした。それだけで済むはずだった。オルヴァンが少し名残惜しそうに見上げる。アデマールがもう一度近づく。二度目は少し長くなった。マルテが呆れたように笑う。「続きは宿でやんな」二人が離れる。オルヴァンがアデマールを見る。「宿へ帰ります?」「帰る?」「はい」返事が速い。マルテが卓を叩いた。「そういう意味で言ったんじゃない!」食堂中に笑い声が広がった。アデマールもオルヴァンも笑った。****翌朝。二人は蜂蜜とチーズを肩掛けバッグへ入れ、村を出た。丘の上まで来ると、昨日と同じ風が花畑を揺らしている。遠くでは羊の群れが動き、小さな鈴の音が風に乗って届いた。オルヴァンが馬上から振り返る。「いい村でしたね」「うん」「蜂蜜もおいしかったです」「一番最初にそれ?」「景色も綺麗でした」「二番目?」「アデと一緒だったのが一番です」アデマールが止まった。オルヴァンは何でもない顔をしている。「オル」「何です?」「今すぐキスしたい」「してください」馬を寄せる。ほんの短いキスを交わした。離れると、オルヴァンが笑う。「次はどちらへ行きます?」「まだ決めてない」「では、あっちにしませんか」オルヴァンが丘の先を指す。街道が二つに分かれ、その片方には花の咲く草原が続いていた。アデマールも見る。「いいな」「行きましょう」「うん」二頭の馬が並んで歩き出す。花の続く方へ。急ぐ理由は、どこにもなかった。