第12話 峠の向こうへ
第12話 峠の向こうへ
翌朝、三人は再び閉鎖採石坑の前に立っていた。岩山へ黒く開いた坑口から、冷たい風が流れてくる。ベルトランの手には、砦の倉庫から見つかった古い坑道図があった。何度も折り畳まれ、端が擦り切れている。アデマールが横から覗き込む。「分かる?」「大体はな」ベルトランが坑口と図面を見比べる。「昔は奥で三方向に分かれてたらしい。ただ、閉鎖されてから何十年も経ってる。崩れてる場所もあるだろう」オルヴァンも図を見る。「支柱も残っていますね」「ああ。天井にも亀裂がある」アデマールが大太刀の柄へ触れた。「派手なのはなしだな」「その方がいいです」オルヴァンが白い長手袋の手首を整える。ベルトランが図を畳んだ。「中で山ごと吹き飛ばすなよ」「俺を何だと思ってる?」「勇者」「それなら仕方ないな」「納得するな」オルヴァンが笑った。それから三人とも坑道を見る。空気が変わった。アデマールが大太刀を抜く。ベルトランも長剣を抜いた。オルヴァンの手には細身のレイピア。「行こう」三人は暗い坑道へ入った。****内部には、昔石を切り出した跡がそのまま残っていた。壁は階段状に削られ、ところどころに太い支柱が立っている。天井から雪解け水が落ちる。足元には小石が多い。三人は急がなかった。ベルトランが先頭。オルヴァンが中央。アデマールが後ろ。曲がり角へ来るたび、ベルトランが先を確認する。古い坑道図にあった分岐の一つは完全に崩れていた。もう一つも途中で天井が落ちている。残った道だけが、奥へ続いていた。進むほど空気が重くなる。オルヴァンが一度だけ立ち止まった。「近いです」アデマールが振り返る。「分かる?」「はい」悪魔のマナ。昨日まで山に薄く残っていたものより、ずっと濃い。説明はそれだけで十分だった。三人はさらに進む。やがて、坑道が大きく開けた。かつて最も多く石を切り出した場所なのだろう。天井の高い巨大な空洞。壁には切削跡。折れた支柱。崩れた石の山。その中央に、何かがいた。アデマールが小さく息を吐く。「……でかいな」四足。熊を遥かに超える巨体。灰黒色の硬い毛が背から首まで逆立ち、前脚には長い三本の爪が伸びている。頭は低い。裂けた口から牙が覗く。呼吸のたび、黒い靄が薄く漏れていた。ベルトランが剣を少し上げる。「昨日まで山にいた連中が逃げるわけだ」魔獣の目が開いた。濁った赤。三人を捉える。次の瞬間、咆哮が空洞を揺らした。アデマールが眉を寄せる。「うるさっ」黒い靄が広がる。オルヴァンがレイピアを振った。淡い膜が三人の周囲へ一瞬だけ広がり、靄を散らす。「長く浴びないでください」「分かった」ベルトランが走った。「まず硬さを見る!」長剣が前脚へ走る。甲高い音。硬毛が飛んだ。刃は皮膚まで届いたが、浅い。ベルトランはもう退いている。直後、三本爪が同じ場所を薙いだ。石壁が深く抉れた。「硬い!」アデマールが正面から踏み込む。大太刀。魔獣の爪。ぶつかる。空洞に重い音が響いた。アデマールの靴が石床を滑る。「重っ!」それでも押し負けない。魔獣が頭を振る。アデマールが横へ抜ける。入れ替わるように、オルヴァンが魔獣の足元へ滑り込んだ。レイピアが後脚の付け根を狙う。硬い。浅い。オルヴァンはすぐ離れた。「全身ですね」「面倒だな」ベルトランが言う。魔獣が身を沈めた。今度は三人とも動く。突進。ベルトランが右へ。アデマールが左へ。オルヴァンは一歩下がり、地面へレイピアを向けた。細い蔓が石の隙間から伸びる。魔獣の後脚へ絡んだ。ほんの一瞬。それだけで十分だった。ベルトランが右前脚へ斬撃を重ねる。一度。二度。同じ場所。硬毛が裂け、赤い傷が見えた。魔獣が怒り、右爪を振る。ベルトランが後ろへ跳んだ。アデマールが反対から大太刀を叩き込む。巨体が僅かに揺れた。「やっぱ硬い!」「でも動きました!」オルヴァンが言う。魔獣が口を開く。喉の奥へ黒い光が集まった。「来ます!」三人が散る。黒い奔流が空洞を横切った。石床が削れる。古い支柱の一本が途中から砕けた。天井から砂と小石が落ちる。ベルトランが上を見る。「これ以上壊させるな!」「分かってる!」アデマールが返す。大技は使えない。広く吹き飛ばすこともできない。それでも三人の動きは鈍らなかった。魔獣が再び吠える。ベルトランが正面。アデマールが左。オルヴァンが右。それぞれが違う場所を見る。ベルトランの剣が前脚へ入る。アデマールの大太刀が首を狙う。オルヴァンの魔法が後脚の動きを一瞬だけ鈍らせる。一撃ごとに、少しずつ。硬い毛。厚い皮。巨体。それでも傷は増えていく。魔獣が頭を下げた。爪を振る。口を開く。その瞬間。オルヴァンの視線が止まった。喉。硬毛が僅かに開く。次に、傷の入った右前脚。アデマールが見る。オルヴァンを見る。喉。右前脚。それだけだった。アデマールの握りが変わった。ベルトランが二人を見る。「何だ?」返事はない。魔獣が咆哮した。アデマールが真正面へ走った。「おい!」ベルトランもすぐ追う。魔獣の右爪が上がった。オルヴァンが動く。傷のある前脚へ、細い雷が走った。魔獣の脚が僅かに痺れる。すぐ切れる。だが、その一瞬でアデマールが懐へ入った。魔獣が口を開いた。喉へ黒い光が集まる。アデマールが大太刀を片手へ移す。空いた手で下顎を掴んだ。もう片方を上顎へ。「三秒!」オルヴァンが即答する。「十分です!」アデマールが力を込めた。魔獣の頭が上を向く。黒い奔流が天井近くへ逸れた。岩が砕ける。同時に、左の三本爪がアデマールとオルヴァンへ向いた。ベルトランが息を吐く。「《リミット・ブレイク――二倍》」一歩。姿が消えたように見えた。次の瞬間には、魔獣の左側へ入っている。長剣が三本爪を受けた。轟音。ベルトランの靴が石床を削る。それでも爪を一歩も通さない。「三秒だけだぞ!」「十分!」アデマールが叫び返す。一秒。オルヴァンが右前脚へ踏み込む。ベルトランが作った傷。その一点へレイピアを突き込む。魔力が弾けた。傷の奥へ細い雷。魔獣の右脚が崩れる。巨体が傾いた。二秒。喉が下がる。硬毛が開く。オルヴァンが真下へ入った。レイピアを突き上げる。喉の柔らかい一点へ刃が入る。深く。硬毛の隙間がさらに開いた。三秒。オルヴァンはそこにいた。魔獣の喉元。アデマールの大太刀の軌道上。避けない。アデマールが顎から手を離した。両手で大太刀を握る。身体を捻る。一閃。巨大な刃が、オルヴァンの背中すれすれを通った。白い服が風圧で揺れる。オルヴァンは振り返らない。一歩だけ前へ出る。大太刀が、レイピアで開いた一点へ叩き込まれた。深い音がした。魔獣の巨体が止まる。赤い目が揺れる。黒い靄が途切れた。そして。崩れ落ちた。空洞が大きく震える。三人とも、その場からすぐ離れる。石片が落ちる。埃が舞う。やがて、それも収まった。魔獣はもう動かなかった。****しばらく、誰も口を開かなかった。ベルトランが《リミット・ブレイク》を解く。一度だけ腕を振った。「二倍でも狭いところじゃ疲れるな」アデマールが大太刀を下ろす。「助かった」「三秒だけだからな」「十分だった」ベルトランの眉が動く。どこかで聞いた言葉だった。その横で、オルヴァンが魔獣の身体から離れていく黒い気配を見ている。少し待つ。坑道の壁。地面。天井。新しく湧くものはない。「薄くなっています」ベルトランが魔獣を見る。「中心はこいつで合ってたか」「そのようです」それだけだった。原因が分かれば、あとの確認は砦の仕事になる。アデマールがオルヴァンのところへ行く。最初に顔を見る。肩。腕。白い服。「怪我は?」「ありません。アデは?」オルヴァンも黒い服を見る。肩の布が少しだけ裂けていた。手で触る。血はない。「ない」「よかった」オルヴァンが息を吐いた。アデマールの腕が腰へ回る。引き寄せる。短く唇が触れた。離れる。「格好よかった」アデマールが言う。オルヴァンも笑う。「アデもです」その横で、ベルトランが二人を見ていた。いつもならそこで終わるはずだった。だが今日は、違うものが気になっている。「……今の、打ち合わせは?」二人が振り向く。「何の?」アデマールが聞く。「最後だ」ベルトランが大太刀の軌道を手で示す。「オルヴァンの背中すれすれだったぞ」オルヴァンが普通に答えた。「当たりませんから」「当てないし」アデマールも普通だった。ベルトランが二人を交互に見る。「……そうかよ」それ以上は言わなかった。ただ、少しだけ呆れた顔をしていた。アデマールとオルヴァンは、もう倒れた魔獣を見ている。二人にとっては、それで終わった話らしい。ベルトランは小さく息を吐いた。「帰るぞ」「腹減った?」「減った」「俺も」「僕もです」三人は坑道の入口へ向かった。****山を下る頃には、雲の切れ間から陽が差していた。逃げた動物たちが、すぐ山へ戻るわけではない。峠道もまだ閉ざされたまま。それでも途中で、遠くから一度だけ鳥の声が聞こえた。オルヴァンが足を止める。「聞こえました?」「ああ」アデマールも山を見る。ベルトランは少し先で立ち止まった。「明日から斥候を上げる。峠と牧草地の安全を確認してからだ」「獣もまだ下にいるでしょうね」オルヴァンが言う。「ああ。牧夫と猟師にも注意を回す」倒したから、すぐ全部が元へ戻るわけではない。けれど、山を押していたものはもういない。三人はそのまま砦へ戻った。****夕方。砦の中庭には、大きな鍋がいくつも並んでいた。兵士。牧夫。斥候。町の職人たち。避難している人々も混ざっている。まだ峠は開いていない。家畜もすべて戻せるわけではない。だから祝勝会というより、ようやく少し肩の力を抜いて食べる夕食だった。豆と肉の煮込み。焼いた腸詰め。山羊乳のチーズ。黒パン。酸味の強いキャベツ。アデマールが皿を受け取る。「やっぱここの飯好き」「知っています」オルヴァンも隣へ座る。ベルトランが向かいへ腰を下ろした。「結局そこか」「戦ったら腹減るだろ」「お前は戦わなくても減る」アデマールは気にせず腸詰めを食べた。オルヴァンも煮込みへ黒パンを浸す。少しして門衛長がやってきた。「坑道の入口は封鎖して、明日確認班を出す。峠は早くても数日は開けん」「それがいい」ベルトランが答える。「牧草地も順番に戻す」「お願いします」オルヴァンが言う。門衛長は三人を見た。「助かった」短かった。ベルトランも短く返す。「ああ」門衛長はそれで兵士たちの方へ戻った。アデマールが杯を上げる。「じゃあ、お疲れ」「軽いな」ベルトランも杯を持つ。オルヴァンも重ねた。「お疲れさまでした」三つの杯が鳴る。酒を飲む。それからは戦いの話より、食事の話の方が多くなった。アデマールが最後の腸詰めを見つける。オルヴァンも見る。二人の視線が合う。アデマールが皿へ取った。半分に切る。何も言わず片方をオルヴァンへ渡した。「ありがとうございます」オルヴァンも何でもないように受け取る。ベルトランがそれを見る。「何だよ」アデマールが聞く。「別に」ベルトランは酒を飲んだ。「昔からそうだったと思っただけだ」オルヴァンが笑う。「そうでした?」「食い物を分けてた」「アデが勝手にくれたんです」「オルもくれただろ」「くれましたね」アデマールが嬉しそうに言う。「じゃあ昔からだ」ベルトランはそれ以上何も言わなかった。****宿へ戻った頃には、町の音もだいぶ静かになっていた。部屋へ入る。扉が閉まる。アデマールが大太刀を壁際へ置いた。オルヴァンもレイピアを収める。いつもの二人きり。アデマールが肩の裂けた黒い服へ手を掛けた。その前に、オルヴァンが近づいた。「見せてください」裂けた布を少し開く。肌には、薄い赤みすらほとんどない。オルヴァンが指先で確かめる。「本当に大丈夫ですね」「言っただろ」アデマールはそのままオルヴァンを見た。白い服。白い長手袋。傷一つない。「オルも無傷?」「はい」少し黙る。アデマールの手が腰へ触れた。「なあ」「はい?」「最後、避けなかったな」オルヴァンは何を言われているのかすぐ分かった。「はい」「俺の大太刀、来てたぞ」「知っています」「かなり近かった」「そうですね」アデマールがオルヴァンの顔を見る。「怖くなかった?」オルヴァンは少し不思議そうにした。それから、当たり前のように答えた。「アデでしょう?」アデマールの表情が止まった。オルヴァンが首を傾げる。「アデ?」次の瞬間。腰を強く引かれた。唇が重なる。一度で離れない。オルヴァンもすぐ首へ腕を回した。息が触れる。また唇が重なる。アデマールの手が背中へ回る。いつもより強い。オルヴァンも離れない。「アデ」「今の、駄目」「何がです?」「好きすぎる」もう一度キス。オルヴァンの口元が少し緩む。「本当のことですよ」「それが駄目なんだって」「僕はアデを信じています」アデマールが額を寄せた。「知ってる」「僕も、三秒あればアデが作ってくれると思っていました」「作るよ」「はい」迷いがない。どちらにも。アデマールが白い長手袋の手を取った。指を絡める。「オル」「はい」「もうちょっと近く」オルヴァンが自分から身体を寄せた。「僕も、そのつもりです」キス。また。今度はオルヴァンから深く求める。アデマールの手が腰から背中へ滑った。白い服が少しずつ緩む。オルヴァンも黒い襟元へ指を掛けた。肩。胸。昼間、大太刀を振るっていた腕。そこへ自分から触れる。「アデ」「うん」「もっと」その声で、アデマールの腕にさらに力が入る。抱き上げる。オルヴァンも自然に腕を首へ回した。唇が離れない。寝台へ着くまで待つというより、もう二人とも離れる理由を持っていなかった。服がほどける。肌が触れる。オルヴァンの指がアデマールの背へ回る。アデマールの手も白い身体を確かめるように撫でた。「オル」「はい」「ほんとに、当たり前みたいに信じるよな」オルヴァンが目を細める。「夫ですから」アデマールが息を飲む。また唇を重ねた。オルヴァンも強く抱き返す。昼間、命を預けた時と同じだった。疑わない。躊躇わない。相手なら大丈夫だと、身体の方が先に知っている。絡めた指にも力が入る。脚が触れる。互いの熱が近づく。「アデ」「うん」「離れないでください」「離れない」何度もキスを重ねながら、二人はそのまま身体を重ねた。****夜更け。オルヴァンはアデマールの胸へ頬を寄せていた。毛布の中で、まだ片手をつないでいる。アデマールが白い髪をゆっくり撫でた。オルヴァンが指先を少し動かす。「アデ」「ん?」「三秒、長かったですか?」「全然」「僕には十分でした」「知ってる」オルヴァンが少し笑う。アデマールも笑った。しばらく静かになる。やがてアデマールが言う。「でも、次はもうちょい離れてて」「どうしてです?」「ベルトランがうるさいから」「そこですか?」「あと、俺が気になる」「当てないでしょう?」「当てないけど」オルヴァンが胸へ顔を埋めた。笑っている。アデマールもその背中を抱く。「オル」「はい」「好き」「僕もです」それだけ言って、また静かになった。二人には、もう十分だった。****翌朝。砦の北門では、兵士たちが山へ向かう準備をしていた。安全確認。崩れた道。逃げた獣。牧草地。仕事はまだたくさん残っている。ベルトランも当然、砦へ残る。アデマールとオルヴァンは南側の門で馬へ荷物をつけていた。ベルトランが歩いてくる。手には小さな袋。アデマールへ投げる。「何?」「途中で食え」中には固い山チーズと燻製肉。アデマールの顔が明るくなった。「ありがとう」「昨日の残りだ」オルヴァンが袋を覗く。「十分ご馳走ですよ」「お前らなら食うだろ」「食べます」即答だった。ベルトランが少し笑う。アデマールが馬へ乗った。「じゃあ、またな」「ああ」オルヴァンも鐙へ足を掛ける。「ベルトラン」「何だ」「また一緒に食事しましょう」「今度はもう少し静かな場所でな」アデマールが言う。「それ、ベルトラン次第じゃない?」「お前らにも言ってる」三人が笑う。オルヴァンも馬へ乗った。「では、また」「ああ。またな」二頭の馬が並んで歩き始める。少し進んでから、アデマールが振り返った。ベルトランはもう砦の方へ戻っている。アデマールも前を向く。道は谷を抜け、南へ続いていた。「オル」「はい?」「次、どっち行く?」オルヴァンが道の先を見る。少し先に分かれ道がある。「川沿いの方へ行ってみませんか?」「いいな」二頭の馬が同じ方へ曲がる。アデマールが隣へ手を伸ばした。オルヴァンが笑って、その手を取る。街道はまだ、ずっと先まで続いていた。