第13話 水の町では、ゆっくり漕げ
第13話 水の町では、ゆっくり漕げ
「旦那! 速く漕ぐんじゃない! ゆっくりだ!」船頭の声が水路いっぱいに響いた。アデマールは慌てて櫂を浅くしたが、細長い小舟は勢いよく前へ滑っていく。向かいから果物売りの舟が来ていた。「アデ、右へ」「分かった!」櫂を入れると、今度は舟首がぐいっと右へ振れた。「回しすぎだ!」船尾の船頭が頭を抱える。隣ではオルヴァンが肩を震わせていた。「オル、笑ってるだろ」「だって、アデがものすごく真剣なので」「真剣だよ。これ、戦場より難しくない?」「舟は倒して勝てませんからね」船頭まで吹き出した。朝の運河は、すでに何十艘もの舟で賑わっていた。石造りの建物の間を大小の水路が走り、荷船、渡し舟、花を売る舟、焼き菓子を積んだ舟まで行き交っている。二人は朝から観光用の小舟を借りた。船頭が漕いでくれるだけでも町を回れるのだが、アデマールが「俺もやってみたい」と言った結果、最初の橋へ着く前から何度も指導を受けている。「黒い旦那、櫂は押し切らなくていい。水を撫でるくらいで十分だ」「撫でる?」「そうそう」アデマールは言われた通り、今度こそ力を抜いた。小舟が静かに進む。「お」船頭が頷いた。アデマールはすぐオルヴァンを振り返る。「今の見た?」「きれいに進みましたね」「上手かった?」「さっきまでよりずっと」アデマールは満足そうに笑った。船頭も笑う。「旦那、褒められると伸びるな」オルヴァンが楽しそうに頷いた。「昔からです」****水上朝市では、舟そのものが店になっていた。「焼きたて! 胡桃と蜂蜜!」声のする方から、大きな籠を積んだ舟が近づいてくる。オルヴァンの視線が、その籠へ吸い寄せられた。アデマールが櫂を持ち直す。「寄せる」「俺がやる!」船頭が素早く櫂を奪った。「なんで?」「朝飯を沈めたくねえ!」二艘が並ぶと、オルヴァンは胡桃入りの焼きパンを二つ買った。熱い紙包みを受け取り、一つをアデマールへ渡す。二人で齧る。表面は香ばしく、中から温かい蜂蜜が染み出した。「うまい」「おいしいです」その横を香辛料の舟が通り、その向こうでは猫獣人の青年が色とりどりの花を売っている。アデマールはパンを食べながら、器用に片足で舟を操る青年を眺めた。「みんな簡単そうだな」「この町では、歩くのと同じくらい慣れているんでしょうね」「オルもやってみる?」「いいですよ」「結構難しいよ」「アデがたくさん見せてくれましたから」アデマールがパンを食べる手を止めた。「それ、失敗の方?」「成功したところもありましたよ」船頭が声を上げて笑った。アデマールも結局笑い、残りのパンを一口で食べた。****古い石橋をくぐった先には、小さな工房が並んでいた。水際まで大きな扉が開き、舟から直接材料を運び込める。ガラス工房の店先では、朝日を受けた小瓶や飾り玉が光っていた。オルヴァンが舟の上から身体を乗り出した。「あそこ、寄りたいです」「俺も見たい」船頭が舟を岸へつける。工房の中には赤、青、緑の小瓶が並び、奥では職人が細いガラスを炎の前で回している。オルヴァンは水滴の形をした薄青の飾りを手に取った。「きれいですね」アデマールは横から覗き込む。「オルに似合いそう」「僕につけるものじゃありませんよ」「分かってる。なんとなく」オルヴァンが笑う。「では、宿の窓辺に下げましょうか」「買う?」「はい」二人で一つ選び、包んでもらった。次の店では香油を嗅ぎ、その先では木彫りの小舟を眺めた。昼になる頃には、アデマールの肩掛け鞄に小さな包みがいくつか増えていた。水路へ張り出した食堂では、焼いた川魚と豆の煮込みを頼んだ。食事の途中、アデマールが水面を眺めながら言う。「オル、午後は漕ぐ?」「そのつもりです」「見るのとやるのは違うからな」「そうですね」「結構難しいから」「はい」「俺も後半は上手かったけど」「はいはい」オルヴァンが魚を一切れ自分の皿へ移しながら笑った。アデマールは少しだけ不満そうに眉を寄せたが、すぐ豆の煮込みへ戻った。****午後。オルヴァンは船頭から櫂を受け取った。「最初は小さく動かせばいい。舟が進み始めたら、無理に押さなくても流れてくれる」「分かりました」一度、水を押す。小舟が静かに前へ出た。二度目もまっすぐ。橋脚が近づくと、オルヴァンは櫂を浅く入れ、舟首を滑らかに向けた。そのまま狭い間を抜ける。アデマールは腕を組んだ。「……上手いね」「ありがとうございます」「初めて?」「初めてです」船頭が感心したように頷く。「白い旦那、筋がいいな」アデマールはしばらく水面を眺めた。「俺も最後はこんな感じだった?」「近かったですよ」オルヴァンが妙に柔らかい声で答える。「慰めてる?」「少しだけ」オルヴァンが笑い、アデマールもつられて笑った。****午後の水路は朝より混んでいた。市場から戻る舟、倉庫へ向かう荷船、劇場街へ客を運ぶ渡し舟が次々と交差する。二人の小舟の前を、大きな荷船が進んでいた。船体いっぱいに木箱と壺が積まれ、岸では二頭の荷役獣が太い曳き綱を引いている。その綱が突然切れた。鈍い音が響き、荷船が斜めへ流れる。進行方向には客を乗せた渡し舟がいた。「綱が切れた!」「渡しを下げろ!」岸と船上から声が飛ぶ。アデマールが立った。さっきまでオルヴァンの舟さばきに軽口を叩いていた雰囲気が、一瞬で変わる。「オル」「はい」それだけで二人は別々に動いた。アデマールは船縁を蹴り、岸へ飛ぶ。石畳を一歩走り、流れてくる荷船へ跳び移った。船員の横を抜け、切れた曳き綱を掴む。「これ借りる!」返事を待つ間もなく船尾から岸へ飛び戻り、両手へ綱を巻き取った。綱が張る。満載の荷船がアデマールを引いた。靴底が石畳を滑り、一歩、二歩と下がる。三歩目で止まった。荷船も止まった。船腹へ押し返された水が大きく跳ねる。岸辺が静まり返った。アデマールは綱を握ったまま、荷船の船員へ声を飛ばす。「これ、どこへ繋ぐ?」船員が呆然と係船柱を指した。「……そこだ」「了解」その頃には、オルヴァンも小舟を動かしていた。「少し借ります」船頭から櫂を受け取り、混雑した舟の間を抜ける。止まった荷船へぴたりと横付けした。「足を痛めた方はこちらへ」転倒した船員を乗せ、岸まで運ぶ。すぐに向きを変え、もう一度荷船へ戻る。別の船員を乗せる。流れを横切る舟の間へ入るたび、櫂が一度だけ水を切った。荷船では、傾いた木箱が積み荷の端へ寄っていた。アデマールが岸から振り返る。オルヴァンも同じ場所へ視線を向けた。指先が僅かに動く。揺れていた木箱と壺が静まった。「新しい綱を持ってきたぞ!」荷役人たちが走ってくる。そこからは、この町の船員たちが動いた。綱を掛け直し、積荷を確かめ、渡し舟を先へ通す。水路には数分でいつもの声が戻った。荷船の船員が岸へ上がり、アデマールを上から下まで見た。「旦那……何者だ?」アデマールは黒い手袋についた水を払った。「旅人」小舟を寄せたオルヴァンも頷く。「二人で観光中です」船頭が対岸から叫んだ。「観光客が荷船を腕で止めるか!」周囲から笑いが起きた。アデマールも笑い、オルヴァンの小舟へ戻った。****事故のあとは、水上菓子屋を探した。冷たい乳菓子へ果実蜜をかけたものを一つずつ買い、二人で舟の上から夕方の水路を眺める。オルヴァンは柑橘。アデマールは赤い果実。「オルの一口」「では僕にもそちらをください」器を交換する。少し離れたところから声が飛んできた。「さっきの旦那たち!」荷船の船員が別の舟から手を振っている。「積荷、全部無事だったぞ! 壺も一つも割れてない!」「それはよかったです!」オルヴァンが手を振り返した。隣の船員も笑う。「あれだけ傾いたのにな。運が良かった!」アデマールとオルヴァンは顔を見合わせた。そのままアデマールが乳菓子を一口食べる。「オルの方うまいな」「僕はアデの方も好きです」「じゃあ半分交換する?」「そうしましょう」船頭が二人を眺め、肩を揺らした。「さっきまで大騒ぎの真ん中にいたとは思えんな」アデマールは果実蜜の器をオルヴァンへ渡す。「観光しに来たから」「今日はまだ夕方が残っていますしね」二人は橋の向こうに見える店を探し始めた。****日が傾く頃、最後にもう一度だけ小舟を借りた。今度はオルヴァンが漕ぐ。船頭は岸から、「暗くなる前には戻ってこいよ!」と送り出してくれた。水面へ建物の灯りが伸び始めている。オルヴァンは朝から覚えた通り、櫂をゆっくり動かした。後ろに座ったアデマールは、しばらく景色を眺めていた。やがて少し前へ寄り、オルヴァンの腰へ腕を回す。「アデ、重いです」「漕ぎにくい?」「少し」「離れようか?」「そのままでいいです」アデマールは嬉しそうに頬を寄せた。オルヴァンは櫂を動かしたまま、少しだけ後ろへ体重を預ける。石橋の下へ入る。水音が近くなった。橋を抜けると、朝の水上市場が夜の店へ変わり始めていた。舟の上に小さな灯りが並び、香辛料や焼き菓子の匂いが流れてくる。「この町、好きです」オルヴァンが言った。「俺も。明日も舟乗る?」「乗りましょう」「今度は俺も漕ぐ」「朝ごはんの前ですか?」「食べたあと。腹減ってると集中できない」「では、パンを買ってからですね」アデマールが髪へ口づける。オルヴァンは振り返り、唇へ軽く口づけた。そのまま櫂を戻す。小舟は灯りの間をゆっくり進んだ。****宿へ戻った頃には、二人ともすっかり身体が冷えていた。部屋には小さな浴室があり、二人で入れる大きさの木桶へ湯を張ってもらった。アデマールが肩まで沈むと、隣のオルヴァンがその腕へ触れた。「張っていますね」「綱かな」「たぶん」オルヴァンはアデマールの腕を取り、肩から肘へゆっくり揉んでいく。「気持ちいい」「今日はずいぶん力を使いましたからね」「舟では使わない方がいいって怒られたのに」「荷船には役立ちました」アデマールが笑う。「オルは腕、大丈夫?」「僕は櫂を持ったくらいです」「いっぱい漕いでた」「では、あとでお願いします」アデマールはすぐオルヴァンの肩へ腕を回した。「今でもいいよ」「湯の中で揉むんですか?」「できる」「ではお願いします」オルヴァンが背中を向ける。アデマールの指が肩へ沈むと、気持ちよさそうに息を吐いた。しばらく揉んだあと、そのまま後ろから抱き込む。オルヴァンは胸へ身体を預けた。「アデ」「ん?」「今日は楽しかったです」「俺も」アデマールが耳の下へ口づける。オルヴァンは少し首を傾け、続けやすい位置を作った。「そこ、もう少し」「うん」二度、三度と口づける。オルヴァンが振り返り、唇を重ねた。湯が少し揺れる。離れたあとも、互いの腕はそのままだった。「明日も乗りますからね」「今度は負けない」「勝負だったんですか?」「今日から」オルヴァンが笑い、もう一度アデマールへ寄った。****風呂から上がると、昼に買った薄青のガラス飾りを窓辺へ吊るした。灯りを透かすと、水滴のような影が壁へ揺れた。「きれいですね」オルヴァンが眺めている間に、アデマールが後ろから濡れた髪を持ち上げた。「乾かす」「お願いします」温かな風を当てながら、指で髪を梳く。オルヴァンは途中から椅子の背へ身体を預け、アデマールの腹へ後頭部をつけた。「眠い?」「少し。でも寝る前にアデの髪も乾かします」「俺は短いから平気」「僕がやりたいんです」乾かし終わると、今度はアデマールが椅子へ座らされた。オルヴァンが黒い髪へ温かな風を当てる。終わる頃には、アデマールがオルヴァンの腰を抱き、額を腹へつけていた。「アデ」「もうちょっと」「眠いんでしょう?」「オルが近いから」オルヴァンが笑い、髪へ口づける。アデマールはそのまま腰を抱いていた。しばらくして、オルヴァンの指が黒い寝間着の襟へ触れる。「寝ます?」「寝る」留め具を一つ外す。アデマールが顔を上げた。「着替え手伝ってくれるの?」「もう半分着ていますけど」「じゃあ脱がせる方?」オルヴァンが少し笑う。「アデがそうしたいなら」アデマールの腕が腰へ回り直した。「したい」「僕もです」オルヴァンは黒い寝間着の襟をもう少し緩めた。アデマールも白い寝間着へ指を掛ける。肩から布が少しずれ、露わになった肌へ掌が触れた。オルヴァンが自然にその手へ頬を寄せる。「冷たくない?」「アデの手は暖かいです」唇が重なる。離れて、また重なる。オルヴァンが首へ腕を回した。「今日はまだ、くっついていたいです」「俺も」「寝台へ行きましょう」「うん」アデマールが抱き上げる。オルヴァンの脚が腰へ絡む。二人とも笑った。「明日は僕の方が上手に漕ぎますよ」「今日もオルの方が上手だっただろ」「認めましたね」「今は舟の話したくない」「どうしてです?」アデマールが首筋へ口づけた。「オルに触りたいから」オルヴァンの目が細くなる。「では、そちらを優先してください」「喜んで」寝台へ下ろす。オルヴァンは脚を解かず、そのままアデマールを引き寄せた。唇が重なる。アデマールの指が白い寝間着をさらに緩める。オルヴァンも黒い布を肩から落とす。肌へ触れる。指を絡める。二人の身体が重なった。「アデ」「ん?」「好きです」「俺も」その声は、いつもの夜と同じくらい自然だった。窓辺では、薄青のガラスが夜の灯りを受けて揺れていた。****夜更け。オルヴァンは毛布の中でアデマールの胸へ収まっていた。汗の残る髪を、アデマールの指がゆっくり梳く。頬を撫でる。オルヴァンはその手へ頬を寄せた。「アデ」「ん?」「明日の舟、どうします?」「乗る」「漕ぎます?」「漕ぐ。絶対上手くなる」「楽しみにしています」アデマールが少し身体を起こす。「その言い方、笑う気だろ」「少しだけです」「ひどい夫だな」「好きでしょう?」「大好き」頬へ口づける。オルヴァンも胸元へ一つ返した。「僕もです」アデマールが毛布を肩まで引き上げる。「朝飯、胡桃パンな」「はい」「いっぱい食べてから舟」「力を入れすぎないでくださいね」「それもう言わないで」オルヴァンが笑う。そのまま腕枕へ頭を戻し、脚を絡めた。「おやすみなさい、アデ」「おやすみ、オル」二人は水音の遠く聞こえる部屋で、そのまま眠った。****翌朝。窓辺のガラスへ朝日が入り、水色の光が寝台の端で揺れていた。アデマールが先に目を覚ました。腕の中では、オルヴァンがまだ眠っている。しばらく眺める。やがてオルヴァンが目を開いた。「おはようございます」「おはよう」「朝ごはんは?」「胡桃パン」「舟は?」「そのあと」オルヴァンが笑う。アデマールは首筋へ口づけ、毛布の中でもう一度抱き寄せた。「あと少し」「では、あと少しだけ」朝市が賑わい始める音を聞きながら、二人はもう少しだけ寝台に残った。