第16話 樽は止まる、夫は酔う
第16話 樽は止まる、夫は酔う
石造りの門をくぐった途端、香ばしい匂いがした。焼いた麦と、燻製肉と、それから酒。坂道の両側には頑丈そうな石造りの建物が並び、地下へ続く扉があちこちに口を開けている。軒先には樽を模した看板が下がり、昼前だというのに酒場から笑い声が聞こえてきた。アデマールが深く息を吸った。「いい町だな」「まだ一杯も飲んでませんよ」「匂いで分かる」「何がです?」「俺と相性がいい」「お酒とでしょう」「オルともいい」「知ってます」オルヴァンが笑う。すぐ横を、小柄で肩幅の広いドワーフが大樽を転がしていった。器用に方向を変えながら坂を下っていく。アデマールが感心して眺める。「俺もやってみたい」「壊しますよ」「なんで?」「力を入れすぎますから」「舟の話はもう忘れよう」「嫌です。面白かったので」肩を抱こうとしたアデマールから、オルヴァンが笑いながら逃げる。二歩で捕まった。「捕まえた」「町へ着いて五分ですよ」「オルが逃げるから」「追いかけると思いました」つまり最初から捕まるつもりだったらしい。アデマールは満足して頬へ口づけた。「昼飯にしよう」「賛成です。僕、お腹が空きました」****酒場の卓には、黒い鉄鍋が置かれた。麦酒で煮込んだ肉に、玉葱と芋。焼きたての丸パンには切れ目が入り、溶かしたチーズがたっぷり挟まっている。オルヴァンがパンを割った。湯気と一緒にチーズが伸びる。「アデ」「ん?」「見てください」「伸びるな」「すごいです」もう一度持ち上げる。まだ伸びた。向かいのアデマールが笑った。「楽しそうだな」「楽しいですよ」そのまま一口食べ、オルヴァンの目元が緩んだ。アデマールは自分の分へ伸ばしかけた指を止める。「そんなにうまい?」「はい。食べます?」「オルの食べてるやつがいい」「同じものですよ」「それがいい」オルヴァンは少し考え、手にしていたパンを差し出した。アデマールがかじる。「うまい」「でしょう?」「もう一口」「自分のがあります」「オル」「仕方ないですね」口ではそう言いながら、嬉しそうにもう一度差し出す。今度はオルヴァンがアデマールの皿から肉を一切れ取った。「あ」「交換です」「じゃあ俺も」「それ以上は交換になりません」二人で食べて、飲んで、また食べる。最初の一杯が空になる頃には、隣の卓のドワーフが話しかけてきた。「観光か?」アデマールが頷く。「しばらくいるつもり」「なら酒蔵を見てけ。表の酒場だけで帰ったら、この町へ来た意味が半分になる」「残り半分は?」「飲むことだ」アデマールが真剣な表情でオルヴァンを見た。「両方やろう」「最初からそのつもりでしょう」****午後、二人は町でも古い醸造所の地下へ降りた。石段を下りるほど空気がひんやりしてくる。地下蔵には人の背丈を越える樽がずらりと並び、その間を職人たちが行き来していた。案内役のドワーフが樽を叩く。「こいつは去年の秋。こっちは三年前。奥にあるのが十年物だ」オルヴァンが興味深そうに覗き込む。「樽でそんなに変わるんですか?」「変わるとも。木も違えば焼き方も違う。酒は入れて終わりじゃねえ」小さな杯へ琥珀色の酒が注がれた。オルヴァンが香りを確かめ、口に含む。「……甘い」「後から来るぞ」数秒。オルヴァンが目を丸くした。「熱いです」「来ただろ」職人たちが笑う。アデマールも飲んだ。「うまい」「お前さんは早いな!」「うまいものはうまい」さらに別の樽。今度は香ばしい。次は果実のような香りがする。オルヴァンは全部試したがった。アデマールも止めなかった。「これも飲みたいです」「飲め飲め」「アデも」「もちろん」「同じのを飲みましょう」「乾杯する?」「します」杯を合わせる。飲む。笑う。次の樽でも同じことをした。四杯目あたりで、オルヴァンの頬がすっかり赤くなった。「オル、楽しい?」「とても」「よかった」「アデも楽しいですか?」「オルが楽しそうだから、すげえ楽しい」「僕も、アデが楽しそうだと嬉しいです」案内役が樽の栓を確認しながら振り返った。「仲いいな、お前ら」「夫だから」「僕も夫です」なぜかオルヴァンまで胸を張った。「知ってるよ」その時だった。奥で、鈍い音が響いた。どん、と石床を揺らす。「おい!」巨大樽を支えていた木製の固定具が外れた。人の背丈より大きな樽が、ゆっくり傾く。一度転がった。その先は斜路だった。「どけ!」職人たちが左右へ飛ぶ。樽が速度を増した。斜路の下には、別の酒樽が何十本も並んでいる。アデマールが振り返った。さっきまで笑っていた目が、一瞬で樽を捉える。前へ出る。「アデ!」オルヴァンの声と同時に、アデマールが片脚を上げた。靴底が樽へ当たる。轟音。石床へ震動が走った。樽が止まった。アデマールも、その場に立ったままだった。静かになった地下蔵で、職人の一人が呟く。「……脚で?」アデマールが樽を見下ろす。「でかいな、これ」「今さらかよ!」声が飛び、地下蔵に笑いが戻った。同時に、衝撃で横の棚が大きく揺れた。並んでいた試飲用の杯が落ちる。オルヴァンが指を払った。風がふわりと巻いた。十数個の杯が空中で止まり、そのまま一つずつ卓上へ降りる。最後の一つまで収まる。一滴だけ縁から跳ねた酒も、風に押し戻されて杯へ落ちた。今度は拍手が起きた。オルヴァンが赤い頬のまま会釈する。「お酒がもったいないですから」「杯よりそっちか!」アデマールが笑いながら樽を起こした。職人たちが駆け寄り、今度は自分たちで固定する。酒蔵の親方が樽の側面を調べ、眉を寄せた。「少し割れたな」細い亀裂から酒が滲んでいた。「こりゃ明日まで置いたら、かなり漏れるぞ。空の樽を持ってこい」職人たちが動き始める。アデマールとオルヴァンの視線が合った。アデマールが亀裂を指先で示す。オルヴァンが小さく頷いた。それだけだった。「さあ、続きを飲むぞ!」親方の声が響く。オルヴァンがすぐ杯を持ち上げた。「はい」「オル、まだ飲むの?」「飲みます」****夕方には醸造所の中庭へ長卓が出ていた。燻製肉、焼いた腸詰め、酢漬け野菜、熱いパン。見学客も職人も一緒になって新酒を飲む。オルヴァンは隣に座っていたはずだった。アデマールが肉を切っている間に立ち上がった。そのまま向きを変え、当然のようにアデマールの膝へ座る。アデマールが瞬いた。「オル?」「はい」「どうした?」「座りたくなりました」「俺の膝に?」「アデの膝がいいです」腰へ腕を回す。オルヴァンは満足したらしく、アデマールの肩へもたれた。「もっと褒めてください」「何を?」「今日の僕です」「全部?」「全部」アデマールの口元が一気に緩んだ。「酒飲んでるオル、可愛い」「はい」「杯を全部拾ったの、格好よかった」「はい」「飯食ってる時も可愛かった」「もっと」「朝起きた時も可愛かった」「今日の僕です」「今日だろ」「起きた時から数えるんですか?」「当たり前じゃん。あと、歩いてる時も――」「待ってください」オルヴァンが振り返る。赤い頬のまま、アデマールの頬を両側から挟んだ。「僕も言います」「俺の?」「今日のアデです」額へ口づける。「樽を止めた時、格好よかったです」頬。「お酒を飲んで笑っているのも好きです」唇。「僕のパンを欲しがったのも可愛かったです」アデマールが黙った。オルヴァンは楽しそうに首を傾げる。「もっと言いましょうか?」「ちょっと待って」「どうしてです?」「今、すげえ抱きたい」オルヴァンの目が柔らかく細まった。「抱いてください」腰を抱く腕に力が入った。アデマールが首筋へ口づける。一度。二度。オルヴァンが肩へ腕を回し、もっと近くへ寄った。「アデ」「ん?」「もっと」三度目で、近くの親方が杯を置いた。「酒は飲ませたが、その先まで許可した覚えはねえ!」オルヴァンがアデマールの肩越しに親方を見る。「宿ならいいですか?」「好きにしろ!」「アデ」「帰る?」「はい」返事が速かった。周囲から笑い声と口笛が飛ぶ。アデマールは膝から降りようとしたオルヴァンを、そのまま抱き上げた。「歩けますよ」「俺がこのまま連れて帰りたい」「では、お願いします」オルヴァンは嬉しそうに首へ腕を回した。****翌朝。二人が遅めの朝食を食べていると、宿の食堂へ昨日の醸造所の職人が飛び込んできた。「お前ら!」アデマールがパンをかじったまま振り返る。「おはよう」「昨日の樽だ!」オルヴァンはアデマールのシャツを羽織り、まだ少し眠そうに紅茶を飲んでいた。「どうしました?」「一杯分しか減ってねえ!」職人は両腕を広げた。「親方が朝から樽の周りを三周した! あの割れ方なら床まで酒臭くなるはずだったのに、ほとんど漏れてねえ!」「よかったですね」オルヴァンが微笑む。「よくねえ! いや、いいんだが! なんでだ!?」アデマールがオルヴァンの皿へ焼いた腸詰めを一本置く。オルヴァンは代わりに自分の皿から焼き芋を半分渡した。職人は二人を交互に見た。「……まあいい。親方が昼から飲みに来いってよ」「行く」「行きます」二人の声が綺麗に重なった。職人が笑う。「昨日あれだけ飲んで、まだ飲むのかよ」アデマールは焼き芋を食べ、オルヴァンはもらった腸詰めを嬉しそうに頬張った。石造りの町では、今日も朝から樽が転がっている。二人には、まだ見ていない酒蔵が三軒残っていた。