第2話 雨と石橋
第2話 雨と石橋
雨の音で目が覚めた。窓の外はまだ薄暗い。屋根を叩く雨粒が途切れず、時折、軒先から落ちた水が大きな音を立てている。アデマールは毛布の中で少し身じろぎした。胸元にオルヴァンがいた。昨夜は隣で眠ったはずなのに、いつの間にかすっぽり腕の中へ収まっている。白い髪が顎の下へ触れ、片腕はアデマールの腰へ回っていた。「オル」返事はない。髪へ鼻先を寄せる。もう一度呼ぼうとしたところで、オルヴァンが胸へ頬を擦り寄せた。「……起きています」「起きてたの?」「今、起きました」「すごい雨だぞ」「聞こえています」「今日は出るのやめる?」「賛成です」答えが早かった。オルヴァンは目を開けるどころか、さらに身体を寄せてきた。「もう少し、このままで」「いいよ」アデマールは背中へ腕を回し、髪へ口づける。オルヴァンが満足そうに息を吐いた。少しして顔だけ上げる。「アデ」「ん?」「僕にもしてください」「何を?」「分かっているでしょう」アデマールが笑い、額へ口づけた。オルヴァンはじっと見ている。今度は頬。まだ見ている。「欲張り」「夫ですから」最後に唇へ触れる。短いキスだった。それでもオルヴァンは嬉しそうに笑い、また胸元へ戻った。雨の日の朝。急ぐ用事もない。そのまま二人で毛布に包まり、次に目を開けた時には、宿の朝食が終わりかけていた。****「遅かったねえ」一階へ下りると、宿の女主人が笑いながら鍋の蓋を開けた。アデマールが空いた卓へ座る。「雨だから」「雨のせいです」オルヴァンも隣へ座った。女主人は二人を見比べたが、何も言わず深皿へ煮込みをよそった。玉ねぎと豆、塩漬け肉をとろとろになるまで煮た街道宿の料理だった。厚切りの黒麦パンもついている。「うまそう」「いい匂いですね」オルヴァンが最初に湯気を吸い込み、一口食べる。「玉ねぎが甘いです」「昨日からずっと煮てるからね」女主人は次の客の器へ煮込みをよそいながら言った。「馬車で来る連中は腹を空かせてる。温かくて腹に溜まるものが一番さ」食堂には旅人、御者、商人が入り混じっていた。濡れた外套が入口近くに並び、窓の向こうでは馬丁たちが雨の中を行き来している。「今日は馬車も止まるんですか?」オルヴァンが聞く。「西行きは朝から止まってるよ。川が増えてるからね」「橋?」「そう。この町の石橋。職人衆が朝から見に行ってる」アデマールはパンを煮込みへ浸した。「じゃあ、俺たちも今日は休みだな」「お風呂へ行きましょうか」「朝から?」「雨の日に温かいお湯へ入るの、気持ちよさそうです」「いいな」「そのあと昼寝も」「最高」二人の予定は決まった。食べる。風呂へ入る。寝る。それで一日終わっても構わなかった。****昼前になると、雨脚が少し弱くなった。風呂へ入る前に少しくらい町を見ようということになり、二人は外套を羽織って宿を出た。街道沿いには宿、厩舎、食堂、鍛冶屋、車輪修理の工房が並んでいる。普段なら通り過ぎていくはずの馬車が何台も広場へ停まり、御者は車輪を点検し、商人たちは荷台へ雨除けの布を掛け直していた。馬車の下では子どもたちが遊び、その横では誰かが即席の卓を出して干し果物を売っている。オルヴァンが立ち止まった。「馬車が止まると、小さな町がもう一つできたみたいですね」「暇になった連中相手に商売まで始まってる」「見てきます」「もう行ってるじゃん」オルヴァンは干し果物の店へ向かっていた。アデマールも追う。乾燥した梨を一袋買い、香辛料の瓶を眺め、隣の露店では厚手の靴下を手に取る。「アデ、これ暖かそうです」「買う?」「まだ持っています」「じゃあ俺が買う」「アデも持っているでしょう」「オルが選んだやつ欲しい」「同じです」そんなことを話していた時だった。川の方から鐘が鳴った。一度。二度。三度。広場の空気が変わる。遠くで男の声が響いた。「橋から離れろ!」アデマールとオルヴァンが同時に振り向く。目が合った。「行く?」「見に行きましょう」二人は露店を離れた。****石橋の周囲には既に人が集まっていた。幅の広い川へ、大きな石造アーチが三つ並んでいる。増水した濁流はいつもの水位を大きく超え、橋脚へ激しくぶつかっていた。そして中央のアーチ。そこへ、巨大な倒木が引っかかっていた。太い幹へ何本もの枝や流木が絡み、さらに上流から流れてきた木片や草まで溜まっている。せき止められた水が盛り上がり、橋へ強い圧を掛けていた。「分かりやすいですね」オルヴァンが言う。「すごく邪魔だな」「はい」橋の手前では、雨除けの革帽子を被った大柄な男が職人たちへ指示を飛ばしている。「西側の縄を締めろ! 橋の上へ誰も出すな! 流木が動いたら全部巻き込まれるぞ!」一人の若い職人が走ってくる。「親方、また一本引っかかりました!」「見えてる!」男は川を睨んだ。役人らしい男が尋ねる。「ゴーティエ、橋は持つのか?」「今すぐ落ちるとは言わん。だが、あれが詰まったまま水が増え続けりゃ保証できん」「外せないのか?」「外したいから朝からここにいる!」ゴーティエは苛立ったように指を差した。「あの倒木へ縄を掛けて引く。それだけだ。だが今の流れで近づけば、人間の方が先に流される」話は単純だった。邪魔な木がある。外せばいい。ただし、人が近づけない。オルヴァンが川を見る。アデマールも倒木を見る。二人で少しだけ近づいた。ゴーティエが気づく。「旅人は下がってろ」「手伝えるかも」アデマールが言った。「何を?」「木を引く」「見りゃ分かるだろ。馬数頭でも楽じゃない太さだぞ」オルヴァンが流れを見ながら言う。「水を少しだけ逸らせます」ゴーティエがそちらを見る。「魔法使いか?」「はい。ただ、長くはやりません」「どれくらいだ」「流木へ縄を掛けて、引き出す間くらいなら」ゴーティエは即答せず、二人を見た。アデマールが橋の横に積まれていた太い作業用の丸太へ近づく。片手を掛ける。持ち上げた。近くの職人が固まった。アデマールは丸太を肩へ担いだ。「これくらい?」ゴーティエの目が細くなる。数秒後、丸太を指差した。「それ戻せ。今は使わん」「そうか」アデマールは素直に戻した。ゴーティエが川へ向き直る。「勝手に動くな。橋は俺たちの仕事だ」「分かった」「あんたは俺が引けと言ったら引け」「うん」「魔法使いの方は?」「オルヴァンです」「オルヴァン。流れを変えるのも、俺が言ってからだ」「分かりました」ゴーティエが大声を張った。「縄! 滑車! 太いの持ってこい! もう一回やるぞ!」職人たちが一斉に動いた。****太い縄の端が大きな鉤へ結ばれた。それを長い竿へ取りつけ、職人たちが橋の上から倒木へ引っかける。一度目は外れた。二度目。枝へ絡む。「違う! 幹へ掛けろ!」ゴーティエが怒鳴る。三度目で鉤が太い幹を捉えた。「締めろ!」縄が張る。岸側では別の職人たちが滑車へ縄を通し、固定する。ゴーティエは全部を確認した。それからオルヴァンを見る。「できるか?」「はい」オルヴァンが白い長手袋を少しまくった。指先を川へ向ける。短い詠唱。濁流の表面が揺れた。倒木へ真正面からぶつかっていた流れが、ゆっくり左右へ分かれていく。完全には止まらない。だが、幹へ掛かる水圧が目に見えて弱まった。職人の一人が思わず声を上げる。「水が……」「見とれてないで縄を巻け!」ゴーティエの声が飛ぶ。職人たちが動く。「アデマール!」今度は名前で呼ばれた。アデマールが太い縄を両手で掴む。「おう!」「まだだ!」腰を落とす。オルヴァンは流れを見たまま動かない。雨が白い髪から頬を伝う。ゴーティエが倒木を見る。枝の塊が揺れた。「今だ! 引け!」アデマールが引いた。縄が一気に張る。太い倒木が軋む。滑車を押さえていた職人たちの目が見開かれた。「もっと!」「了解!」アデマールがさらに力を込める。倒木が動いた。幹へ絡んでいた枝が折れ、大きな音を立てて流れ出す。流木の塊が崩れた。せき止められていた水が一気に抜ける。「縄を緩めろ!」ゴーティエが指示を飛ばす。アデマールが力を抜く。倒木は橋から外れ、岸側へ寄せられた。残った細かな枝や草が濁流へ流されていく。オルヴァンも魔法を解いた。川の流れが元へ戻る。水位がすぐ下がるわけではない。それでも、橋脚へ溜まっていた圧は明らかに減った。ゴーティエは橋を見上げる。職人たちも黙っている。しばらくして、大きな男が息を吐いた。「よし」周囲から歓声が上がった。アデマールが縄を置く。最初に向かったのは、橋ではなかった。「オル」オルヴァンのところへ行く。「疲れた?」「少しだけです」頬へ張りついた白い髪を、アデマールが指で払う。「雨でびしょびしょ」「アデもですよ」オルヴァンも黒い前髪へ手を伸ばし、額から横へ流した。「すごかったです」「ほんと?」「はい。あんな太い木を一人で引っ張る人、初めて見ました」「オルが水弱くしてくれたから」「それでもです」アデマールの口元が緩む。「もう一回言って」「格好よかったですよ」「よし」満足した。そこへゴーティエが歩いてくる。「いちゃつくのは後にしろ」「いちゃついてない」「髪撫で合ってただろ」オルヴァンが少し笑った。ゴーティエは橋を見る。「助かった。あれなら今夜の雨くらいは持つ」「橋、渡れる?」アデマールが聞く。「まだ駄目だ」即答だった。「流木を外しただけだ。石の状態はこれから見る。橋を使えるようにするのは俺たちの仕事だ」「そっか」「ああ」ゴーティエは職人たちを振り返る。「水がもう少し引いたら橋脚を見るぞ! それまで縄と道具を点検しろ!」全員がまた動き始める。英雄二人の出番は、もう終わっていた。オルヴァンがアデマールを見る。「帰ります?」「風呂」「はい。風呂です」目的を思い出した。二人は同時に笑った。****宿へ戻った頃には、再び雨が強くなっていた。外套もズボンも裾まで濡れている。女主人が入口で二人を見て目を丸くした。「町を見てくるだけじゃなかったのかい?」「橋でちょっと」アデマールが答える。「ちょっと?」「流木を一本」「一本でそんなになるのかね」オルヴァンが先に聞いた。「お風呂、空いていますか?」「奥の小さい方なら空いてるよ。二人で使いな」「アデ」「行こう」迷いはなかった。濡れた服を脱ぎ、湯気の立つ湯殿へ入る。湯船へ肩まで沈んだ瞬間、アデマールが長く息を吐いた。「生き返る」「朝から楽しみにしていましたからね」向かいに座ったオルヴァンも目を細めている。髪まで雨に濡れたので、先に洗うことにした。アデマールが桶へ湯を汲む。「オル、こっち向いて」「洗ってくれるんですか?」「うん」「お願いします」オルヴァンが背を向ける。アデマールは白い髪へゆっくり湯を流した。指を入れ、絡まないよう丁寧に洗う。「気持ちいい?」「はい」「眠そう」「眠くなります」オルヴァンは目を閉じたまま少し後ろへ寄った。背中がアデマールの胸へ触れる。「甘えてる?」「そうです」「素直だな」「朝からずっと甘えたかったので」アデマールが笑い、髪を洗い終える。今度は交代した。オルヴァンが黒い髪へ湯を掛ける。「目を閉じてください」「はい」「ちゃんと閉じて」「閉じてる」「薄く開いています」「オル見たいから」「洗えません」アデマールは仕方なく目を閉じた。指が頭皮をゆっくり揉む。「うまい」「でしょう?」「毎日やってほしい」「自分で洗ってください」「たまに」「それなら」洗い終わると、二人で湯船へ戻った。今度はオルヴァンがアデマールの前へ座る。自然に背中を預けた。アデマールの腕が腹の前へ回る。「暖かいですね」「うん」外ではまだ雨が降っている。朝からずっと聞いていた音なのに、湯の中で聞くと少し違った。オルヴァンがアデマールの腕へ手を重ねる。「今日、出かけてよかったですね」「朝は一日寝る気だったけどな」「それもよかったです」「どっちだよ」「どちらも」アデマールが濡れた頬へ口づける。オルヴァンが少し顔を向けた。唇が触れる。一度。もう一度。今度はオルヴァンから重ねた。「アデ」「ん?」「よく頑張りました」「オルも」「僕もですか?」「もちろん」アデマールが腕の中へ抱き込む。「水、ずっと押さえてくれてたろ」「ゴーティエさんが早かったので、あまり疲れませんでした」「それでも」「では、もう一回褒めてください」「よく頑張りました」オルヴァンが満足そうに笑う。「ありがとうございます」「かわいい」「それは今いりません」「俺にはいる」また頬へキスした。今度はオルヴァンも笑った。****風呂を出て、夕食を食べた。朝と同じ食堂には、橋がひとまず持ちこたえたという話がもう広まっていた。誰が巨大な流木を引いたのか、誰が川を曲げたのかという話も少し混じっていたが、二人は特に名乗らなかった。女主人の焼いた肉と豆料理を食べ、温かい飲み物を一杯ずつ飲む。それから早々に部屋へ戻った。窓の外は雨。寝台には朝と同じ毛布。オルヴァンは乾かした髪を櫛で整え、寝台へ腰を下ろした。アデマールが隣へ座る。「眠い?」「少し」「寝る?」「まだ」オルヴァンは櫛を置き、そのままアデマールの肩へ寄った。「朝、このまま一日寝ていたかったです」「今からでもできる」「そうですね」アデマールの胸へ頬をつける。しばらく、そのまま雨音を聞いた。アデマールが白い髪へ触れる。頬へ手を滑らせる。オルヴァンが顔を上げた。「キスしてください」「うん」唇を重ねる。ゆっくりしたキスだった。急ぐ必要はない。離れて、もう一度。オルヴァンの手がアデマールの胸へ触れ、そのまま黒い部屋着の留め具を一つ緩めた。アデマールも白い服の襟元へ指を掛ける。「今日はもう、どこにも行きませんよ」「俺も行かない」また口づける。オルヴァンが寝台へ身体を預け、アデマールも隣へ倒れ込んだ。互いの服をゆっくり緩め、触れた肌の温かさを確かめる。指を絡める。オルヴァンが脚を寄せると、アデマールもその身体を抱き寄せた。「アデ」「ん?」「好きです」「俺も」それだけで十分だった。雨音に包まれながら、二人はゆっくり身体を重ねた。****しばらくして。オルヴァンは毛布の中で、また朝と同じようにアデマールの胸へ収まっていた。白い髪は少し乱れている。アデマールが指で梳く。オルヴァンは目を閉じたまま、腰へ腕を回した。「結局、朝と同じですね」「朝より近い」「そうですね」アデマールが額へキスする。「満足?」「はい」「俺も」「明日は雨、止みますかね」「止まなかったら?」「また寝ます」「風呂は?」「入ります」「いい一日だな」オルヴァンが笑う。「アデ」「何?」「おやすみなさい」「おやすみ、オル」雨はまだ屋根を叩いていた。今度は二人とも、すぐに眠った。****翌朝。雨は止んでいた。厚い雲の隙間から、少しだけ明るい空が覗いている。二人は朝食を済ませ、馬を引いて石橋まで歩いた。橋ではもう職人たちが働いていた。昨日取り除いた巨大な倒木は岸へ引き上げられ、何人かが枝を切り分けている。ゴーティエは橋脚へ縄を下ろし、若い職人へ指示を出していた。アデマールに気づく。「おう、馬鹿力」「名前覚えただろ」「アデマール」「覚えてるじゃん」ゴーティエが鼻を鳴らした。オルヴァンが橋を見る。「大丈夫そうですか?」「流木が消えたから、昨日よりはずっとましだ」ゴーティエは石橋へ顎を向ける。「だが、ここからが本番だ。水が引いたら基礎を見て、傷んだ石を替える。橋をまた馬車が通れるようにするのは俺たちの仕事だ」職人の一人が横から言う。「親方、昨日からそればっかり言ってますよ」「うるさい。縄見ろ」若い職人が笑って戻っていく。アデマールも笑った。「じゃあ任せる」「最初からそのつもりだ」ゴーティエが二人を見る。「昨日は助かった」「こっちも面白かったよ」「面白がる仕事じゃない」「でもゴーティエ、楽しそうだった」「橋屋が橋を守って何が悪い」少しだけ胸を張っている。オルヴァンが笑った。「格好よかったですよ」「……そりゃどうも」今度はゴーティエが少し照れた。二人は橋を離れた。今日はまだ馬車では渡れない。川沿いを南へ下り、次の渡し場を使うことになった。少し遠回りだが、それも悪くない。馬へ乗る前、オルヴァンが宿場町を振り返った。「また橋を渡ってみたいですね」「今度は晴れてる日に?」「それもいいですけど」オルヴァンがアデマールを見る。「雨も楽しかったです」「朝?」「朝も」「風呂?」「それも」「夜?」「……それもです」アデマールが笑った。オルヴァンも少し頬を赤くして笑う。「じゃあ次の雨の日も、ゆっくり起きようぜ」「賛成です」二頭の馬が、濡れた街道を並んで進み始める。雨上がりの川から、冷たい風が吹いていた。