第21話 今日は僕の予定です
第21話 今日は僕の予定です
「今日は、昼まで空けておいて」朝食の席で、アデマールが言った。焼いた魚を食べていたオルヴァンが顔を上げる。「困ります」「なんで?」「僕も昼まで、アデに空けておいてほしいからです」二人の間で、パンをちぎる音だけがした。南方の海浜保養地へ着いて三日目。白い砂浜と遠浅の海が続き、町の中には南国の果実を売る露店や、小さな料理店、貸し舟屋が並んでいる。今日は朝から夕方まで、完全に自由だった。だからアデマールは予定を入れた。オルヴァンも予定を入れた。「何時から?」「朝の鐘二つです」「俺も」「何時まで?」「昼の鐘まで」「僕もです」また沈黙。アデマールが腕を組んだ。「ずらせる?」「嫌です」「即答?」「アデこそ、ずらせます?」「嫌だ」今度はオルヴァンが腕を組んだ。「今日は僕の予定です」「俺の予定でもある」「昨日まで好きに決めていいと言ったでしょう」「言った。だから決めた」「僕も決めました」二人とも真顔だった。給仕に来た宿の娘が、皿を置きながら二人を見る。「喧嘩?」「違う」「少しだけしています」答えが割れた。アデマールがオルヴァンを見る。「してるの?」「していますよ」「俺、まだ喧嘩だと思ってなかった」「では今から喧嘩です」「分かった」宿の娘は笑いながら去っていった。アデマールは果実水を飲む。オルヴァンはパンへ果実の蜜を塗る。「で、どこ行くの?」「言いません」「俺も言わない」「結構です」それでもオルヴァンは、アデマールが口元につけた蜜を親指で拭った。その指をアデマールが捕まえて口づける。「何です?」「蜜ついてた」「僕の指ですよ」「知ってる」オルヴァンは少しだけ口元を緩めた。喧嘩は継続していた。****宿を出ても決着しなかった。海沿いの大通りへ出る。右へ行けば港。左へ行けば市場。アデマールは右を向いた。オルヴァンは左を向いた。「オル」「アデ」同時だった。「こっち」「こっちです」二人は動かない。通りの向こうで、椰子に似た高い木の葉が風に揺れている。アデマールがオルヴァンの腰を抱いた。「お願い」「駄目です」「今日だけ」「僕も今日だから譲りたくありません」「そんなに?」「そんなにです」オルヴァンもアデマールのシャツを掴んだ。「アデこそ、お願いします」「ごめん。今日だけは俺も譲りたくない」「むう」「怒った?」「少し」頬を膨らませる。アデマールはそこへ口づけた。「怒ってる時にキスで誤魔化さないでください」「したかっただけ」「なら、もう一回」もう一度する。離れる。「それと予定は別です」「はい」二人は再び右と左を見た。ちょうどその時だった。港側から声が飛んできた。「アデマールさん!」日に焼けた船乗りが大きく手を振っている。「舟、準備できてるよ! 朝の風が一番いい!」オルヴァンが止まった。「舟?」アデマールも止まる。今度は市場側から別の声。「オルヴァンさん!」白い前掛けをつけた料理人が店先からこちらを呼んでいる。「厨房、空けてあるよ! 旦那さんに食わせるんだろ?」アデマールが止まった。「料理?」二人は互いを見る。船乗りが首を傾げる。料理人も首を傾げる。アデマールが先に口を開いた。「オルを船に乗せようと思ってた」「僕はアデに料理を作ろうと思っていました」「……俺のため?」「アデもですか?」「うん」「……」「……」さっきまでの喧嘩が、行き場を失った。アデマールが頭を掻く。オルヴァンも困ったように眉を下げる。「どうする?」「……両方やりましょう」「そうしよう」終戦した。****まずは船乗りへ事情を話した。「昼からじゃ駄目?」「昼は風が落ちるな」アデマールとオルヴァンが揃って料理人を見る。「料理、昼からでもいい?」料理人は笑った。「材料は逃げないよ。昼飯食わずに来な」決まった。午前は船。午後は料理。「よし」アデマールは嬉しそうにオルヴァンの手を引いた。「行こう」「はい」数歩進んだところで、オルヴァンが言った。「アデ」「ん?」「楽しみにしていました?」「めちゃくちゃ」「僕もです」アデマールが足を止めた。「ごめんな。譲らなくて」「僕もです」「でも、オルが俺のために料理って聞いたら、そっちも早く行きたくなった」「僕も舟へ乗りたいです」「じゃあ最高じゃん」「はい」二人は笑った。****舟は二人乗りより少し大きい帆舟だった。船乗りが舵を取り、アデマールとオルヴァンは前方へ並んで座る。港を出る。水の色が変わった。町の近くでは淡い青だった海が、沖へ出るにつれて深くなる。透明な水の下を、小さな魚の群れが光りながら通り過ぎた。「オル、あれ」「見えています」「あっちは?」「魚です」「分かるよ」「では聞かないでください」「一緒に見たいんだよ」オルヴァンが笑った。「では、あそこも」遠くに白い海鳥。アデマールが見る。「いた」「いましたね」帆が風を受ける。舟が傾いた。オルヴァンの身体も傾く。アデマールはすぐ腰を抱き、自分の方へ引いた。「落ちるなよ」「落ちません」「知ってる」そのまま離さない。「アデ」「何?」「船遊びを予約した理由は?」「オルが海好きだから」「それだけですか?」「二人で沖まで行きたかった」アデマールは少し考える。「あと、昨日ここ通った時、オルが帆舟をずっと見てたから」オルヴァンが瞬いた。「気づいていたんですか」「気づくよ」腰へ回った腕を、オルヴァンが撫でる。「ありがとうございます」「楽しい?」「すごく」アデマールは嬉しくなって頬へ口づけた。「じゃあ成功」「まだ午前ですよ」「もっと楽しませる」「期待しています」船乗りが後ろから笑った。「仲いいなあ、あんたら」アデマールが振り返る。「夫夫だから」「見りゃ分かるよ」オルヴァンは海を見ながら笑っていた。****沖では帆を畳み、しばらく舟を漂わせた。船乗りが小さな竿を貸してくれる。釣りもした。アデマールは一匹。オルヴァンは三匹。「なんで?」「魚が来る場所へ落としたからです」「俺もそこに落とした」「音が大きいんですよ」「釣り糸に音なんかある?」「アデは何でも勢いが強いんです」「舟でも言われたな、それ」四匹目がかかった。オルヴァンが竿を上げる。小さな銀色の魚が跳ねた。「ほら」「すごい」「褒めてください」「釣り上手。賢い。可愛い」「最後は釣りと関係ありません」「俺にはある」オルヴァンは満足そうだった。昼前に港へ戻る。船乗りが魚を包んでくれた。「料理屋へ持ってくなら、これも使ってもらいな」「ありがとうございます」オルヴァンが受け取る。アデマールは魚の包みを見る。「これ、オルが料理する?」「します」「早く行こう」「そんなに?」「腹減った」「それだけですか?」「オルの料理食べたい」オルヴァンの足取りも速くなった。****料理体験は、町の家庭料理を三品作るものだった。魚を香草と焼く。南国の果実を肉と煮る。薄い生地へ野菜と肉を包む。料理人が見本を作り、そのあと二人が並ぶ。「旦那さんに食わせるって聞いたから、一人で作るのかと思ってたけど」料理人がアデマールを見る。「俺もやる」「アデは座っていてください」「なんで?」「今日は僕が作りたいんです」「手伝いたい」「駄目です」「皿だけ」「駄目です」「火を見る」「僕が見ます」アデマールは追い出された。厨房の端の椅子へ座る。頬杖をつき、ずっとオルヴァンを眺める。「アデ」「はい」「そんなに見られるとやりにくいです」「暇」「外を見てきたらどうです?」「オル見てる方がいい」料理人が吹き出した。オルヴァンの耳が少し赤くなる。「もう」それでも追い出さなかった。魚を焼く。香草の香りが立つ。肉を煮る鍋から甘酸っぱい香り。生地を伸ばす。オルヴァンは器用だった。料理人から一度教わると、次から迷わない。ところが包み料理だけは難しかった。生地を折る。破れる。「……」もう一枚。今度は中身がはみ出す。「……」アデマールが椅子から立とうとした。オルヴァンが見る。「座っていてください」「はい」三枚目。今度は綺麗に包めた。オルヴァンが嬉しそうに持ち上げる。アデマールが拍手した。「できた!」「子ども扱いしないでください」「嬉しかっただけ」料理人まで拍手した。「上出来!」オルヴァンは照れながら、残りも包み始めた。****夕方。二人は料理を持って海岸へ出た。砂浜の端に敷物を広げる。アデマールは一口食べた。「うまい」オルヴァンが隣で待っている。もう一口。「これも好き」三品目。「これも」「全部ですか?」「全部」「本当に?」「うん」オルヴァンの口元が緩む。「よかったです」「オルも食べよう」「はい」アデマールが魚を一口分取り、オルヴァンの口へ運ぶ。「自分で食べられます」「食べて」オルヴァンは素直に口を開けた。「どう?」「おいしいです」「俺も作ればよかった」「次は一緒に作りましょう」「約束な」「はい」夕日が海へ近づいていた。朝には真正面から喧嘩していた二人が、今は同じ皿から食べている。オルヴァンがアデマールの肩へ寄る。「今日は楽しかったです」「俺も」「船も」「うん」「料理も」「うん」少し間が空く。オルヴァンが呟いた。「アデを喜ばせたかったんです」アデマールは隣を見る。オルヴァンは海を見ていた。「最近ずっと、僕が楽しいことを先に探してくれるでしょう」「そう?」「そうです」「オルが楽しそうだと俺も楽しいから」「だからです」オルヴァンが肩から離れ、こちらを向いた。「僕も同じことがしたかったんです」アデマールは黙った。「アデ?」「……ちょっと待って」「はい?」アデマールは自分の膝へ肘を置き、額を押さえた。オルヴァンが覗き込む。「どうしました?」「今、それ聞いたら駄目だった」「何がです?」「すごく嬉しい」オルヴァンの目が柔らかくなる。アデマールは一度息を吐いた。「抱きしめていい?」「もちろんです」次の瞬間には抱きしめていた。強い。オルヴァンも背中へ腕を回す。「アデ」「ごめん。ちょっとこのまま」「はい」「今日ずっと俺のこと考えて、予約して、料理覚えてくれたんだと思ったら、なんか……」言葉が止まる。オルヴァンはアデマールの背中をゆっくり撫でた。「嬉しかったんですね」「うん」「僕も、舟へ乗った時そうでした」アデマールが少しだけ身体を離す。「同じ?」「たぶん」二人で笑った。今度はオルヴァンから口づけた。****夜は海辺の温浴場へ行った。昼間の日差しで温まった身体を湯へ沈める。二人で並び、肩まで浸かる。アデマールはずっとオルヴァンの指を握っていた。オルヴァンも離さない。「朝、結構本気で怒ってた?」「少しです」「俺も」「アデもですか?」「オルが譲ってくれないから」「僕も同じです」「似てるな」「夫夫ですから」湯気の向こうで笑う。しばらくすると、オルヴァンが肩へ頭を乗せた。「アデ」「ん?」「仲直りしてください」アデマールが笑った。「まだしてなかったの?」「僕の中では、まだです」「何したら仲直り?」オルヴァンが肩から頭を上げる。「分かってるでしょう」その声で、アデマールの笑いが少し止まった。「ここで?」「宿で」「……帰ろうか」「はい」オルヴァンの返事も早かった。****宿の扉が閉まった。アデマールが鍵を掛ける。振り返ると、オルヴァンがすぐ近くにいた。「オル」「仲直りです」腕が首へ回る。唇が重なる。アデマールも腰を抱く。長い。一度離れる。またオルヴァンから重ねる。アデマールの背中が扉へ当たった。「オル、今日そっち?」「駄目ですか?」「駄目じゃない」「なら、動かないでください」また唇を塞がれる。アデマールは言われた通り、しばらくオルヴァンに任せた。首筋へ口づけられる。シャツの襟へ指がかかる。アデマールが息を吐いた。「オル」「はい」「ごめん。もう無理」腰を抱く腕に力が入る。身体が入れ替わった。今度はオルヴァンの背中が扉へつく。「待って」「嫌です」「違う。止めたいんじゃなくて」アデマールが額を寄せる。呼吸が近い。「今日、朝からずっとオルが俺のために色々考えてたって分かって、夕方からずっと抱きたい」オルヴァンの目が潤んだ。「我慢していたんですか?」「温浴場で始めるわけにいかないだろ」「それは困ります」「だろ?」二人とも少し笑う。それでも離れない。アデマールが頬へ触れる。「いい?」「アデ」オルヴァンはその手を取った。自分の胸元へ導く。「今日は僕も、ずっと触ってほしかったです」アデマールの目が変わった。「それ先に言って」「言ったら、船から帰ってこなかったでしょう?」「帰らない」「料理できませんでしたね」「危なかった」また笑う。オルヴァンは笑いながら、アデマールのシャツへ指をかけた。「もう料理は終わりました」一つ外す。「温浴も終わりました」もう一つ。「今日の予定は、全部終わりました」アデマールがオルヴァンを抱き上げた。「じゃあ、これからは?」オルヴァンの脚が腰へ絡む。「夫夫の時間です」寝台へ運ばれる。オルヴァンは降ろされても腕を離さなかった。「アデ」「ん?」「いっぱい仲直りしてください」「どのくらい?」「朝まででも」アデマールが笑った。「それ、俺が止まれなくなるやつ」「今日は止まらなくていいです」アデマールの指が服を緩める。肌へ触れる。オルヴァンも黒いシャツを脱がせていく。唇が重なる。離れても、すぐまた重なる。「オル」「はい」「好き」「僕もです」「もっと欲しい」「僕も」「離したくない」オルヴァンがアデマールの頬を両手で包んだ。「離れません」その言葉で、二人とも完全に止まらなくなった。身体を重ねる。指を絡める。オルヴァンが何度も名前を呼ぶ。アデマールも呼び返す。昼間は互いに相手を喜ばせようとして予定を奪い合った。夜は、どちらが先かも関係なくなった。欲しいだけ求める。求められた分より、もっと返す。****夜更けをとうに過ぎた頃。オルヴァンは毛布の中で、アデマールの胸へ頬をつけていた。汗ばんだ髪を撫でられる。背中には腕が回っている。「アデ」「ん?」「仲直りできました」「よかった」頬へ口づけられる。オルヴァンは目を閉じたまま笑った。「でも、明日の予定は僕が決めます」「え?」「今日は最初、アデの船を優先したでしょう」「そのあとオルの料理やったじゃん」「順番の話です」「まだ勝負続いてるの?」「続いています」アデマールが毛布の中で抱き寄せる。「じゃあ明日はオルの日」「はい」「何する?」「まだ秘密です」「また?」「楽しみにしていてください」アデマールは髪へ口づけた。「分かった」少しして、オルヴァンが胸の中でもぞもぞ動く。「アデ」「今度は何?」「もう少し、こっちへ来てください」「これ以上?」「もっとです」アデマールは笑って、毛布ごと抱き込んだ。今度は二人とも、すぐに眠った。