第24話 星の塔の夜
第24話 星の塔の夜
北へ向かう馬車の窓から、巨大な塔が見えた。雪原の向こう。町を囲む低い城壁よりも、尖塔の並ぶ大聖堂よりも、ずっと高い。白い石造りの塔が一本、冬の青空へ突き刺さっている。頂上近くには巨大な輪がいくつも重なり、その中心には空が見えた。オルヴァンが窓へ身を寄せる。「アデ、見えました」「でかいな」アデマールも隣から覗き込んだ。二人の肩がぶつかる。「星を見る塔なんだろ?」「そう聞きました」「登れる?」「観光客も途中まで入れるそうですよ」「行こう」「はい」オルヴァンが嬉しそうに笑う。アデマールはその頬へ口づけた。「楽しみ?」「楽しみです」「俺も」馬車が雪道を進む。塔は、町へ近づくほど大きくなった。****星見都市は、空を見るための町だった。通りには星を刻んだ看板が多い。天球儀を売る店。小さな望遠鏡を並べる工房。星形の焼き菓子。夜空を模した濃紺の布。広場には大きな日時計まである。アデマールは露店で星形の焼き菓子を二つ買った。一つをオルヴァンへ渡す。「昨日も空見てたのに、今日も星か」「北へ来たのですから、たくさん見ましょう」「いいね」焼き菓子を齧りながら歩く。香辛料の利いた蜂蜜味だった。オルヴァンが半分ほど食べたところで、アデマールの方を見る。「交換します?」「味同じだろ?」「同じです」「じゃあなんで?」「アデのを食べたいです」アデマールは笑って、自分の菓子を差し出した。オルヴァンが一口食べる。代わりに自分の菓子をアデマールの口元へ。「どうぞ」「やっぱ同じ味」「知っています」二人で笑った。その時だった。「相変わらずね」背後から女の声がした。アデマールとオルヴァンが同時に振り返る。濃紺の外套。長い杖。旅塵の残る革靴。シビラが立っていた。アデマールの表情が明るくなる。「シビラ!」「久しぶり」「いつ着いた?」「ついさっき。お前たちの馬車も見えたわ」シビラが近づく。アデマールの肩を軽く叩いた。「元気そうね」「元気。シビラも変わんないな」「お前よりは忙しく働いてる」「俺も働く時は働くぞ」「遊んでる時の方が多そうね」「今は遊んでる」「でしょうね」オルヴァンが笑っていた。シビラがそちらを見る。「オルヴァンも久しぶり」「お久しぶりです」「元気?」「はい。とても」シビラがアデマールへ一歩近づき、外套の肩についた糸屑を摘まんだ。「何これ」「ん?」「赤い糸」「市場かな」シビラが取る。その横から、オルヴァンの腕がするりとアデマールの腕へ絡んだ。「僕の夫ですからね」シビラがオルヴァンを見る。「取らないわよ」アデマールは即座に答えた。「俺はオルのだから」「知ってる」シビラが赤い糸を雪へ捨てる。「仕事するわよ」「もう?」「私は仕事で来たの」「俺たちは観光で来た」「知ってるって言ってるでしょう」オルヴァンがアデマールの腕へくっついたまま尋ねる。「何かあったのですか?」「星の塔の定期調査。研究院から人手を貸してほしいって頼まれたのよ。古い魔法設備も残ってるから」シビラが巨大な塔を見上げる。「せっかくだし、お前たちも来る?」アデマールとオルヴァンが視線を合わせた。「観光できる?」「塔には入れるわよ」「行こう、オル」「はい」シビラが歩き出す。「遊びに誘ったみたいになってるわね」三人は並んで星の塔へ向かった。****塔の内部は、外から見る以上に大きかった。中央が吹き抜けになっている。壁沿いには螺旋階段。頭上には巨大な石の輪が何重にも組まれ、細い金属棒や歯車でつながっていた。一番下の輪だけでも、家一軒が入りそうな大きさだ。アデマールが真上を見る。「これ、全部動くの?」案内役の研究者が頷いた。「かつては動いていたと考えられています。星の位置に合わせて石環を回し、観測に使ったようです」「すごいですね」オルヴァンは石環を見上げたまま、ゆっくり歩く。古い文字。刻まれた星。小さな穴。光を通すためらしい細い溝。「上まで行けますか?」「もちろんです」「行きたいです」アデマールが笑う。「目がすげえ楽しそう」「だって、面白いでしょう」「うん。可愛い」オルヴァンが振り返る。「今は塔を見てください」「見てるよ。オルも見てる」「もう」研究者が少し笑った。シビラは先へ歩いている。「置いていくわよ」「待ってください」塔を上った。途中の観測室には、古い星図が壁一面に残っていた。さらに上には、巨大な水時計。その上には天井の開いた観測台。冬の風が吹き抜ける。町が一望できた。雪に覆われた屋根。細い煙突。城壁。遠くの雪原。その向こうには、白い山々が続いている。オルヴァンが欄干まで行く。「アデ」「うん」「すごいです」アデマールも隣へ並んだ。「昨日とはまた違うな」「はい」風がオルヴァンの髪を揺らす。アデマールが乱れた髪を耳へ掛ける。そのまま頬へ指が残った。オルヴァンが目を細める。「キスしたいですか?」「したい」「どうぞ」軽く唇を重ねた。もう一度。三度目へ行こうとしたところで、少し離れた場所から声が飛ぶ。「観測台はあとでいくらでも使えるわよ」シビラだった。アデマールが振り返る。「使っていいの?」「そこじゃない」オルヴァンが笑いながらアデマールの腕を引いた。****夕方まで塔を見て回った。途中でシビラは研究者たちと調査へ入り、アデマールとオルヴァンは町へ戻った。天球儀の工房を覗く。星図を眺める。屋台で熱い肉包みを食べる。オルヴァンは小さな星型の髪留めを見つけた。「これ、綺麗ですね」「つける?」「今日は髪を束ねていません」「じゃあ俺が持っとく」「買う前提になっていますよ」「欲しくない?」「欲しいです」買った。店を出てから、アデマールは髪留めを自分の肩掛けバッグへしまう。オルヴァンがその腕へ寄った。「ありがとうございます」「宿でつけてあげる」「はい」夕暮れが近づく。星見都市の通りでは、次々と街灯が灯り始めた。白い雪の上に、柔らかな光が落ちる。「綺麗だな」「夜も歩きたいですね」「夕飯食べたら出ようか」「そうしましょう」二人が宿を探して歩き始めた時だった。背後で、小さなどよめきが起きた。振り返る。通りの街灯が一つ消えていた。その隣も。さらに向こうも。ぱっ。ぱっ。ぱっ。光が順番に落ちていく。店の中から人が出てくる。「なんだ?」「魔力石か?」別の通りでも灯りが消えた。広場の噴水を照らしていた光まで落ちる。町が少しずつ暗くなる。オルヴァンが空を見る。アデマールも同じ方向を向いた。星の塔。暗くなっていく町の中央で、塔だけが明るくなっていた。白い石壁の内側から、青白い光が滲んでいる。頂上の巨大な石環が輝く。さらに強く。アデマールの声が変わった。「オル」「はい」二人はもう走っていた。****星の塔の前には研究者たちが集まっていた。シビラが杖を持って立っている。塔の光はさらに強くなっている。周囲の建物からも灯りが消えていく。オルヴァンが到着する。「シビラ」シビラは塔を見上げたまま言った。「塔が周りの魔力を吸ってるわ」「止めましょう」「ええ」アデマールが塔の入口を見る。「俺は?」研究者の一人が駆けてきた。「石環です!」「どれ?」「中央の大石環がずれています! あれを元の位置へ戻せれば!」研究者が塔内部を指す。「印があります! 北側の刻印を真上へ!」「分かった」アデマールが走る。「アデ!」呼ばれて一度だけ振り返った。オルヴァンが左手を上げる。白いグローブの指先。アデマールも右手を上げた。それだけだった。すぐに二人とも自分の場所へ向かう。****塔の内部では、巨大な石環が低い音を立てていた。ごう、と空気が震える。石の輪が青白く光り、周囲の小さな輪まで引きずるように回している。研究者たちが叫ぶ。「北の印を上へ!」「どれだ!」「あの三つ星です!」アデマールが見つける。遥か頭上。巨大な石環の側面に、三つの星が刻まれている。現在は真横だ。「あれを上?」「はい!」「分かった!」アデマールは黒い革手袋を外した。研究者の声が止まった。右の掌。開花した女神花。そこから外へ伸びる光条。青白い塔の光の中で、勇者紋が浮かぶ。「……勇者」誰かが呟いた。アデマールは聞いていなかった。大太刀も出さない。石環の下へ入る。両手を掛けた。「ふっ――!」押す。石が鳴った。巨大な輪が、ゆっくり動く。「動いた!」研究者たちが叫ぶ。アデマールがさらに力を込める。床へ靴底が食い込む。石環が回る。ごう。ごう。家より大きな石の輪が、一人の男に押されて動いていく。「次!」「そのまま! あと少しです!」****塔の外では、光が渦を巻いていた。シビラが杖を掲げる。「右を押さえる!」「はい!」オルヴァンが白いグローブを外した。左の掌に、ミュレシアと緩やかな環。研究者の一人が息を呑む。シビラが横目で見る。「驚くのはあと!」杖が振られる。塔から溢れた光が大きく曲がった。オルヴァンが左手を掲げる。風が起こる。その中へ幾重もの魔法陣が開く。塔から町へ伸びかけた光が、空中で押し戻された。「シビラ、上が強くなります!」「任せなさい!」空へ噴き上がった光を、シビラの魔法が巨大な幕のように受ける。広場全体が青白く染まる。雪が舞い上がる。オルヴァンの髪が激しく揺れる。「左、流します!」「いいわ!」光の流れが変わる。一気に塔へ戻る。見上げていた町の人々から声が上がった。「なんだ、あれ……」「魔法……?」塔の頂上で光が膨らむ。その瞬間。内部から巨大な音が響いた。ごおん――。石環が正しい位置へ収まった。オルヴァンが顔を上げる。シビラも笑う。「やったわね、馬鹿力」****塔の光が弱くなった。一つ。広場の街灯が戻る。続いて、もう一つ。通りの向こう。店先。噴水。窓。暗くなっていた町へ、光が一つずつ帰ってくる。歓声が上がった。「点いた!」「戻ったぞ!」「港もだ!」雪の町が再び明るくなる。星の塔は、静かな白い塔へ戻っていた。入口からアデマールが出てくる。黒いグローブを片方だけ持っている。研究者たちがその後ろからぞろぞろ出てきた。「アデ!」オルヴァンが走る。アデマールも歩調を速めた。オルヴァンがその胸へ飛び込む。受け止める。「終わった?」「終わりました」「こっちも」オルヴァンがアデマールの右手を見る。「痛めていませんか?」「平気」指を握る。開く。オルヴァンが掌を撫でる。「大丈夫そうですね」「オルは?」「僕も大丈夫です」「よかった」アデマールが抱き寄せる。唇を重ねた。オルヴァンも首へ腕を回す。もう一度。その向こうでは、研究者たちが塔を確認している。町の技師たちは戻った街灯を見て走り回っている。シビラは広場の端に置かれた机を借りて、もう報告書を書き始めていた。****一時間ほどすると、塔の周囲も落ち着いた。研究者たちが確認を終えたらしい。アデマールとオルヴァンはシビラの机まで戻ってきた。「まだ書いてるの?」「誰かさんたちと違って、仕事は終わった後もあるの」「大変だな」「他人事みたいに言わないで」シビラは紙から目を上げない。オルヴァンが隣の長椅子へ座った。アデマールも座る。少しして、オルヴァンが立ち上がった。そのままアデマールの膝へ横向きに座る。アデマールが当然のように腰へ腕を回した。シビラの筆は動いている。オルヴァンがアデマールの肩へ寄る。「疲れました」「頑張ったもんな」「褒めてください」「すごかった」「もっと」「今日も世界一格好よかった」「世界一ですか?」「俺の中では」オルヴァンが嬉しそうに笑う。「アデも格好よかったですよ」「見てた?」「途中から」「石、すごかった?」「すごかったです」アデマールの口元が緩む。「もう一回言って」「格好よかったです」「もう一回」シビラの筆は動いている。オルヴァンがアデマールの頬へ口づける。「僕の勇者様は、とても格好よかったです」アデマールが完全に嬉しくなる。腰を抱く腕が強くなる。「オル」「はい」頬へ口づける。唇へ。オルヴァンが笑う。「もう一度」また唇が重なる。シビラの筆は動いている。アデマールがオルヴァンの髪を耳へ掛ける。首筋が見える。そこへ唇を落とした。オルヴァンの肩が小さく揺れた。「アデ」「ん?」「もっと」筆が止まった。シビラがゆっくり顔を上げる。「はい、そこまで」二人が見る。「私は報告を書くの」「書けば?」「お前たちが隣で始めるから集中できないのよ!」オルヴァンがアデマールの膝へ座ったまま言う。「まだ始めていませんよ」「その『まだ』を私の横で使うな」アデマールが笑う。「じゃあ宿戻るか」「そうしましょう」オルヴァンが立つ。シビラがこめかみを押さえた。「本当に帰るのね」「宿でやれって言ったじゃん」「言ったわよ!」「じゃあ、お疲れ」「お疲れさまでした、シビラ」「はいはい。お疲れさま」二人が歩き出す。数歩進んだところでシビラが呼ぶ。「アデマール」「ん?」「明日の昼、一緒に食べるわよ」アデマールが笑った。「分かった」「オルヴァンも」「もちろんです」「今夜はもう来なくていいから」「はーい」二人の声が重なった。シビラはしばらく二人の背中を見送る。それから、また報告書へ戻った。****宿の部屋は、星の塔が見える場所にあった。窓の外。町の灯り。その向こうに白い塔。今は静かに星空の下へ立っている。オルヴァンが窓辺の椅子へ座った。アデマールは昼に買った小さな髪留めを取り出す。「オル」「はい」「こっち向いて」オルヴァンが背を向ける。アデマールは白い髪を指で集めた。少し梳く。星型の髪留めをつける。「できた」オルヴァンが振り返る。「どうです?」アデマールが眺める。「似合う」「本当ですか?」「すごく」オルヴァンが嬉しそうに笑った。「では、しばらくつけています」「寝る時は外そうな」「アデが外してください」「うん」アデマールは隣の椅子を引き寄せる。オルヴァンの膝へ自分の膝をつける。二人で窓の外を見る。しばらくして、オルヴァンが口を開いた。「いろいろな場所へ行きましたね」「行ったな」「海も綺麗でした」「うん」「森も好きです」「うん」「砂漠の夜も」「好きだった?」「好きです」アデマールが笑う。「全部好きじゃん」オルヴァンも笑った。「そうですね」窓の外へ目を戻す。星の塔。その上に広がる夜空。「アデと一緒でしたから」アデマールが黙った。オルヴァンが横を見る。「アデ?」「それ、昨日も似たようなの食らった」「食らった?」「俺に効く」オルヴァンが吹き出した。「何ですか、それ」「すげえ効くんだよ」アデマールが椅子ごと近づく。オルヴァンの腰へ腕を回した。「今日も甘えたくなった」「いいですよ」「すぐ言う」「夫でしょう?」「うん」「僕も甘えます」オルヴァンが肩へ腕を回す。額を合わせる。アデマールが笑った。「オル」「はい」「好き」「僕もです」唇が重なる。今度は急がない。一度離れて、頬を寄せる。オルヴァンがアデマールの胸へ身体を預けた。「明日はシビラと昼食ですね」「朝は?」「ゆっくり寝ます」「賛成」「そのあと、星の店をもう少し見たいです」「行こう」「塔にも、もう一度上りたいです」「行こう」「アデ」「ん?」「何でも行こうって言いますね」「オルが行きたいなら行きたい」オルヴァンが目を細める。「では、僕も同じです」「何が?」「アデが行きたいところへ、僕も行きたいです」アデマールはしばらくオルヴァンを見つめた。それから抱き寄せる。今度は静かだった。「いっぱい行こうな」「はい」二人はそのまま窓辺にいた。雪の町。星の塔。遠い山。まだ知らない場所は、いくらでもある。オルヴァンはアデマールの胸へ頬を寄せた。アデマールはその髪へ口づける。夜空には、数えきれないほどの星が輝いていた。