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第25話 あの宿、まだあった

英雄夫夫のしあわせ諸国漫遊 ~世界を救ったので、ふたりでのんびり暮らす場所を探します~ — fujossy.jp · All chapters

第25話 あの宿、まだあった

「オル、この道、知ってる気がする」アデマールが足を止めた。城下町の旧市街は、昼を少し過ぎたところだった。石畳の両側には三階建ての古い家が並び、一階には食堂や仕立屋、小さな菓子店が入っている。オルヴァンも辺りを見回した。「僕もです。もう少し先に広場がありませんでしたか?」「あった。井戸が真ん中にあって」「その向こうにパン屋がありました」「でかい丸パン売ってたとこ?」「はい」二人で歩き出す。路地を一つ曲がると、小さな広場が現れた。中央には古い石造りの井戸がある。「ここだ」アデマールが笑った。オルヴァンも嬉しそうに井戸へ近づく。「残っていますね」広場の向こうを見る。パン屋もあった。看板は新しくなっていたが、店先には大きな丸パンが積まれている。アデマールがそちらへ向かいかけたところで、オルヴァンが袖を引いた。「アデ」「ん?」オルヴァンは広場の奥を指していた。古い建物が一軒ある。石造りの一階。その上に木造の二階と三階が乗り、入口には宿の看板が揺れていた。看板には、大きな鹿の角が描かれている。アデマールが口を開けた。「……あった」オルヴァンも目を丸くしている。「ありましたね」「まだ宿やってる」二人は顔を見合わせ、次の瞬間には揃って入口へ向かっていた。****扉を開けると、食堂から煮込み料理の匂いがした。長い卓。壁際の暖炉。奥へ続く階段。古びてはいるが、建物の造りは二人の記憶とよく似ている。「いらっしゃい」帳場から若い女性が出てきた。「二名ですか?」「泊まれる?」「もちろんです。一部屋で?」「はい」オルヴァンが答える。アデマールは食堂を見回していた。「この柱、昔からあるよな」女性が首を傾げる。「以前にも?」「かなり前に。俺たち、ここ泊まったことあるんだ」「まあ。ありがとうございます」女性が宿帳を出した。「お名前をお願いします」アデマールがペンを取る。「アデマール」続けてオルヴァンが記す。「オルヴァンです」女性の動きが止まった。二つの名前を見る。二人を見る。もう一度、宿帳を見る。「……少々お待ちください」「はい」女性は帳場の奥へ消えた。アデマールがオルヴァンを見る。「どうしたんだろ」「さあ」すぐに奥から声がした。「じいちゃん! ちょっと来て!」「何だ、騒々しい!」杖をついた老人が出てきた。女性が宿帳を指す。老人は面倒そうに覗き込んだ。その目が止まった。ゆっくり上がる。アデマールを見る。次にオルヴァンを見る。「……お前さんたち」「はい」老人が杖を脇へ置き、アデマールへ近づいてじっと見る。「朝飯を七人前食った勇者か?」アデマールの眉が上がった。オルヴァンが吹き出した。「そこですか」「待って。七人前は食ってない」老人の目が輝いた。「やっぱりそうだ!」「何でそれで分かるんだよ!」「覚えとるわ! 若いくせにでかい剣背負って、朝からパンを山ほど食いやがって!」「そんな食った?」「食べていましたよ」「オル?」「僕の分まで取りました」「足りないって言ってなかった?」「それは夕食です」老人が今度はオルヴァンを見る。「賢者の坊ちゃんも大きくなったなあ」オルヴァンが笑う。「もう坊ちゃんという歳ではありませんよ」「昔は寝坊して仲間に引きずり起こされてたろ」オルヴァンの笑みが止まった。アデマールが横を向く。肩が揺れている。「アデ」「笑ってない」「笑っています」老人は楽しそうに続けた。「白い髪の魔法使いの嬢ちゃんが怒鳴っとったな。出発するぞって」「シビラですね」「そうそう。そんな名前だった」アデマールがとうとう声を上げて笑った。「オル、寝坊してたっけ」「夜中まで術式を組んでいたんです」「俺は起きてた」「朝食があったからでしょう」「大事だろ」老人が腹を抱える。奥から出てきた女性は、二人と祖父を交互に見ていた。「じいちゃん、本当に知り合いなの?」「知り合いも何も、こいつら四人で何日も泊まっとったんだ!」「四人?」「でかい剣の兄ちゃんが椅子を壊してな」「ベルトランだ」「アデです」オルヴァンが即答した。「オル!?」「覚えています」「俺だっけ?」「座ったまま後ろへ倒れました」老人が卓を叩いて笑った。「そうだ! こいつだ!」アデマールは額を押さえた。「思い出した……」「椅子を壊して、シビラに怒られていました」「だって脚がぐらついてたんだよ」「それで後ろへ体重をかけたんですか?」「直せるかなって」「壊しましたね」「壊れたな」若い女性まで笑い始めた。老人はひとしきり笑ったあと、二人を見た。「よく戻ってきたな」その声だけが、少し柔らかかった。オルヴァンが微笑む。「また来られました」「今日は腹いっぱい食ってけ。椅子は丈夫なのに替えた」「俺だけ扱いおかしくない?」また食堂に笑い声が広がった。****荷物を置いたあと、二人は町へ出た。最初に寄ったのは、広場のパン屋だった。大きな丸パンを一つ買う。焼きたてだった。アデマールが紙袋を持ち、二人で端からちぎって食べながら歩く。「これだ」「覚えています?」「味はこんなだった気がする」「僕もです」「昔、四人で買ったよな」「ベルトランが一人で半分食べました」「俺より食ってるじゃん」「アデも別のを一つ食べていましたよ」「……若かったから」オルヴァンが笑う。アデマールはパンをちぎり、大きめの一片を渡した。「はい」「ありがとうございます」旧市街を抜けると、城壁へ続く坂道へ出た。二人は急ぐ理由もなく、店を覗きながら歩いた。古道具屋では古い金属杯を眺め、露店では焼いた木の実を買った。仕立屋の窓に並んだ上着を見て、オルヴァンが一着を指す。「アデ、あれ似合いそうです」「買う?」「見るだけです」「オルが似合うって言うなら欲しくなる」「旅の荷物が増えますよ」「じゃあ帰りにもう一回見る」「まだ欲しかったら考えましょう」そう言いながら、オルヴァンはアデマールの腕へ自分の腕を絡めた。坂の上から町を振り返る。古い屋根が重なり、その向こうに城の塔が見えた。「変わりましたね」「うん」「でも、残っているものも多いです」アデマールは隣のオルヴァンを見る。「俺たちも結構変わった?」「アデは昔より落ち着きました」「ほんと?」「少し」「少しか」「僕も変わりましたよ」「可愛くなった」オルヴァンが足を止めた。「そういう話ですか?」「俺には大事」「では、アデは昔より格好よくなりました」「本当?」「はい」アデマールが露骨に嬉しそうな表情になる。「もう一回言って」「一回で十分です」「オル」「宿へ帰ってからです」「約束な」「約束しましたっけ?」笑いながら、二人は坂を下りた。****夕方、宿へ戻ると、食堂は客で賑わっていた。老主人が奥から二人を見つける。「おう! 勇者! 椅子壊すなよ!」「もう壊さないって!」食堂の客が一斉にこちらを向いた。アデマールが固まる。オルヴァンは口元を押さえている。「じいさん、声でかい!」「昔から勇者だろうが!」「そういう問題じゃない!」若い女性が祖父を奥へ押し戻した。「じいちゃん、仕事して!」「分かった分かった」周囲の客はまだ二人を見ている。アデマールは黒い手袋をしたまま、何となく片手を上げた。「どうも」誰かが杯を掲げた。「本物?」「たぶん」別の客が笑う。「椅子壊した勇者なら本物だろ!」食堂が沸いた。「じいさん!」奥から老人の笑い声が聞こえた。オルヴァンはとうとう耐えきれず、アデマールの肩へ額をつけて笑った。「オルまで」「すみません。椅子を壊した勇者が」「もう忘れてくれ」「無理です」二人は空いている卓へ座った。夕食には肉と豆を煮込んだ大鍋料理が出た。老主人の宣言通り量が多い。パンまで山盛りだった。「七人前ある?」「煽ってる?」「応援しています」「食うよ?」「僕も手伝います」二人で鍋を囲む。途中から老主人も杯を持って加わった。昔話はぽつぽつと出た。四人が雨に濡れて飛び込んできた夜。ベルトランが剣の手入れをしていたこと。シビラが食堂の隅で手紙を書いていたこと。オルヴァンが薬草茶を頼んだこと。アデマールが台所まで追加のパンを取りに来たこと。「俺、食ってばっかりだな」「よく食べる子だった」「じいさんまで子ども扱いするのやめて」「実際、今よりずっと若かっただろう」「まあね」アデマールが杯を傾ける。老主人は酒を一口飲んだ。「四人とも、いつも忙しそうだった」二人は老人を見る。「飯食ったらすぐ地図を広げて、朝になったら出ていく。戻ってきたと思ったら、またすぐ次へ行く」「そうでしたね」オルヴァンが鍋から豆を掬う。老人は二人を見比べた。「今日はゆっくりしていけるのか?」「うん。明日もいる」「明後日もいるかもしれません」「そうか」老人が笑った。「なら、明日の朝飯も山ほど作っといてやる」「七人前はいらない」「八人前にするか」「増やすな!」オルヴァンがまた笑った。****翌朝、廊下で大きな音がした。アデマールが部屋の扉を開ける。「どうした?」宿の若い女性が二階の廊下で天井を見上げていた。古い梁の端が壁から浮き、少しずつ下がっている。「じいちゃん! 上の物置、誰か入った!?」階下から声が返る。「誰も入っとらんぞ!」梁が軋んだ。アデマールがその下へ入り、片腕を上げた。下がってきた梁を掌で受ける。「アデ、右側です」オルヴァンも部屋から出てきた。アデマールが梁を支えたまま右を見る。壁際の受け材がずれている。「これ?」「もう少し奥です。そこ」「分かった」アデマールが梁を少し持ち上げた。オルヴァンが壁際へ入り、外れかけた受け材へ指を添える。僅かに光が走る。「アデ、ゆっくり下ろしてください」「うん」梁を下ろす。元の位置へ収まった。軋みが止まる。二人は天井を見上げた。「大丈夫そうですね」「朝飯行く?」「行きましょう」若い女性が二人を見ている。「……今、何を?」階段を上がってきた老主人が梁を見た。次にアデマールを見る。「お前、昔も似たようなことやってたな」「ここで?」「一階の棚が倒れた時、片手で受けただろ」アデマールは少し考える。「覚えてない」「僕も覚えていません」老主人が呆れたように二人を見る。「お前らにとっちゃ、その程度か」アデマールは腹を押さえた。「それより朝飯」「やっぱりそこは変わらんな」四人分の笑い声が廊下へ響いた。****朝食後、二人は部屋へ戻った。今日は昼から市場を回る予定だった。オルヴァンが窓を開ける。旧市街の屋根の向こうから、朝の鐘が聞こえてきた。アデマールは寝台へ腰を下ろす。「オル」「はい?」「ここ、覚えてる?」「部屋ですか?」「たぶん昔、俺ここだった」オルヴァンが振り返り、室内を見回した。窓。小さな卓。壁際の棚。「僕は隣だったと思います」「だよな」「シビラとベルトランは向かい側でした」アデマールが寝台へ仰向けになる。「昔は隣の部屋だったな」「はい」オルヴァンは窓を閉め、そのまま寝台へ歩いてくる。アデマールの横へ腰を下ろした。「今は一緒ですね」「うん」オルヴァンが嬉しそうに笑った。「嬉しいです」アデマールの表情が変わった。少し前まで笑っていた口元が止まり、オルヴァンをじっと見つめる。「アデ?」アデマールは起き上がり、そのままオルヴァンを強く抱き寄せた。「……それ、ずるい」「何がです?」「昔ここにいた時のオル思い出してたのに、今そんなこと言うから」背中へ回った腕に力が入る。オルヴァンは少し驚いたあと、アデマールの首へ腕を回した。「今の僕も好きですか?」「好き。すごく好き」「僕もです」アデマールが頬へ口づける。もう一度。次は唇へ。離れてもすぐにまた重なった。オルヴァンが笑いながら受け止める。「アデ、今日は市場へ行くんでしょう?」「行く」また口づける。「いつ行きます?」「あとで」「ずいぶん曖昧ですね」「ごめん。もうちょっとだけいい?」オルヴァンの目元が柔らかくなる。「はい」返事を聞いたアデマールは、今度は隠さずオルヴァンを欲しがった。抱く腕がさらに強くなり、唇を重ねたまま寝台へ倒れ込む。オルヴァンは笑いながら胸元を押した。「アデ、靴」「あ」二人で一度起き上がり、靴を脱ぐ。アデマールが先に寝台へ戻った。「これでいい?」「はい」オルヴァンも戻ると、すぐに腰を抱かれた。「早いです」「だってオルが来た」「来ましたけど」「嬉しいって言った」「言いました」「今一緒にいるの嬉しい?」「とても」アデマールがまた抱きしめる。オルヴァンも今度は自分から身体を寄せ、脚を絡めた。昔は壁一枚を挟んだ隣の部屋で眠っていた。今は同じ寝台で、互いの体温が分かるほど近くにいる。アデマールが耳の下へ口づける。オルヴァンが黒いシャツを掴んだ。「アデ」「ん?」「市場、夕方でも開いていますよ」アデマールが止まった。オルヴァンは少し頬を赤くしながら、首へ回した腕を解かなかった。「……いいの?」「僕も、今はアデとここにいたいです」次の口づけは、アデマールからだった。オルヴァンもすぐに返す。黒いシャツの襟へ指をかけ、少し緩めた。アデマールの手が白い上着の留め具へ移る。オルヴァンが身体を寄せた。市場へ向かう予定は、しばらく先になった。****昼をかなり過ぎてから、オルヴァンは寝台の上で目を開けた。窓から入る光が、朝より高いところから差している。隣ではアデマールが横向きになり、オルヴァンの髪へ触れていた。「起きた?」「……はい」「腹減った?」「少し」オルヴァンはアデマールの胸へ頬を寄せる。「市場へ行きます?」「行きたい?」「行きたいです」「じゃあ行こう」そう答えたアデマールも起き上がらない。オルヴァンが笑う。「アデ」「あと少し」「僕もそう思っていました」アデマールの腕が背中へ回る。オルヴァンも胸の中へ収まり直した。窓の外から、旧市街を行き交う人々の声が聞こえる。昔は朝になれば、次の目的地へ急いだ町だった。今日は市場が閉まるまで、まだ何時間もある。オルヴァンがアデマールの胸元へ口づけた。「ゆっくり行きましょう」「うん」二人はもうしばらく、昔泊まった宿の同じ寝台で過ごした。