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第26話 勇者様は魚が嫌いだった

英雄夫夫のしあわせ諸国漫遊 ~世界を救ったので、ふたりでのんびり暮らす場所を探します~ — fujossy.jp · All chapters

第26話 勇者様は魚が嫌いだった

湖へ着いた朝、アデマールは舟着き場の前で露骨に足を止めた。湖畔には朝市が立ち、木箱いっぱいの銀色の魚が並んでいる。燻製を吊るした店、魚の腸詰めを焼く店、薄く切った魚肉を酢と香草で和える店まで続いていた。オルヴァンが隣を見る。「アデ」「ん?」「嫌そうですね」「嫌じゃない」「では、あの店へ行きましょう」オルヴァンが指した先では、小ぶりな魚を丸ごと焼いていた。アデマールの眉間へ皺が寄った。「骨多そう」「やっぱり嫌なんでしょう」「味は好きなんだよ。骨が面倒なんだよ」「昔からですね」オルヴァンが笑う。アデマールは少し不満そうに市場を見回した。「オル、覚えてたの?」「忘れませんよ。昔ここへ来た時も、ずっと魚の骨と戦っていました」「そんな大げさな」「ベルトランより時間がかかっていました」「それは嘘だろ」「本当です」「シビラは?」「先に食べ終わって、お酒を飲んでいました」「……あいつら早すぎるんだよ」オルヴァンは楽しそうに笑いながら、焼き魚を二尾買った。「食べます?」「食べる」「嫌いなんでしょう?」「魚は嫌いじゃない」「骨が嫌い」「それ」二人は湖を見渡せる石段へ座った。オルヴァンが紙皿の魚を受け取り、細い骨を指先で外していく。アデマールがじっと見る。「取ってくれるの?」「僕も食べますから」「俺の分も?」「さっきからそうしています」骨の外れた身を一切れ差し出す。アデマールがそのまま口へ入れた。「うまい」「でしょう?」また一切れ。今度はアデマールが自分から少し身を寄せる。「次」「自分でも食べてください」「オルがやってくれる方が早い」「甘えていますね」「夫だからいいだろ」オルヴァンは呆れたように笑いながら、もう一切れ差し出した。「はい」「好き」「魚が?」「オルが」「聞いていません」そう言いながら、オルヴァンの口元は緩んでいた。****午前は湖上舟へ乗った。観光用の小舟には簡単な屋根がつき、湖畔の町並みを眺めながらゆっくり進む。遠くには山が重なり、湖面には小さな帆船がいくつも浮かんでいた。オルヴァンは舟縁へ腕を置き、水面を覗き込む。「透明ですね」「底見える?」「浅いところなら」アデマールも隣へ寄る。二人の肩が触れる。「魚いる?」「いますよ。ほら」オルヴァンが指した先を小魚の群れが走った。アデマールはしばらく追っていたが、やがて舟の屋根へ背を預けた。「昔ここ来た時、こんなにゆっくり舟乗ったっけ」「乗っていません」「だよな」「荷を受け取って、その日のうちに出ました」アデマールが湖の向こうを見る。「もったいなかったな」「今見られていますから、いいでしょう」アデマールが隣を見る。オルヴァンは湖を見たまま笑っていた。「うん」アデマールはその肩へ腕を回し、軽く引き寄せた。オルヴァンも自然に身体を預ける。舟は静かな湖面を進んだ。****昼には、湖畔の食堂へ入った。店先には大鍋が並び、魚と根菜を煮込んだ濃いスープの匂いがしている。アデマールが献立を見る。「これなら骨ない?」「身をほぐしてあるみたいですよ」「じゃあそれ」「即決ですね」二人で同じスープを頼んだ。熱い椀が運ばれてくる。白身魚と芋、葱に似た香味野菜がたっぷり入っていた。アデマールが一口食べる。「これ好き」「骨がありませんから?」「それもある」オルヴァンも食べる。「おいしいです」食事の途中、向かいの卓で老人が話している声が聞こえた。「昔はこの辺りまで兵隊の荷車が並んだもんだ」隣の男が聞き返す。「戦争の頃?」「そうそう。湖の船まで荷を積んでな」アデマールとオルヴァンは一瞬だけそちらへ視線を向けた。すぐ自分たちの食事へ戻る。アデマールがパンをちぎった。「俺たちもここで荷受けたよな」「はい。薬と乾燥肉と、矢もありました」「魚も?」「大量に」「だから覚えてるんだよ。毎食魚だった」「三日だけです」「三日も」オルヴァンが笑う。「その時も、僕が骨を取っていました」「そうだっけ?」「途中から面倒になって、丸ごとかぶりつこうとしていました」「俺が?」「はい」「止めた?」「止めました」「ありがとう」あまりに素直に礼を言われ、オルヴァンが目を細めた。「どういたしまして」アデマールはスープを食べながら、少し嬉しそうに笑った。****午後、市場へ戻ると騒ぎが起きた。魚屋の前で積み上げていた籠が崩れたらしい。銀色の魚が石畳を跳ね、水路へ次々と落ちていく。「待て待て待て!」店主が追いかける。近くの客も拾おうとするが、魚は濡れた石の上を滑り、そのまま水へ逃げていく。「オル」アデマールが笑いを堪えながら呼ぶ。「分かっています」オルヴァンが水路へ向けて片手を上げた。水面がゆっくり盛り上がる。散っていた魚が流れへ押され、一か所へ集まり始めた。十匹。二十匹。さらに増える。水ごと大きな輪になり、そのまま岸へ寄ってくる。店主が目を丸くした。「お、おお……!」最後の魚まで岸際へ集まったところで、水が浅い桶へ流れ込む。魚も全部そこへ入った。「全部いる!」店主が叫ぶ。周囲から拍手が起きた。オルヴァンは少し笑って手を下ろした。その瞬間。一匹だけ、桶の縁から跳ねた。高く飛ぶ。アデマールが振り返る。銀色の魚が真正面から飛んできた。ぺちん。頬へ当たった。周囲が静かになった。魚はそのままアデマールの腕へ落ちる。アデマールはしばらく動かなかった。オルヴァンの肩が震え始める。「オル」「はい」「笑った?」「まだです」店主が慌てて魚を受け取る。「す、すまん旦那!」アデマールは頬を拭った。「大丈夫」オルヴァンがとうとう吹き出した。「すみません……アデ……」「絶対あとで言うだろ」「言いません」「もう笑ってるじゃん」周囲まで笑い始めた。店主も安心したように大笑いする。「悪かった! 礼に魚持ってってくれ!」アデマールが即答する。「骨少ないやつで」さらに笑いが広がった。****そのあと二人は湖畔の温浴施設へ向かった。石造りの浴室からは湖が見える。窓を開けると冷たい風が入り、湯気がゆっくり流れた。アデマールは肩まで湯へ沈み、頬を何度も洗っている。オルヴァンが隣から眺める。「もう魚の匂いはしませんよ」「ほんと?」「はい」「オル嗅いで」「自分で分からないんですか?」「分かんない」アデマールが少し顔を寄せる。オルヴァンは笑いながら近づき、頬のあたりへ鼻先を寄せた。「大丈夫です」「よかった」そのままアデマールが腰へ腕を回す。オルヴァンは離れず、首へ腕を乗せた。「魚に当たった勇者様」「それもう言う?」「言わない約束はしていません」「意地悪」「可愛かったですよ」アデマールが止まる。「今なんて?」「可愛かったです」「もう一回」「魚に当たったところが」「そこ要らない」オルヴァンが笑う。アデマールはその笑った口元へ口づけた。一度。もう一度。オルヴァンも返す。「アデ」「ん?」「今夜も魚ですかね」「骨取ってくれる?」「甘えすぎです」「取って」「仕方ないですね」アデマールが嬉しそうに抱き寄せた。「好き」「知っています」「オルは?」「大好きです」今度はオルヴァンから唇を重ねた。****夕食では、本当に魚料理が出た。宿の食堂には昼の市場の店主から届け物が来ており、大きな白身魚が香草と一緒に焼かれている。アデマールが皿を見た。「でかい」オルヴァンが横へ座る。「骨を取りますね」「お願いします」魚を開き、太い骨を外す。アデマールも横から覗き込む。「それだけ?」「大きい魚ですから、細い骨は少ないですよ」「最高」オルヴァンが一口分を切り分ける。「どうぞ」「オルも食べて」「食べます」一切れをアデマールへ。次は自分。またアデマールへ。途中からアデマールも自分で食べ始めた。「うまい」「今日はたくさん魚を食べましたね」「オルがいると楽」「僕が骨を取るからでしょう」「それだけじゃないよ」オルヴァンがアデマールを見る。アデマールは白身を一切れ口へ入れた。「昔ここ来た時も、オルがいたから楽しかったんだと思う」オルヴァンの目元が少し柔らかくなる。「忙しかったのに?」「忙しかったけど」「三日間ずっと魚でしたよ」「それは嫌だった」「そこは変わりませんね」二人で笑った。****部屋へ戻ると、湖からの風が窓を鳴らしていた。オルヴァンが寝台へ腰を下ろし、髪をほどく。アデマールは窓を閉めてから隣へ座った。「オル」「はい?」「骨取ってくれてありがとな」「夕食のですか?」「昔のも」オルヴァンが少し驚く。「今さらですか?」「今思い出したから」アデマールはオルヴァンの手を取った。指を絡める。「俺、昔からオルに甘えてたんだな」「今もですよ」「嫌?」「いいえ」オルヴァンが肩へ寄る。「僕もアデにたくさん甘えています」「もっと甘えていいよ」「アデもですよ」「じゃあ今甘える」アデマールがそのままオルヴァンの膝へ横向きに頭を置いた。オルヴァンが目を丸くする。「そこですか?」「だめ?」「いいですよ」白い指が黒い髪へ入る。ゆっくり梳く。アデマールは目を閉じた。「気持ちいい」「眠ります?」「まだ寝ない」「では、このままにします」しばらく黙って撫でられていた。アデマールが目を開ける。上からオルヴァンが覗き込んでいる。「オル」「はい?」「キスしたい」「どうぞ」アデマールが少し起き上がる。オルヴァンも身体を傾ける。唇が重なる。離れる。また重なる。アデマールはそのまま腕を腰へ回し、オルヴァンを隣へ引き下ろした。二人で寝台へ横になる。「アデ」「ん?」「今日はよく甘えますね」「魚いっぱい食ったから」「関係あります?」「ない」オルヴァンが笑った。アデマールも笑い、額を寄せる。「オルが骨取ってくれるの好き」「はい」「髪撫でてくれるのも」「はい」「一緒に寝るのも」「僕も好きです」オルヴァンが胸元へ身体を寄せる。アデマールは背中へ腕を回した。唇へ一度口づける。「今日はこのまま寝る?」「もう少しくっついていたいです」「俺も」オルヴァンの脚が自然に絡む。アデマールはその腰を抱き寄せた。二人はしばらく、湖の風が窓を鳴らす音を聞いていた。****翌朝。湖の上には薄い霧が浮いていた。二人は朝食前に宿を出て、湖畔の遊歩道を歩いている。オルヴァンの片手には、小さな紙包み。アデマールが横から覗く。「それ何?」「燻製魚です」「朝から?」「昨日いただいたものです」「骨ある?」「少ないです」「じゃあ食べる」オルヴァンが一切れ取り出す。アデマールは歩きながら口を開けた。「はい」そのまま食べる。「うまい」オルヴァンも一切れ食べた。「アデ」「ん?」「魚、嫌いではありませんね」「だから最初から言ってる」「骨が嫌い」「そう」二人は笑う。湖面を朝日が照らし始める。昨日乗った舟が、もう沖へ出ていた。アデマールがオルヴァンの手を取る。指を絡めたまま、湖沿いをゆっくり歩いた。