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第29話 四人で食べた味

英雄夫夫のしあわせ諸国漫遊 ~世界を救ったので、ふたりでのんびり暮らす場所を探します~ — fujossy.jp · All chapters

第29話 四人で食べた味

「たぶん、こっちです」オルヴァンが市場の角を曲がった。アデマールも続く。「ほんと?」「たぶんです」「さっきも聞いた気がする」「市場が広くなっているんです」古都の中央市場は、朝から人で溢れていた。布を張った露店の間を荷車が抜け、香辛料、果物、焼いた肉、陶器、古書まで何でも並んでいる。二階建ての常設店舗も増え、昔より通りが何本も増えていた。アデマールは串に刺した焼き腸詰めを食べながら歩いている。「俺、店の名前覚えてない」「僕もです」「場所は?」「噴水の近くです」「噴水三つ見たよ」「昔は一つでした」アデマールが笑う。「もう無理じゃない?」「料理は覚えています」「俺も。肉と豆のやつ」「香草を入れて煮込んだものです」「あと、平たいパン」「葡萄酒」「ベルトランが三杯食った」「アデも二杯半です」「半って何?」「僕の残りを食べました」「ああ」本人にはまるで心当たりがあるらしい。市場の端まで来たところで、オルヴァンが急に止まった。「アデ」「ん?」古い石造りの建物があった。一階の入口には、小さな木の看板。絵柄は、湯気の立つ深皿と葡萄の房。オルヴァンが目を細める。「これです」「分かるの?」「看板、同じです」アデマールも眺める。「……あった気がする」「入りましょう」迷っていた時間より、決めてからの方が早かった。****店内は昼前なのにかなり混んでいた。壁際には長い卓が並び、奥では大鍋から湯気が上がっている。若い店員が二人を窓際へ案内した。「本日の煮込みは羊肉と白豆です。パンと漬け野菜がつきます」アデマールとオルヴァンが同時に献立を見る。「これだ」「これですね」店員が少し驚く。「ご存じなんですか?」「昔食べたことがあるんだ」「ずいぶん前ですけど」「うちはかなり古いですよ。祖父の代より前からあります」「じゃあ同じかも」二人とも同じ煮込みを頼んだ。ほどなく、大きな深皿が運ばれてくる。羊肉。白豆。玉葱。濃い色の汁。上には刻んだ香草。脇に平焼きパンと酸味のある野菜。アデマールが一口食べた。止まる。もう一口。オルヴァンも食べる。二人で顔を見合わせた。「うまい」「おいしいです」アデマールがさらに食べる。「でも、昔よりうまくない?」「僕もそう思います」「だよな」「豆が柔らかいです」「肉も」「煮込み方が変わったんでしょうか」アデマールが笑う。「シビラが聞いたら怒るぞ。昔、最高って言ってた」「シビラが最高と言っていたのは葡萄酒です」背後から声がした。二人とも振り返る。黒紫の外套。白い髪。小さな旅行鞄。シビラが立っていた。アデマールが目を丸くする。「何でいるの?」「仕事よ」オルヴァンも驚いている。「この町でですか?」「今朝終わったところ。昼を食べて帰ろうと思ったら、聞き覚えのある声がしたの」シビラは二人の卓を見る。「それで、何の話?」アデマールが皿を指した。「昔よりうまくなってるって」「だから私が怒る理由がどこにあるのよ」「昔、最高って」「葡萄酒」シビラはきっぱり言った。「この店の葡萄酒は当時から最高だった。それは覚えてる」オルヴァンが笑う。「やっぱりそうでした」「ほら」アデマールはなぜか負けたような顔をする。シビラが空いている椅子を引いた。「座っていい?」「もちろんです」「一緒に食おう」「そのつもり」三人分になった卓へ、すぐにもう一皿と葡萄酒が増えた。****シビラは葡萄酒を一口飲んだ。目を閉じる。もう一口。「うん。これよ」アデマールが笑う。「そんな好きだったっけ」「好きだったわよ。あの頃、まともな酒にありつける町なんて貴重だったもの」オルヴァンが煮込みを食べながら頷く。「ベルトランは料理ばかり食べていましたね」「三皿」「やっぱり三皿だった」「アデもかなり食べてたでしょ」「二杯半」「何、その半分」「オルの残り」シビラが当然のように納得する。「ああ」「みんなそこで納得するの?」「昔からそうだったもの」アデマールはパンを千切った。「シビラ、オルが食べきれないと俺にくれたの覚えてる?」「毎回やってたから、どの時の話か分からない」「毎回だった?」「かなりの頻度で」オルヴァンが少し笑う。「アデはよく食べましたから」「オルも今より少なかったよな」「若かったですから」「俺も若かった」「アデは今もよく食べるじゃない」シビラが皿を見る。すでにアデマールの煮込みは半分以上なくなっていた。「ほら」「腹減ってるから」「変わってないわね」三人で笑う。そこへ店員が追加の平焼きパンを置いた。アデマールが一枚取る。半分に裂き、そのままオルヴァンの皿へ置いた。オルヴァンも煮込みの中から柔らかい肉を一つ取り、アデマールの皿へ移す。ごく自然な動きだった。向かいのシビラは葡萄酒を飲んでいる。何も言わない。店員だけが一瞬二人を見る。アデマールが気づいた。「どうした?」「いえ」店員はすぐ去っていった。シビラが杯を置く。「たぶん、何で当たり前みたいに食べさせ合ってるんだろうって思ったのよ」「夫夫だから」「私に説明しなくていい」オルヴァンが笑う。「シビラは慣れていますからね」「慣れたくて慣れたわけじゃないけどね」「昔から?」アデマールが聞く。シビラは少し考えた。「昔はここまでじゃなかった」オルヴァンが瞬く。「そうですか?」「少なくとも食堂の真ん中で互いの皿を交換して、そのまま口づけたりはしてなかったわ」アデマールとオルヴァンが同時に止まる。まだ口づけてはいない。シビラが二人を見る。「今、する気だったでしょ」アデマールがオルヴァンを見る。オルヴァンもアデマールを見る。「……少し」「僕もです」「するなとは言ってない。勝手にしなさい」シビラは葡萄酒へ戻った。アデマールが笑い、オルヴァンの頬へ一つ口づける。店員がまた遠くで目を泳がせた。****食後、三人で市場を歩いた。シビラは午後の馬車で王都方面へ戻るらしい。「仕事って何だったの?」アデマールが果物屋を覗きながら聞く。「王立学院から頼まれた魔法具の確認。昨日で終わったわ」「大変でした?」オルヴァンが問う。「退屈だった」「シビラが退屈って言うなら、相当ですね」「壊れてないものを壊れてないと確認する仕事だったから」アデマールが笑う。「大魔術師も色々やるな」「誰かさん二人が自由に旅してる分までね」「ありがとな」「軽いわね」市場の中央で、楽器を鳴らす男がいた。その横には小さな踊り場が作られ、子どもたちが音に合わせて跳ねている。三人は少し立ち止まった。オルヴァンが露店の果実を一つ買う。黄色い皮を剥くと、柔らかな橙色の実が出てきた。一口。「甘いです」アデマールがすぐ寄る。「俺も」「どうぞ」オルヴァンがそのまま差し出す。アデマールが一口齧った。「うまい」シビラが横から見る。「昔もそれやってたわね」二人が振り返る。「これ?」「一つ買って二人で食べるやつ」オルヴァンが少し嬉しそうに笑った。「そうでしたか」「覚えてないの?」「普通すぎて」シビラが鼻で笑う。「そういうところよ」少し先へ行くと、古い武具店があった。店先に大きな剣が飾ってある。アデマールが足を止める。「ここ、ベルトランが入り浸ってなかった?」「いました」「三時間出てこなかったわ」シビラも即答する。「俺たち待ってたよな」「待った」「途中でオル寝たよな」「寝てません」「俺の肩で」「少し目を閉じただけです」「それ寝てるだろ」シビラが笑う。「今ならアデの膝で寝るくせに」オルヴァンがシビラを見る。「それは今の話です」「はいはい」アデマールは満足そうだった。「今の方がいいな」オルヴァンが隣を見る。「何がです?」「オルが遠慮しなくなった」オルヴァンは少し目を細める。「アデもですよ」シビラが二人の間へ視線を走らせる。「私がいるの忘れてない?」「いるよ」「忘れていません」「ならいいわ」三人はそのまま市場を抜けた。****午後。シビラの馬車が出る乗合所まで見送りに来た。馬車の屋根へ荷物が積まれている。シビラは小さな旅行鞄を御者へ渡した。「じゃあ、私は戻るわ」「またな」「気をつけてくださいね」シビラが二人を見る。「そっちもね。特にアデ。昔みたいに食べすぎて動けなくならないでよ」「そんなことあった?」オルヴァンがすぐ答える。「ありました」「いつ?」「この町ではありません」「じゃあ今関係ないだろ」「あるのね」シビラが笑った。馬車へ片足を掛ける。オルヴァンが呼んだ。「シビラ」「何?」「また四人でも食べたいですね」シビラの表情が少しだけ柔らかくなる。「そうね」アデマールも頷いた。「今度ベルトラン捕まえよう」「捕まえるって言い方やめなさい」「忙しいから」「私も忙しいの」「でも来たじゃん」「偶然よ」御者が出発を告げる。シビラが馬車へ乗り込んだ。窓から顔を出す。「次は私が店を選ぶから!」「酒で選ぶなよ!」「うるさい!」馬車が動き出す。二人は並んで手を振った。シビラも窓から一度だけ手を上げ、そのまま通りの向こうへ消えていった。****夕方。アデマールとオルヴァンは再び、昼の食堂の前にいた。アデマールが看板を見る。「夜も食べる?」オルヴァンが笑う。「昼も食べましたよ」「別の料理あるかも」「入りたいんでしょう?」「うん」「では入りましょう」夜の店は昼より賑わっていた。二人は奥の小さな卓へ座る。今度は煮込みではなく、香草を詰めた焼き鳥と豆の温菜を頼んだ。葡萄酒も一杯ずつ。「シビラが最高って言うだけあるな」アデマールが飲む。「おいしいですね」オルヴァンも少し飲む。二人で乾杯する。「何に?」オルヴァンが杯を持ったまま聞く。アデマールは少し考えた。「また来れたこと?」「いいですね」杯を合わせる。軽い音。二人で飲む。食事が進む。アデマールが焼き鳥の香草を少し落とした。オルヴァンが指で取る。「ついていますよ」「どこ?」「ここです」頬の端。指先で拭う。アデマールはその手を取った。指先へ軽く口づける。オルヴァンの目が少し柔らかくなる。「アデ」「ん?」「四人で食べるのも好きでした」「うん」「今日も楽しかったです」「俺も」オルヴァンは少しだけ間を置いた。「でも、今こうして二人で食べるのは、もっと好きです」アデマールの動きが止まった。すぐに笑う。「俺も」今度は迷わず答えた。「二人で食うの、好き」「はい」「でも四人も好き」「僕もです」「欲張りだな」「いいでしょう」「うん。俺も欲張り」アデマールが卓の下でオルヴァンの手を握った。指が絡む。二人はそのまま食事を続けた。****宿へ戻る途中、古都の夜道には店の灯りが並んでいた。昼の市場とは違い、人通りは少ない。アデマールとオルヴァンは手をつないで歩く。「オル」「はい?」「今日、シビラと会えてよかったな」「はい」「昔の話、俺ら二人だけだと忘れてること多い」「シビラはよく覚えていますからね」「怖いくらい」「アデが忘れすぎなんです」「オルも寝たの忘れてたじゃん」「寝ていません」「まだ言う?」オルヴァンが笑う。少し歩く。「アデ」「ん?」「昔の四人も好きです」「うん」「今の四人も好きです」アデマールが隣を見る。オルヴァンは前を見ながら歩いている。「それで、今の二人はもっと好き?」オルヴァンが笑った。「聞きます?」「聞きたい」「さっき言いましたよ」「もう一回」「欲しがりですね」「オルのは何回でも欲しい」オルヴァンは足を止めた。アデマールも止まる。通りの端。古い石壁。上には小さな灯り。オルヴァンがアデマールの上着を軽く掴む。「今の二人が、一番好きです」アデマールの目元が緩む。「俺も」一歩近づく。頬へ口づける。次に唇へ。オルヴァンも自然に返した。少し長く重なってから離れる。「帰ろう」「はい」また手をつなぐ。二人は宿へ向かった。****部屋へ戻ると、オルヴァンは窓を少し開けた。夜の古都の音が入ってくる。遠くの酒場。馬車の車輪。誰かの笑い声。アデマールは上着を脱ぎ、寝台へ座った。「オル」「はい?」「こっち来て」オルヴァンは素直に隣へ行く。座る前に腰を抱かれ、そのままアデマールの膝へ収まった。「今日はここですか」「だめ?」「いいですよ」アデマールが背中へ腕を回す。オルヴァンは肩へ頭を預けた。「シビラ、元気そうでしたね」「うん」「ベルトランも今度連れてきたいですね」「二人きりの時までベルトランの話する?」オルヴァンが吹き出す。「まだ言うんですか?」「言う」「僕はアデの夫ですよ」「知ってる」「では安心してください」アデマールは少しだけ黙る。「分かってるけど、言ってほしい」オルヴァンが身体を起こした。正面からアデマールを見る。「大好きです」即答だった。アデマールが笑う。「うん」「アデと二人で食べるのも、旅するのも、同じ部屋へ帰るのも好きです」アデマールの腕が少し強くなる。「もっと聞きたい」「今日は欲しがりますね」「昼からずっと聞きたかった」オルヴァンが目を細める。「では、もっと言いましょうか」「お願い」頬へ触れる。「昔のアデも好きです」「うん」「今のアデはもっと好きです」「うん」「夫になってくれたアデが、一番好きです」アデマールの口元が止まった。数秒。それから、オルヴァンを抱きしめる。強い。「アデ?」「ごめん。ちょっとだけ、このまま」オルヴァンの表情が柔らかくなる。「はい」背中へ腕を回す。互いに抱いたまま、しばらく動かない。やがてアデマールが肩へ口づけた。頬。耳の下。オルヴァンが少し首を傾ける。「もう少しします?」「いい?」「もちろんです」アデマールは今度は唇へ口づけた。オルヴァンも首へ腕を回す。一度離れる。また重なる。それでも二人にはまだ笑う余裕があった。「アデ」「ん?」「今日はこのまま、たくさん甘えてください」「いいの?」「僕も甘えます」アデマールが嬉しそうに抱き直す。オルヴァンは胸元へ頬を寄せた。「髪、撫でてください」「はい」指が白い髪を梳く。「もう少し下です」「ここ?」「はい」背中を撫でる。今度はオルヴァンがアデマールの髪へ指を入れた。「アデも」「気持ちいい」「眠くなります?」「なるかも」「では寝ましょうか」「まだ寝たくない」「では、もう少し」オルヴァンが笑う。二人は同じ寝台へ移り、肩を寄せた。アデマールが腕枕をする。オルヴァンが胸へ収まる。時々、頬や唇へ口づける。話す。笑う。また触れる。その夜は、それだけで十分だった。****翌朝。二人は昨日の食堂で朝食を取っていた。アデマールが平焼きパンを一枚取り、半分に裂く。片方をオルヴァンへ置く。オルヴァンは自分の皿から柔らかい卵料理を一口分取り、アデマールの皿へ移した。向かいに座った店員が、昨日より慣れた様子でそれを見ている。アデマールが気づく。「今日は見ないんだ?」店員が笑った。「昨日で慣れました」オルヴァンが肩を揺らす。「早いですね」「この店、いろんなお客さん来ますから」アデマールはパンを齧る。「今日どこ行く?」オルヴァンが市場の方を見る。「昨日、見られなかった通りへ行きたいです」「昼もここ来る?」「またですか?」「別の料理」「……一つくらいなら」アデマールが嬉しそうに笑う。「決まり」オルヴァンも笑った。古都の朝は、昨日と同じように賑やかだった。二人は食事を終えたら、また町を歩くつもりだった。