LNCrawler

第3話 今日はオルの日

英雄夫夫のしあわせ諸国漫遊 ~世界を救ったので、ふたりでのんびり暮らす場所を探します~ — fujossy.jp · All chapters

第3話 今日はオルの日

森の町へ入ってすぐ、オルヴァンの歩みが遅くなった。アデマールは三歩ほど進んでから気づき、振り返る。「オル?」「……はい」返事はしたが、こちらを見ていない。通りの両側に、小さな籠がずらりと並んでいた。白いキノコ。赤茶色のキノコ。傘が掌ほどもある大きなもの。細いもの。丸いもの。干したキノコを紐で吊るした店もあれば、瓶に詰めて香草と一緒に漬けている店もある。その隣には薬草。木の実。森で採れる果物。オルヴァンの視線が右へ行く。左へ行く。また右へ戻る。アデマールが戻ってきた。「見たい?」「見たいです」即答だった。アデマールが笑う。「じゃあ今日はオルの日にするか」「何ですか、それ」「オルが見たいもの、全部見る日」「全部ですか?」「全部」「本当に付き合ってもらいますよ」「望むところ」オルヴァンの顔が明るくなった。白い長手袋の手が、アデマールの黒い袖を取る。「では、あちらから」「もう決まってたの?」「さっきから見ていました」二人は最初のキノコ店へ入った。****一軒目は、生のキノコばかりを扱う店だった。オルヴァンは籠を一つずつ覗く。「これ、香りがいいですね」「食べたい?」「焼くとおいしいと思います」「じゃあ買おう」「待ってください。まだ一軒目です」「駄目?」「比較します」二軒目。乾燥キノコ。三軒目。塩漬け。四軒目。薬草とキノコを混ぜた保存食。オルヴァンは楽しそうだった。店の人へ採れる場所を尋ねる。旬を聞く。どう保存するのか聞く。知らない食べ方があれば、さらに詳しく聞く。アデマールは最初こそ商品を見ていたが、途中からオルヴァンを見る時間の方が長くなっていた。「アデ」「ん?」「聞いています?」「聞いてるよ」「今、何の話でした?」「キノコ」「広すぎます」オルヴァンが笑う。アデマールも笑った。「だってオルが楽しそうだから」「キノコも見てください」「見てる」「僕ばかり見ています」「今日はオルの日だろ」「そういう日でしたっけ?」通りの角で、小さな焼きキノコを買った。二人で一本ずつ食べる。アデマールが頷く。「うまい」「こっちも食べます?」「食べる」オルヴァンの串から一つもらう。代わりに自分の串も差し出す。「こっちも」「いただきます」歩きながら食べる。店を見る。また食べる。そのうちアデマールが言った。「オルの日、いいな」「アデも楽しんでいるでしょう」「うん」もう否定する気もなかった。****昼前。市場の端に、小さな露店があった。他の店より籠の数が少ない。若い男が一人、木箱へ腰掛けている。名前はネヴェン。足元には山で採ってきたキノコや木の実が並んでいた。オルヴァンが一つの籠を見る。形のいいキノコが数種類。その脇に、売り物とは別らしい小さな籠が置いてある。細くて灰色がかったキノコが、無造作に放り込まれていた。「これは売らないんですか?」ネヴェンがそちらを見る。「ああ。それは値がつかないよ」「食べられますよね?」「食えるよ。でも焼くと水っぽいし、すぐ傷む。持って帰っても大してうまくない」ネヴェンが一本つまむ。「山じゃ結構採れるけど、他のキノコを入れる邪魔になるから、大体その場で置いてくるんだ。今日は一緒に籠へ入っちまっただけ」オルヴァンが一本受け取った。匂いを嗅ぐ。傘を見る。軸を軽く割る。「これに似たキノコを、別の森で食べたことがあります」「うまかった?」「焼いたものは、あまり」「だろ?」ネヴェンが笑う。オルヴァンも笑った。「でも、汁物にするとおいしかったです」ネヴェンが瞬く。「汁?」「はい。細く裂いて、よく煮るんです。水っぽいキノコは、逆に汁へ味が出ますから」横からアデマールが覗き込む。「うまい?」「僕が以前食べたものは」「食べたい」「まだ作っていませんよ」「作る?」オルヴァンがネヴェンを見る。「少し、試してみませんか?」ネヴェンは足元の籠を見る。どうせ売り物にはならない。少し考えてから立ち上がった。「やってみるか」アデマールの顔が明るくなる。「よし」「アデが一番喜んでいません?」「だって昼飯だろ?」「試食です」「昼飯にもなる」ネヴェンが笑った。「旅の兄ちゃん、食うの好きなんだな」「好き」返事だけは誰より早かった。****市場の共同炊事場を借りた。商人や採取人が、売り物にならなかった食材を自分たちで食べる時にも使う場所らしい。大きな鍋。薪。水。塩。ネヴェンが売り物にならない根菜の端も持ってきた。「これも入る?」オルヴァンが見る。「入れましょう。甘みが出ます」アデマールがキノコを持つ。「俺、何する?」「これを細く裂いてください」「細く?」両手で裂く。大きい。オルヴァンが見る。「もう少し細く」「これくらい?」「もう少し」「キノコ、難しいな」「魔獣より?」「魔獣は細さ気にしないから」ネヴェンが吹き出した。オルヴァンも笑う。三人でキノコを裂いた。根菜を切る。鍋へ入れる。水を加える。塩。少量の香草。それだけだった。火に掛ける。しばらくすると、湯気が上がり始める。最初は弱かった香りが、煮るほど濃くなる。アデマールが鍋へ顔を近づけた。「いい匂い」「まだですよ」「味見は?」「もう少しです」ネヴェンも鍋を覗く。「これ、本当にあのキノコか?」色の薄かった汁に、少しずつ旨味のある香りが移っている。オルヴァンが木匙で一口取った。冷ます。味を見る。「塩をもう少しだけ」「それだけ?」「はい」ネヴェンが塩を足す。もう少し煮る。オルヴァンが火を弱めた。「できました」アデマールがすぐ椀を取る。「俺いい?」「どうぞ」キノコ。根菜。熱い汁。アデマールが一口飲んだ。止まる。オルヴァンが顔を見る。「どうです?」「うまい」もう一口。「うまい」「二回言いましたね」「これ、うまいよ」今度はキノコを食べる。柔らかい。焼いた時の水っぽさはなく、汁を吸っている。「オル、これ好き」「キノコ汁が?」「うん。もう一杯」「ネヴェンさんがまだ食べていません」「じゃあ待つ」素直に椀を置く。ネヴェンが笑いながら自分の分をよそった。一口。目を丸くする。もう一口。「……うまいな」オルヴァンが嬉しそうに笑う。「よかったです」ネヴェンは椀の中を見る。「同じキノコなのに」また食べる。「これなら普通に食えるどころじゃないな」アデマールが横から言う。「うまいよ」「分かったって」ネヴェンが笑う。「もう一杯食うか?」「いいの?」「鍋いっぱいある」「食べる」アデマールはすぐ椀を差し出した。オルヴァンが呆れながらも笑っている。****三人で食べていると、匂いに気づいた市場の人が何人か寄ってきた。「何煮てるんだ?」ネヴェンが答える。「灰傘だよ」「それ?」男が鍋を見る。「焼いても大してうまくないやつだろ」「汁にしたらうまかった」ネヴェンが小さな椀へ少しよそう。「食ってみる?」一人。二人。三人。感想は似ていた。「これ、結構うまいな」「出汁出るんだな」「パンにも合いそうだ」市場でパンを売っていた女性が一切れ持ってくる。汁につける。頷く。「合うね」ネヴェンは鍋を見る。それから、足元の灰色のキノコの籠を見る。「これ、一杯ずつ売ったら買う人いるかな」パン屋の女性が言う。「値段次第じゃない?」「キノコはほとんどただみたいなもんだ」「根菜も端物でいいしな」ネヴェンの顔が少しずつ明るくなる。アデマールが聞く。「売る?」「やってみようかな」ネヴェンは少し照れたように頭を掻いた。「最近、いいキノコが少なくてさ。食うには困らないけど、売る物が少ないと冬がちょっときついんだ」重い言い方ではなかった。ただ、少し節約する日が増える。その程度なのだろう。「これなら山で見つけても持って帰れる。汁で何杯か売れりゃ、その分は足しになる」オルヴァンが頷く。「傷みやすいなら、その日のうちに使う方がいいですね」「ああ。朝採って、昼に煮ればいい」ネヴェンはもう考え始めていた。「根菜は市場の端物を安く分けてもらえるし、塩もそんなに使わない。薪は家から持ってくれば……」アデマールがオルヴァンへ小声で言う。「楽しそう」「はい」朝から何度も自分が言われた言葉だった。オルヴァンが笑う。****午後。ネヴェンは本当に小鍋を市場へ持ち出した。手書きの札。『キノコ汁』それだけ。値段も安い。最初の客は、さっき試食したパン屋の女性だった。「一杯」「毎度」ネヴェンがよそう。次は荷運びの男。その次は、通りかかった老夫婦。大行列にはならない。飛ぶようにも売れない。けれど、一杯。また一杯。鍋の中身は少しずつ減っていった。アデマールとオルヴァンは、少し離れたところから見ていた。アデマールが言う。「売れてる」「売れていますね」ネヴェンが客から小銭を受け取る。嬉しそうだ。しばらくして、こちらへ気づいた。手を上げる。二人も手を振った。アデマールが聞く。「もう一杯食べていいかな」「まだ食べるんですか?」「売上に貢献」「自分が食べたいだけでしょう」「両方」結局、一杯買った。アデマールが食べる。一口。「やっぱりうまい」「三杯目ですよ」「二杯目じゃない?」「作った時に二杯食べました」「じゃあ三杯目だ」「そうです」ネヴェンが笑う。「宣伝になるからもっと食ってくれ」「ほら」「味方を見つけましたね」オルヴァンも笑った。アデマールは本当にもう一杯頼もうとして、オルヴァンに夕食前だからと止められた。****夕方。市場を離れて、二人は宿へ向かった。オルヴァンの手には小さな紙包みがある。午前中に見つけた乾燥キノコ。結局、ちゃんと店を見比べてから買ったものだった。アデマールが包みを見る。「それ、今日最初に見てたやつ?」「似ていますが、別の店です」「比較した結果?」「はい」「満足?」「とても」アデマールが笑う。「じゃあオルの日、成功だな」「まだ終わっていません」オルヴァンが言う。「まだ何か見る?」「宿へ戻ってから考えます」「何それ」「内緒です」アデマールが少し嬉しそうになった。****宿へ戻ると、オルヴァンは白い長手袋を外した。市場と炊事場を一日歩き回ったため、指先の辺りが少し汚れている。「洗ってきます」アデマールが手を出した。「貸して」「手袋ですか?」「手」「どうするんです?」「綺麗にする」水差しと布を持ってくる。オルヴァンは椅子へ座った。アデマールがその前へしゃがむ。右手。指を一本ずつ拭く。次に左手。白い肌の上を濡れた布が滑る。料理の匂いが少し残っていた。土と薪。キノコ。一日の匂い。汚れが落ちると、左の掌に紋様が現れる。女神花ミュレシアを中心とした賢者紋。アデマールにとっては、何度も見てきたものだった。それでも指先が少し止まる。オルヴァンが見下ろした。「どうしました?」「今日のオル、格好よかったなと思って」「キノコ汁を作っただけですよ」「それが格好よかった」アデマールは手を持ったまま続ける。「キノコ見てる時も楽しそうだったし、ネヴェンに作り方教えてる時も楽しそうだった」「アデが一番食べていましたね」「うまかったから」「三杯」「ちゃんと数えてた?」「見ていましたから」アデマールが笑う。「今日は楽しかった?」「はい」「すごく?」「すごく」即答だった。アデマールの口元が緩む。「じゃあ成功」「はい。成功です」オルヴァンも笑った。アデマールは左手の指先へ口づける。一本。もう一本。掌にも軽く唇を触れた。賢者紋の近くへ、もう一度。オルヴァンの目元が柔らかくなる。「アデ」「ん?」「朝、言いましたよね。今日は僕の日だって」「言った」「まだ少し残っています」「何が?」オルヴァンが空いている手で、アデマールの頬へ触れた。「甘やかしてもらう時間です」アデマールの顔が嬉しそうになる。「もちろん」立ち上がる。オルヴァンの腰へ腕を回す。自然に身体が近づく。髪へ口づける。頬へ。唇へ。短く一度。オルヴァンが服を掴んだ。「もう一度」「どうぞ」今度は少し長く。オルヴァンも自分から顔を上げている。離れたあと、そのままアデマールの胸へ額を預けた。「今日はオルの日、どうだった?」「またやりたいです」「じゃあまたやろう」「毎日にはしませんよ」「何で?」「特別じゃなくなるので」アデマールが少し考える。「じゃあ、たまに」「はい」背中をゆっくり撫でる。オルヴァンも満足そうに目を閉じた。その夜は、それ以上急ぐことなく、二人でのんびり過ごした。****翌朝。朝食を食べたあと、二人は市場を通った。昨日の場所に、小さな湯気が上がっている。ネヴェンがもう鍋を出していた。札もある。『朝のキノコ汁』昨日より少しだけ文字が丁寧になっていた。鍋の前には三人ほど並んでいる。ネヴェンが二人へ気づく。「おはよう!」「おはようございます」アデマールが鍋を見る。「今日もある?」「あるぞ。朝採ってきた」「一杯」「アデ」「朝飯は別」オルヴァンが笑った。結局、二人とも一杯ずつ買った。温かいキノコ汁。昨日と同じ味。少しだけ香草が増えている。オルヴァンが気づく。「変えました?」「ちょっとだけ。こっちの方が好きだって客がいたから」「いいと思います」ネヴェンは嬉しそうだった。「昨日の分だけでも、いつもの売れ残りよりずっと良かったよ。今日も売れたら、冬の間は助かる」アデマールが汁を飲む。「うまい」オルヴァンが見る。「昨日から何回目でしょう」「何回でもうまい」「それならいいです」ネヴェンが笑う。後ろの客も笑った。二人は食べ終わると椀を返した。「また来たら食べに来てくれ」「もちろん」「次はもっとおいしくなっていますよ」オルヴァンが言う。ネヴェンが胸を張った。「そうする」市場を出る。森の道へ向かう。少し歩いたところで、アデマールが言った。「オル」「はい?」「今日もオルの日にする?」「今日は普通の日です」「残念」「でも、キノコのお店には一軒だけ寄ってもいいですよ」「それ、普通の日?」「普通の日です」二人は笑った。森の町には、朝からキノコ汁の湯気が上がっていた。