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第30話 花を植えた人

英雄夫夫のしあわせ諸国漫遊 ~世界を救ったので、ふたりでのんびり暮らす場所を探します~ — fujossy.jp · All chapters

第30話 花を植えた人

丘を越えたところで、オルヴァンが足を止めた。一面の花だった。赤、黄、白、薄紫。緩やかな平原を埋めるように花畑が続き、その向こうには麦畑と小さな農家が点々と見える。細い道には見物客が歩き、少し離れた広場では祭りの準備が進んでいた。アデマールも隣へ並ぶ。「すごいな」「はい」オルヴァンはしばらく動かなかった。風が吹くたび、色の帯が波のように揺れる。「行きましょう」声が弾んでいた。「行こう」二人は坂を下りた。****花畑の入口では、小さな籠を持った女性が花冠を売っていた。オルヴァンがすぐ足を止める。「綺麗ですね」「作ってみる?」「自分で?」店の女性が笑った。「奥で体験できるよ。好きな花を摘んで、教えてもらえる」オルヴァンがアデマールを見る。「やりたいです」「やろう」二人は小さな鋏と籠を借り、花畑へ入った。摘んでよい区画には細い札が立っている。オルヴァンはしゃがみ、白い花を一輪切った。次に薄紫。少し考えて黄色を足す。アデマールも隣で花を選んでいた。「オル、これどう?」赤い花を一本持ち上げる。「綺麗です」「入れる?」「僕のですか?」「うん」「ではお願いします」アデマールは嬉しそうに籠へ入れた。しばらくして、二人の籠にはそれぞれ違う色の花が集まった。作業台へ戻る。教えてくれる女性が、茎を編む方法を一度見せた。オルヴァンはすぐに編み始める。アデマールも真似する。三本、四本、五本と編んだところで、茎が一本外れた。「あ」「アデ、そちらを内側へ入れるといいですよ」「これ?」「はい。そのまま押さえて」「できた」また編む。少しずつ輪になっていく。オルヴァンの方はすでに形が整っていた。アデマールが見る。「上手いな」「こういうの、楽しいです」「俺のも完成させる」しばらくして、二つの花冠ができた。オルヴァンが自分の作ったものを持ち上げる。「アデ、少しかがんでください」「俺につけるの?」「はい」アデマールが素直に頭を下げる。白と黄色を中心に編んだ花冠が、黒い髪の上へ乗った。オルヴァンは少し離れて眺める。「似合います」「ものすごく?」「そこまでは言っていません」「でも似合う?」「はい」アデマールは満足そうに笑った。「じゃあ次、オル」今度はアデマールが、赤と薄紫を編んだ花冠をオルヴァンへ載せる。少し曲がった。直す。もう少し右。「動かないで」「はい」花の位置を整える。アデマールは正面へ回った。一瞬、黙る。オルヴァンが首を傾げた。「どうです?」「ものすごく似合う」「今度はアデが言いましたね」「本当だから」オルヴァンの口元が緩む。アデマールはその頬へ軽く口づけた。「可愛い」「ありがとうございます」オルヴァンも花冠を崩さないよう、アデマールの頬へ一つ返した。****昼は花畑の端にある農家食堂へ入った。焼いた鶏肉、豆と青菜の煮込み、薄い平焼きパン、花の蜜を混ぜた冷たい飲み物。窓からも花畑が見える。オルヴァンはまだ花冠をつけたままだった。アデマールも外していない。近くの卓にいた子どもが何度も二人を見る。やがて母親へ小声で聞いた。「あのお兄ちゃんたち、花の王様?」母親が慌てる。「こら」アデマールが吹き出した。オルヴァンも肩を揺らす。「王様だって」「アデは似合いそうです」「オルもだろ」子どもがこちらを見る。アデマールが小さく手を振る。子どもも振り返した。食事をしながら、オルヴァンは窓の外を眺めた。「昔、ここにこんなに花がありました?」「なかったと思う」「ですよね」「畑ももっと少なかった気がする」二人の会話を聞いていた店の女性が、皿を下げながら笑った。「昔をご存じなんですか?」「かなり前に通ったことがあります」「じゃあ、驚いたでしょう」女性は窓の向こうを指した。「花を植え始めたのは、戦争が終わってからなんですよ」オルヴァンが振り返る。「そうなんですか?」「最初はほんの少しだったそうです。帰ってきた人たちが畑を戻すついでに、道端へ花を植えたのが始まりで」アデマールが聞く。「誰か一人が始めたの?」「何人かです。うちの祖父もその一人でした」女性は少し誇らしそうに笑う。「ずっと荒れた土地のままじゃ嫌だったらしくて」それだけ言うと、空いた皿を持って厨房へ戻った。アデマールとオルヴァンはもう一度、窓の外を見た。子どもが走っている。年配の夫婦が花の前で立ち止まっている。遠くでは農夫が麦畑を歩いていた。オルヴァンが飲み物を一口飲む。「いいですね」「うん」アデマールも同じように花畑を見た。****午後になると、広場で小さな花祭りが始まった。楽師が演奏し、農家が蜂蜜や保存果実を売る。二人は花の香りを移した焼き菓子を買い、露店を順番に回った。途中、似顔絵を描く絵師がいた。アデマールが止まる。「オル」「はい?」「描いてもらわない?」オルヴァンが看板を見る。二人用の小さな肖像画。所要時間は半刻ほど。「いいですね」二人は並んで椅子へ座った。絵師が少し考える。「もう少し寄れます?」アデマールがすぐオルヴァンの腰へ腕を回した。オルヴァンも肩へ寄る。絵師が笑う。「十分です」「もっと寄れるけど」「アデ」「はい」そのまま描いてもらう。途中でオルヴァンが少し動いた。アデマールが囁く。「疲れた?」「少し背中が」「寄っていいよ」「では」オルヴァンはさらに体重を預けた。絵師が筆を止める。「そのまま」「はい」しばらくして、小さな絵が完成した。花冠をつけ、肩を寄せて座る二人。アデマールが覗き込む。「いいな」「気に入りました」「部屋に飾る?」オルヴァンが少し考える。「旅の間、持ち歩きましょう」「うん」絵師から包みを受け取り、二人はまた祭りへ戻った。****広場の中央では、大きな花幕を張る準備が進んでいた。何枚もの布へ花を縫いつけ、長い綱で柱の間へ渡す。風が少し強くなってきている。「上げるぞ!」係の男たちが綱を引く。花幕が持ち上がり、大きく広がった。その瞬間、強い風が吹いた。一方の綱が柱から外れる。「あっ!」巨大な花幕が煽られ、広場の露店へ向かって倒れてくる。アデマールが走った。幕の端を掴む。身体ごと引かれ、一歩踏ん張った。止まる。反対側では、別の綱も大きく揺れていた。オルヴァンが片手を上げる。吹き抜けた風が二つへ割れ、花幕の左右へ流れた。大きく膨らんでいた布が、ふっと静まる。「今!」係の男が叫ぶ。皆で綱を引き直し、柱へ固定する。ほんの数十秒だった。花幕が元の位置へ上がる。広場から拍手が起きた。アデマールは幕から手を離し、花冠を押さえた。「落ちてない?」「少し曲がっています」「直して」「はい」人々がまだ花幕を見上げている中、オルヴァンはアデマールの花冠を両手で直した。「これで大丈夫です」「オルのも」アデマールも薄紫の花を一輪、元の位置へ戻す。「できた」「ありがとうございます」二人はそのまま祭りへ戻った。****夕方になると、花畑へ長い影が伸びた。二人は人の少ない外れまで歩いた。木製の柵へ腰を預ける。オルヴァンの花冠はまだ頭にある。アデマールのものも。「一日つけてましたね」「オルが作ってくれたから」「僕もです」「気に入った?」「とても」風が吹く。花が一斉に揺れた。アデマールは遠くを見る。「この辺だったよな」「はい」それ以上は言わなかった。昔は何もなかった場所。今は花がある。畑がある。祭りがある。アデマールが隣を見る。オルヴァンは花畑を見ながら笑っていた。「オル」「はい?」「こっち向いて」オルヴァンが振り返る。アデマールはそのまま頬へ口づけた。「どうしたんです?」「したかった」「そうですか」今度はオルヴァンが唇へ口づける。「僕もです」アデマールが笑う。腰へ腕を回し、少し引き寄せた。オルヴァンはそのまま胸へ寄る。「アデ」「ん?」「今日、楽しかったです」「俺も」「花冠も作れました」「絵も描いてもらった」「お菓子もおいしかったです」「祭りも」二人で花畑を見る。オルヴァンが小さく息を吐く。「こうなっていて、よかったですね」アデマールは少しだけ黙った。それから頷く。「うん」オルヴァンが肩へ頭を寄せる。アデマールの腕が背中へ回る。しばらく、そのまま風に揺れる花を眺めた。****宿へ戻る前に、二人はもう一度祭りの広場へ寄った。花幕の下では、まだ踊りが続いている。昼の子どもが二人を見つけた。「あ、花の王様!」アデマールが笑う。「まだ王様らしい」オルヴァンが子どもへ手を振る。「一緒に踊る?」子どもはすぐ駆け寄ってきた。その母親まで笑いながらついてくる。広場の輪へ入った。難しい踊りではない。手をつなぎ、音に合わせて歩く。曲が変わるたび相手を替える。アデマールが子どもに引っ張られ、オルヴァンが別の子どもと回る。何度か離れる。また近づく。目が合う。二人とも笑う。一曲が終わった。子どもたちは次の相手へ走っていった。アデマールがオルヴァンへ手を差し出す。「次、俺と」「はい」オルヴァンがその手を取る。今度は二人で踊った。花冠をつけたまま。夕暮れの花幕の下で。****宿へ戻ると、オルヴァンは花冠を丁寧に外した。卓の上へ置く。少し萎れ始めている。アデマールも隣へ置いた。「明日にはしおれるかな」「たぶん」「取っとけない?」「花ですから」オルヴァンは少し考え、花冠から薄紫の花を一輪抜いた。「これだけ押し花にします?」「する」アデマールも自分の花冠から白い花を一輪取った。二つを紙に挟む。荷物の中の厚い本へ入れた。「これでいい?」「はい」アデマールは本を閉じる。オルヴァンが花冠の残りを眺めている。「オル」「はい?」「今日のオル、ずっと嬉しそうだった」「楽しかったですから」「花好きだもんな」「好きです」「俺も今日かなり好きになった」「花を?」アデマールがオルヴァンを見る。「花も」オルヴァンが笑う。「僕もアデが好きですよ」「そこ聞いてないけど嬉しい」アデマールはすぐ腰を抱いた。オルヴァンも首へ腕を回す。「アデ」「ん?」「花冠、似合っていましたよ」「ほんと?」「はい」「世界一?」オルヴァンが吹き出す。「そこまで言わせます?」「言って」「僕が作った中では一番です」「一個しか作ってないだろ」「では一番ですね」「ずるい」笑いながら唇が重なる。アデマールが頬、耳の下へ口づける。オルヴァンの指が黒いシャツの襟へかかる。「今日はまだ、花の匂いがします」「オルも」アデマールが首筋へ顔を寄せる。「ほんとだ」「くすぐったいです」「もう一回」「匂いを嗅ぐんですか?」「キス」「それならどうぞ」首筋へ口づける。オルヴァンが少し首を傾ける。もう一度。「アデ」「ん?」「今日はたくさん歩きました」「疲れた?」「少し」「じゃあ抱く?」「お願いします」アデマールはオルヴァンを抱き上げた。脚が自然に腰へ回る。「寝台まで?」「はい」「風呂先じゃなくていい?」オルヴァンが少し考える。「先に少しだけ、このままで」「俺も」そのまま寝台へ運ぶ。オルヴァンを下ろし、隣へ横になる。アデマールが髪へ指を通す。オルヴァンは胸へ寄り、背中へ腕を回した。「花畑、また行きたいですね」「明日も行く?」「朝なら人も少なそうです」「行こう」「また花冠作ります?」「オルが作ってくれるなら」「では今度は違う色にします」「俺もオルの作る」二人はそんな話をしながら、時々口づけた。その夜は、花の匂いが少し残る部屋で、長い時間くっついて過ごした。****翌朝。二人は日の出前に宿を出た。花畑にはまだ人がほとんどいない。朝露を乗せた花が、薄い光の中で揺れている。オルヴァンが道の真ん中で立ち止まった。「昨日と違って見えますね」「静かだな」二人でゆっくり歩く。途中、アデマールが白い小さな花を一輪見つけた。摘んでよい区画を確かめ、鋏で切る。オルヴァンへ差し出す。「はい」「ありがとうございます」オルヴァンは受け取り、胸元へ挿した。「似合う?」「はい。とても」「じゃあ俺にも」「自分から要求するんですね」「夫だからいいだろ」オルヴァンが笑い、今度は黄色い花を一輪選んだ。アデマールの胸元へ挿す。「はい」「どう?」「似合います」「世界一?」「朝からそれですか?」二人は笑った。朝日が平原へ伸びていく。昨日作った花冠はもうない。それでも花畑は、今日も変わらず一面に広がっていた。