第31話 ベルトランは休まない
第31話 ベルトランは休まない
「アデ」「ん?」「見覚えのある人がいます」アデマールは、湯気の向こうへ目を凝らした。城塞保養地の中央広場。石造りの古い城壁を背に、温泉宿や酒場が並んでいる。その一角で、黒い外套を着た大柄な男が屋台の主人と話していた。背中に長剣。旅人にしては隙のない立ち姿。そして何より、見慣れた横顔。アデマールが笑った。「ベルトランじゃん」ちょうど男がこちらを向いた。目が合う。ベルトランの眉間に皺が寄った。「……何でお前らがいる」「観光」「見れば分かる」オルヴァンが嬉しそうに近づいた。「お久しぶりです、ベルトラン」「久しぶりだな、オルヴァン」「俺は?」「さっき話しただろ」「扱い違わない?」ベルトランは無視して、屋台の主人から包みを受け取った。アデマールが覗き込む。「何買った?」「昼飯だ」「仕事?」「ああ」ベルトランは広場の向こうにある城門を顎で示した。「西部の砦を回って王都へ戻る途中だ。ここの守備隊にも寄る」オルヴァンが尋ねる。「今日は泊まりですか?」「その予定だ」「では、夜は空いています?」「夕方までに報告を終わらせればな」アデマールが笑った。「じゃあ遊ぼう」ベルトランが露骨に嫌そうな顔をした。「なぜそうなる」「温泉あるぞ」「知ってる」「酒もある」「見れば分かる」「遊び場もあるらしい」「俺は仕事中だ」オルヴァンがベルトランの持っている昼食を見る。「食事はそれだけですか?」「移動中だからな」「ベルトラン」「何だ」「休みましょう」ベルトランが黙った。オルヴァンは笑顔のままだった。「半日くらい」「……お前、昔からそういう時だけ強引だな」アデマールが隣で頷く。「分かる」「アデもですよ」「はい」ベルトランは二人を交互に見る。しばらくして、ため息をついた。「報告を先に終わらせる。夕方からなら付き合う」「よし」「温泉行きましょう」「お前ら、最初からそのつもりだっただろ」二人とも否定しなかった。****夕方。宿の前で待っていると、ベルトランが戻ってきた。外套はない。剣も宿へ置いてきたらしく、簡素なシャツとズボンだけだった。アデマールが上下を見る。「普通の格好すると普通だな」「喧嘩売ってるのか?」「褒めた」「どこがだ」オルヴァンが二人の間へ入る。「まず温泉へ行きませんか?」「そうしよう」「オル、俺には?」「アデも行くでしょう?」「行く」三人で石畳の坂を上った。この町は古い城塞をそのまま保養地へ作り替えている。かつて兵士が使った石造りの浴場には温泉が引かれ、城壁の見張り台は景色を眺める休憩所になっていた。途中には湯気の上がる足湯があり、温泉卵や焼き菓子を売る店もある。オルヴァンが一軒の店で止まった。「これ、食べません?」蜜を塗った薄い焼き菓子だった。「食う」アデマールが即答する。ベルトランも財布を出した。「俺も一つ」アデマールが見る。「食うんじゃん」「腹が減ってるんだ」「昼飯あれだけだったしな」「誰のせいで報告を急いだと思ってる」「俺たち?」「分かってるなら黙って食え」三人で焼き菓子を持って歩く。オルヴァンが一口食べた。「おいしいです」アデマールがすぐ見る。「一口ちょうだい」「アデも同じものを持っているでしょう」「オルの食べたい」「同じ味ですよ」「いいじゃん」オルヴァンは笑って、自分の菓子を差し出した。アデマールがそのまま齧る。「うまい」「同じでしょう?」「オルの方がうまい」横を歩いていたベルトランは何も言わなかった。アデマールが見る。「何だよ」「まだ何も言ってない」「顔が言ってる」「気のせいだ」オルヴァンは自分の菓子をもう一口食べた。****浴場は城壁の内側にあった。広い石造りの湯船から、山と町並みが一望できる。三人は肩まで湯へ浸かった。アデマールが長く息を吐く。「あー……これだ」ベルトランも岩へ背中を預けた。「悪くないな」「だろ?」「お前の温泉じゃない」オルヴァンは二人の間で湯へ肩まで沈んでいた。「ベルトラン、疲れていました?」「普通だ」「肩が固そうです」「見て分かるのか?」「昔からそうでした」オルヴァンが少し近づき、ベルトランの肩を指で押した。「ほら」「……固いな」アデマールが動いた。「オル」「はい?」「近くない?」オルヴァンがベルトランとの距離を見る。「温泉ですから」ベルトランが目を閉じたまま言う。「温泉だからな」「二人して同じこと言うなよ」「何が気に入らないんです?」アデマールは少し考えた。「オルがベルトランの肩触ってる」「固さを確かめただけですよ」「俺のも固い」「あとで揉みます」「ほんと?」「はい」アデマールの機嫌が直った。ベルトランが片目を開ける。「相変わらず簡単だな、お前」「うるさい」オルヴァンが笑う。昔、野営地で同じように三人で身体を休めたことがあった。あの頃は湯船ではなく川だった。湯気もなければ、焼き菓子もない。ベルトランがぽつりと言う。「昔はこんな場所で半日休むなんて考えなかったな」オルヴァンが頷く。「次の町まで何日かばかり考えていました」「飯と敵の数も」アデマールが言う。ベルトランが鼻で笑った。「お前は飯の比率が高かった」「大事だろ」「今も変わらんな」アデマールは湯船の縁へ頭を預けた。「今はオルも入ってる」「何の比率にです?」「大事なもの」オルヴァンが少し笑う。「僕は昔から入っていたでしょう?」「昔より増えた」「そうですか」「うん」オルヴァンが湯の中でアデマールの手を取った。ベルトランが立ち上がる。「俺は外の湯へ行く」「逃げた」「違う」三人はそのあとも、露天の湯をいくつか回った。****湯上がりには冷たい果実水を飲んだ。それから町の遊戯場へ向かった。木製の台がいくつも並び、輪投げ、球当て、弓を使った的当てなどがある。オルヴァンが足を止めた。「射的があります」ベルトランが見る。「弓か」「やります?」「いいぞ」アデマールもすぐ参加した。景品は木彫りの動物、小さな酒瓶、菓子の詰め合わせ。一人五本。最初はオルヴァン。矢をつがえる。一射目。中央。二射目。その隣。三射目。また中央近く。店の男が目を丸くした。「兄さん、上手いね」「ありがとうございます」次はベルトラン。一射。中央。二射。ほぼ同じ場所。三射目には、先の矢のすぐ横へ刺さった。アデマールが腕を組む。「本気出してない?」「遊びだぞ」「顔が戦ってる」「お前に言われたくない」最後はアデマール。弓を引く。弦が軋んだ。店の男が慌てる。「兄さん! それ以上引かないで!」「あ、ごめん」力を緩める。放つ。矢は的へ刺さった。外側。オルヴァンが拍手する。「入りましたね」「何で二人より遠いんだ」ベルトランが笑う。「力で射るからだ」「もう一回」「五本あるでしょう」二射目。少し中央へ近づく。三射目。さらに近づく。四射目。中央近く。五射目。ほぼ中央。アデマールが胸を張る。「覚えた」店の男が引きつった笑顔で弓を受け取った。「お見事です」景品は三人とも菓子を選んだ。「酒じゃないんですね」オルヴァンがベルトランを見る。「夜に飲む」「なるほど」「菓子は移動中に食える」アデマールが笑う。「結局仕事のこと考えてる」「便利だから選んだだけだ」「休むの下手ですね」オルヴァンが言う。ベルトランは答えなかった。****広場へ戻る途中、人だかりができていた。大きな木の台。その中央に、太い鉄棒が横向きに取りつけられている。看板には、『城塞名物 力自慢大会』と書かれていた。アデマールが止まる。ベルトランも止まった。オルヴァンは二人を見た。「やりたいんですね」「いや」「別に」二人が同時に答える。オルヴァンは笑った。「では行きましょうか」歩き出す。三歩。アデマールが振り返る。ベルトランも振り返った。「参加賞あるみたい」アデマールが言う。「温泉酒一瓶だな」ベルトランが答える。オルヴァンが二人を見る。「やりたいんですね」今度は二人とも否定しなかった。****競技は単純だった。左右に重りをつけた鉄棒を持ち上げ、胸の高さで何秒維持できるか。重りは追加できる。地元の力自慢が次々に挑戦し、周囲から歓声が上がる。ベルトランが先に受付を済ませた。「どこまで載せます?」係員が聞く。「普通でいい」「では最初はこれで」大きな重りが左右へ一つずつ。ベルトランが持つ。上げる。止める。係員が数え始めた。十秒。二十秒。三十秒。ベルトランは普通に立っている。「……追加します?」「できるのか?」「一度下ろしてからなら」「じゃあ頼む」重りが増える。また持つ。上がる。さらに追加。上がる。周囲がざわつき始めた。アデマールが楽しそうに見ている。「俺もあれやる」「壊さないでくださいね」オルヴァンが言う。「壊さないよ」ベルトランが鉄棒を下ろす。台が軋んだ。係員が慌てて重りを外す。「十分です! 十分です!」「まだいけるが」「設備が無理です!」拍手と笑いが起きた。次はアデマール。「同じので」「え?」「最後の重さ」係員がベルトランを見る。ベルトランが肩をすくめた。「やらせてやれ」重りを載せる。アデマールが握る。持ち上げた。「軽いな」「アデ」オルヴァンが呼ぶ。「ん?」「遊びです」「あ、そうだった」アデマールは慌てて力を抜いたような顔をした。ベルトランが笑う。「力を抜く顔をする必要あるか?」「雰囲気」十秒。二十秒。三十秒。アデマールがベルトランを見る。「何秒だった?」「四十」「じゃあ四十一」「張り合うな」四十秒。アデマールが笑う。その瞬間。みしっ。全員が止まった。アデマールが鉄棒を見る。「俺?」係員が台を見る。もう一度。みしっ。ベルトランが言う。「下ろせ」「うん」アデマールが慎重に下ろす。台の脚が一本、僅かに傾いていた。係員が頭を抱えた。「もうやめて!」広場が笑いに包まれた。オルヴァンは腹を押さえて笑っている。アデマールが台を覗く。「直そうか?」「触らないで!」「はい」ベルトランが肩を震わせていた。「笑ってるだろ」「笑ってない」「オルと同じ言い方するな」「ふふ……アデ、参加賞はもらえると思いますよ」「壊しかけても?」「規則には書いてない」ベルトランが言った。係員はしばらく悩んだあと、二人へ温泉酒を一本ずつ渡した。「もう出ないでください」「分かった」「次来た時は見るだけにする」「次も来る気か!」三人は笑いながら広場を離れた。****夜は城壁の上にある酒場へ入った。外の席から町の灯りが見える。温泉の湯気が屋根の間から立ち上っていた。三人で杯を合わせる。「休暇に」アデマールが言う。ベルトランが眉を寄せる。「半日だ」「半日休暇に」オルヴァンが言い直す。「それならいい」杯が鳴った。料理は焼いた肉、香草を混ぜた芋、酸味のある野菜漬け。昼間に手に入れた温泉酒も開けた。昔の話もした。最近の話もした。ベルトランが王都の仕事を少し話し、アデマールとオルヴァンは旅先で食べたものの話をした。「お前ら、本当に食って遊んでるな」「事件もあるよ」アデマールが言う。「でも遊んでいます」オルヴァンが続ける。「そうか」ベルトランは杯を飲み干した。「それならいい」アデマールが横目で見る。「羨ましい?」「少しな」素直な答えだった。オルヴァンが笑う。「また休みができたら、一緒にどこか行きましょう」「今度は半日より長く取る」「ほんと?」アデマールが聞く。「努力する」「休むのに努力が必要なのかよ」「誰かさんたちが引退したせいでな」アデマールが止まった。「俺たち?」「お前ら以外に誰がいる」「ベルトランも引退すれば?」「王国が困る」「俺たちの時は?」「俺が困った」オルヴァンが吹き出した。「すみません」「本当にそう思ってるか?」「少しだけ」「オルまで」三人で笑った。酒場を出る頃には、夜も深くなっていた。****翌朝。城門前で、ベルトランは馬の鞍を確かめていた。今日は王都へ向かう。アデマールとオルヴァンは見送りに来ていた。「もう行くのか」「仕事だからな」「もう一泊すればいいのに」「お前と一緒にするな」オルヴァンが小さな包みを差し出した。「昨日の菓子です。道中でどうぞ」ベルトランが受け取る。「ありがとう」アデマールが見る。「俺の分は?」「アデの分も宿にありますよ」「よかった」ベルトランが馬へ乗った。「じゃあな」「またな」「気をつけて」馬が歩き出す。少し進んだところで、ベルトランが振り返った。「オルヴァン」「はい?」「次に会った時も、こいつが面倒だったら俺に言え」アデマールがすぐ反応した。「何でだよ!」ベルトランが笑う。「昔から慣れてる」「オルは渡さないからな!」「いらん!」返事が城門へ響いた。オルヴァンが笑う。ベルトランは片手を上げ、そのまま街道へ出ていった。アデマールはしばらく背中を見送る。それから隣を見る。「オル」「はい?」「俺の方が好き?」オルヴァンが瞬きをした。「今さら何を言ってるんです?」「聞きたい」「さっきの話を気にしているんですか?」「ちょっと」オルヴァンは呆れたように笑った。それからアデマールの黒い上着を掴み、少し引き寄せた。「大好きですよ」アデマールの顔がすぐ緩んだ。「よし」「それで満足ですか?」「もう一回」「欲張りですね」「オルが言うの好きなんだよ」オルヴァンの目元が柔らかくなる。「大好きです、アデ」今度はアデマールが抱き寄せた。「俺も。大好き」唇を重ねる。一度離れ、もう一度。オルヴァンの腕が首へ回る。アデマールの手が腰へ回った。三度目は少し長くなった。城門を通る荷車の御者が、二人をちらりと見る。そのまま何も言わず通り過ぎた。唇が離れる。オルヴァンが笑った。「宿へ戻ります?」「戻る」「朝食がまだです」「食べよう」「そのあと、もう一度温泉へ行きませんか?」「行く」手をつなぐ。少し歩いたところで、アデマールが尋ねた。「肩も揉んでくれる?」「覚えていたんですか?」「約束しただろ」「では温泉で」「やった」二人は手をつないだまま、湯気の立つ町へ戻っていった。****朝食のあと、二人は昨日とは別の共同浴場へ向かった。朝早いため、広い露天風呂にはほとんど人がいない。湯へ入ると、アデマールは岩へ背中を預けた。オルヴァンが隣へ座る。「肩でしたね」「うん」「後ろを向いてください」アデマールが素直に背を向けた。オルヴァンの両手が肩へ乗る。ゆっくり押す。「どうです?」「気持ちいい」「ここは?」「そこ好き」「ベルトランより固いかもしれません」アデマールが振り返った。「比較しなくていい」オルヴァンが笑う。「まだ気にしているんですか?」「気にしてないけど、オルは俺の夫だから」「はい」「俺の方が好き?」「さっき二回言いました」「三回目」オルヴァンは少し呆れた顔をした。それでも肩へ腕を回し、後ろから頬へ口づける。「大好きです」アデマールが満足そうに笑った。「俺も」今度は身体ごと振り返り、オルヴァンの腰を抱く。オルヴァンはそのまま胸へ寄った。「今日は何をします?」「昨日見てない方の城壁行こう」「お昼は?」「市場で何か探す」「いいですね」アデマールが濡れた髪へ口づけた。オルヴァンは目を閉じ、しばらく胸へ身体を預けた。昨日まで仕事をしていた友人は、もう次の町へ向かっている。二人には今日も急ぐ予定がない。湯気の向こうで、朝の城塞がゆっくり明るくなっていった。